神教章 五十八謹按 ── 學は效なり、火と水の喩底本 下巻 六十九〜七十頁
原文
謹按。學者。效也。效其不知不能也。近者聞而知之。遠者聞而知之。人之生自幼孩。至壯老。未嘗不由教學也。蓋人長於萬物者。以知也。故其爲小人。思而不通。其爲君子。皆學之所習也。夫火有可然之質。而不用薪柴加之以火。則不能長其威。水有可流之業。而不因卑下以疏導。則不能深其源。學之於人。或慥或蟄。則其害及人物。豈唯火乎。故天神之生知。動而感。言而通。猶有思議謀之群。天孫之臨降。有神勅之戒。是非後世聖教之淵源乎。二神有以輔養。其修身治人之道。至矣盡矣。
訓読
謹みて按ずるに、學は效なり。その知らず能はざるを效ふなり。近き者は聞きてこれを知る。遠き者は聞きてこれを知る。人の生るるより幼孩より壯老に至るまで、未だ嘗て教學に由らずんばあらず。蓋し人の萬物に長たるは、知を以てなり。故にその小人たるは、思うて通ぜざればなり。その君子たるは、皆學の習ふところに因る。夫れ火は然ゆべきの質ありて、而も薪柴を用ひて加ふるに火を以てせざれば、則ちその威を長ずること能はず。水は流るべきの業ありて、而も卑下に因りて以て疏導せざれば、則ちその源を深くする能はず。學の人に於ける、或は慥し或は蟄すれば、則ちその害人物に及ぶ。豈唯だ火のみならんや。故に天神の生知なる、動いて感じ、言うて通ずるも、猶ほ思議謀の群あり。天孫の臨降に、神勅の戒あり。是れ後世聖教の淵源にあらずや。二神以て輔養するあり。その身を修め人を治むるの道、至れり盡くせり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
つつしんで考えてみるに、学とは効うことである。自分が知らず、できないことを見ならうのである。近い者は聞いてこれを知り、遠い者も聞いてこれを知る。人が生まれてから、幼子のころより壮年老年に至るまで、教え学ぶことに拠らなかったためしはない。思うに人が万物のなかで長たるのは、知によってである。だから小人であるのは、考えても通じないからであり、君子であるのは、みな学び習ったことによる。そもそも火には燃えうる性質があるが、薪や柴を用いて火を加えなければ、その威を伸ばすことができない。水には流れうるはたらきがあるが、低いほうへ導いて疏通させなければ、その源を深くすることができない。学が人においては、あるいは荒々しく、あるいは閉じこもってしまえば、その害は人にも物にも及ぶ。どうして火だけのことであろうか。だから天神は生まれながらに知る方であって、動けば感じ、言えば通じるのに、それでもなお思いはかる神々の集まりがあった。天孫が降臨されるにあたっては、神勅の戒めがあった。これこそ後の世の聖なる教えの淵源ではないか。二神には輔け養うということがあった。その身を修め人を治める道は、至り尽くしている。
解説
章の結語である。「學は效なり」──学ぶとは、すぐれた者を見ならうこと。火と水の譬へは、素質があつても外からの働きかけ(薪・風、卑い所への導き)なしには育たないことを説く。直前の段(kg57)で小林が敷衍した「助長」の寓話──力を添へ過ぎれば害になる──と、ここでの「力を添へなければ育たない」という主張とは、一見逆のことを言つてゐるやうに見えるが、実は學問の同じ一つの徳、程よさを裏表から述べたものである。最後に神代へ戻り、生知の神ですら「思議謀の群」を持ち、天孫降臨には神勅の戒めがあつたと説いて、教へを受けることは人であることの条件だという結論で神教章は完結する。全集版の対応節はsg25(全集版でも「章の結語である」と明記される節)。全集版とはほぼ同文で、「愚按」が小林本では「謹按」となる程度の異同にとどまる。
神教章 五十九學の意義底本 下巻 七十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
今まで挙げましたのは、日本に学問をするといふことの始まりを申したのであります。そこで之に就いて更に素行が自分の説を加へて申しますには、一体「學」といふのは「效ふ」といふことであつて、自分の知らないことを自分より勝れた人に習ふ、また自分の能く出来ないことを能く出来る人に習ふので、要するに己より長じた所の者から物を学ぶといふことが人間には大切なのであります。それですから近い所のものは眼で見て之を知るし、遠い所のことは人に聞いてこれを知るので、だんだんと自分の知識が進んで参るのであります。勿論今日では書物がありますから、人に聞くといふことばかりでなく、書物を見て遠くの事を知ることが出来るのでありますが、書物などの少い時代に於ては、遠いことは聞くよりほかはない。要するに他の人の知つて居る所に基いて自分の知識を博めるといふことが主であります。それですから人間は極く年の幼けない時から、年が長じても、或は年が老いるまでも學ぶといふことを忘れてはならないのであります。年取つたからモウ學ばないでも宜いといふ譯ではない。壽命のあらん限りは學んで、自分の知識を博め、また自分の行ひを勵むといふやうに努めるのが固より大切であります。人間が萬物よりも勝れて居るといふのは、要するに知があるからであつて、人間より力の強い動物もあれば、また人間よりいろゝな働きの出來るものも少くない。併し人間には他のものが持たない所の、勝れた知識といふものがあるので、此の知識を磨いて行けば、永く萬物の上に立つことが出來る譯であります。
解説
前段(kg58)の謹按「學者效也。效其不知不能也。」を、小林が自分の言葉で敷衍する一段。「效ふ」=自分より勝れた者に習ふ、という學の定義を、年齢を問はず学び続けるべしという実践的な教訓にまで広げてゐる。「人間が萬物よりも勝れて居るのは知があるからである」という一句は、次段(kg60)の學問の弊(知を誤つて用ゐた場合の害)への伏線になつてゐる。
神教章 六十學問の弊 ── 燃え盛る火と氾濫する水底本 下巻 七十〜七十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
人間には斯ういふ特別な長所がありますから、物を考へると其の考へた結果は「通ぜざること無く」──以前にはマルで判らなかつた事も、だんゞと研究を積んで行けば「盡さゞること無く」明かにすることが出來るのであります。それであるから「小人」といひ「君子」といふのも、其の実の有る人と無い人との違ひであつて、初めから優れた人といふものはないのであります。學んで居らなければ役に立たないので、習ふといふことに就いては充分に氣を付けて、正しいことを習つて、要らないものは習はないやうに心掛けるといふことが大切なのであります。譬へば火といふものは燃ゆべき性質がありますけれども、其の火の燃えて居る所に薪を加へて、そこに強い風が吹いて來れば、ますゝ燃え盛つて行きまして、何處までも物を燒き盡すといふことも出來るのであります。併し道を開いてやらなければ或る所に留まつてしまつて、火の働きといふものは充分に出て來ない。また其の火を「暴す」──唯だ燃えるまゝにして置きますと、大切なものをも焼いてしまつて害を及ぼすことになる。水といふものも流れる所の本性がありますが、低い方に道を開いてやれば宜く流れますけれども、其の道を誤ると多くのものに害を及ぼします。木などでも根を餘く水に犯されれば倒れますし、家などでも土臺が水に犯されると傾きます。水は無ければならぬものでありますけれども、また水の害といふものも隨分恐ろしいものであります。
解説
前段(kg58)の謹按「夫火有可然之質、而不用薪柴加之以火、則不能長其威。水有可流之業、而不因卑下以疏導、則不能深其源。」を、身近な火・水の譬へで具体的に敷衍する一段。力を添へなければ育たないが、道を誤つて力を添へ過ぎれば、火は「暴す」に至り、水は氾濫して家や木を害する──前冊(kg57)の「助長」(力を添へ過ぎる害)と、本段の「薪・風が無ければ燃え広がらない」(力を添へない害)とは、程よさという一つの徳を両側から照らす対の教へになつてゐる。
神教章 六十一神代の例 ── 思兼神の衆議と二神の輔導底本 下巻 七十一〜七十二頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それでありますから神代の例を見ましても、一體神様といふものは智慧の勝れた方であつて、其の爲さる事といふものは皆役に立ち、また其の言葉に出されることも本当に道に叶つたことばかり言はれるのでありますけれども、併し思兼神といふ方が、天照大神の石窟にお篭りになつた場合に、どうしたら宜いかといふことを決めるのに、自分獨りで決められないで、多勢の神々を集めて其の意見を聴いて、さうして其の最も善い道に從ふといふことでなければ、大事を決行することは出來ないのであります。また天孫が此の日本の國に御降臨になる時でも、固より天孫其の方が勝れた方でいらつしやいますけれども、天照大神は其の御教へを固く心に銘じて此の國にお降りになつたのであります。それに就いては鏡を初め謂はゆる三種の神器といふものをお與へになつて、常に自ら省みよといふ御教訓もお與へになり、また其の上に天孫がお降りになる時には二人の神様を輔導の役として御附けになつて、萬事御相談の上で決定されるといふことになつて居たのであります。歴代の天子様は皆此の御教訓を御奉戴になつて服膺になつていらつしやいます。それで尚ほ其の上に外國の學問をも探り入れて完全を期せられたといふのは、全く此の御精神の延長でありまして、素行が斯ういふ論を説くのも、後世の學問をする者に、徒らに多く學ぶといふことでなく、常に其の正しいものを學んで、自分の智慧を磨くのみならず、世の中の人を教へ導く根本を定めよといふ戒めを與へたものと存ぜられます。
解説
前段(kg58)の謹按「故天神之生知、動而感、言而通、猶有思議謀之群。天孫之臨降、有神勅之戒。」を、思兼神の衆議と天孫降臨の故事とで具体的に敷衍する一段。生知の神ですら独りで決めず衆議に従ひ、三種の神器とともに二神を輔導役として添へた──血筋や生まれつきの才だけでは足りず、教へを受け続けることこそ人(そして神)であることの条件だ、というのが神教章全体を貫く主張である。この段は山鹿素行全集版の謹按としては最後の番号(sg25)にあたるが、小林本ではこの後も下巻七十三頁から七十八頁にかけて敷衍が続き、神教章そのものの完結は次冊(その九)となる。