中國章 八崇神帝、四道將軍を命ず ── 戎夷とは誰か底本 二二八頁
原文
崇神帝十年七月。選群卿遣四方。同年十月。命四道將軍。以平戎夷之狀。
謹按。是中國分四道之始也。此時王化未習。故有此命也。
訓読
崇神帝の十年七月、群卿を選びて四方に遣はす。同年十月、四道將軍に命じ、戎夷を平ぐるの狀を以てす。
謹んで按ずるに、是れ中國を四道に分つの始めなり。此の時王化未だ習はず、故に此の命ありたるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
崇神天皇の十年七月に、民を導くの道は教化に在りという御趣意から、「群卿を選びて」――多勢の臣下の中で殊に勝れた人を選んで、四方にお遣わしになるという御詔がありました。そうして此の年の十月に、四道將軍というものを正式に御命令になって、そうして「戎夷」とは教化に従わない者をいうので、これは別に外國という意味ではありませぬ。同じ日本の國民であっても、まだ天皇の教化に従わないで、恣まに其の地方に割拠して居った者がありますから、斯ういう者を平げて、其の結果を朝廷に奏上するように命ぜられたのであります。
解説
第八段。崇神天皇の四道將軍――北陸・東海・西道・丹波の四方に将軍を遣わした記事(『日本書紀』崇神十年)から、行政区画の起源を説く。
注目すべきは「戎夷」の解釈である。小林ははっきりと「これは別に外國という意味ではありませぬ」と断り、まだ教化に従わず地方に割拠していた同じ日本の国民だとする。
この章の他の箇所(その四 ck61〜ck63)では、同じ「四夷」「戎狄」が中国周辺の異民族を指して使われていた。同じ章の中で語の指す範囲が変わることになる。
もっとも、これは素行の混乱というより、「戎夷」がもともと「教化の外にある者」という機能的な語であって、外国人を指す固有名ではないことによる。中華の枠組みを借りながら、その中身を自国の内側にも適用している。
中國章 八(承)敎へて解らない者には已むを得ず制裁を加ふ底本 二二八〜二二九頁
原文
以平戎夷之狀。此時王化未習。故有此命也。
訓読
戎夷を平ぐるの狀を以てす。此の時王化未だ習はず、故に此の命ありたるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
無論、教化に従わなければ之を懲らさなければならぬのでありますけれども、併しながら要するにこれは、天子様のお心持をよく理解しないからのことであるから、決してこれを憎んではならないのであります。それで崇神天皇は、先ず此の人民を教化しなければならぬということを仰せられました。
それで之を教えて其の過ちを慎しむようになれば宜しいが、併し幾ら教えても解らない者は、已むを得ないから武力を以てこれに制裁を加えなければならぬという御趣意なのであります。
是れは吾が國が外國に対する態度と全く同じことでありまして、出来るだけ平和の道に依るのであるが、平和の道に依っても正しい道理を弁えない者に出逢えば、已むを得ないから武力を以てこれを懲らし、そうして彼の反省を促すということになるのであります。これは古今を通じて同じ方針であるということを、忘れてはならない訳であります。
解説
この講義が置かれた時代を、もっともはっきり示す一段。
前半は素行の議論の範囲内である。「教化が先、武力は已むを得ざる場合」という順序、そして「決してこれを憎んではならない」という限定。賞罰章十四節「刑罰は已むを得ざるに出づ」と同じ立場である(『中朝事實』十二・賞罰章 十四節)。
問題は後半である。「是れは吾が國が外國に対する態度と全く同じことであります」――国内の教化の話を、そのまま当時の対外行動に重ねる。素行の原文にはこの一句はない。
その二の ck28(「他の國の人民と戦いを交える場合でも…間違った者は改めさせ」)とまったく同じ論法で、教化を名とした武力行使の正当化になっている。相手の側に立てば、これは介入を徳の名で語るものにほかならない。
素行を読むためではなく、この講義が置かれた時代を読むために、そのまま残した。
中國章 八(結)王化未だ習はず ── 民を撫育することが大切であるけれども底本 二二九頁
原文
是中國分四道之始也。此時王化未習。故有此命也。
訓読
是れ中國を四道に分つの始めなり。此の時王化未だ習はず、故に此の命ありたるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
またこれに就いて素行が考えを述べて申しますには、此の四道將軍を遣わされたということが、詰り我が國に於て東西南北の四つの道を分けるということの始めであって、これからだんだんに天子の御威光が普く國内に伸びて行った訳であります。
此の時はまだ我が國の創業以後余り久しく経たないで、「王化未だ習はず」――天皇が本当に國民全体の幸福を図って政治をなさるという御趣意が徹底して居なかった。そこで已むを得ず此の將軍を遣わして、心得の足らぬ者を懲らすというようなことにもなったのであります。
凡そ一國を本当に盛んにするのには、民を撫育するということが大切であるけれども、併し不心得な者があって他に多くの禍いをなせば、折角正しい心得を持った者が自分の仕事に励もうと思っても、其の仕事に励むことが出来ないから、已むを得ずして武力を以て之を制裁するということにもなるのでありまして、これは其の一つの著しい例と申して宜しいのであります。
解説
「王化未だ習はず」――教化がまだ行き渡っていない。だから武力に頼らざるを得なかった、という時期の限定である。
素行の議論の枠としては筋が通っている。教化が及ばない段階だからこそ起きたことであって、恒常的な方針ではない、と読める。
小林の説明も同じ方向で、「民を撫育するということが大切であるけれども」と、まず撫育を置く。武力は他の者の仕事を妨げる者への対処として、限定的に位置づけられている。
前段(ck73)の対外への拡張を除けば、ここまでは賞罰章の刑罰論――刑は已むを得ざるに出づ、そして懲らすためではなく勧めるため――の枠内にとどまっている。
中國章 九成務帝、山河を隔てて國縣を分つ ── 邑里國境の區分底本 二二九〜二三一頁
原文
成務帝五年秋九月。隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。
謹按。是中國分國境。定諸道之始也。蓋景行帝五十五年。以彦狹島王拜東山道十五國都督。則東山道等之名旣在前朝也。──崇峻帝二年。有東山北陸東海觀察使。此時或定七道乎。及孝德帝。定新式。始有五畿七道制。
訓読
成務帝の五年秋九月、山河を隔てゝ國縣を分ち、阡陌に隨つて以て邑里を定む。因りて東西を以て日縱と爲し、南北を日横と爲す。山の陽を影面と曰ひ、山の陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。
謹んで按ずるに、是れ中國に國境を分ち、諸道を定むるの始めなり。蓋し景行帝の五十五年、彦狹島王を以て東山道十五國の都督に拜す。則ち東山道等の名は旣に前朝に在り。(崇峻帝の二年、東山、北陸、東海の觀察使あり。此の時或いは七道を定めしか。孝德帝に及んで新式を定め、始めて五畿七道の制あり)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから成務天皇の五年秋九月に、山と河との区別を立てて、一々これに名称を与え、それから國と縣とをも分けまして、其の名称を定められました。それから其の地方に各々「阡陌」――というのはいろいろな部落を分けまして、其の部落の大きさをそれぞれ制定して、「邑里を定む」――即ち村の名称等をも定められたのであります。
解説
第九段。成務天皇の国縣・邑里の制(『日本書紀』成務五年)。前段の四道將軍が軍事的な平定だったのに対し、こちらは行政区画の整備である。
素行はここで行政区画の起源を段階的に追う。成務朝に国縣が分かれ、景行朝にすでに東山道の名があり、崇峻朝に観察使が置かれ、孝德朝(大化改新)に五畿七道が定まる。
制度は一挙にできるのではなく、時をかけて整う――この見方は、その三の ck47「易しい所から始めて時間をかけて広げる」、附録「或疑」四節「草昧の始、禮の全備を求むべからず」と同じである(『中朝事實』十五・或疑 四節)。
中國章 九(承)日の縱と日の横、影面と背面底本 二三一頁
原文
因以東西爲日縱。南北爲日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。
訓読
因りて東西を以て日縱と爲し、南北を日横と爲す。山の陽を影面と曰ひ、山の陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで大体部落が定まり、其の間に道を通ずるのには、日は東より西に向うものであるから、西と東というものをつまり日の縦と考え、それから日が南に中した時には一番日の光りが強いというような所から、南と北とを日の横と考え、謂わゆる縦と横というものの区別を定められたのであります。
そこで、凡て山の南に当る土地は「影の面」と名けられた。「影」というのは日の光りのことで、日の光りを表面に受ける方の土地という意味であります。それから山の北の方は、其の日の光りに背く所、日の光りに直接に向わない所という訳であります。
斯ういう訳で、方々の地方の区別も立ち、また其の地方を中央の都に依って統一するという制度も定まったものでありますから、「百姓安居して」――人民がみな其の処に安んじて、天下が泰平に治まったと申すのであります。
解説
方角の呼び名を、太陽の運行から説く。東西=日の縦(日が渡る方向)、南北=日の横。山の南=影面(日を受ける面)、北=背面。
「影」を「日の光り」の意に取るのが要点である。現在の「かげ」は光の遮られた側を指すが、古語の「かげ」は光そのものを意味した(「月かげ」「日かげ」)。小林の説明は正確である。
行政区画が太陽の運行を基準に定められたという点に、この段の面白さがある。天先章以来の「天の道が人の道の本になる」という主題が、地図の引き方にまで及んでいる。
中國章 九(承)身の臂を使ひ、臂の指を使ふが如し ── 北辰其の所に居る底本 二三一頁
原文
凡村里以統縣。縣以統郡。郡以統國。國以統道。是自一及十。自十歸一。猶身使臂。臂使指。一元氣周還四支百骸。故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。畿內之制明。則七道隨風而正。是乃北辰居其所。而衆星共之也。畿內者。王室之小天下也。
訓読
凡そ村里は以て縣に統べ、縣は以て郡に統べ、郡は以て國に統べ、國は以て道に統ぶ。是れ一より十に及び、十より一に歸す。猶ほ身は臂を使ひ、臂は指を使ひ、一元氣四支百骸を周還するがごとし。故に天下の大なる、四海の遠きも、王化通ぜざる無く、正朔受けざる無し。王畿は七道の以て之を宗とする所にして、畿内の制明らかなれば、則ち七道風に隨ひて正し。是れ乃ち北辰其の所に居りて衆星之に共ふなり。畿内は王室の小天下なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
まずだんだんに建國以来年月が多く経ちますので、國内の整頓も出来まして、國内の人民が各々其の処に安んずるという時代になった訳であります。
解説
この段でもっとも印象的な比喩。村里→縣→郡→國→道と積み上がる仕組みを、「身は臂を使ひ、臂は指を使ふ」――体が腕を、腕が指を動かすのになぞらえる。
そして「是れ一より十に及び、十より一に歸す」。中央から広がり、また中央に戻る。一方通行ではなく循環として捉えているのが眼目である。
結びは『論語』爲政篇「北辰其の所に居りて衆星之に共ふ」。北極星は動かないが、その周りを星々が巡る。徳による統治は、動かずして人を動かすという思想である。
ここでも枠組みは漢籍、素材は自国の制度という『中朝事實』の作り方が働いている。天先章の結び(kt43)で小林自身が指摘したとおりである。
中國章 九(承)地方の秩序統一 ── 景行・崇峻・孝德と漸を逐うて底本 二三二頁
原文
蓋景行帝五十五年。以彦狹島王拜東山道十五國都督。則東山道等之名旣在前朝也。崇峻帝二年。有東山北陸東海觀察使。此時或定七道乎。及孝德帝。定新式。始有五畿七道制。
訓読
蓋し景行帝の五十五年、彦狹島王を以て東山道十五國の都督に拜す。則ち東山道等の名は旣に前朝に在り。崇峻帝の二年、東山、北陸、東海の觀察使あり。此の時或いは七道を定めしか。孝德帝に及んで新式を定め、始めて五畿七道の制あり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで素行が尚ほこれに就いて自分の意見を述べて申しますには、此の成務天皇の時に方々の地方の制度を正しく立てられたということが、即ち我が國に於て國境いを分ったり、それから東海道とか東山道とかいうように、道というものを定められた初めであります。後に五畿七道ということになったのでありますが、此の五畿七道というものの区別が、此の時に立った発端であると考えられるのであります。
尤も前に景行天皇の五十五年に、彦狹島王という方が東山道十五箇國の都督となって、此の地方の平和を保つ所の大切な任務に当られたということがあります。そうして見ると、東山道という名は既に此の成務天皇より以前からあったということは明かであります。
尚ほまたズット後のことまでも考えて見ますと、崇峻天皇の二年に、東山・北陸・東海という三箇道をよく視察して其の地方の平和を図る為めに、観察使というものを命ぜられたということもありますから、此の崇峻天皇の時には既に畿内以外に七道というものを定められたものであろうかと考えられる。
それから孝德天皇の時には、謂わゆる大化という改新というものがありまして、國内の制度の殆んど凡てに亙って大改革を加えられました。それで新しく地方の区別などをもお定めになって、此の時には明かに五畿七道が立ったということが、記録に見えて居るのであります。
解説
制度の成立を、一点ではなく過程として追う一段。
素行の按語は「東山道等の名は旣に前朝に在り」と、成務朝が起点だとする自説をみずから相対化している。景行朝にすでに名があり、崇峻朝に観察使が置かれ、孝德朝に制度として定まった。
これは史料に即した手つきである。中國章の他の箇所では名から実を大胆に読み込んできた素行が、制度史になると急に慎重になる。記録がある事柄では記録に従う――その使い分けが見える箇所である。
末尾の「何事でもなかなか急に出来ることではない、漸を逐うて」(次段に続く)が、この段の結論になる。
中國章 九(承)脈絡貫通の要 ── 一より十に及び、十より一に歸す底本 二三二〜二三三頁
原文
凡村里以統縣。縣以統郡。郡以統國。國以統道。是自一及十。自十歸一。猶身使臂。臂使指。一元氣周還四支百骸。
訓読
凡そ村里は以て縣に統べ、縣は以て郡に統べ、郡は以て國に統べ、國は以て道に統ぶ。是れ一より十に及び、十より一に歸す。猶ほ身は臂を使ひ、臂は指を使ひ、一元氣四支百骸を周還するがごとし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
何事でもなかなか急に出来ることではないのでありまして、漸を逐うて此の全國の区別も立ち、また其の統一ということも行われるようになったものと見えるのであります。
先ず斯ういうように区別が立ちまして、村やまた部落などが縣というもので統一され、それから縣の沢山あるのが郡に依って統一され、郡の沢山あるのが國というもので統一され、國の沢山あるのが道――即ち東海道とか東山道とかいうものに依って統一される。斯ういうようになって、凡ての系統というものが立ったのであります。
それで之をスッカリ統一するものが國の都であるということでありますから、即ち「一より十に及び、また十より一に帰する」――即ち一つが本となって方々に分れ、また分れたものが一つの中央の都に依って纏められると、斯うなったのであります。
チョウド身体が臂を使い、臂が指を使うので、元気が身体中に運って、頭の上から爪先までよく血の循って居る通りに、精力も通じ合って居るので、人間は達者に育つように、日本の國が斯ういうようにだんだんと統一を具えるようになったということは、國力の発展する根本が立ったものと見るべきであります。
解説
「漸を逐うて」――前段の結論がここで言い直される。制度は一挙にできない。
そして体の比喩が展開される。小林は素行の「身使臂、臂使指」に血のめぐりを加えて説く。「元気が身体中に運って、頭の上から爪先までよく血の循って居る通りに、精力も通じ合って居る」。
国家を有機体になぞらえる見方は近代の国家論にも通じるが、ここでの力点は統制ではなく通じ合うことにある。
末尾の「國土が広くても立派な國とは謂えない」(次段)は、その四で論じた外朝の五失(領土が広すぎて守れない)と対をなしている。広さではなく、通じ合っているかどうかが国の強さだ、という主張である。
中國章 九(承)畿内は王室の小天下なり ── 都の治め方が良ければ底本 二三三頁
原文
故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。畿內之制明。則七道隨風而正。畿內者。王室之小天下也。
訓読
故に天下の大なる、四海の遠きも、王化通ぜざる無く、正朔受けざる無し。王畿は七道の以て之を宗とする所にして、畿内の制明らかなれば、則ち七道風に隨ひて正し。畿内は王室の小天下なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
國土が広くても、統一が具わって居なければ立派な國とは謂えないのであります。斯ういう訳であるから、天下が非常に広く、四海の遠きに至るまでも皇室のお心持が徹底的に解って、そうして「正朔」――即ち國の制度というものに従わない者は一人もなくなったのであります。
それで「王畿」――即ち畿内というものは「七道の宗とする所」――七道がこれに依って統一される所である。それであるから、畿内は先ず小天下と申して宜しい。畿内が正しく治まれば國中がよく治まるし、畿内の治め方が間違って来れば地方もよく治まらないのでありますから、畿内が即ち全國の手本となるというように考えて宜しいのであります。
殊に此の都を治めるということが最も肝要なので、都の治め方が良ければ、他は風に随うてこれに倣うというようになって参るのであります。
解説
「畿内は王室の小天下なり」――都をよく治めることが、そのまま天下を治めることになる。
これは『大學』の八条目――修身・齊家・治國・平天下――と同じ構造である。近いところから正していけば遠くに及ぶ。化功章七節「治敎の道は、内より外に及び、近きを先にして遠きを後にす」とも一続きである(『中朝事實』十四・化功章 七節)。
小林の「都の治め方が良ければ、他は風に随うてこれに倣う」という言い方も、『論語』顏淵篇の「君子の德は風、小人の德は草。草之に風を上ふれば必ず偃す」を踏まえる。
この読本が底本とする『大學』の構造が、ここでも顔を出している。
中國章 九(結)萬世の規模 ── 之に因りて以て損益す底本 二三四頁
原文
土之制。百姓安居。天下始無事。萬世因之以損益焉。帝之功不亦大哉。聖帝詳水土之制。
以上、論分道境之始。
訓読
土の制、百姓安居して天下始めて無事なり。萬世之に因りて以て損益す。帝の功も亦大ならずや。聖帝水土の制を詳らかにす。
以上、道境を分つの始めを論ず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
譬えて言えば、空にある星の中で北の方の北斗星というものが真ん中にあると、他の星がみなこれに向って居るというのと同じことであって、此の都に天皇がいらしって、天皇のお徳を以て全國の民を悉く心服せしむるようになる訳であります。
それであるから、此の國内の制度を立てるということが非常に大切で、此の時は成務天皇の如き勝れた天子様が上にいらしって、國中の様子を審かにお調べになって、そうして多勢の人をして其の処に安んぜしめ、天下が無事になったのであります。
それで後の世に至っても之に基いて、其の場合々々に適切な設備を整えて行くので、時代が異えばソックリ元の通りで治めるということは出来ないのでありますけれども、大体は昔のやり方に依って、これを其の場合に依って多少損益し、止めて宜しい所は止めるし、また新規に補わなければならぬ所は補うというように致しまして、之に依って國が本当に治まって行くのであります。
其の根本をお建てになったのが成務天皇でありますから、成務天皇のお骨折りというものも実に偉大なものであって、天下後世永く其の恵みを受けると申すべきであります。
解説
第九段の結び。眼目は「萬世之に因りて以て損益す」――後の世は、これを土台にして加減する。
小林の言い換えが明快である。「時代が異えばソックリ元の通りで治めるということは出来ない…止めて宜しい所は止めるし、新規に補わなければならぬ所は補う」。
これは附録「或疑」二十節「禮に一定の則ありて、一定の事なし」――変わらない原理と変わってよい形――そのものである(『中朝事實』十五・或疑 二十節)。制度の話でこの原則が具体的に語られている。
「損益」は『論語』爲政篇「殷は夏の禮に因る、損益する所知るべきなり」による語。受け継ぎながら加減するという、儒学の制度観の中心にある言葉である。
中國章 十六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲む底本 二三四〜二三六頁
原文
神武帝東征己未年。下令曰。當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇。不亦可乎。觀夫畝傍山──畝傍山。此云宇禰縻夜摩──東南橿原地者。蓋國之墺區乎。不治之。即命有司。經始帝都。
先人曰。帝繼神代之蹤。都日向國宮崎。墺區猶言最中也。四方土可居也。區。物可止藏也。
訓読
神武帝東征の己未の年、令を下して曰く、當に山林を披き拂ひ、宮室を經營りて、恭みて寶位に臨み、以て元元を鎭むべし。上は則ち乾靈の國を授くるの德に答へ、下は則ち皇孫の正を養ふの心を弘めむ。然る後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲むこと、亦可からずや。夫の畝傍山(畝傍山、此をば宇禰縻夜摩と云ふ)東南橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區か。之に治るべしと。即ち有司に命じて帝都を經始む。
先人曰く、帝神代の蹤を繼ぎ、日向國宮崎に都すと。墺區は猶ほ最中と言ふがごとし。墺は四方の土の居るべきなり。區は物を止藏すべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
神武天皇は日向を発して大和にお向いになって、七年の歳月を費して大和地方を御平定になった。そこで「己未の年」――即ち御即位の前年でありますが、此の時、詔を降して仰せられるのには、
大和地方もモウスッカリ平定したから、これから天皇の在らっしゃる所の皇宮を此処に建てなければならぬ。即ち山林を伐り開いて、そうして其の処に建物を立派に建て、其の宮の中央に天子の寶位を置いて、天子は其の寶位に臨んで人民を治める所の本を定めようと思う。
解説
第十段。『日本書紀』神武即位前紀の詔――のちに「八紘一宇」として近代に持ち出されることになる一句を含む段である。
原文の意味は「六合(天地四方)を一つにまとめて都を開き、八紘(八方の果て)を覆って一つの家とする」。『日本書紀』の文脈では、神武天皇が大和に都を定めるにあたっての言葉であり、対象は国内である。
読むときの注意。「八紘一宇」という四字熟語は、大正期に田中智学が『日本書紀』のこの句から作った造語で、昭和期には対外膨張の標語として用いられた。『日本書紀』にも素行にも、そのような四字の語はない。素行の按語も「是れ中州都を營むの初めなり」と、あくまで都の造営として読んでいる。
この語が後にどう使われたかと、ここで書かれていることとは、分けて読む必要がある。
中國章 十(承)乾靈の德に答へ、皇孫の正を養ふの心を弘む底本 二三六頁
原文
上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。
訓読
上は則ち乾靈の國を授くるの德に答へ、下は則ち皇孫の正を養ふの心を弘めむ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これが即ち「乾靈」――即ち天照大神が此の國を治める為めに皇孫をお降しになった御趣意に答える道である。また此の皇孫瓊瓊杵尊が日向にお降りになって後に、正しい道を以て人民をお治めになり、國民の心がみな正しき道を尊ぶようになったから、此の心持を更に國中に弘めて、日本全國を正しい國にしなければならぬ。
此の政治を行う所の中心が都であるから、此の都に天子の宮を建てて、日本全國を正しい國にしなければならぬ。
解説
「皇孫の正を養ふの心を弘む」――その三の ck40・ck41 で説かれた「養正の事業」が、ここで神武天皇自身の詔として現れる。
日向で養った「正」を、都を定めて全国に広げる。力ではなく正を養い、それを広げるという筋が、東征の始めから都の造営まで一貫していることになる。
上は天照大神の徳に答え、下は皇孫の心を広める――上下の二方向で理由を挙げるのも、素行に一貫した二本立ての論法である。
中國章 十(承)墺區とは最中の意 ── 四方の土の居るべき所底本 二三五頁
原文
觀夫畝傍山東南橿原地者。蓋國之墺區乎。不治之。即命有司。經始帝都。
墺區猶言最中也。四方土可居也。區。物可止藏也。
訓読
夫の畝傍山東南橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區か。之に治るべしと。即ち有司に命じて帝都を經始む。
墺區は猶ほ最中と言ふがごとし。墺は四方の土の居るべきなり。區は物を止藏すべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうように中央の都がチャンと定まった後には、「六合を兼ねて都を開く」――國中を残らず統一すべき所の都というものがここに建って、そうして「八紘を掩う」――即ち天下を悉く天子の家として、徳を以て万民を化し、軈ては日本が中心となって他の國々もみな日本の徳に懐くというような時代の来ることを理想として、政治を執ろうと思うのである。
就いては、畝傍山の東南の橿原という所が洵に地形といい、また周囲との関係といい、「國の墺區」――國の中央とするのに適当であるから、彼処を中心として天子の在らっしゃる所の御殿を建て、そうして都を経営しようと、斯う仰せられた。斯くして多勢の役人に命じて、此の橿原の宮というものをお建てになり、またそこの都を経営する所の事業を、だんだんとお進めになったということであります。
解説
「墺區」――素行は割注で「最中と言ふがごとし。墺は四方の土の居るべきなり。區は物を止藏すべきなり」と説く。四方の土地が寄り集まり、物が収まる場所。
ここでも「中」である。中國章の「中」は、天地の中(その二 ck26)、中庸の中(その二 ck33)、そして都の中(ここ)と、規模を変えながら繰り返し現れる。国土の中に都があり、都の中に宮があり、宮の中に寶位がある――入れ子になった中心。
その二の ck11 で「國中は中國なり」と読まれた「中」が、ここで具体的な土地の選定にまで降りてきている。
中國章 十(承)元元は「おほむたから」 ── 民を國の寶と仰せらる底本 二三七頁
原文
而恭臨寶位。以鎭元元。
訓読
恭みて寶位に臨み、以て元元を鎭む。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これは大体、日本書紀の文に依ったものと思われるのでありますが、此の中に「元元」という漢字を「おほむたから」と読ませてあるのが、特に注意しなければならぬ所で、「元元」というのは人民全体をいうのであります。或は支那の言葉で「蒼生」とも書いてありますが、要するに地位身分の如何を問わず、國の民たる者を悉く「元元」若しくは「蒼生」と言うのであります。
之を日本の言葉で「おほむたから」というので、「おほむたから」というのは、前にも何かの場合に申したと思いますが、大きな宝ということで、即ち國は人民の力を本にして栄えて行くのであるから、天子よりして人民を宝と仰せられるのであります。
國民が自ら、自分達が居なければ國は盛んにならないなどということを言うのではない。天皇から、人民が居なければ國は盛んにならぬと思召されて、民を國の宝と仰せられるのであります。此の事は國民として、何より有難いことであります。
解説
この冊でもっとも印象に残る一段。「元元」の二字に付けられた訓「おほみたから(大御寶)」に、小林は特に注意を促す。
「國は人民の力を本にして栄えて行くのであるから、天子よりして人民を宝と仰せられる」――民が自分で言うのではなく、上から民を宝と呼ぶ。そこに意味がある、と。
これは素行の一貫した立場でもある。聖政章二節「政の要は民心と習俗とを察するに在り」、賞罰章十三節「情の恆なり」――統治は民の実情の上に立つ。
「大御寶」は『日本書紀』以来の古い訓で、民を財として数える語ではなく、大切に守るべきものとして呼ぶ語である。天先章 kt11 の「どういう地位に居る者でも皆人として価値がある」と、この一句とは響き合っている。
中國章 十(承)宮崎の都 ── 先づ或る一地方に基礎を造る底本 二三八頁
原文
先人曰。帝繼神代之蹤。都日向國宮崎。
訓読
先人曰く、帝神代の蹤を繼ぎ、日向國宮崎に都すと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
でありますから、実にこれは光栄の至りでありまして、日本の國民たる者は、此の光栄を空しくしないように努めるということが最も肝要と思われるのであります。
また此の前に、日向の國宮崎に都されたということもありますが、此の日向の國の宮崎に都されたというのも、神代に於ける神々のお心持に基いたので、即ち國の全体の発展を図るのには、先ず或る一地方に於て、國を治むべき所の基礎を造らなければならぬのでありますから、それで宮崎に都を奠められまして、此処で東に発展していらっしゃる所の根本の力をお養いになったものと、斯う考えられるのであります。
解説
日向の宮崎に都を置いたことの意味を、もう一度確かめる。「先ず或る一地方に於て、國を治むべき所の基礎を造らなければならぬ」。
その三の ck47「易に因つて其の極を建つ」――易しい所から始めて時間をかけて広げる――と同じ論法である。中國章では、この順序を守るという主題が何度も現れる。
力の及ぶところから始めて、固まってから広げる。一挙にやろうとしない――附録「或疑」五節の卵の比喩とも通じている(『中朝事實』十五・或疑 五節)。
中國章 十(結)墺と區 ── 區劃を立て、周圍を統一する中心を作る底本 二三八頁
原文
謹按。是中州營都之初也。墺區猶言最中也。四方土可居也。區。物可止藏也。
訓読
謹んで按ずるに、是れ中州に都を營むの初めなり。墺區は猶ほ最中と言ふがごとし。墺は四方の土の居るべきなり。區は物を止藏すべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから尚ほ素行がこれに就いて自分の意見を述べて申しますには、此の神武天皇が橿原に都されたということが、我が國に於て帝都を造るということの初めである。
「墺」というのは其の辺りの土地がみな住むのに適して居るということ、それから「區」というのは、そこに区劃を立て、そうしてよく周囲を治めて行き、周囲を統一する中心を作るという意味なのであります。ここに「墺區」とあるのは、最中という意味に解すべきであります。
神武天皇は日本國中の人民を尽く平らかに治めて、みなが大いに発展するように善き政治を行うということが、御自分の責任であると思召され、そうして天照大神が皇孫を此の土にお降しになって、此の日本の國全体の國民が安らかになるようにと思召された、其の思召の尊いことを固くお守りになった。
此の國を永久に善い國にしなければならぬということを深くお感じになって、よく其の時機をもお考えになり、國中の各地の様子なども充分お調べになって、後世の範というものをお定めになったのであります。
解説
第十段の結び。「墺」=住むに適した土地、「區」=区劃を立てて周囲を統一する中心。二字を分けて解く、素行らしい読み方である。
結びで「よく其の時機をもお考えになり、國中の各地の様子なども充分お調べになって」と、時機と実地の調査が挙げられているのに注目したい。
神武天皇の事業を神意の実現としてだけでなく、時機を計り、土地を調べたうえでの判断として描く。聖政章十三節「その水土を知りて以て風俗を考へ」と同じ、素行の実際的な統治観である。