中國章 十三(結)固陋にも紛奢にも非ず ── 日本の御所の造り方底本 二六一頁
原文
彼如事固陋。與愛紛奢。不可同日而語之也。
訓読
彼の固陋を事とするが如きと、紛奢を愛するとは、日を同じくして之を語るべからざるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうのが先ず日本の御所の造り方であって、徒らに固陋を事として、何でも質素ならば宜いといって、極く粗末な中に平気で居るというようなものとは異う。また紛奢を愛して、何でも飾り立てて居るというようなのとも異うので、本当に其の宜しきを得て、実に堂々たる形を具えては居るけれども、また余り華美に趨らないという程度のものであったのであります。そういう昔の極端なのとは日を同じうして語ることは出来ない。
斯ういうようにして帝王の御所というものが日本には出来て居るのであります。それであるから或る程度までは支那を手本として居るけれども、日本には日本の特色があるので、徒らに他を学んだというではない。
併しながらだんだん世の中が進んで行けば、如何に質素が宜いからといって、ズット昔のような訳には無論行かない。凡ての事務も多くなるから百官という朝廷に事える役人の数も多くなるし、また外國との交際もだんだん繁くなるのでありますから、決して見苦しいことのないようにそれだけの規模を整え、周到なる用意を以て京都の御所というものが御造営に相成った訳であります。
解説
前の冊(その八 ck123)の結びを承ける一段。素行の「固陋」と「紛奢」のどちらでもないという判定を、小林が改めて言い直す。
ここで注目したいのは「或る程度までは支那を手本として居るけれども、日本には日本の特色がある」という一句である。その八 ck116 では「支那の天子などのように金銀を鏤めて……ということは決してない」と対比していたのが、ここでは手本にしたことを認めたうえで違いを言う形になっている。同じ講義の数頁のうちに、言い方が動いている。
そして「世の中が進んで行けば、ズット昔のような訳には無論行かない」――事務が増え、官が増え、外交が増えれば、規模も変わる。基準は時代とともに動くことを、小林はここで素直に認めている。ck115 の「折中」がどこに落ちるかは決まっていない、という話の裏返しである。
中國章 十四四道の綏撫 ── 民を導くの本は教化に在り底本 二六一〜二六二頁
原文
崇神帝十年冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今反者悉伏誅。畿內無事。唯海外荒俗。騷動未止。其四道將軍等。今急發之。丙子將軍等共發路。十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍。以平戎夷之狀奏焉。是歲異俗多歸。國內安寧。
訓読
崇神帝の十年冬十月乙卯の朔、群臣に詔して曰く、今反ける者は悉く誅に伏し、畿內事なし。唯だ海外は荒俗にして騷動すること未だ止まず。其れ四道の將軍等、今急かに之に發かれと。丙子、將軍等共に發路す。十一年夏四月壬子の朔己卯、四道の將軍戎夷を平ぐるの狀を以て焉を奏す。是の歲異俗多く歸して國內安寧なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
崇神天皇の御代に至って四道將軍を遣わされたということがありますが、これは前にも申しましたように、國内に教化を布くという御趣意であります。此の四道將軍を派遣される前に天皇は詔りして「民を導くの本は教化に在り」と仰せられました。
天皇の御威徳に懐いて、國の為めに力を尽そうという者がだんだん多くならなければ國は発展しないのである。併しながら何分にもまだ建國後さう歳月も経たないものでありますから、中央の地方はよく治まって居るけれども、遠い所の者はまだ皇室の御趣意もよく解らないで、銘々勝手なことをして、お互いに相争って居るような者も多くありますから、これ等をよく教え導いて、若し教えを聴かない者は武力を用いてこれに制裁を与えるという意味で、四道將軍を遣わされたのであります。
解説
第十四段。ここから話は都と宮殿から国の周縁へ移る。この段から第十六段までが一続きで、素行はそれを「以上は邊要を守るの備なり」と結ぶ。
崇神天皇の四道將軍は、その五(ck72)ですでに一度扱われている。そこでは「中國を四道に分つの始め」――行政区画の起源――としてであった。ここでは同じ記事が「四方の邊境を定める」という別の角度から引かれる。素行は同じ史料を、論点を変えて何度も引く。
小林が引く「民を導くの本は教化に在り」は『日本書紀』崇神十年九月の詔。教化が先、武力は聴かぬ者に対して後――この順序は、その二(ck28)で見た「戦いの正当化」とは向きが違う。
なお崇神紀の年代記事は、そのままの史実として読めるものではない。崇神天皇の実在性そのものが議論の対象で、四道將軍も後の地方支配の由緒を語る伝承とみるのが今日の一般的な見方である。
中國章 十四(承)詔を發せられて、將軍達は出發した底本 二六三頁
原文
今反者悉伏誅。畿內無事。唯海外荒俗。騷動未止。其四道將軍等。今急發之。
訓読
今反ける者は悉く誅に伏し、畿內事なし。唯だ海外は荒俗にして騷動すること未だ止まず。其れ四道の將軍等、今急かに之に發かれと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで崇神天皇の十年冬十月乙卯の朔の日に詔を発せられて、今までに叛いたものは悉く罪に服して、畿内即ち大和を中心とする地方は何も事がない。
併しながら「海外」というのは遠い所という意味で、外國という意味ではありませぬ。其の遠い所に於てはまだまだ風俗も正しくなく、心得の足りない所の者があって彼此れ争いをして居る様子である。それであるから四道の將軍を遣わして是れ等を教え諭して、其の教えに従わない者は武力を以て制裁を与えるということに決定したのであるから、速かに此の命を奉じて出発するようにと仰せられて、それから丙子の日に至って將軍達は出発致したのであります。
解説
「海外」は外國ではない――小林はここでもはっきり断っている。その五(ck72)で「戎夷」は別に外國という意味ではありませぬと言ったのと同じ注意である。
「海外」=畿内から遠く隔たった地という読みは、原文の「唯海外荒俗、騷動未止」を国内問題として読むということで、これは妥当な理解である。古代の「海外」は必ずしも海の向こうを指さない。
ただし、その四(ck61〜ck63)では同じ種類の語が中国周辺の異民族を指して使われていた。語の指す範囲が文脈で伸び縮みすることは、この章を読むうえで繰り返し確認しておきたい点である。
中國章 十四(承)恩威並び行はれて、國は洵に安寧に底本 二六三頁
原文
四道將軍。以平戎夷之狀奏焉。是歲異俗多歸。國內安寧。
訓読
四道の將軍戎夷を平ぐるの狀を以て焉を奏す。是の歲異俗多く歸して國內安寧なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから翌る十一年の夏四月、モウ半年余り経ちますが、此の間に將軍達はそれぞれ命ぜられた地方に赴いて其処に教えを与え、教えに従わない者はこれに刑罰を与えて四方ともにスッカリ鎮まりましたから、それで四道將軍がモウ何処も皆鎮まりました、國内に於て天皇の御威徳に服さない者はないようになりましたということを御復奏申上げたのであります。
斯うなってモウ「異俗」即ち天子の御威光に従わないような不心得な者も悉く服従して、國内は洵に安寧になったのであります。
どうしても恩威並び行われるということでなければ、國は平かにはなりませぬ。如何なる聖人の時代に於ても、一人も不心得な者がないという訳にはなかなか行きませぬが、さういう者を赦して置けば、正直に働いて居る者が迷惑をしなければならぬのでありますから、そこで已むを得ず教えに従わない者には武力を以て制裁を与えるということの必要が起る訳であります。此の恩威が並び行われてこそ國は本当に平和になるということは、此の四道將軍を遣わされたということに依ってもよく現われて居る訳であります。
解説
「恩威並び行はる」――これがこの段の小林の主題である。「さういう者を赦して置けば、正直に働いて居る者が迷惑をしなければならぬ」という理由づけは、抽象論ではなく、秩序を守るための実務の言い方になっている。
ただし「國内に於て天皇の御威徳に服さない者はないようになりました」という復奏をそのまま結果として書くのは、その七 ck99 の補注で見た「奥羽地方にまでも天皇の御威光に懐かない者はない」と同じ形である。討たれた側から見た記述はここにもない。
四道將軍の伝承にしても、記紀は将軍の遠征を「平定」として記すだけで、地方の側がどう受けとめたかは書かない。史料の性格が一方に偏っていることは、読むときに常に思い出しておきたい。
中國章 十四(承)崇神天皇の雄圖 ── 未だ化德を弘恢せず底本 二六三〜二六四頁
原文
謹按。二神定可守之境之後。鴻蒙草昧。而封疆未分。神武帝經綸天業。制中州之後。又未弘恢化德。帝識性聰敏。尤有雄謀。故大開四方。以規邊要。
訓読
謹んで按ずるに、二柱の神守るべきの境を定むるの後、鴻蒙草昧にして封疆未だ分たず。神武帝天業を經綸し、中州を制するの後、又未だ化德を弘恢せず。帝識性聰敏にして尤も雄謀あり、故に大に四方を開き、以て邊要を規る。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで素行が尚ほこれに就いて意見を述べて申しますには、昔伊弉諾・伊弉冉尊の時から人々のそれぞれ守るべき所を定めて、國内を平定されたのであるけれども、其の後人皇の代になって、神武天皇が大和に都をお開きになって後でも、まだまだ國の初めであるから、中央は兎に角、地方に行けば國の境というものもハッキリせず、謂わゆる王化に服さないというような者もあったのである。
それであるから神武天皇が「天業を経綸し」、即ち天孫降臨の意義を全うされる為めに都をお建てになって後でも、まだ「化徳を弘恢せず」――四方の人民を教化するというお働きがまだ充分に行って居なかった。これは歳月を経なければならぬことで、幾ら天皇の御徳が勝れていらっしゃっても、短い歳月の間に全國まで御威徳が及ぶという訳には参りませぬ。
斯くして此の崇神天皇の時に及んだのでありますが、崇神天皇は非常に勝れた天性を具えられた方であって、また「雄謀あり」――即ち本当に國内を平定しようというような覚悟を持っていらしったから、そこで四方を開いて、國の隅から隅までも本当に平らかに治めるという途をお立てになりました。
解説
素行の史観がはっきり出る一段。神武の建国から崇神まで、まだ「化德を弘恢せず」――教化は行き渡っていなかった、と素行は書く。建国即完成ではないという、意外なほど段階的な見方である。
小林もそれを受けて「幾ら天皇の御徳が勝れていらっしゃっても、短い歳月の間に全國まで御威徳が及ぶという訳には参りませぬ」と言う。この講義がしばしば陥る「はじめから完全であった」という語り方と較べると、ここは地に足がついている。
史実の側から言えば、崇神天皇こそ実在の可能性のある最初の天皇とみる説は古くからあり、その和風諡号「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」――初めて国を治めた天皇――は神武の「始馭天下之天皇」と重なる。初代が二人いるという記紀の構造は、この段の素行の整理とも無関係ではない。
中國章 十四(結)蒼生の課役を正し、船舶の運轉を利す底本 二六四頁
原文
下無逸民。教化流行。終正蒼生之課役。利船舶之運轉。天下大平也。
訓読
下に逸民なく、教化流行し、終に蒼生の課役を正し、船舶の運轉を利し、天下大に平かなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
「下に逸民なく」――人民の中に自分の職務を怠って懶けて居るような者などもなくなって、皇室の教化が國の隅から隅にまで及びました。
そこで初めて「蒼生の課役を正す」――「課」というのは租税を納めることに当るので、即ち税を納めさせるのと、それから労働をさせるのと、此の二つの責任を負わせるのであります。支那で謂えば「賦」と「徭」ということに当るので、即ち「役」というのは人民を労働に使って、人民を働かせることに依って道をよくしたり、橋を架けたり、或は御所の修復をなさったりすることであります。
それからまた、だんだん國が開けて来れば陸ばかりで交通して居っては不便でありますから、船を多く造らせ、海や川を利用して品物を方々に運ぶのに便利にするというようなことも行われて、天下が大いに平かになった訳であります。
解説
租税と労役と、水運。教化の話が、ここで一気に実務に落ちる。
『日本書紀』崇神十二年の「始めて人民を校へて、更に調役を科す」――初めて戸口を調べ、課税と労役を定めた――がこの記事の典拠。「初めて」と明記されているのが重要で、崇神朝を国家の実務が始まった時点と位置づける記紀の構成が、ここにも現れている。
小林の「賦」と「徭」という説明は的確である。日本の律令では租・庸・調と雑徭に分かれるが、その原型を崇神紀に見るという読み方は、素行の時代の学問としては自然なものだった。
「船舶の運轉を利す」も崇神十七年の「船は天下の要用なり」という詔に対応する。素行が具体的な記事をきちんと拾っていることは、この段全体を通じて確認できる。
中國章 十四(結)順を逐うて健實に發展する底本 二六四〜二六五頁
原文
天下大平也。
訓読
天下大に平かなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これより後に至ってだんだん國が盛んになって来たことは、次に説いてあるのでありますが、一つの國を経営するのには自ら順序がありますから、先ず中央をシッカリと定めて、それから四方に及び、自分の國が本当に治まればなお他の國までも教え導くということになるので、そう初めから広く発展するというようなことの出来るものではありませぬ。
順を逐うて健実に発展するということが肝要なのであります。日本の國の盛んになったのは本当に此の正しい道に依って居るのでありますから、二千六百年の今日になって愈々発展するということになったのであります。其の発展の順序が是れから尚ほ順を逐うて記されて居る訳であります。
解説
「順を逐うて健實に發展する」――この講義の建設的な面がよく出ている一句。中央を固め、四方に及び、それから外へ。順序を飛ばさないことを説く。
ただし末尾の「自分の國が本当に治まればなお他の國までも教え導くということになる」は、素行の按語にはない。素行は「天下大平なり」で止めている。
これは、この読本で繰り返し確認してきた転回――国内統治の話が、対外的な使命の話に接ぎ木される――のもう一つの例である(その六 ck98、その七 ck100)。しかも「二千六百年の今日になって愈々発展する」という一句が添えられており、この講義が語られた時代(昭和十年代)の言葉がそのまま入り込んでいる。
ここは素行の文と小林の時代とを、きちんと分けて読むべき箇所である。
中國章 十五東國の平定 ── 武内宿禰、北陸及び東方諸國の地形を察す底本 二六五〜二六六頁
原文
景行帝二十五年。秋七月庚辰朔壬午。遣武內宿禰。令察北陸及東方諸國之地形。且百姓之消息也。
訓読
景行帝の二十五年秋七月庚辰の朔壬午、武内宿禰を遣はして、北陸及び東方諸國の地形、且つ百姓の消息を察しむ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
景行天皇の二十五年七月に、武内宿禰を遣わして、北陸道及び東方の諸國の地形を観察させ、また多勢の人民の様子を観察させたということであります。
此の「東方」というのは何処であるかハッキリ判りませぬけれども、此の時分は武蔵相模辺りも無論未開の地であったのでありますから、要するに関東地方を指して言われたものであろうと思われるのであります。
解説
第十五段。景行天皇の東国経営。崇神の四道將軍に続いて、次の世代の話に移る。
ここで面白いのは、まず視察が先で、征討はその後だという順序である。武内宿禰が地形と百姓の消息――土地の形と人の暮らし――の両方を見て報告する。統治の前に調査があるという考え方が、素行の引用の仕方によく出ている。
小林が「此の『東方』というのは何処であるかハッキリ判りませぬ」と正直に断り、「関東地方であろう」と推測にとどめているのも好ましい。分からないものを分からないと言う作法は、その七 ck101 で素行が「今其の制言ふべからず」と書いたのと通じる。
なお武内宿禰は景行から仁徳まで五代に仕えたとされる人物で、その長寿ぶりからも実在の一人物というより、複数の伝承が集まった形象と考えられている。
中國章 十五(承)日高見の國 ── 椎結文身、人と爲り勇悍なり底本 二六六頁
原文
二十七年春二月辛丑朔壬子。武內宿禰自東國還之奏言。東夷之中。有日高見國。其國人男女並成椎結文身。爲人勇悍。是摠曰蝦夷。
訓読
二十七年春二月辛丑の朔壬子、武内宿禰東國より還りて之を奏言す。東夷の中に日高見の國あり。其の國人男女並びに椎結文身を成す。人と爲り勇悍なり。是を摠じて蝦夷と曰ふと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで凡そ一年半ばかり経って具さに視察を終えて帰って申上げるのには、東の方は何分にも未開の所であって、中央と比べると風俗等も大変異うのであるが、此の東の未開の國の中に日高見國というのがあって、此の國の人間は男女共に髪を高く結び上げて、身に雕り物をして居って、一体勇敢な気風のものである。それで其の全体を蝦夷と言って居る。
これ等は今の所では未開の状態であるけれども、勇敢な者であるから、将来大いに頼りになるであろう。併しながらなかなか中央の様子も解らぬものでありますから、動もすれば叛くような気分にもなり易いので、用心をしなければならぬという意味を奏上したのであります。
解説
「蝦夷」の初出にあたる記事。『日本書紀』景行二十七年二月の武内宿禰の復命そのままである。
注意したいのは「勇敢な者であるから、将来大いに頼りになるであろう」という読みである。小林は蝦夷を敵としてではなく将来の戦力として位置づけている。これは、その五(ck72)で「戎夷は外國ではない、同じ日本の國民である」と述べたのと一貫している。
とはいえ、この記事全体が征服する側の記録であることは動かない。「椎結文身」という描写は、中国の史書が周辺民族を描くときの定型(『漢書』地理志の呉越の記述など)をなぞったもので、実際に見た記録というより、文体としての「夷狄」の描き方である可能性が高い。
蝦夷と呼ばれた人々の側の記録は、ほとんど残っていない。武德章 下の蝦夷の記事(『中朝事實』十三・武德章 下 六節)と併せて読むと、この一方通行がよく見える。
中國章 十五(承)日本武尊の東征 ── 東海を巡狩す底本 二六六〜二六七頁
原文
四十年夏六月。東夷多叛。邊境騷動。冬十月。命日本武尊征之。蝦夷服罪。五十三年。巡狩于東海。
訓読
四十年夏六月、東夷多く叛き、邊境騷動す。冬十月、日本武尊に命じて之を征す。蝦夷罪に服し、五十三年東海を巡狩す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ところが四十年の夏六月に至って、果して此の東の方の、武内宿禰が申上げたような國々が叛いて、随分の騒ぎがあったものでありますから、そこで日本武尊というお子様に命ぜられて之を征伐されました。
此の日本武尊という方は、非常に勇敢な方でありましたから、此の戦いに功を奏せられて、今の蝦夷がみな降服を致したのであります。
それでいよいよ此の東國の辺も平らかになったので、五十三年に至って東海をズット天子が御巡幸になって、其の様子を委細に御視察に相成ったのであります。ここに「東海」とあるのと「東夷」とあるのとは恐らく同じ所でありませうから、前に申上げたように関東地方は一般に「東夷」という中に含まれて居たものと解すべきであります。
解説
日本武尊の東征。記紀のなかでもっとも有名な物語の一つだが、素行の引用はきわめて簡潔で、「命日本武尊征之。蝦夷服罪」の八字で済ませている。草薙剣も、弟橘媛の入水も、「吾妻はや」も出てこない。素行が関心を持っているのは物語ではなく、辺境が国土に組み込まれた事実のほうである。
「蝦夷服罪」――蝦夷が罪に服した。この一句を、征討された側から読み直せば別の話になる。蝦夷とされた人々の抵抗は、この後も八世紀末の阿弖流爲まで、実に数百年続く。景行朝で終わったわけではない。
その七 ck99 の補注で触れたとおり、平安初期の坂上田村麻呂の征討は、この長い過程の一段階である。記紀が「服罪」と書くのは、書いた側の視点にすぎない。
中國章 十五(承)西は早く開け、東は開け方が遲かつた底本 二六七頁
原文
五十三年。巡狩于東海。
訓読
五十三年東海を巡狩す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これはつまり皇室の御威光が遠きに及んだことの一つの証しでありまして、何にしても御先祖が九州地方からお興りになったのでありますから、西の方は可なり早くから開けて居ましたけれども、東の方はなかなか開け方が遅かったわけであります。
然るに此の景行天皇の頃からだんだんと東の方に皇威が及んで来たので、其の一つの事実として斯ういうことが挙げられて居るものと思われるのであります。
尚ほこれに就いて素行が申すには、一体西の方が皇室の御威光に服して居るのは久しいことであるから、それで景行天皇は先ず西の方を尽く平げることに力をお尽しになって、九州地方の熊襲などが背いたことも、これも日本武尊をお遣わしになってスッカリ平かになりました。
それからだんだん東の方に及んで、東の方の國々を平かにすることにお努めになった。また七十人余りのお子様にそれぞれ地方に土地をお与えに
解説
西が先、東が後。小林はここで、皇威の及ぶ順序を地理的な事実として説明する。「御先祖が九州地方からお興りになった」から西が早い、と。
これは、その三(ck47)で扱った「なぜ天孫は西に偏った日向に降ったのか」という或疑と、裏表の関係にある。素行はそこで理屈をつけて答えていたが、ここではそのまま歴史的な順序として受け入れている。説明が要るのは理屈のほうで、順序そのものは素直に認められている。
考古学の側から言えば、弥生文化の伝播も、大和政権の勢力の伸長も、おおむね西から東へであったことは支持されている。この段の記述は、伝承の枠の中でではあるが、実際の歴史の向きとは合っている。
中國章 十五(結)王室の藩屏 ── 七十餘子を封建す底本 二六七〜二六八頁
原文
謹按。帝自征西州。巡狩東方。封建七十餘子。各令如其國。是乃定四方之邊境。爲王室之藩屏也。
訓読
謹んで按ずるに、帝西州を征してより東方を巡狩し、七十餘子を封建し、各其の國に如かしむ。是れ乃ち四方の邊境を定めて、王室の藩屏と爲せるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
なって、そうしてそれぞれの土地を治めることに力を尽すことを命ぜられました。これを「封建」と素行はいって居ますが、そうして支那の封建制度と同じであったかどうか、それは昔のことでどうも委しく判らないのでありますけれども、兎に角土地をお与えになって、其の土地を治めることに力を尽させたというように解釈すれば宜しいのでありませう。
即ちこれに依って四方の境いを定めて、そうして「王室の藩屏と為す」――チャウド垣を以て庭を囲うて居るように、王室の御繁昌になるように力を添える所の土地を諸方に分布して置かれたわけであります。
解説
「王室の藩屏」――垣根。皇子たちを諸国に配して、王室を囲む垣とする。
素行が「封建」の語を使っているのに対し、小林は「支那の封建制度と同じであったかどうか、それは昔のことでどうも委しく判らない」と慎重に留保する。この慎重さは評価してよい。
実際、景行天皇の「七十餘子」という数字は、各地の豪族が景行の子孫を称したことの反映と考えられている。つまり中央が地方に皇子を配したのではなく、地方の勢力が後から皇統に接続した系譜が集まった結果とみるほうが自然である。因果の向きが逆かもしれないということである。
素行のこの読み方は、彼が生きた江戸の幕藩体制――将軍家の親藩が要地を押さえる形――を古代に投影したものでもあるだろう。
中國章 十五(結)皇族が國事に力を盡す ── 日本の歴史の一つの特色底本 二六八頁
原文
爲王室之藩屏也。
訓読
王室の藩屏と爲せるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
日本では昔から皇族が斯ういうように國事に大いにお力をお尽しになるのであります。現今でも皇族の方方が陸海軍などに大変にお力をお尽しになるのでありますが、これは昨今に始まったことではなくて、遠い昔から天子が此の國を統一してお治めになると共に、また軍隊の方をも天子が御統率になって、謂わゆる大元帥であらせられました。
それで皇族の方々がみな天子をお輔け申して、斯様に地方を平かにするということにも力をお尽しになったのであります。洵に此の皇族の方々の御恩徳というものが深く人民の心に滲み入って居たということは、日本の歴史の一つの特色であらうと思われるのであります。
ズット下った後の時代に就いて言えば、建武中興の時などでも、護良親王其の他皇子の方々が國事に非常な艱苦を冒してお尽しになり、これが多勢の忠臣を感激せしめた一つの大きい力になって居るのであります。これ等の点に於ても日本の國体の勝れて居るということの一端を窺うことが出来ると思われます。
解説
「現今でも皇族の方方が陸海軍などに大変にお力をお尽しになる」――この講義が語られた時代の言葉が、ここで直接に入ってくる。明治憲法下では皇族男子は原則として軍務に就き、大元帥は天皇であった。小林は古代の記述を、そのまま同時代の制度の由緒として語っている。
建武中興と護良親王への言及も同じ文脈にある。南北朝を皇族が国事に尽くした例として引くのは、昭和戦前の南朝正統論のなかでは定型の語り方だった。
読むときの注意。素行の按語は「王室の藩屏と爲せるなり」の一句で終わっている。皇族と軍務、国体の優越へと話を伸ばしているのは小林であって、素行ではない。この読本で繰り返し確認してきたとおり、どこまでが素行で、どこからが講義者かを分けて読みたい。
中國章 十六地方長官の制 ── 國郡に長を立て、縣邑に首を置く底本 二六八〜二七〇頁
原文
成務帝四年春二月丙寅。國郡立長。縣邑置首。取當國之幹了者。任其國郡之首長。是爲中區之藩屏也。
訓読
成務帝の四年春二月丙寅、國郡に長を立て、縣邑に首を置き、當國の幹了しき者を取りて其の國郡の首長に任じ、是を中區の藩屏と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
成務天皇の四年春二月に方々の國に「長を立て」即ち國司でありまして、今日謂う地方の縣知事のようなものでありますが、斯ういうものを置くことになりました。
それから其の國の中に属して居る所の村々には、また首というのを置いた。これは今の市長とか町村長とかいうようなものに当るのでありませう。今では市長や町村長は人民の方で選ぶのでありますが、昔のことでありますから、やはり上より任ぜられた訳であります。
斯ういうような役人をみな定めまして、そうして「当國」というのはそれぞれの國のことで、それぞれの國の中で本当に才能もあり、また勇気もある者を選び出して、そうして其の國々の長官に致したのであります。
それで其の國々を治めるということは、即ち「中區」――大和を中心とする中央の護りとなるのであります。
解説
第十六段。地方長官の制。その五(ck75)で成務天皇の國縣・邑里の制が扱われたのに続いて、ここでは人の任命の話になる。区画を分けるだけでなく、誰を長に据えるか。
「當國の幹了しき者を取りて」――その国の有能な者を選んで長に任じる。中央から派遣するのではなく、現地の人物を用いるということで、これは律令制の郡司(在地の豪族から任じられた)に近い。素行の目のつけどころは鋭い。
小林の「今では市長や町村長は人民の方で選ぶ」という注記も、講義が語られた時代を映している(もっとも当時の市長は市会の推薦により内務大臣が任命する形で、直接公選ではなかった)。
史実としては、成務朝の国造制の成立は六世紀ごろとみられており、記紀の年代のままには受け取れない。
中國章 十六(承)日の縱と日の横、影面と背面底本 二七〇〜二七一頁
原文
五年秋九月。隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日横。山陽曰影面。山陰曰背面。
訓読
五年秋九月、山河を隔てて國縣を分ち、阡陌に隨ひて以て邑里を定む。因りて東西を以て日の縱と爲し、南北を日の横と爲す。山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで五年の秋九月に至って、また方々の山や川の区劃を立て、それから國の境いを一層明かにし、そうして「阡陌に随い」――「阡陌」というのは縦の通りと横の通りであります。即ち道の順に従って村を区別したのであります。
それで前にもあったように、東から西の通りを「日の縦」、即ち太陽の運り行く道である、というのでこれを「日の縦」と言い、それから南北は前にもあったように、日が南に中する時には其処らが一番明るいのでありますから、それで南北を「日の横」――日の横の通りという意味で此の名を附けました。
それで凡て山の南の方を「影面」即ち日の光りに向いて居る所といい、それから山の北の方は「背面」即ち日の光りに背いて居る所というような名を附けました。
詰り國中の区劃を明かに致して、地方を治める所の道をシッカリと定めたのであります。
解説
「日の縱」「日の横」「影面」「背面」――方位を日の運行で呼ぶ。その五(ck76)ですでに扱われた語だが、ここでは区画の制という文脈で再び出てくる。
影面(かげとも)・背面(そとも)は現に地名として残っている。山城・山背、木曽の妻籠・馬籠の「籠」も同系の語とされる。方位が土地の名として定着しているという、この章が好む「名から実を読む」実例である。
もっとも「東西を日の縱、南北を日の横とする」という素行の説明は、今日の感覚とは逆に響く。日の運行の線を「縦(たて)」と呼び、それに直交する線を「横」と呼ぶ、という命名で、紙の上の縦横ではなく、太陽を基準にした縦横である。
中國章 十六(承)中央だけが榮えても、國は健全に發達しない底本 二七一頁
原文
是爲中區之藩屏也。
訓読
是を中區の藩屏と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の事は非常に大切なことであります。兎角に都の生活が余り発達し過ぎて、地方を軽くあまく視るということがあると、其の國は健全な発達をしないのであります。
後に至って都が京都に遷ってから、藤原氏一族が非常に栄華を極めまして、殆んど京都以外のことを考えないようになりました。其等の人々は京都に住まって非常に華やかな生活をして、音楽を奏したり歌を詠んだりというようなことばかりをやって居って、地方の人民がどういう苦しみを受けても殆んど顧みないという位になったのですが、これが詰り藤原氏が勢力を失って、江戸武家天下になる本であるのであります。
それからまた武家天下がズット続いて徳川時代になりますと、江戸の人は自ら其の華やかな生活に誇って地方の者を眼の下に見て居った。彼等は田舎者だというようなことで、全く馬鹿にして居った。其の結果はどうであったかと言うと、江戸の風俗は華やかになったけれども、
解説
この冊でいちばん意外な一段。ここまで皇室中心に語ってきた小林が、突然中央と地方の力関係という、きわめて現実的な政治の話を始める。
「都の生活が余り発達し過ぎて、地方を軽くあまく視るということがあると、其の國は健全な発達をしない」――これは素行の按語にはない、小林自身の見立てである。しかも藤原氏の栄華 → 武家への権力移動、江戸の華美 → 地方の武士の台頭という、二段構えの歴史観になっている。
この見方は史実としても筋が通る。摂関期の受領層から武士が育ち、幕末の雄藩は薩摩・長州・土佐・肥前――いずれも江戸から遠い外様であった。中央の文化的繁栄が周縁の実力を育てるというのは、比較史のうえでもよく指摘される現象である。
ただしこの論は諸刃の剣でもある。同じ論理を延ばせば、皇室と京都もまた「中央」として批判の対象になりうる。小林はそこまでは踏み込まない。
中國章 十六(承)維新の大事業を成したのは地方の武士であつた底本 二七二頁
原文
是爲中區之藩屏也。
訓読
是を中區の藩屏と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
武士の気風は概して非常に懦弱になり、遂に維新の大事業を成したのは、江戸の武士ではなくて、江戸の人に田舎者として嘲けられて居った地方の武士であった。斯ういうような事実を見ますと、中央に無暗に力を集めてしまうということは、國を健全にする途でないということがよく解るのであります。
それで昔の勝れた天子様が、ただ都にのみいらっしゃらないで地方をよく御巡幸になって、そうして地方を発達せしむることに特に力をお尽しになったのは、実に尊いことでありまして、後世の者もこれを仰いでお手本としなければならぬと思われるのであります。
今日なども何れかと言うと都が栄え過ぎて、地方の実力が乏しくなって行くような憂いがあるのでありますが、國の前途を憂うる人は、余ほど此の点に意を用いなければならぬかと思われます。これは附けたりの話でありますけれども、チャウド昔の此の事実が今の吾吾の戒めとして洵に結構なことであると思うので申添えた訳であります。
解説
「これは附けたりの話でありますけれども」――小林自身が脱線と断っている。だが、この冊でもっとも読む価値のある脱線である。
「中央に無暗に力を集めてしまうということは、國を健全にする途でない」。そして「今日なども何れかと言うと都が栄え過ぎて、地方の実力が乏しくなって行くような憂いがある」。この講義が語られたのは昭和十年代、東京への一極集中がすでに問題として語られていた時期である。八十年以上たって、この一句はいっそう現実味を増している。
その七(ck104〜ck107)のヴェルサイユの餘談と並んで、小林が講義の枠を離れて自分の言葉で語っている数少ない箇所であり、輪読ではよく響くところだろう。
なお「昔の勝れた天子様が地方をよく御巡幸になった」という部分は、素行が引く景行天皇の「東海を巡狩す」を受けている。脱線に見えて、原文にはきちんと戻っている。
中國章 十六(結)邊要の警備 ── 陸奧・出羽・佐渡・對馬・多褹底本 二七二〜二七三頁
原文
謹按。天下之邊要。逮帝其制相成。蓋邊要者。天下之藩屏也。四邊唯以陸奧出羽佐渡對馬多褹。爲邊要國。
訓読
謹んで按ずるに、天下の邊要、帝に逮びて其の制相成る。蓋し邊要は天下の藩屏なり。四邊は唯だ陸奧、出羽、佐渡、對馬、多褹を以て邊要の國と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで素行が更に申しますには、神武天皇以来だんだん國は発達致して来ましたが、まだまだ中央の力が地方に充分に及んで居なかったのであります。それで此の成務天皇の時になりましてから、國々の地方にも然るべき者が任命されて、日本全國が統一的に治まるようになったのであります。
元来「邊要」即ち各地方というものは、「天下の藩屏」即ち中央を護る所である。地方が発達しなければ國の実力は充実しない。國の実力が充実しなければ、中央の都ばかり栄えて居っても、其の國の本当の発展というものは出来ないのでありますから、それで各地方の力を以て中央を護るというようにしなければならぬのであります。
また其の地方の中でもズット遠い所は、例えば陸奥とか、出羽とか、佐渡とか、対馬とか、種子が島とかいうような所は日本の國の果てであるから、此処が他の國と日本の國との境いになるので、此処を充分に護って置けば、外國の侵略というものはない訳でありますから、此等の地方にまでチャント制度を立てる必要があるのであります。
解説
素行が挙げる五つの辺要国――陸奥・出羽・佐渡・対馬・多褹(種子島)。北の二国、日本海の一島、西の一島、南の一島。四方の端を具体的な地名で押さえている。
律令制では陸奥・出羽・佐渡・壱岐・対馬・日向・大隅・薩摩などが「辺要国」とされ、防人や城柵が置かれた。素行の列挙はそれに近いが、完全に一致するわけではない。
「邊要は天下の藩屏なり」――辺境こそが国全体を守る垣である。この一句が、前段の小林の「中央と地方」論と正面から響き合う。素行の側にも、周縁を軽く見ない視点があることが、ここではっきりする。
なお佐渡が「辺要」とされるのは、対岸の大陸・半島との関係を意識してのことである。日本海は古代においては障壁ではなく通路だった。
中國章 十六(結)鎭西府と鎭守府 ── 異域の襲來に備へ、蝦夷の跋扈を征す底本 二七三〜二七四頁
原文
以太宰府鎭守府。爲藩鎭所。鎭西府者。備異域之襲來。鎭守府者。征蝦夷之跋扈。異域竟不得侵邊境。蝦夷數寇東藩。故有國守。有將軍。有兩國按察使府秋田城介。
訓読
太宰府、鎭守府を以て藩鎭所と爲す。鎭西府は異域の襲來に備へ、鎭守府は蝦夷の跋扈を征す。異域は竟に邊境を侵すことを得ず、蝦夷は數東藩に寇せり。故に國守あり、將軍あり。兩國按察使府、秋田城介あり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで後になっては大体他の未開の國などとの関係を考えて、西の方を抑えるために太宰府というものを九州に置かれ、それから東の方を抑えるために鎮守府というものを奥羽地方に置かれました。これは詰り未開の國に王室の御威光に服さないような者があった場合に、これを制する所の設備であります。
それで「鎮西府」というのは即ち太宰府のことでありますが、此の鎮西府というものは「異域」即ち朝鮮や支那等の國の日本に来襲するのに備えるためであります。それから鎮守府というものは東の方の蝦夷、即ち未開の者共の跋扈するのを抑え付ける為めであります。
其の中で「異域」即ち支那や朝鮮は日本の武力の充実して居ることを知ったと見えて、國を侵して来るということはなかったのであります。謂わゆる鎮西府というものはあったが、鎮西府が主となって外國と戦争をするということはなかったのであります。
然るに東の方の蝦夷は、しばしば叛いたものであるから、そこで鎮守府に於てこれを鎮圧するということもしばしばあったのであります。一体東の方は何分にも文化の程度も低いし、日本の國の本当の性質などもよく知らない者が多いものであるから、動もすれば自分の力を恃んで叛くということがありましたから、陸奥、出羽には國守というものがあり、また別に將軍があって、謂わゆる鎮守府の將軍というものが任命せられ、尚ほ其の他に「両國」即ち陸奥出羽の二つの國をよく取締る所の按察使府というものがあり、また秋田には秋田城介というものがあって、それぞれ東方の國々を管理し、また謀叛などする者がある時には之を打平らげるとの任に当ったのであります。
解説
素行の記述はここで一気に具体的になる。太宰府(鎮西府)と鎮守府、国守、将軍、按察使、秋田城介――官職の名がそのまま並ぶ。素行が兵学者であったことを思い出させる箇所である。
「異域は竟に邊境を侵すことを得ず」――この一句は、その四(ck69)で扱った元寇の記述とつながる。ただし白村江(六六三年)、刀伊の入寇(一〇一九年)、元寇(一二七四・八一年)と、実際には外からの攻撃も来襲もあった。「竟に侵すことを得ず」は結果を見た言い方である。
読むときの注意。「東の方は文化の程度も低い」という小林の言い方は、その四(ck65)で牛羊や毛皮の暮らしを「気の毒な状態」と読んだのと同じ型である。異なる生業を、欠乏として読む。蝦夷と呼ばれた人々は狩猟・採集と交易に長けた社会を営んでおり、「低い」のではなく「別の」文化だった。
秋田城介は後に武門の名誉職となり、鎌倉幕府では安達氏が世襲した。辺境の職が、中央の権威の象徴に転化した例である。
中國章 十六(結)信夫郡以南の租税、苅田以北の稻穀 ── 常に五千人の兵底本 二七四頁
原文
以信夫郡以南租税。充國府之公廨。以苅田以北稻穀。充鎭府之兵糧。常置五千人兵。運送許多兵器。是鎭邊要也。
訓読
信夫郡以南の租税を以て國府の公廨に充て、苅田以北の稻穀を以て鎭府の兵糧に充て、常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ邊要を鎭むるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから其の費用はどうしたかと言うと、「信夫郡」というのは陸奥ですが、陸奥の信夫郡以南の地方の租税を以て此の國府の費用に充て、それから苅田郡以北の穀物を以て鎮守府の兵糧に充てるというような制度になって居まして、此の鎮守府に於ては常に五千人の兵を置き、また武器等も充分に中央から送ってあって、一朝戦争があっても少しも不自由のないように平生から其の用意を立てて置いたのであります。
斯様にして「邊要を鎮す」即ち地方を平和に治めるということの土台が立って居たのであります。
解説
財源が名指しで書かれている。信夫郡(今の福島市あたり)以南の租税は国府の経費に、苅田(刈田郡、今の宮城県南部)以北の穀物は鎮守府の兵糧に。南で集めた税で役所を、北で集めた米で軍を養うという切り分けである。
この記述は『延喜式』などに見える陸奥国の財政の実態とおおむね対応する。辺境の軍事は現地の生産で賄われた――中央からの持ち出しではなく、征討される地から徴った物で征討が続いたということでもある。
「常に五千人の兵を置き」という数字も具体的である。素行が引くこの種の数字は、その四 ck69 の元寇「三人」のような誇張とは違って、制度の記録に基づいている。兵学者としての素行が、いちばん本領を発揮している箇所と言ってよい。
中國章 十六(結)各地方の弊 ── 吏務の奸謀、邊民恨を含むの事底本 二七四〜二七五頁
原文
凡承平之治。王化之澤。無不浴。而邊境之廣。遠人之信。必異教殊風。故其弊或盜賊劫竊。入山據險。或因吏務之奸謀。邊民含恨之事。未嘗無之。
訓読
凡そ承平の治、王化の澤、浴せざるなし。而して邊境の廣き、遠人の信、必ず教を異にし風を殊にす。故に其の弊或は盜賊劫竊し、山に入り險に據り、或は吏務の奸謀に因る。邊民恨を含むの事、未だ嘗て之れなきにあらず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体に、地方というものは広々として、中央との交通もそう頻繁でないから、銘々風俗習慣というものが異うのであります。それであるから動もすれば地方の者が自分の地方のことばかりを考えて、國の統一的に繁昌して行くなどということに考えの及ばない者が多い。
そういう考えの足らぬ者が力に任せて人の物を取ったり、或は山の中へ入ったり、嶮岨に拠ったりして謀叛をするというようにもなる。そればかりならばまだ宜しいけれども、地方の役人の中の考えの足らぬ者が、そういうような力のある者と内応して、いろいろな策略を構えて、國の統一的に治まる妨げをするという場合もしばしばあるのであります。
そうなると地方の者と中央との連絡が付かなくなるから、それで天子は本當に國をよくお治めになって、國民全体を幸福にしようというお考えであるけれども、其の御趣意がよく解らないで、地方の人民などは中央に対して怨みを懐いて、其の謀叛の者に与するというようなことも時としては起るのであります。
解説
この段でもっとも重い一句。素行は反乱の原因を二つに分けて書く。一つは盜賊が山に入り険に拠ること。もう一つは「吏務の奸謀に因る」――役人の側の不正である。
そして「邊民恨を含むの事、未だ嘗て之れなきにあらず」。辺境の民が恨みを抱いた例は、これまでにないわけではない。統治する側の非を、素行がはっきり書いている。
これは、この読本で何度も見てきた「叛く者が悪い」という一方向の語り(ck125・ck127・ck133)とは、明らかに向きが違う。素行自身が、自分の枠組みの外に手を伸ばしている箇所である。
史実の側から言えば、まさにそのとおりであった。宝亀十一年(七八〇)の伊治呰麻呂の乱は、按察使紀広純らの扱いに対する反発から起きたとされ、元慶二年(八七八)の元慶の乱も秋田城司の苛政が引き金だったと『三代実録』は記す。素行の一句は、記録に裏づけられている。
中國章 十六(結)豈忽にすべけんや ── 上古の聖戒底本 二七五頁
原文
故擇吏幹之才。詳巡察之使。以安邊疆。是上古之聖戒也。豈可忽乎。
以上、守邊要之備。
訓読
故に吏幹の才を擇び、巡察の使を詳らかにし、以て邊疆を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈忽にすべけんや。
以上は邊要を守るの備なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから其の地方を治める所の役人というものは責任が非常に重いので、殊に其の実力の勝れた者を選ばなければなりませぬ。
又其の役人は暇のある毎に方々をよく視て歩いて、どういう風にしたら本当によく治まるかという計画を立てて、そうして國境を安んずることに努むべきであります。斯ういうように地方を大切にしなければならぬということが、昔の勝れた天子様のお考えで、これを以て後世に手本をお示しになったのでありますから、後世と雖も此のことを軽々しくしてはならないのであります。
此処にはただ是れだけのことしか言ってありませぬけれども、チャウド素行の時代が徳川幕府の勢力の隆盛になった時代でありまして、前に申すように江戸が非常に繁昌したものでありますから、兎角に中央の繁昌に心驕って、地方のことを軽く視るという風になり易かったのであります。
それ等のことをも考えて、地方を忽せにしてはならないという此の警戒的の言葉を申したことと思われるのであります。何時の時代に於てもこれは最も肝要なことであります。
解説
第十四段から第十六段までの結び。素行は最後に「吏幹の才を擇び、巡察の使を詳らかにす」――有能な役人を選び、巡察をきちんとする――という、きわめて実務的な処方を出して、「豈忽にすべけんや」と念を押す。
そして小林の読みが良い。素行がこれを書いたのは、江戸が繁栄の絶頂にあった時代だった。中央の繁栄に驕って地方を軽く見る風潮への警告として、素行はこの一段を書いたのではないか――と。素行の文を、素行の時代に置いて読むという、この講義ではあまり見られない読み方である。
『中朝事實』は寛文九年(一六六九)、素行が赤穂に配流されていたときの著作である。中央(江戸)から遠ざけられた地で、辺境の重要を説いた――そう考えると、この段はいっそう味わい深い。
「何時の時代に於てもこれは最も肝要なことであります。」――講義の締めくくりとして、そのまま今日にも届く一句である。
次の段からは、話が宗廟・社稷へ移る。