神治章 五十三大物主神の御子孫、天下を經營す底本 下巻 百七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の大物主神といふのは其のお子様が非常に多くて、此のお子様が皆力を集めて、卽ち其の一族の大きな力を以て天下を經營することに盡したのであります。それで多勢の人民が皆其の御恩を蒙つたので、其の功績といふものは實に大きいものと申さなければならぬのであります。それで國土がスッカリ治まつて來ましたから、天孫降臨の時に多勢の人を率ゐて此の結果を御報告申上げて、さうして其の「懇欵」といふのは自分の誠心で、實際自分の私を棄て盡したのであるといふ結果を御報告申上げたのであります。
解説
前冊kj51の謹按「大物主神其子凡有一百八十一神。以經營天下。百姓大蒙其恩賴。」を承け、大物主神の多くの子が力を合はせて天下を経営したという系譜情報を、その具体的な様子から敷衍する段。
神治章 五十四天孫降臨に誠を盡くし、三穗津姫を賜って榮ゆ底本 下巻 百七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで高皇産靈尊も其の誠心のある所をお認めになつたものでありますから、其のお姫様をこれに妻はされて、之に土地を與へて其の子孫までも永く榮えて行くやうにといふお計らひをなさつたのであります。斯様にして皇孫に、何時までも忠誠を勵むやうにといふことを命ぜられた譯であります。これよりして大物主神の子孫が大いに日本の國に於て盛んになつて、永く皇室のお力となりました。さうしてまた其の後から神武天皇の御妃の五十鈴媛といふやうな方も出られたのでありまして、此の方のお子様が綏靖天皇であります。
解説
五十鈴媛(媛蹈鞴五十鈴媛命)と綏靖天皇の関係は、前冊kj51の謹按末尾に加へられた系譜補足(事代主神生一男一女……媛蹈鞴五十鈴媛命爲正后。乃綏靖帝母也。)と呼応する。大物主神の子孫が三輪の神として栄えた経緯は、その一kj10の大三輪神社の由来ともつながる。
神治章 五十五君臣一致の力底本 下巻 百七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
皇室の永くお榮えになるに就いては、無論皇室の御徳が根本でありますけれども、斯ういふやうな賴もしい人が之を輔け申したといふことも、また大きな力なのでありまして、日本の國は昔から君臣一致の力を以て榮えて來た國であるといふことは、此の事實に依つてもよく解るのであります。
解説
大物主神の子孫の繁栄を、皇室の御徳と輔弼の力との「君臣一致」として総括し、次段の景行天皇の詔(js11相当)への橋渡しとする段。
神治章 五十六景行天皇の詔・彦狹嶋王と御諸別王底本 下巻 百七〜百八頁
原文
景行帝四年。七十餘子皆封國郡。各如其國。故當今時謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉。──天皇之男女前後并八十子。然今七十子封建。五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王。拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然臥病早世。五十六年秋八月。詔御諸別王曰。汝父彦狹嶋王。不得向任所。而早薨。故專將領東國。是以御諸別王。承天皇命。且欲成父業。則行治之。早得善政。是以東方久無事焉。由是其子孫於今在東國。
訓読
景行帝四年。七十餘子皆國郡に封じ、各其の國に如かしむ。故に當今の時諸國の別と謂ふは、即ち其の別王の苗裔なり。──天皇の男女前後并せて八十子、然れども今七十子封建せらる。五十五年春二月戊子の朔壬辰、彦狹嶋王を以て東山道十五國の都督に拜く。是れ豐城命の孫なり。然れども病に臥して早世す。五十六年秋八月、御諸別王に詔して曰はく、汝が父彦狹嶋王、任所に向ふことを得ずして早く薨りぬ。故に專ら東國を領べよと。是を以て御諸別王、天皇の命を承け、且つ父の業を成さんと欲して、則ち行きて之を治め、早く善政を得たり。是れを以て東方久しく無事なり。是に由りて其の子孫今に東國に在り。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
景行天皇四年、七十余人の皇子を封じてみな国郡とし、それぞれその国へ行かせられた。だから今、諸国の「別(わけ)」というのは、その別王の子孫である。(天皇の男女あわせて八十人の御子のうち、今は七十人の子が封建されたのだという。)五十五年、春二月戊子の朔、壬辰の日、彦狹嶋王を東山道十五国の都督に任じられた。これは豊城命の孫である。しかし病に臥して早く世を去った。五十六年、秋八月、御諸別王に詔して言われた。「そなたの父である彦狹嶋王は、任地に赴けないまま早く亡くなった。だからそなたがもっぱら東国を領せよ」。そこで御諸別王は天皇の命を承け、また父の事業を成しとげようとして、行ってこれを治め、早くに善政を挙げた。これによって東方は長く事無く治まり、その子孫は今も東国にある。
解説
全集版js11「人皇封建の始 ── 彦狹嶋王」(中朝事実_6.html)と同主題の記事だが、字句にいくつか異同がある。全集版の景行帝の詔には無い「──天皇之男女前後并八十子。然今七十子封建。」という割注が小林本には加はっている。また全集版が「然早世之、不得向任所、故東國不得治焉」と彦狹嶋王が任地に赴けなかった旨を明言するのに対し、小林本は「然臥病早世。」とのみ記し、その代はりに末尾へ「早得善政。是以東方久無事焉。由是其子孫於今在東國。」という一文を独自に加へている。
神治章 五十七景行諸皇子の封建底本 下巻 百八〜百九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
景行天皇の四年に七十人餘りの王子様に皆それ〲領地をお與へになつたといふことがあるのでありますが、これもやはり封建といふことが實際に行はれた譯であります。此の景行天皇は御子様が多勢おゐでになつたので、その御子様の中で殊に實際の役に立つ方をかういふ風にして各地にお分けになつて、それ〲に皆領地をお與へになつて、各々其の國を治めることに力を盡させられたのであります。それで其の御子孫がズッと繁昌して居られるものでありますから、後に至つて方々の國の國主を別と言ふのでありますが、卽ち地方の長官でありまして、此の別といふのは、大概此の時に土地を分けて與へられた七十人餘りの皇子達の御子孫だといふことであります。
解説
欄外見出し「景行諸皇子の封建」の下、kj56の詔を敷衍する段。多くの皇子の中から実際に役に立つ者を選んで各地に配したという点と、その子孫が「別(わけ)」という氏姓の由来になったという点を、講義口調でかみ砕いて説く。
神治章 五十八皇室と人民 ── 全く父子の關係底本 下巻 百九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういふやうな譯で皇室と人民とは夙くから全く父子の關係なのでありまして、皇族の方々が民間に下つて皆地方の長官といふやうなものになられて、其の後が永く此の國に榮えて居られるのでありますから、君臣の別といふものはありますけれども、其の初めを尋ねれば全く親子のやうな關係であります。ただ道理の上に於て君臣といふ別はあるけれども、情の上から言へば親子と違はないのであります。これが日本の國の本當に一國一家の如くにして今日に及んで居る所の大きなる理由であるといふやうに考へられるのであります。
解説
皇族が地方官として下り、その子孫が長く土地に根づくという事実から、日本の国体を「一国一家」の関係として説く段。次段の封建・郡縣論の前提となる。
神治章 五十九封建と郡縣 ── 人情を本とする強み底本 下巻 百九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
封建といふことが果して宜いか、郡縣といふ方が宜いかといふことは議論のある所でありますが、併し斯ういふやうに、たゞ法律制度で治められた國でなくて、人情といふものを本にして治められた國であるといふことが、我が國に取つては非常な強味でありまして、此の事はお互ひによく心得て居なければならぬと思はれるのであります。
解説
封建と郡縣の優劣という、支那の政治思想における伝統的な議論に触れつつ、日本の場合はその優劣以前に人情を本とした統治であった点に強みを見る段。全集版の別冊目次(中朝事実_6.html)に「十一〜十六 封建の始めから郡縣の制へ」とあるように、この対比は以降の節でさらに展開される見込みである。
神治章 六十彦狹嶋王・御諸別王の御事蹟底本 下巻 百九〜百十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それからまた同じ景行天皇の五十五年の二月に彦狹嶋王といふ方を東山道十五箇國全體の取締りをすべき地位に就けられたのであります。卽ちこれは豐城命の孫だといふことであります。ところが此の方は病氣で早く亡くなられたので、折角斯ういふ重要な地位に任ぜられたけれども、其の任務を果すことが出來ませんでした。そこで五十六年の八月に御諸別王といふ、此の彦狹島王のお子様に對して天皇から詔を與へられまして、お前の父彦狹島王といふものは、其の任所に行くことが出來なくて早く死んで洵に氣の毒なことであつた。就いてはお前は父の後を繼いで此の東山道十五箇國を治めるやうにしたが宜しからう。父の志を果すといふことは子として洵に良い事であるから、父の志を果すといふ心持で任地に赴いて其の任を全うするやうに大いに力を盡さなければならぬといふことを仰せられました。
解説
kj56の詔をあらためて講義口調で語り直す段。父の任を果せず世を去った彦狹嶋王と、その遺志を継ぐよう命じられた御諸別王という「失敗と継承」の経緯を、小林はここでも丁寧に敷衍している。
神治章 六十一御諸別王の善政底本 下巻 百十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで御諸別王といふ方も非常に有難く思うて、天皇の仰せを承けまして、また子として父の遺業を成すといふことも本當に有難いことでありますから、自分の任された事に全力を注がうといふ覺悟で、其の任地に赴いて政治を行つたものでありますから、謂はゆる善政を行ふことが出來て、人民も皆滿足したといふことであります。之に依つて東の方の國々は久しく無事でありました。此より後も此の御諸別王の子孫が東國に在つて人民の間に重きを成して居るといふことであります。
解説
kj56の「早得善政。是以東方久無事焉。由是其子孫於今在東國。」──全集版js11の本文には無い小林本独自の一文──を敷衍する段。父の遺志を継ぐ心持そのものが善政の力になったと説く。
神治章 六十二恩愛を本とする統治の尊さ底本 下巻 百十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の事もやはり日本の國は法律制度といふやうなことを主にしないで、謂はゆる恩愛といふことを本にして治まつて來た國だといふことの證據になるのであります。萬事斯ういふ風に恩といふことを本に致しまして、恩に報ゆる爲に力を盡すといふことになりますと、全く利害損徳を離れることが出來るのでありますから、好い成績の擧りますのは勿論のことであります。若し一身の利害だけを主にして事をなすならば、艱難に出遇へば必ず止めてしまひます。ところが恩に報ゆるといふことが主になりますと、どんな難かしい事でも決してこれを棄てるといふやうな心持は起きませぬので、こゝが非常に貴い所であります。今後に於ては無論法律制度といふものを完備しなければなりませぬけれども、併したゞ法律制度に依つて治めるといふことでなく、やはり恩愛情誼を以て上より下に至るまで一つに結び付いて行くといふことが、本當に日本の特色を發揮する上に於て肝要な次第と考へなければならぬのであります。
解説
kj58の「一國一家」論・kj59の「人情を本とする」論を承け、恩に報ゆる心が利害損徳を超えて事を成し遂げさせるという一般原則にまで敷衍する段。次段の謹按(kj63)で「封建」という制度そのものの定義に戻る前の、思想的な総括にあたる。
神治章 六十三謹按 ── 人皇封建の始底本 下巻 百十一頁
原文
謹按。是人皇封建之始也。封建宗子。以護王室者。治道之要也。彦狹嶋王拜東山道都督者。乃東方之伯也。此時有封建方伯之制。以藩屏維持中國也。以上謂封建之制。
訓読
謹んで按ずるに、是れ人皇封建の始なり。宗子を封建して以て王室を護るは、治道の要なり。彦狹嶋王東山道の都督に拝くるは、乃ち東方の伯なり。此の時封建方伯の制あり、以て中國を藩屏維持するなり。以上封建の制を謂ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
つつしんで考えてみるに、これは人皇における封建のはじめである。一族の子を封じて王室を護らせるのは、統治の道の要である。彦狹嶋王を東山道の都督に任じたのは、東方の伯(地方長官)である。このとき方伯を封建する制度があって、それによって中国を守り支えたのである。以上、封建の制度についてである。
解説
全集版js11の謹按(中朝事実_6.html)と主題は同じだが、字句にいくつか異同がある。全集版「封宗子以護王室、乃治道之要也」に対し小林本は「封建宗子。以護王室者。治道之要也。」と「建」の一字を加へ、全集版「以藩屏維中國也」で終はるのに対し小林本は「以藩屏維持中國也。以上謂封建之制。」と「持」の一字と、節を締めくくる「以上謂封建之制」の一句とを加へている。
神治章 六十四治道の要 ── 御本家と御一族との誠心底本 下巻 百十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行がこれに意見を附加へて申しますには、神代に於て封建といふことのあつたのは前に申したことである。卽ち皇室の御子孫に土地をお與へになつて、さうして皇室をお輔け申す爲に力を盡すといふ途を立てられたのでありまして、卽ちこれが「治道の要」── 國を治める上に於て最も肝要なことなのであります。無論皇室の御一族でありますから、人民も非常なる崇敬の念を以てこれに仕へますので、其の御命令といふものは必ずよく行はれるに相違ない。また其の土地を與へられた方も皇室の御慰を非常に感謝し、また皇室は自分の御本家であるから、此の御本家の永く榮えるやうにといふ誠心を以て國の爲に力を盡します。斯ういふ譯で政治も巧く行きますし、凡ての事業も興るやうになつて行くのであります。
解説
kj63の謹按「封建宗子。以護王室者。治道之要也。」を、素行自身の言葉として敷衍し、その六を締めくくる段。皇室(御本家)と諸侯・地方官(御一族)とが互ひの誠心によって結び付くという構図は、kj53〜kj55の大物主神の物語と、kj56〜kj64の彦狹嶋王・御諸別王の物語とを貫く、その六全体の主題である。次冊(その七)では、頁冒頭の欄外見出し「方伯の任」に見えるとおり、支那における方伯の制度との比較へ進む見込みである。