禮儀章 二百六十一崇神帝の夢占(上)── 豐城命と活目尊、夢を以て占はる底本 下巻 四百頁ほか
原文
崇神帝四十八年、春正月己卯朔、戊子天皇勅豐城命活目尊曰、汝雖二子、慈愛共齊、不知爲嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈、各得夢也、會明、兄豐城命以夢辭奏于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊以夢辭奏言、自登御諸山之嶺、繩絚四方逐食粟雀、則天皇相夢謂二子曰、兄則一片向東、當治東國、弟是悉臨四方、宜襲朕位、四月戊申朔、丙寅立活目尊爲皇太子、以豐城命令治東、是上毛野君下毛野君之始祖也、
訓読
崇神帝の四十八年、春正月己卯の朔、戊子、天皇豐城命活目尊に勅して曰はく、汝二子と雖も、慈愛共に齊し、嗣と爲すを知らず、各宜しく夢みるべし、朕夢を以てこれを占はんと。二皇子ここに命を被り、淨く沐みて祈り、各夢を得たり。會明に、兄豐城命夢の辭を以て天皇に奏して曰さく、自ら御諸山に登り、東に向かひて八廻槍を弄び、八廻刀を擊つと。弟活目尊夢の辭を以て奏言すらく、自ら御諸山の嶺に登り、繩を四方に絚りて粟を食む雀を逐ふと。則ち天皇夢を相て二子に謂ひて曰はく、兄は則ち一片東に向かふ、當に東國を治むべし。弟はこれ悉く四方に臨む、宜しく朕が位を襲ぐべしと。四月戊申の朔、丙寅、活目尊を立てて皇太子と爲し、豐城命を以て東を治めしむ。是れ上毛野君下毛野君の始祖なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
崇神天皇の四十八年、正月のある日、天皇は豐城命と活目尊の二人の御子に仰せられました、「汝等二人は共に朕が愛しみ深く、いづれを世嗣と定むべきか知り難い。各々夢を見よ、朕はその夢を以て之を占はう」と。二皇子は仰せを受けて身を淨め、祈りて各々夢を見ました。夜明けて、兄の豐城命は其の夢の趣を奏して、「自ら御諸山に登り、東に向かひて八度槍を弄び、八度刀を撃ちました」と申し上げ、弟の活目尊は、「自ら御諸山の嶺に登り、繩を四方に張つて、粟を食む雀を逐ひました」と申し上げました。天皇は二人の夢を相て仰せられました、「兄は一方に向いて東國を治むべし、弟は悉く四方に臨む、宜しく朕が位を襲ぐべし」と。かくて四月、活目尊を立てて皇太子とし、豐城命には東國を治めしめられました。是れ上毛野君・下毛野君の始祖であります。
解説
此の段は、崇神天皇が御世嗣をお定めになるに當つて、御二人の御子に夢を見させ、其の夢の趣に依つて御決定になつたといふことを傳へたものであります。兄の豐城命の夢は槍・刀を振つて武を示すもの、弟の活目尊の夢は繩を張つて雀を逐ひ、民の生活を護るものでありました。天皇は之を相て、國を治め民を安んずる徳の顯れた活目尊(後の垂仁天皇)を皇太子とお定めになりました。君主たる者は徳を以て本とすといふことを示された次第であります。
禮儀章 二百六十二崇神帝の夢占(下)── 建儲は蚤く定むるを貴ぶ底本 下巻 四百三頁ほか
原文
謹按、建儲之禮者、天下之大本也、今以其夢所、定其計、後世未無疑擬、此時去古未遠、人心朴素、而誠信感通、故有此議、二王子亦肯之、終永承帝詔不貳、是帝之聖德也、王子之渾厚也、非後世所可似效之、蓋帝位者、大寶也、人誰不欲、況皇子乎、故建立之禮貴蚤定、不蚤定則嫡庶之分不定、或以智求之、立功欲之、以力爭之、古今宗室之亂天秩、無不由此、業已蚤定則衆望絕、而天下之勢定、宗室分極、而主家以固、人君豈可忽乎、
訓読
謹みて按ずるに、建儲の禮は、天下の大本なり。今その夢みるところを以て、その計を定む。後世未だ疑擬なくんばあらず。この時古を去ること未だ遠からず、人心朴素にして、誠信感通す。故にこの議あり。二王子も亦これを肯ひ、終に永く帝の詔を承けて貳つにせず。是れ帝の聖德なり、王子の渾厚なり。後世の似效すべきところにあらず。蓋し帝位は大寶なり。人誰か欲せざらん、況んや皇子をや。故に建立の禮は蚤く定むるを貴ぶ。蚤く定めざれば則ち嫡庶の分定まらず、或は智を以てこれを求め、功を立ててこれを欲し、力を以てこれを爭ふ。古今宗室の天秩を亂す、これに由らざるはなし。業已に蚤く定まれば則ち衆望絕えて、天下の勢定まり、宗室分極まりて、主家以て固し。人君豈に忽せにすべけんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
世繼ぎを定めるといふことは天下の最も大切な事であつて、御世嗣が定まらなければ民心は動搖して落ち着く所がありませぬから、天皇の御在世の中にこれをお定めになることが最も肝要であります。此の御世嗣を夢によつて御決定になつたといふことは、後世から見れば不思議のやうにも思はれますが、此の時代は古を去ること未だ遠からず、人の心は素朴で、誠と信とが相通ずる時代でありましたから、天皇は少しもお疑ひなく、二人の皇子も仰せに從つて異議を唱へることがありませんでした。是れ當時の實情に依つて考へねばならぬことであつて、後世の者が何でも之に倣つて夢で事を決めるには及びませぬ。さて天子の御位は最も貴いものでありますから、誰でも之を望まぬ者はなく、まして御子であれば尚更のことであります。それ故に世嗣を立てる禮は、早く定めることを貴ぶのであります。早く定まらなければ、嫡庶の分がはつきりせず、智を以て之を求め、功を立てて之を欲し、力を以て之を爭ふといふことになり、古今を通じて宗室の秩序を亂す者は皆之に由るのであります。早く定まれば衆望は絶えて天下の勢は定まり、宗室の分は極まつて主家は固くなります。人君たる者、豈に忽せにすべけんや。
解説
此の謹按は、建儲(世嗣を立つること)の禮が天下の大本であることを説くものであります。素行は、崇神天皇が夢を以て御決定になつたことを、當時の淳朴な人心と誠信の相通ずる時代なればこそ成り立つた特別の事情であるとし、後世が漫りに之に倣ふべきものではないと戒めて居ります。而して世嗣を立てる禮は蚤く定めることを貴ぶとし、若し遲れれば嫡庶の別が立たず、智謀・功績・武力を以て相爭ふに至り、宗室の秩序が亂れることを指摘して居ります。早く定まれば衆望が一つに歸し、國の勢が安定するといふのが、この段の眼目であります。
禮儀章 二百六十三阿直岐と王仁(上)── 百濟より渡來し、太子の師となる底本 下巻 四百六頁ほか
原文
應神帝十五年、秋八月壬戌朔、丁卯百濟王遣阿直岐、貢良馬、阿直岐能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉、於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶、對曰、有王仁者、是秀也、時遣上毛野君祖荒田別巫別於百濟、仍徵王仁也、十六年春二月、王仁來之、則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁、莫不通達、
訓読
應神帝の十五年、秋八月壬戌の朔、丁卯、百濟王阿直岐を遣はして、良馬を貢る。阿直岐能く經典を讀めり。卽ち太子菟道稚郎子これを師とす。ここに天皇阿直岐に問ひて曰はく、如し汝に勝れる博士も亦ありやと。對へて曰さく、王仁といふ者あり、これ秀でたりと。時に上毛野君の祖荒田別巫別を百濟に遣はし、仍りて王仁を徵さしむ。十六年春二月、王仁來けり。則ち太子菟道稚郎子これを師として、諸の典籍を王仁に習ひたまふ。通達せずといふことなし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
應神天皇の十五年秋八月、百濟王が阿直岐を遣はして良馬を貢ぎました。阿直岐はよく經典を讀み、そこで太子菟道稚郎子は之を師と仰がれました。天皇は阿直岐に、「汝に勝る博士が他にもあるか」とお尋ねになると、阿直岐は「王仁といふ者があります、これは優れた人物であります」とお答へしました。そこで上毛野君の祖・荒田別と巫別を百濟に遣はして王仁を召させられました。翌十六年二月、王仁が渡來し、太子菟道稚郎子は之を師として諸々の典籍を學ばれ、通達せぬ所はありませんでした。
解説
此の段は、應神天皇の御代に百濟から阿直岐・王仁が渡來し、皇太子菟道稚郎子の師となつて學問を授けたことを傳へるものであります。前に既に一度學んだ事實でありますが(神知章)、其の時は支那の學問が我が國に入つて來たといふことを主として擧げたのに對し、此處では太子が徳を養ふ爲に學問をなさつたといふことを主として擧げて居ります。同じ事實でも取り上げる趣意が異なる所に注意すべきであります。
禮儀章 二百六十四阿直岐と王仁(下)── 太子論敎の禮底本 下巻 四百九頁ほか
原文
謹按、是太子論敎之禮也、此時稚郎子未有皇太子之命、然帝既建儲之計定於茲、故有此論敎也、蓋論敎之禮橡定、則其薰陶正明、變化氣質、不由業師傅保、以不可得其實也、太子聰明天資謙讓、而又有雄武之俊才、能熟中國之事物、兼通外朝之經籍、其粹迪開悟習貫如自然、故以表狀無禮、責高麗之使、譲大位於仁德帝、存尊上而卑下、聖君而愚臣之常典、其豪英也、其脫落也、皆繫敎諭之得矣、萬世法之、以立師置傅保、置太子家令之官、可不愼乎、
訓読
謹みて按ずるに、是れ太子論敎の禮なり。この時稚郎子未だ皇太子の命あらず。然れども帝既に建儲の計ここに定まる。故にこの論敎あり。蓋し論敎の禮橡定まるときは、則ちその薰陶正明にして、氣質を變化す。業師傅保に由らざれば、以てその實を得べからざるなり。太子聰明、天資謙讓にして、又雄武の俊才あり。能く中國の事物に熟し、兼ねて外朝の經籍に通ず。その粹迪開悟習貫すること自然の如し。故に表狀の無禮を以て、高麗の使を責め、大位を仁德帝に譲り、上を尊びて下に卑り、聖君にして愚臣なるの常典を存す。その豪英なる、その脫落なる、皆敎諭の得に繫れり。萬世これに法りて、以て師を立て傅保を置き、太子家令の官を置く。愼まざるべけんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
是れ太子論敎の禮であります。此の時、稚郎子はまだ皇太子との仰せを受けては居りませんでしたが、天皇は既に世嗣の御計畫を心に定めて居られました。それ故に此の論敎があつたのであります。おほよそ論敎の禮が豫め定まれば、其の薫陶は正しく明らかになり、氣質を變化せしめること、良き師や傅保に由らなければ其の實を得ることは出來ませぬ。太子は生まれつき聰明で、天性謙讓であり、また雄々しい武の才もお持ちでした。よく中國(我が國)の事物に通じ、兼ねて外朝(支那)の經籍にも通じ、その學び悟る所は自然の如くでありました。それ故に、高麗の使者が無禮な書状を持參した時には之を咎め、皇位を仁德天皇にお讓りになつて、上を尊び下に卑るといふ聖君愚臣の常の道を守られました。その優れた所も、その謙り退く所も、皆敎へ諭す事の善し惡しに繋るのであります。萬世此れに法つて、師を立て傅保を置き、太子家令の官を置くことを、愼まずにおられませうか。
解説
此の謹按は、太子に對する論敎(敎へ導くこと)の禮の大切さを説くものであります。菟道稚郎子はまだ正式に皇太子と定まらぬ内から、既に御父君の御心のうちで世嗣と定められ、師を立てて學問を授けられました。素行は、良き師傅の敎へがあつてこそ人の氣質は正しく變化するものであり、太子の聰明・謙讓、また後に高麗の無禮を咎め、皇位を仁德天皇に讓られたといふ美事も、皆此の敎諭の力に由るものであると論じて居ります。なほ、此処の「仁德天皇」は應神天皇より仁德天皇への皇位繼承といふ史實どほりの記事であり、先にkj258で扱つた全集版rg10の「仁德帝」誤記とは別の、正しい表記である。
禮儀章 二百六十五敎諭の道、外朝の書籍を以て事と爲すは後世の訛なり底本 下巻 四百十一頁ほか
原文
繼、敎諭之道、多以外朝之書籍爲事、是後世之訛也、中國古今天下之興廢治亂、事物之制度、人民之禮儀、載在文獻、然乃日用言行修改之暇、詳致其道、擧其古、而后及外朝之經傳、以廣其知識、證其事迹、斟酌用捨、就有道以正之、可謂得敎論之實也、
訓読
繼いで、敎諭の道、多く外朝の書籍を以て事と爲す。是れ後世の訛なり。中國古今天下の興廢治亂、事物の制度、人民の禮儀、載せて文獻に在り。然らば乃ち日用言行修改の暇、詳かにその道を致し、その古を擧げて、而して后に外朝の經傳に及び、以てその知識を廣め、その事迹を證し、斟酌用捨して、有道に就いて以てこれを正さば、敎論の實を得と謂ふべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
續いて申しますと、敎へ諭す道は、多く外朝(支那)の書籍を以て專らとするのが常でありますが、これは後世の誤りであります。支那の古今における天下の興廢治亂、事物の制度、人民の禮儀は、たしかに文獻に載せられて居ります。併しながら、日々の言行を修め改める暇には、先づ詳しく我が國の道を究め、我が國の古を擧げて學び、その後に外朝の經傳に及んで知識を廣め、その事迹を證し、斟酌取捨して、道ある人に就いて之を正すのでなければ、敎へ諭す事の實を得たとは言へないのであります。
解説
此の段は、學問の順序について、素行が特に力を入れて説く所であります。敎育といへば、とかく外國(支那)の書物を主として學ぶものと考へられがちでありますが、素行はこれを後世の訛(あやまり)であるとし、先づ我が國自らの歴史・制度・禮儀を詳らかにし、其の上で外朝の書に及んで知識を廣め、之を照らし合はせて正すべきであると説いて居ります。此處に至つて「以上建儲の禮を論ず」との結びの言葉が置かれ、崇神天皇より應神天皇に至る建儲(世嗣を立つる)の禮についての一連の論述が締め括られます。