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中朝事實 小林一郎 講義 六十九(禮儀章 上 その五)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 崇神帝の夢占、阿直岐と王仁、敎諭の道 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第六十九冊。禮儀章 上 その五(底本 下巻 四百頁ほか)。皇太子を立てることの意義を承け、崇神天皇が御世嗣を夢占によつてお定めになつた故事、応神天皇の御代に阿直岐・王仁が渡来して皇太子の師となつた故事、そして教へ諭す道は何より先づ自国の事を学ぶべしとする素行の教学観へと進みます。

この冊の読みどころ。崇神天皇四十八年、豐城命・活目尊の二皇子に夢を占はせて世嗣をお定めになつた記事とこれに対する謹按(kj261・kj262、全集版十三節)、応神天皇の御代に百済から阿直岐・王仁が渡来し皇太子菟道稚郎子の師となつた記事とこれに対する謹按(kj263・kj264、全集版十四節)、そして教へ諭す道は多く外朝(支那)の書籍に依るべきものと考へるのは後世の誤りであるとする段(kj265、全集版十五節)までを収めます。此の段の末尾には「以上建儲の禮を論ず」との結びの言葉があり、崇神天皇より応神天皇に至る建儲(世嗣を立つる)の禮についての一連の論述がここで一区切りとなります。

四層の構成。この冊の各段は全集版の対応する節にそれぞれ依拠し、現代語訳は小林一郎自身の講義プロパー(底本下巻400〜411頁ほか)を典拠として書き起こしています。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座、影印)です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残ってゐる可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

建儲(けんちよ)
皇太子を立てること。「儲」は世継ぎの意。
論敎(ろんけう)
師を選び、教へを議して太子を薫陶すること。
薫陶(くんたう)
徳を以て人を感化し育てること。
傅保(ふほ)
太子を教へ導く役の者。傅(もり役)と保(守り役)。
外朝(ぐわいてう)
ここでは支那(中国)を指す。対して「中國」は日本自身を指す語として用ゐられる。

登場する神・人物

山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。この冊で謹按三段(kj262・kj264・kj265)を記す。
小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
崇神天皇(すじんてんわう)
第十代天皇と伝へられる。豐城命・活目尊の二皇子に夢を占はせて世嗣をお定めになつた。
豐城命(とよきのみこと)
崇神天皇の皇子。上毛野君・下毛野君の始祖と伝へられる。
活目尊(いくめのみこと)
崇神天皇の皇子。後の垂仁天皇。
應神天皇(おうじんてんわう)
第十五代天皇と伝へられる。皇太子菟道稚郎子のために阿直岐・王仁を師として招いた。
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)
應神天皇の皇子。阿直岐・王仁を師として学問を修めた。後に皇位を仁德天皇に譲つた。
阿直岐(あちき)
百済から渡来した学者。経典をよく読み、菟道稚郎子の最初の師となつた。
王仁(わに)
百済から阿直岐の推挙により渡来した学者。菟道稚郎子に諸々の典籍を教へた。

禮儀章 二百六十一崇神帝の夢占(上)── 豐城命と活目尊、夢を以て占はる底本 下巻 四百頁ほか
原文
崇神帝四十八年、春正月己卯朔、戊子天皇勅豐城命活目尊曰、汝雖二子、慈愛共齊、不知爲嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈、各得夢也、會明、兄豐城命以夢辭奏于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊以夢辭奏言、自登御諸山之嶺、繩絚四方逐食粟雀、則天皇相夢謂二子曰、兄則一片向東、當治東國、弟是悉臨四方、宜襲朕位、四月戊申朔、丙寅立活目尊爲皇太子、以豐城命令治東、是上毛野君下毛野君之始祖也、

訓読
崇神帝すじんてい四十八年しじふはちねんはる正月しやうぐわつ己卯つちのとうついたち戊子つちのえね天皇てんわう豐城命とよきのみこと活目尊いくめのみことちよくしてのたまはく、なんぢ二子にしいへども、慈愛じあいともひとし、すをらず、おのおのよろしくゆめみるべし、ちんゆめもつてこれをうらなはんと。二皇子にわうじここにめいかうむり、きよゆあみていのり、おのおのゆめたり。會明くわいめいに、あに豐城命とよきのみことゆめことばもつ天皇てんわうそうしてまうさく、みづか御諸山みもろやまのぼり、ひがしかひて八廻やたびほこもてあそび、八廻やたびたちつと。おとうと活目尊いくめのみことゆめことばもつ奏言そうごんすらく、みづか御諸山みもろやまみねのぼり、なは四方しはうりてあはすずめふと。すなは天皇てんわうゆめ二子にしひてのたまはく、あにすなは一片ひとかたひがしかふ、まさ東國とうごくをさむべし。おとうとはこれことごと四方しはうのぞむ、よろしくちんくらゐぐべしと。四月しぐわつ戊申つちのえさるついたち丙寅ひのえとら活目尊いくめのみことてて皇太子くわうたいしし、豐城命とよきのみこともつひがしをさめしむ。上毛野君かみつけののきみ下毛野君しもつけののきみ始祖しそなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
崇神天皇の四十八年、正月のある日、天皇は豐城命と活目尊の二人の御子に仰せられました、「汝等二人は共に朕が愛しみ深く、いづれを世嗣と定むべきか知り難い。各々夢を見よ、朕はその夢を以て之を占はう」と。二皇子は仰せを受けて身を淨め、祈りて各々夢を見ました。夜明けて、兄の豐城命は其の夢の趣を奏して、「自ら御諸山に登り、東に向かひて八度槍を弄び、八度刀を撃ちました」と申し上げ、弟の活目尊は、「自ら御諸山の嶺に登り、繩を四方に張つて、粟を食む雀を逐ひました」と申し上げました。天皇は二人の夢を相て仰せられました、「兄は一方に向いて東國を治むべし、弟は悉く四方に臨む、宜しく朕が位を襲ぐべし」と。かくて四月、活目尊を立てて皇太子とし、豐城命には東國を治めしめられました。是れ上毛野君・下毛野君の始祖であります。

解説
此の段は、崇神天皇が御世嗣をお定めになるに當つて、御二人の御子に夢を見させ、其の夢の趣に依つて御決定になつたといふことを傳へたものであります。兄の豐城命の夢は槍・刀を振つて武を示すもの、弟の活目尊の夢は繩を張つて雀を逐ひ、民の生活を護るものでありました。天皇は之を相て、國を治め民を安んずる徳の顯れた活目尊(後の垂仁天皇)を皇太子とお定めになりました。君主たる者は徳を以て本とすといふことを示された次第であります。

禮儀章 二百六十二崇神帝の夢占(下)── 建儲は蚤く定むるを貴ぶ底本 下巻 四百三頁ほか
原文
謹按、建儲之禮者、天下之大本也、今以其夢所、定其計、後世未無疑擬、此時去古未遠、人心朴素、而誠信感通、故有此議、二王子亦肯之、終永承帝詔不貳、是帝之聖德也、王子之渾厚也、非後世所可似效之、蓋帝位者、大寶也、人誰不欲、況皇子乎、故建立之禮貴蚤定、不蚤定則嫡庶之分不定、或以智求之、立功欲之、以力爭之、古今宗室之亂天秩、無不由此、業已蚤定則衆望絕、而天下之勢定、宗室分極、而主家以固、人君豈可忽乎、

訓読
つつしみてあんずるに、建儲けんちよれいは、天下てんか大本たいほんなり。いまそのゆめみるところをもつて、そのけいさだむ。後世こうせいいま疑擬ぎぎなくんばあらず。このときいにしへることいまとほからず、人心じんしん朴素ぼくそにして、誠信せいしん感通かんつうす。ゆゑにこのあり。二王子にわうじまたこれをうけがひ、つひながていみことのりけてふたつにせず。てい聖德せいとくなり、王子わうじ渾厚こんこうなり。後世こうせい似效じかうすべきところにあらず。けだ帝位ていゐ大寶たいはうなり。ひとたれほつせざらん、いはんや皇子わうじをや。ゆゑ建立こんりふれいはやさだむるをたふとぶ。はやさだめざればすなは嫡庶ちやくしよぶんさだまらず、あるひもつてこれをもとめ、こうててこれをほつし、ちからもつてこれをあらそふ。古今ここん宗室そうしつ天秩てんちつみだす、これにらざるはなし。わざすではやさだまればすなは衆望しゆうばうえて、天下てんかいきほひさだまり、宗室そうしつぶんきはまりて、主家しゆかもつかたし。人君じんくんゆるがせにすべけんや。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
世繼ぎを定めるといふことは天下の最も大切な事であつて、御世嗣が定まらなければ民心は動搖して落ち着く所がありませぬから、天皇の御在世の中にこれをお定めになることが最も肝要であります。此の御世嗣を夢によつて御決定になつたといふことは、後世から見れば不思議のやうにも思はれますが、此の時代は古を去ること未だ遠からず、人の心は素朴で、誠と信とが相通ずる時代でありましたから、天皇は少しもお疑ひなく、二人の皇子も仰せに從つて異議を唱へることがありませんでした。是れ當時の實情に依つて考へねばならぬことであつて、後世の者が何でも之に倣つて夢で事を決めるには及びませぬ。さて天子の御位は最も貴いものでありますから、誰でも之を望まぬ者はなく、まして御子であれば尚更のことであります。それ故に世嗣を立てる禮は、早く定めることを貴ぶのであります。早く定まらなければ、嫡庶の分がはつきりせず、智を以て之を求め、功を立てて之を欲し、力を以て之を爭ふといふことになり、古今を通じて宗室の秩序を亂す者は皆之に由るのであります。早く定まれば衆望は絶えて天下の勢は定まり、宗室の分は極まつて主家は固くなります。人君たる者、豈に忽せにすべけんや。

解説
此の謹按は、建儲(世嗣を立つること)の禮が天下の大本であることを説くものであります。素行は、崇神天皇が夢を以て御決定になつたことを、當時の淳朴な人心と誠信の相通ずる時代なればこそ成り立つた特別の事情であるとし、後世が漫りに之に倣ふべきものではないと戒めて居ります。而して世嗣を立てる禮は蚤く定めることを貴ぶとし、若し遲れれば嫡庶の別が立たず、智謀・功績・武力を以て相爭ふに至り、宗室の秩序が亂れることを指摘して居ります。早く定まれば衆望が一つに歸し、國の勢が安定するといふのが、この段の眼目であります。

禮儀章 二百六十三阿直岐と王仁(上)── 百濟より渡來し、太子の師となる底本 下巻 四百六頁ほか
原文
應神帝十五年、秋八月壬戌朔、丁卯百濟王遣阿直岐、貢良馬、阿直岐能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉、於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶、對曰、有王仁者、是秀也、時遣上毛野君祖荒田別巫別於百濟、仍徵王仁也、十六年春二月、王仁來之、則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁、莫不通達、

訓読
應神帝おうじんてい十五年じふごねんあき八月はちぐわつ壬戌みづのえいぬついたち丁卯ひのとう百濟王くだらのこきし阿直岐あちきつかはして、良馬りやうばたてまつる。阿直岐あちき經典けいてんめり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつここれをとす。ここに天皇てんわう阿直岐あちきひてのたまはく、なんぢまされる博士はかせまたありやと。こたへてまうさく、王仁わにといふものあり、これひいでたりと。とき上毛野君かみつけののきみ荒田別あらたわけ巫別かんなぎわけ百濟くだらつかはし、りて王仁わにさしむ。十六年じふろくねんはる二月にぐわつ王仁わにきたけり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつここれをとして、もろもろ典籍てんじやく王仁わにならひたまふ。通達つうたつせずといふことなし。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
應神天皇の十五年秋八月、百濟王が阿直岐を遣はして良馬を貢ぎました。阿直岐はよく經典を讀み、そこで太子菟道稚郎子は之を師と仰がれました。天皇は阿直岐に、「汝に勝る博士が他にもあるか」とお尋ねになると、阿直岐は「王仁といふ者があります、これは優れた人物であります」とお答へしました。そこで上毛野君の祖・荒田別と巫別を百濟に遣はして王仁を召させられました。翌十六年二月、王仁が渡來し、太子菟道稚郎子は之を師として諸々の典籍を學ばれ、通達せぬ所はありませんでした。

解説
此の段は、應神天皇の御代に百濟から阿直岐・王仁が渡來し、皇太子菟道稚郎子の師となつて學問を授けたことを傳へるものであります。前に既に一度學んだ事實でありますが(神知章)、其の時は支那の學問が我が國に入つて來たといふことを主として擧げたのに對し、此處では太子が徳を養ふ爲に學問をなさつたといふことを主として擧げて居ります。同じ事實でも取り上げる趣意が異なる所に注意すべきであります。

禮儀章 二百六十四阿直岐と王仁(下)── 太子論敎の禮底本 下巻 四百九頁ほか
原文
謹按、是太子論敎之禮也、此時稚郎子未有皇太子之命、然帝既建儲之計定於茲、故有此論敎也、蓋論敎之禮橡定、則其薰陶正明、變化氣質、不由業師傅保、以不可得其實也、太子聰明天資謙讓、而又有雄武之俊才、能熟中國之事物、兼通外朝之經籍、其粹迪開悟習貫如自然、故以表狀無禮、責高麗之使、譲大位於仁德帝、存尊上而卑下、聖君而愚臣之常典、其豪英也、其脫落也、皆繫敎諭之得矣、萬世法之、以立師置傅保、置太子家令之官、可不愼乎、

訓読
つつしみてあんずるに、太子たいし論敎ろんけうれいなり。このとき稚郎子わきいらつこいま皇太子くわうたいしめいあらず。しかれどもていすで建儲けんちよけいここにさだまる。ゆゑにこの論敎ろんけうあり。けだ論敎ろんけうれいかたさだまるときは、すなはちその薰陶くんたう正明せいめいにして、氣質きしつ變化へんくわす。業師げふし傅保ふほらざれば、もつてそのじつべからざるなり。太子たいし聰明そうめい天資てんし謙讓けんじやうにして、また雄武ゆうぶ俊才しゆんさいあり。中國ちうごく事物じぶつじゆくし、ねて外朝ぐわいてう經籍けいじやくつうず。その粹迪すゐてき開悟かいご習貫しふくわんすること自然しぜんごとし。ゆゑ表狀へうじやう無禮ぶれいもつて、高麗こま使つかひめ、大位たいゐ仁德帝にんとくていゆづり、かみたふとびてしもへりくだり、聖君せいくんにして愚臣ぐしんなるの常典じやうてんそんす。その豪英がうえいなる、その脫落だつらくなる、みな敎諭けうゆとくかかれり。萬世ばんせいこれにのつとりて、もつ傅保ふほき、太子家令たいしかれいくわんく。つつしまざるべけんや。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
是れ太子論敎の禮であります。此の時、稚郎子はまだ皇太子との仰せを受けては居りませんでしたが、天皇は既に世嗣の御計畫を心に定めて居られました。それ故に此の論敎があつたのであります。おほよそ論敎の禮が豫め定まれば、其の薫陶は正しく明らかになり、氣質を變化せしめること、良き師や傅保に由らなければ其の實を得ることは出來ませぬ。太子は生まれつき聰明で、天性謙讓であり、また雄々しい武の才もお持ちでした。よく中國(我が國)の事物に通じ、兼ねて外朝(支那)の經籍にも通じ、その學び悟る所は自然の如くでありました。それ故に、高麗の使者が無禮な書状を持參した時には之を咎め、皇位を仁德天皇にお讓りになつて、上を尊び下に卑るといふ聖君愚臣の常の道を守られました。その優れた所も、その謙り退く所も、皆敎へ諭す事の善し惡しに繋るのであります。萬世此れに法つて、師を立て傅保を置き、太子家令の官を置くことを、愼まずにおられませうか。

解説
此の謹按は、太子に對する論敎(敎へ導くこと)の禮の大切さを説くものであります。菟道稚郎子はまだ正式に皇太子と定まらぬ内から、既に御父君の御心のうちで世嗣と定められ、師を立てて學問を授けられました。素行は、良き師傅の敎へがあつてこそ人の氣質は正しく變化するものであり、太子の聰明・謙讓、また後に高麗の無禮を咎め、皇位を仁德天皇に讓られたといふ美事も、皆此の敎諭の力に由るものであると論じて居ります。なほ、此処の「仁德天皇」は應神天皇より仁德天皇への皇位繼承といふ史實どほりの記事であり、先にkj258で扱つた全集版rg10の「仁德帝」誤記とは別の、正しい表記である。

禮儀章 二百六十五敎諭の道、外朝の書籍を以て事と爲すは後世の訛なり底本 下巻 四百十一頁ほか
原文
繼、敎諭之道、多以外朝之書籍爲事、是後世之訛也、中國古今天下之興廢治亂、事物之制度、人民之禮儀、載在文獻、然乃日用言行修改之暇、詳致其道、擧其古、而后及外朝之經傳、以廣其知識、證其事迹、斟酌用捨、就有道以正之、可謂得敎論之實也、

訓読
いで、敎諭けうゆみちおほ外朝ぐわいてう書籍しよじやくもつことす。後世こうせいくわなり。中國ちうごく古今ここん天下てんか興廢こうはい治亂ちらん事物じぶつ制度せいど人民じんみん禮儀れいぎせて文獻ぶんけんり。しからばすなは日用にちよう言行げんかう修改しうかいいとまつまびらかにそのみちいたし、そのいにしへげて、しかしてのち外朝ぐわいてう經傳けいでんおよび、もつてその知識ちしきひろめ、その事迹じせきしようし、斟酌しんしやく用捨ようしやして、有道いうだういてもつてこれをたださば、敎論けうろんじつふべきなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
續いて申しますと、敎へ諭す道は、多く外朝(支那)の書籍を以て專らとするのが常でありますが、これは後世の誤りであります。支那の古今における天下の興廢治亂、事物の制度、人民の禮儀は、たしかに文獻に載せられて居ります。併しながら、日々の言行を修め改める暇には、先づ詳しく我が國の道を究め、我が國の古を擧げて學び、その後に外朝の經傳に及んで知識を廣め、その事迹を證し、斟酌取捨して、道ある人に就いて之を正すのでなければ、敎へ諭す事の實を得たとは言へないのであります。

解説
此の段は、學問の順序について、素行が特に力を入れて説く所であります。敎育といへば、とかく外國(支那)の書物を主として學ぶものと考へられがちでありますが、素行はこれを後世の訛(あやまり)であるとし、先づ我が國自らの歴史・制度・禮儀を詳らかにし、其の上で外朝の書に及んで知識を廣め、之を照らし合はせて正すべきであると説いて居ります。此處に至つて「以上建儲の禮を論ず」との結びの言葉が置かれ、崇神天皇より應神天皇に至る建儲(世嗣を立つる)の禮についての一連の論述が締め括られます。