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中朝事實 八(聖政章)

山鹿素行 著 ── 政の要は、民心と習俗とを察するに在り 原文・訓読・現代語訳・解説の四層

この読本について

『中朝事實』第八章、聖政章です。前章までが天地・国土・皇統・神器・教育・統治・人材を論じたのに対し、本章は政令そのもの――何を、いつ、どう定めるか――を論じます。

冒頭に置かれるのは神武天皇の建都の詔ですが、素行が抜き出すのはこの一句です。「大人制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民に利あらば、何ぞ聖造に妨げあらん」。制度は時に従って変えてよく、判定の基準は民の利にある。そのうえで彼は本章の主題を宣言します――「政の要は、民心と習俗とを察するに在り」。

以下、政令の実例が時代順に並びます。三種の神寶を大殿に安置した祭祀、崇神朝の四方への使者派遣と正朔、推古朝の憲法から天武・文武朝の律令へ、垂仁天皇が殉死を止めた詔、景行朝の巡狩、仁徳朝に河神へ人身供犠を求められた茨田連衫子の話、成務朝の国郡制、清寧朝の風俗巡省、顕宗朝の農桑の詔。そして最後に、「政教法令は德の末にして、形よりも下のものではないか」という疑いを立てて、それに答えて章を閉じます。

読みどころ。本章には素行の合理的な一面がよく出ています。殉死を止めた垂仁天皇を賞し、人身供犠を退けた衫子を賞し、「妖神を殺すは夷狄の習俗なり」と言い切る。祭祀を重んずる書でありながら、迷信と祭祀とをはっきり分けているのが本章の特徴です。

翻刻について。原文・訓読文は廣瀬豊編『山鹿素行全集 思想篇 第十三巻』の影印からの文字起こしに目視校正を加えたものです。旧字体・異体字を含む古い活字のため、なお誤りが残っている可能性があります。現代語訳と解説はこの読本のために新たに書き起こしたものです。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

聖政(せいせい)
聖なる政。素行は本章で「政令の始め」から説き起こし、制度・法令・祭祀・巡狩・農桑にまで及ぶ。
民心と習俗(みんしんとしゅうぞく)
本章の中心語。「民心は天の人心なり、習俗は人皆習つて以て俗と爲すなり」。政の要はこの二つを察することにあると素行は言い切る。
舊染(きゅうせん)
古くからの染まりぐせ。『書經』胤征に「舊染の汚俗、咸な與に惟れ新たにせん」とある。
正朔(せいさく)
天子の定めた暦。「天下皆正朔を受くるは、その天に事ふること同じくするなり」。
王化(おうか)
君主の徳による感化。素行は「王化は習はざれば民と教と異にす」と、教化が習俗にならなければ意味がないとする。
殉(じゅん)
殉死。人を生きたまま亡き主に従わせること。垂仁天皇がこれを止め、野見宿禰の献策で埴輪に代えた。
俑(よう)
副葬の人形。『孟子』梁惠王上に孔子の「始めて俑を作る者は、其れ後無からんか」の語がある。素行は日中の副葬習俗を対比する。
巡狩(じゅんしゅ)
天子が諸国を巡って風俗を観、政の実情を見ること。
巡省(じゅんせい)
使者を遣わして諸国の風俗を巡り視ること。清寧天皇三年の例を素行は引く。
國史(こくし)
国ごとに置かれた、事を記す官。素行は成務朝をその始めとする。
祭事を以て政の字に訓ず(さいじをもってせいのじにくんず)
本章第十四節の語。日本語で「政」を「まつりごと」と読むのは、祭祀と政事とが義を一つにするからだ、とする素行の読み。
形の下(かたちのしも)
『易經』繫辭上「形而下なる者、これを器と謂ふ」。目に見える器物の側。政教法令を「德の末にして形の下」と貶める議論を、素行は第十六節で退ける。
權衡・繩墨(けんこう・じょうぼく)
はかりと墨縄。制度が正しく明らかであれば軽重・曲直をごまかせない、という比喩に用いられる。

登場する神・人物

神武天皇(じんむてんのう)
己未年の詔で「大人制を立つるは、義必ず時に隨ふ」と述べ、本章の原則を示した。
崇神天皇(すじんてんのう)
十年、群卿を四方に遣わして教えを施した。素行はこれを「行人を発して教を四方に施すの始」とする。
垂仁天皇(すいにんてんのう)
二十八年、殉死を止める詔を下し、三十二年に野見宿禰の献策で埴輪をもって殉に代えた。
野見宿禰(のみのすくね)
出雲から土部を召して埴輪を作らせ、殉死に代えることを献じた。土師氏の祖。
景行天皇(けいこうてんのう)
十二年に筑紫へ行幸し、西方の諸侯を観、風俗を正して制度を定めた。巡狩の始めとされる。
茨田連衫子(まむたのむらじころものこ)
仁徳天皇十一年、河神に人身供犠を求められたが、瓠(ひさご)を沈めてみよと言って神を退けた。
推古天皇(すいこてんのう)
聖徳太子が憲法十七条を定めた。
文武天皇(もんむてんのう)
淡海公(藤原不比等)に勅して律令を撰ばせた。
清寧天皇(せいねいてんのう)
三年、使者を遣わして諸国の風俗を巡り視させた。
顯宗天皇(けんぞうてんのう)
元年、詔して農桑を勧め、按語に「人一日もこれなきときは則ち苦しむ」と評された。

聖政章 一義は必ず時に隨ふ
原文
神武帝己未年、春三月辛酉朔、丁卯、下令曰、今運屬此屯蒙、民心朴素、巢栖穴住、習俗惟常、夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造、

訓読
神武帝じんむていの己未つちのとひつじの年とし、春はる三月さんぐわつ辛酉かのととりの朔ついたち、丁卯ひのとう、令れいを下くだして曰のたまはく、今いま運うんはこの屯蒙とんもうに屬あひ、民心みんしん朴素ぼくそにして、巢すに栖すみ穴あなに住すみ、習俗しふぞく惟これ常つねなり。夫それ大人たいじん制せいを立たつるは、義ぎ必かならず時ときに隨したがふ。苟いやしくも民たみに利りあらば、何なんぞ聖造せいざうに妨さまたげあらん。

現代語訳
神武天皇の己未の年、春三月辛酉の朔、丁卯の日、令を下して言われた。「いま時運はこの未明のさなかにあたり、民の心は素朴で、巣に棲み穴に住み、習俗はそのままである。そもそも大人が制度を立てるにあたっては、その筋道は必ず時に従う。かりにも民に利があるならば、聖なる造営に何の妨げがあろうか」。

解説
中國章では「壞區」の語を、神治章では「治道を諭する始め」を取り出した同じ詔から、聖政章は「義必隨時」「苟有利民」の八字だけを抜き出す。制度は時に従って変えてよい/判定の基準は民の利にある――この二つが本章の全体を貫く原則になる。

聖政章 二政の要は、民心と習俗とを察するに在り
原文
謹按、是政令之始也、民心者、天之人心也、習俗者、人皆習以爲俗也、言、天下屯蒙、而人詐偽穴居野處以爲習俗、今帝建極、以正天下之體、新其舊俗、故於此詔、新其舊染、又大也、人心之朴素、易染善惡以成、人君立政、明教率之、則得之也、蓋政之要在察民心與習俗、人心必與俗而化成、風俗成在習熟之久、習熟久則民不識其然、故曰、政之要在察民心與習俗、此章可謂盡政教之大體也、

訓読
謹つつしみて按あんずるに、是これ政令せいれいの始はじめなり。民心みんしんは、天てんの人心じんしんなり。習俗しふぞくは、人ひと皆みな習ならつて以もつて俗ぞくと爲なすなり。言いふところは、天下てんか屯蒙とんもうにして、人ひと詐偽さぎして穴居野處けつきよやしよし、以もつて習俗しふぞくと爲なす。今いま帝てい極きよくを建たて、以もつて天下てんかの體たいを正ただし、その舊俗きうぞくを新あらたにす。故ゆゑにこの詔みことのりに於おいて、その舊染きうせんを新あらたにす。又また大だいなり。人心じんしんの朴素ぼくそなるは、善惡ぜんあくに染そまり易やすくして以もつて成なる。人君じんくん政まつりごとを立たて、明教めいけうこれを率ひきゐれば、則すなはちこれを得うるなり。蓋けだし政まつりごとの要えうは民心みんしんと習俗しふぞくとを察さつするに在あり。人心じんしんは必かならず俗ぞくと與ともに化成くわせいす。風俗ふうぞくの成なるは習熟しふじゆくの久ひさしきに在あり。習熟しふじゆく久ひさしきときは則すなはち民たみその然しかるを識しらず。故ゆゑに曰いふ、政まつりごとの要えうは民心みんしんと習俗しふぞくとを察さつするに在ありと。この章しやうは政教せいけうの大體たいたいを盡つくすと謂いふべし。

現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが政令のはじめである。民心とは、天が与えた人の心である。習俗とは、人がみな習って俗としたものである。言おうとするところはこうである。天下がまだ未明のさなかにあって、人は偽りをなし穴に住み野に暮らして、それを習俗としていた。いま天皇が極を建てて天下の体を正し、その旧い俗を新たにされた。だからこの詔において、その古い染まりぐせを新たにされたのである。これもまた大きなことである。人の心が素朴であるということは、善にも悪にも染まりやすくてそのまま形になるということである。君主が政を立て、明らかな教えでこれを率いれば、これを得ることができる。思うに政の要は、民心と習俗とを察することにある。人の心は必ず俗とともに変化して形になる。風俗が成るのは、習い熟することが久しいからである。習い熟することが久しければ、民はそうなっている理由を意識しない。だからいう、政の要は民心と習俗とを察することにあると。この章は政治と教化の大体を尽くすといってよい。

解説
本章の主題文である。素行の洞察は鋭い――「習熟久しきときは則ち民その然るを識らず」。習慣が長く続くと、人はなぜそうしているのかを意識しなくなる。だから政を行う者は、民の心と習俗を「察する」ことから始めねばならない。自序の「久しくして狃るればなり」(見慣れると分からなくなる)が、統治の場面に置き直されている。

聖政章 三三種の神寶を大殿に安置す
原文
四年、春二月壬戌朔、甲申詔曰、我皇祖之靈、自天降鑒、光助朕躬、今諸虜已平、海內無事、可以郊祀天神、用申大孝者也、乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原、用祭皇祖天神焉、
先人曰、神武天皇定都於大和國橿原、時以三種神寶、安置大殿、床同殿共、如往古神勅、宮中無庫藏、官物・神物無差別、

訓読
四年しねん、春はる二月にぐわつ壬戌みづのえいぬの朔ついたち、甲申きのえさる、詔みことのりして曰のたまはく、我わが皇祖くわうその靈みたま、天あめより降くだり鑒みて、朕ちんが躬みを光てらし助たすけたまへり。今いま諸虜しよりよ已すでに平たひらぎ、海內かいだい事ことなし。以もつて天神てんじんを郊祀かうしして、用もつて大孝たいかうを申のぶべき者ものなりと。乃すなはち靈畤まつりのにはを鳥見山とみやまの中なかに立たて、その地ところを號なづけて上小野榛原かみつをののはりはら・下小野榛原しもつをののはりはらと曰いふ。用もつて皇祖天神くわうそてんじんを祭まつりたまふ。
先人せんじん曰いはく、神武天皇じんむてんわう都みやこを大和國やまとのくに橿原かしはらに定さだめたまふ。時ときに三種みくさの神寶かむだからを以もつて、大殿おほとのに安置あんちし、床ゆかを同おなじくし殿とのを共ともにすること、往古わうこの神勅しんちよくの如ごとし。宮中きゆうちゆうに庫藏くらをさむるなく、官物つかさもの・神物かむだからに差別しやべつなし。

現代語訳
四年、春二月壬戌の朔、甲申の日、詔して言われた。「わが皇祖の御霊が、天から降り見そなわして、朕の身を照らし助けられた。いま諸々の敵はすでに平らぎ、天下に事はない。天神を郊で祀って、大いなる孝を申し述べるべきである」。そこで霊畤を鳥見山のなかに立て、その地を名づけて上小野榛原・下小野榛原といった。それによって皇祖天神を祀られた。
先人はいう。神武天皇は都を大和國橿原にお定めになった。そのとき三種の神寶を大殿に安置し、床を同じくし殿を共にすること、往古の神勅のとおりであった。宮中に別に蔵はなく、官の物と神の物とに区別がなかった、と。

解説
祭祀を政の第一に置く。神器章第十五節でも引かれた記事だが、ここでは「官物・神物に差別なし」――政と祭がまだ分かれていなかった状態が強調される。次節の按語がその意味を説く。

聖政章 四天下の政事は郊祀宗廟の祭祀より大なるはなし
原文
謹按、天下之政事、莫大於郊社宗廟之祭祀、夫人君以天地爲父母、況帝承乾靈天孫之統、以臨四海乎、蓋交神之道在誠、至誠以求之、則無不感、故往古神祇之祭祀、朝廷之政事、不二其義、深哉、凡主祭祀者、皆執朝政、如天種子命・神八井耳命、其後蒼生亦至誠以求祭祀、至誠以感、

訓読
謹つつしみて按あんずるに、天下てんかの政事せいじは、郊社かうしや宗廟そうべうの祭祀さいしより大だいなるはなし。夫それ人君じんくんは天地てんちを以もつて父母ふぼと爲なす。況いはんや帝ていは乾靈けんれい天孫てんそんの統とうを承うけて、以もつて四海しかいに臨のぞむをや。蓋けだし神かみに交まじはるの道みちは誠まことに在あり。至誠しせい以もつてこれを求もとむれば、則すなはち感かんぜざるなし。故ゆゑに往古わうこの神祇じんぎの祭祀さいし、朝廷てうていの政事せいじ、その義ぎを二ふたつにせず。深ふかき哉かな。凡およそ祭祀さいしを主つかさどる者ものは、皆みな朝政てうせいを執とる。天種子命あめのたねこのみこと・神八井耳命かむやゐみみのみことの如ごとし。

現代語訳
つつしんで考えてみるに、天下の政事は、郊社と宗廟の祭祀より大きなものはない。そもそも君主は天地を父母とする。まして天皇は天の神と天孫の統を承けて四海に臨まれるのだからなおさらである。思うに神と交わる道は誠にある。至誠をもってこれを求めれば、感じないということはない。だから往古においては、神祇の祭祀と朝廷の政事とは、その意味を二つにしなかった。深いことである。そもそも祭祀を掌る者は、みな朝廷の政を執った。天種子命・神八井耳命のようにである。

解説
祭祀と政事とは同じ一つの事である――「その義を二つにせず」。そしてその根拠は形式ではなく「神に交はるの道は誠に在り」という一点に置かれる。この「誠」が、後段で妖神への供犠を退ける根拠にもなる。祭祀を重んずることと、迷信を退けることとが、素行のなかでは同じ原理から出ている。

聖政章 五教を四方に施すの始 ── 正朔を受く
原文
崇神帝十年、秋七月丙戌朔、己酉、詔群卿曰、導民之本、在於敎化也、今旣禮神祇、災害皆耗、然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳、其選群卿、遣于四方、令知朕憲、
謹按、是發行人以施敎於四方之始也、導者、啓迪也、敎不至化、則民與敎異也、正朔者、王曆也、天下皆受正朔、同其事于天、正朔不受、則民殊俗、憲者、法也、憲章、以示人也、言、民皆有此心、敎化不明、則不盡其性、啓迪之在敎之化、曰敬鬼神與敬化民、其本不出至誠、

訓読
崇神帝すじんていの十年じふねん、秋あき七月しちぐわつ丙戌ひのえいぬの朔ついたち、己酉つちのととり、群卿まへつきみたちに詔みことのりして曰のたまはく、民たみを導みちびくの本もとは、敎化けうくわに在あるなり。今いま旣すでに神祇じんぎを禮ゐやまひ、災害さいがい皆みな耗つきぬ。然しかれども遠荒ゑんくわうの人等ひとら、猶なほ正朔せいさくを受うけず。是これ未いまだ王化わうくわに習ならはざるのみ。それ群卿まへつきみたちを選えらび、四方よもに遣つかはして、朕ちんが憲のりを知しらしめよと。
謹つつしみて按あんずるに、是これ行人かうじんを發はつして以もつて敎をしへを四方しはうに施ほどこすの始はじめなり。導だうは、啓迪けいてきなり。敎をしへ化くわに至いたらざれば、則すなはち民たみと敎をしへと異ことなるなり。正朔せいさくは、王曆わうれきなり。天下てんか皆みな正朔せいさくを受うくるは、その事ことを天てんに同おなじくするなり。正朔せいさく受うけざれば、則すなはち民たみ俗ぞくを殊ことにす。憲けんは、法ほふなり。憲章けんしやうは、以もつて人ひとに示しめすなり。言いふところは、民たみ皆みなこの心こころあり。敎化けうくわ明あきらかならざれば、則すなはちその性せいを盡つくさず。これを啓迪けいてきするは敎をしへの化くわに在あり。鬼神きしんを敬けいすると民たみを化くわするを敬けいすると曰いふ、その本もとは至誠しせいに出いでず。

現代語訳
崇神天皇十年、秋七月丙戌の朔、己酉の日、群卿に詔して言われた。「民を導く根本は、教化にある。いますでに神々を礼まい、災害はみな尽きた。しかし遠く荒れた地の人々は、なお暦を受けていない。これはまだ王の教化に習っていないだけである。群卿を選んで四方に遣わし、朕の法を知らせよ」。
つつしんで考えてみるに、これが使者を発して教えを四方に施すことのはじめである。「導」とは、ひらき導くことである。教えが人を変えるところまで至らなければ、民と教えとは別々のままである。「正朔」とは、王の暦である。天下がみな暦を受けるのは、その営みを天と同じくすることである。暦を受けなければ、民は習俗を異にする。「憲」とは、法である。「憲章」とは、それによって人に示すことである。言おうとするところはこうである。民にはみなこの心がある。教化が明らかでなければ、その性を尽くすことができない。これをひらき導くのは教えが人を変えるところにある。鬼神を敬うことと、民を教化することを敬うこととは、その根本において至誠から出るのである。

解説
「敎、化に至らざれば、則ち民と敎と異なるなり」――教えを出しただけでは足りない。人が変わるところまで至ってはじめて教化である。そして暦を受けるという行政的な事柄が「その事を天に同じくする」ことだと説かれる。暦の統一は、時間の共有であり、生活の同型化なのである。

聖政章 六憲法から律令へ
原文
及二十二年、敦化流行、衆庶樂業、皇庶既滿、人民皆知長幼之序課役之制、宜哉稽其至德乎、蓋迄後世、有巡察按察宣撫之法、以正其風俗制度、及推古帝、聖德太子定憲法、孝德帝詐天下之政制、天武帝定律令法式、文武帝朝淡海公奉勅撰律令、終帝之功、不亦大哉、

訓読
二十二年にじふにねんに及およびて、敦化とんくわ流行るかうし、衆庶しゆうしよ業げふを樂たのしむ。皇庶くわうしよ既すでに滿みち、人民じんみん皆みな長幼ちやういうの序じよ、課役かえきの制せいを知しる。宜むべなる哉かな、その至德しとくを稽かんがふるや。蓋けだし後世こうせいに迄いたるまで、巡察じゆんさつ・按察あぜち・宣撫せんぶの法ほふありて、以もつてその風俗ふうぞく制度せいどを正ただす。推古帝すゐこていに及およびて、聖德太子しやうとくたいし憲法けんぱふを定さだむ。孝德帝かうとくてい天下てんかの政制せいせいを詐さだむ。天武帝てんむてい律令りつりやう法式ほふしきを定さだむ。文武帝もんむていの朝てう淡海公たんかいこう勅ちよくを奉うけて律令りつりやうを撰えらぶ。帝ていの功こうを終をふる、亦また大だいならずや。

現代語訳
二十二年になって、篤い教化がゆきわたり、人々は仕事を楽しんだ。民は満ち足り、人民はみな長幼の序と課役の制とを知った。もっともなことである、その至徳を考えてみれば。思うに後の世に至るまで、巡察・按察・宣撫の法があって、それによって風俗と制度とを正した。推古天皇に至って、聖徳太子が憲法を定められた。孝徳天皇は天下の政治制度を定められた。天武天皇は律令と法式を定められた。文武天皇の御代には淡海公が勅を奉じて律令を撰ばれた。天皇の功を成しとげたこと、なんと大きいではないか。

解説
崇神朝の教化から、憲法十七条を経て、律令の完成までを一息に辿る。素行の関心は、教化が制度として定着してゆく過程にある。「人民皆長幼の序、課役の制を知る」――教えが知識になり、知識が制度になる、という順序である。

聖政章 七殉を止めよ ── 垂仁帝の詔
原文
垂仁帝二十八年、詔曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣、其雖古風之非良何從、自今以後、議之止殉、
三十二年、野見宿禰、作埴輪土物以獻之、是則民之父母之誠所擴充也、

訓読
垂仁帝すゐにんていの二十八年にじふはちねん、詔みことのりして曰のたまはく、夫それ生いけるを以もつて愛めでしところを、亡なき者ものに殉したがはしむるは、是これ甚はなはだ傷いたましきかな。それ古風こふうと雖いへども、良よからずんば何なんぞ從したがはん。今いまより以後いご、これを議はかりて殉じゆんを止とどめよと。
三十二年さんじふにねん、野見宿禰のみのすくね、埴輪はにわ土物つちものを作つくりて以もつてこれを獻たてまつる。是これ則すなはち民たみの父母ふぼたるの誠まことの擴充くわくじゆうするところなり。

現代語訳
垂仁天皇二十八年、詔して言われた。「そもそも生きている者、それも愛していた者を、亡くなった者に殉じさせるのは、まことに痛ましいことである。たとえ古くからの風であっても、よくないものにどうして従おうか。今より以後、これを議って殉死を止めよ」。
三十二年、野見宿禰が埴輪の土の物を作って献上した。これこそ民の父母たるまごころが押し広げられたところである。

解説
「その古風と雖も、良からずんば何ぞ從はん」――本章でもっとも力のある一句である。古いからといって従う理由にはならない。第一節の「義は必ず時に隨ふ」が、ここで具体的な廃止として実現する。伝統を重んずる書でありながら、悪しき伝統は断ち切るべきだと明言している点は、輪読で立ち止まる価値がある。

聖政章 八外朝は始め俑あり、遂に殉に至る
原文
謹按、殉者、以人殉亡者也、夫人君者、民之父母也、未有父母而不愛其子、殉亡者哀之過而愛之溢也、聖人立法、止殉之詔有之、三十二年、野見宿禰作埴輪土桓、以代之、是民之父母之誠擴充之所也、帝大之德、可謂大哉、蓋外朝始有俑、而其弊以至殉、以亂國、中國始有殉、而至作土物以止殉、其風俗之渾厚、可以見之也、

訓読
謹つつしみて按あんずるに、殉じゆんは、人ひとを以もつて亡なき者ものに殉したがはしむるなり。夫それ人君じんくんは、民たみの父母ふぼなり。未いまだ父母ふぼにしてその子こを愛あいせざるものはあらず。亡なき者ものに殉したがはしむるは、哀かなしみの過すぎて愛あいの溢あふるるなり。聖人せいじん法ほふを立たて、殉じゆんを止とどむるの詔みことのりこれあり。三十二年さんじふにねん、野見宿禰のみのすくね埴輪はにわ土桓どくわんを作つくりて、以もつてこれに代かふ。是これ民たみの父母ふぼたるの誠まことの擴充くわくじゆうするところなり。帝ていの大だいなる德とく、大だいなりと謂いふべき哉かな。蓋けだし外朝ぐわいてうは始はじめ俑ようあり、而しかしてその弊へい以もつて殉じゆんに至いたり、以もつて國くにを亂みだる。中國ちうごくは始はじめ殉じゆんあり、而しかして土物つちものを作つくりて以もつて殉じゆんを止とどむるに至いたる。その風俗ふうぞくの渾厚こんこう、以もつてこれを見みつべきなり。

現代語訳
つつしんで考えてみるに、殉とは、人を亡くなった者に従わせることである。そもそも君主は民の父母である。父母であってその子を愛さない者はいない。亡き者に殉じさせるのは、哀しみが度を過ぎて愛があふれたものである。聖人が法を立てて、殉を止める詔を出された。三十二年、野見宿禰が埴輪の土の垣を作って、これに代えた。これこそ民の父母たるまごころが押し広げられたところである。天皇の大いなる徳は、大きいというべきであろう。思うに外朝ははじめ俑があり、その弊がついに殉に至って、国を乱した。中國(日本)ははじめ殉があり、そして土の物を作って殉を止めるに至った。その風俗の渾然たる厚みは、これによって見てとれる。

解説
方向が逆だ、というのが素行の論点である。大陸は人形(俑)から始まって生きた人間の殉死に至った。日本は殉死から始まって人形(埴輪)に至った。同じ二つの要素をもちながら向かった方向が正反対だ、と。中國章の「五失」と同じ比較の型だが、ここでは残酷な習俗を廃したかどうかという、より普遍的な尺度が使われている。

聖政章 九巡狩の道 ── 西方の諸侯を觀る
原文
景行帝十二年、秋八月乙未朔、己酉、幸筑紫、
謹按、是巡狩之始也、此時觀西方之諸侯、以正其風俗、明制度、以定政事、此時天下大定、封域建、後至成務帝、縣邑之制・造長・首渠之法、竟定、天下猶一家、教化俗同、巡狩之道大哉、

訓読
景行帝けいかうていの十二年じふにねん、秋あき八月はちぐわつ乙未きのとひつじの朔ついたち、己酉つちのととり、筑紫つくしに幸いでます。
謹つつしみて按あんずるに、是これ巡狩じゆんしゆの始はじめなり。この時とき西方せいはうの諸侯しよこうを觀みて、以もつてその風俗ふうぞくを正ただし、制度せいどを明あきらかにし、以もつて政事せいじを定さだむ。この時とき天下てんか大おほいに定さだまり、封域はういき建たつ。後のち成務帝せいむていに至いたりて、縣邑けんいふの制せい・造長みやつこのをさ・首渠しゆきよの法ほふ、竟つひに定さだまり、天下てんか猶なほ一家いつかのごとく、教化けうくわ俗ぞくを同おなじくす。巡狩じゆんしゆの道みち大だいなる哉かな。

現代語訳
景行天皇十二年、秋八月乙未の朔、己酉の日、筑紫に行幸された。
つつしんで考えてみるに、これが巡狩のはじめである。このとき西方の諸侯を観て、その風俗を正し、制度を明らかにし、政事を定められた。このとき天下は大いに定まり、領域が建てられた。のちに成務天皇に至って、県邑の制、造長・首渠の法がついに定まり、天下はまるで一家のようになり、教化は俗を同じくした。巡狩の道は大きなことである。

解説
巡狩の要点は「観る」ことにある。諸侯を観、風俗を観る。第二節の「政の要は民心と習俗とを察するに在り」を、天皇みずから実行するのが巡狩である。報告を待つのではなく、行って見る――統治の情報をどう得るかという問題への、素行の答えである。

聖政章 十妖神を殺すは夷狄の習俗なり
原文
仁德帝十一年、武藏人强頸、河內人茨田連衫子二人、以禱于河神、
謹按、妖神殺人爲牲、是夷狄之習俗也、天孫未降之前、惡鬼妖怪之餘政也、蓋祭爲鬼神、非禮之祭、亨何河伯、嗟、可惑乎、夫帝之聰明俊德、天下之太平無事、豈思辨之不用、祭河伯以爲惑、然猶信鬼神之妖、其子之淺謀以殺神之妖、此失處在乎、人君不愼、豈可擧此一事以爲帝之政弊、

訓読
仁德帝にんとくていの十一年じふいちねん、武藏むさしの人ひと强頸こはくび、河內かふちの人ひと茨田連衫子まむたのむらじころものこ二人ふたり、以もつて河神かはのかみに禱いのる。
謹つつしみて按あんずるに、妖神えうしん人ひとを殺ころして牲いけにへと爲なすは、是これ夷狄いてきの習俗しふぞくなり。天孫てんそん未いまだ降くだらざるの前さき、惡鬼あくき妖怪えうくわいの餘政よせいなり。蓋けだし祭まつりは鬼神きしんの爲ためなるも、非禮ひれいの祭まつり、何なんぞ河伯かはくを亨まつらんや。嗟ああ、惑まどふべけんや。夫それ帝ていの聰明そうめい俊德しゆんとく、天下てんかの太平たいへい無事ぶじ、豈あに思辨しべんのこれを用もちひざらんや。河伯かはくを祭まつるを以もつて惑まどひと爲なす。人君じんくん愼つつしまざるべけんや。

現代語訳
仁徳天皇十一年、武蔵の人の强頸、河内の人の茨田連衫子の二人が、河の神に祈った。
つつしんで考えてみるに、妖しき神が人を殺して生贄とするのは、これは夷狄の習俗である。天孫がまだ降られる前の、悪鬼や妖怪の残した政である。思うに祭りは鬼神のためのものではあるが、礼にかなわない祭りにおいて、どうして河の神を祀ろうか。ああ、惑うべきことであろうか。そもそも天皇の聡明さと優れた徳、天下の太平無事において、どうして思慮分別を用いないことがあろうか。河の神を祀ることを惑いとする。君主は慎まないでいられようか。

解説
本章でもっとも合理的な一節。人身供犠を「夷狄の習俗」「悪鬼妖怪の餘政」と切って捨てる。『論語』の「その鬼に非ずして之を祭るは諂ふなり」を引いて、礼にかなわない祭りは祭りではないと言う。祭祀を政の第一に置いた第四節と矛盾しない――そこで示された基準が「至誠」だったからである。誠にもとづく祭祀と、恐れにもとづく供犠とは別物だというのが素行の立場である。

聖政章 十一國史を置くの始 ── 風俗を巡省す
原文
成務帝四年、秋八月辛卯朔、戊申、始於諸國置國史、記言事、達四方志、
謹按、是置國史之官也、史者記事之官也、言、上以記天子之敎令、下以記國郡之事、記言事、是置國史之始也、民之敎令、下以記國郡之事、令知國俗之化、以正其政也、後世國守之外、有目代等官、皆記國之事、以正其政、是也、
清寧帝三年、秋九月壬子朔、癸丑、遣臣連、巡省風俗、冬十月壬午朔、乙酉、詔大爲器、獻器大馬、
謹按、使臣之巡察者、政之恆也、而巡省風俗、是敎化所繫、其俗之大也、物至微而志者至大也、

訓読
成務帝せいむていの四年しねん、秋あき八月はちぐわつ辛卯かのとうの朔ついたち、戊申つちのえさる、始はじめて諸國しよこくに國史こくしを置おきて、言事げんじを記しるし、四方しはうの志しを達たつせしむ。
謹つつしみて按あんずるに、是これ國史こくしの官くわんを置おくなり。史しは事ことを記しるすの官くわんなり。言いふところは、上かみは以もつて天子てんしの敎令けうれいを記しるし、下しもは以もつて國郡こくぐんの事ことを記しるす。言事げんじを記しるす、是これ國史こくしを置おくの始はじめなり。國俗こくぞくの化くわを知しらしめ、以もつてその政まつりごとを正ただすなり。後世こうせい國守こくしゆの外ほか、目代もくだい等とうの官くわんありて、皆みな國くにの事ことを記しるし、以もつてその政まつりごとを正ただす、是これなり。
清寧帝せいねいていの三年さんねん、秋あき九月くぐわつ壬子みづのえねの朔ついたち、癸丑みづのとうし、臣連おみむらじを遣つかはして、風俗ふうぞくを巡省じゆんせいせしむ。
謹つつしみて按あんずるに、使臣ししんの巡察じゆんさつは、政まつりごとの恆つねなり。而しかして風俗ふうぞくを巡省じゆんせいするは、是これ敎化けうくわの繫かかるところ、その俗ぞくの大だいなるなり。物ものは至いたつて微びにして志こころざしは至いたつて大だいなり。

現代語訳
成務天皇四年、秋八月辛卯の朔、戊申の日、はじめて諸国に国史を置いて、言と事とを記させ、四方の志を届けさせられた。
つつしんで考えてみるに、これが国史の官を置くということである。史とは事を記す官である。言おうとするところは、上は天子の教令を記し、下は国郡の事を記す。言と事とを記す、これが国史を置くはじめである。国の習俗の変化を知らせて、その政を正すのである。後の世に国守のほかに目代などの官があって、みな国の事を記してその政を正した。これがそれである。
清寧天皇三年、秋九月壬子の朔、癸丑の日、臣連を遣わして風俗を巡り視させられた。
つつしんで考えてみるに、使者の巡察は政の常のことである。そして風俗を巡り視るのは、教化のかかるところであって、その習俗こそ大事なのである。物はきわめて微かでも、志はきわめて大きい。

解説
記録と視察――統治の情報をどう集めるか、という主題が続く。第九節の巡狩(天皇みずから行く)に対して、ここは国史(記録させる)と巡省(使者を出す)である。「物は至つて微にして志は至つて大なり」。日々の細かな記録に大きな志がかかっている、というのが素行の評価である。

聖政章 十二農桑を勸む ── 一日もこれなきときは苦しむ
原文
顯宗帝元年、詔曰、朕聞、士有當年而不耕者、則天下或受其飢矣、女有當年而不績者、天下或受其寒矣、故王親耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑業、況厥百寮、棄捐農績、而至殷富者乎、有司普告天下、令識朕懷、
謹按、凡天下之人物、未嘗無其事業、既有事業、則其成敗必繫于勤怠、農以養天下之飢、桑以防天下之寒、人一日無之則苦、故聖主賢后親耕親蠶、備嘗稼穡之艱難、勸勉天下之黎元、是人君父母子民之義也、帝錯志於政敎、即位元年有此詔、以告天下可勤其事業、百寮有司、豈可怠乎、

訓読
顯宗帝けんぞうていの元年ぐわんねん、詔みことのりして曰のたまはく、朕ちん聞きく、士しに當年たうねんにして耕たがやさざる者ものあれば、則すなはち天下てんか或あるひはその飢うゑを受うけん。女をんなに當年たうねんにして績うまざる者ものあれば、天下てんか或あるひはその寒さむきを受うけん。故ゆゑに王わう親みづから耕たがやして農業のうげふを勸すすめ、后妃こうひ親みづから蠶かひこして桑業さうげふを勸すすむ。況いはんやそれ百寮ひやくれう、農績のうせきを棄捐きえんして、殷富いんぷに至いたる者ものをや。有司いうし普あまねく天下てんかに告つげて、朕ちんが懷おもひを識しらしめよ。
謹つつしみて按あんずるに、凡およそ天下てんかの人物じんぶつ、未いまだ嘗かつてその事業じげふなくんばあらず。既すでに事業じげふあれば、則すなはちその成敗せいはい必かならず勤怠きんたいに繫かかる。農のうは以もつて天下てんかの飢うゑを養やしなひ、桑さうは以もつて天下てんかの寒さむきを防ふせぐ。人ひと一日いちにちもこれなきときは則すなはち苦くるしむ。故ゆゑに聖主せいしゆ賢后けんこう親みづから耕たがやし親みづから蠶かひこして、備つぶさに稼穡かしよくの艱難かんなんを嘗なめ、天下てんかの黎元れいげんを勸すすめ勉はげましたまふ。是これ人君じんくんの民たみに父母ふぼたるの義ぎなり。帝てい志こころざしを政敎せいけうに錯おきたまうて、即位そくゐの元年ぐわんねんにこの詔みことのりあり、天下てんかに告つぐるにその事業じげふを勤つとむべきを以もつてす。百寮ひやくれう有司いうし、豈あに怠おこたるべけんや。

現代語訳
顯宗天皇元年、詔して言われた。「朕は聞いている。男でその年に耕さない者があれば、天下は飢えを受けることがある。女でその年に糸を紡がない者があれば、天下は寒さを受けることがある。だから王はみずから耕して農業を勧め、后妃はみずから蚕を飼って桑の業を励ます。まして百官が農と紡績とを捨てておいて、富み栄えるということがあろうか。役人は広く天下に告げて、朕の思いを知らせよ」。
つつしんで考えてみるに、そもそも天下の人にはみな、その生業がなかったためしはない。すでに生業があれば、その成否は必ず勤めるか怠るかにかかる。農は天下の飢えを養い、桑は天下の寒さを防ぐ。人は一日でもこれがなければ苦しむ。だから聖なる君も賢い后も、みずから耕しみずから蚕を飼って、耕作の苦労をつぶさに味わい、天下の民を励まされた。これが君主が民の父母であるという意味である。天皇は志を政と教とに置かれ、即位の元年にこの詔があって、天下に告げるのにその生業に勤めるべきことをもってされた。百官も役人も、どうして怠ってよいだろうか。

解説
神治章の親耕・親蠶がここで詔として現れる。「人一日もこれなきときは則ち苦しむ」――農と桑とは、思想ではなく一日の生活である。素行はここから「人君の民に父母たるの義」を引き出す。父母であるとは、慈しむことではなく、みずから稼穡の艱難を嘗めることだ、というのがこの按語の含みである。

聖政章 十三以上、政敎の道を論ず ── 五つの「能く」
原文
以上論政敎之道、
謹按、政者在以誠、敎者在弘審、凡政敎之道、能察其時、以沿革損益、能知其水土、以考風俗、能通其人情、以節過不及、能詳其事物、以定制度、能明其大倫、以序禮用、而后敷省以化之、可謂聖神功用之極也、否乃或煩碎而不厚、或不敎而期化、竟不可得政敎之實也、

訓読
以上いじやう、政敎せいけうの道みちを論ろんず。
謹つつしみて按あんずるに、政まつりごとは誠まことを以もつてするに在あり、敎をしへは弘ひろめ審つまびらかにするに在あり。凡およそ政敎せいけうの道みちは、能よくその時ときを察さつして以もつて沿革えんかく損益そんえきし、能よくその水土すゐどを知しりて以もつて風俗ふうぞくを考かんがへ、能よくその人情にんじやうに通つうじて以もつて過不及くわふきふを節せつし、能よくその事物じぶつを詳つまびらかにして以もつて制度せいどを定さだめ、能よくその大倫たいりんを明あきらかにして以もつて禮用れいようを序じよし、而しかして后のちに敷しき省かへりみて以もつてこれを化くわす。聖神せいしん功用こうようの極きよくと謂いふべきなり。否しからざれば乃すなはち或あるひは煩碎はんさいにして厚あつからず、或あるひは敎をしへずして化くわを期きし、竟つひに政敎せいけうの實じつを得うべからず。

現代語訳
以上、政と教との道を論じた。
つつしんで考えてみるに、政は誠をもって行うことにあり、教は広め詳らかにすることにある。そもそも政と教との道は、その時代をよく見きわめて古きを継ぎ新しきを加減し、その土地の風土をよく知って習俗を考え、その人情によく通じて行きすぎと足りなさとを調節し、その事物をよく詳らかにして制度を定め、その大きな人倫をよく明らかにして礼の運用を順序立て、そのうえで施行し反省してこれを感化していく。聖なる神の働きのきわみと言ってよい。そうでなければ、こまごまと煩わしいばかりで手厚くなく、あるいは教えもしないで感化を期待して、結局は政と教との実を得ることができない。

解説
本章の総括。「政は誠に在り、敎は弘め審にするに在り」と二語で言い切ったうえで、五つの「能く」を並べる――時/水土/人情/事物/大倫。時代・風土・感情・事実・人倫の五つを知らずに制度だけ作るな、というのが素行の統治論である。ここまで本章が挙げてきた個々の記事は、この五つの実例だったことになる。

聖政章 十四祭事を以て政の字に訓ず ── 祭祀と政事とは義を一にす
原文
或疑、外朝聖人以政爲正也、今所解多在以政爲誠、何也、愚謂、中國以祭祀郊社宗廟爲政之要、故以祭事訓政字、是祭祀政事一義也、蓋祭祀者、主於誠、政事亦在人君之誠、政不以誠、則唯存條目而無綱領、日煩月勞而無敦化之功、是所以民免而無恥也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、外朝ぐわいてうの聖人せいじん、政まつりごとを以もつて正せいと爲なす。今いま解かいするところは多おほく政まつりごとを以もつて誠まことと爲なすに在あるは何なんぞやと。愚ぐ謂おもへらく、中國ちうごくは郊社かうしや宗廟そうべうを祭祀さいしするを以もつて政まつりごとの要えうと爲なす。故ゆゑに祭事さいじを以もつて政せいの字じに訓くんず。是これ祭祀さいしと政事せいじとは義ぎを一いつにすればなり。蓋けだし祭祀さいしは誠まことを主しゆとし、政事せいじも亦また人君じんくんの誠まことに在あり。政まつりごと誠まことを以もつてせざれば、則すなはち唯ただ條目でうもくを存そんして綱領かうりやうなく、日ひに煩わづらはしく月つきに勞らうして敦化とんくわの功こうなし。是これ民たみ免まぬかれて恥はぢなき所以ゆゑんなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「中国の聖人は政を『正』の意味に解している。ところがいまの解釈は多くの場合、政を『誠』としているのはなぜか」。私はこう考える。中国では郊社と宗廟とを祭ることを政の要とする。だから『政』の字を「まつりごと」──祭りごと──と訓ずるのである。これは祭祀と政事とが意味を一つにしているからである。思うに祭祀は誠を主とするし、政事もまた君主の誠にかかっている。政が誠によらなければ、ただ細目だけがあって大綱がなく、日に日に煩わしく月ごとに骨を折って、しかも人を厚く感化する功がない。これが「民は刑罰を免れることだけを考えて恥じる心を失う」ということの原因である。

解説
本章でもっとも有名な一節。「祭事を以て政の字に訓ず」――日本語の「まつりごと」が「祭り」と同語であることを、素行は偶然ではなく祭祀と政事とが義を一にする証拠として読む。中国の「政は正なり」(『論語』顏淵篇)に対して、日本の「政は祭なり」を置いたわけである。第四節「神に交はるの道は誠に在り」と、第十三節「政は誠を以てするに在り」とが、ここで一本に繫がる。

聖政章 十五誠の至れるや、鬼神も亦在すが如し
原文
惟誠之至、鬼神亦如在、況人民乎、以治國、其如示諸掌乎、然乃正誠之二義、更無間隔也、

訓読
惟ただ誠まことの至いたれるや、鬼神きしんも亦また在いますが如ごとし、況いはんや人民じんみんをや。以もつて國くにを治をさむる、それ諸これを掌たなごころに示しめすが如ごときか。然しからば乃すなはち正せい誠せいの二義にぎ、更さらに間隔かんかくすることなし。

現代語訳
ただ誠がきわまったときには、鬼神さえもそこにいますかのようである。まして人民においてはなおさらだ。それによって国を治めるのは、手の平を指し示すようにたやすいことであろう。そうであれば、「正」と「誠」との二つの意味は、まったく隔たるところがない。

解説
前節の問いへの答えの締めくくり。「正」と「誠」とは別の教えではない――誠がきわまれば、おのずと正しい。素行はここで中国の解釈を退けるのではなく、日本の「まつりごと」の語感のほうがより深く同じ一点を突いている、と言っているのである。

聖政章 十六或は疑ふ、政敎法令は德の末にして形の下なるものか
原文
或疑、政敎法令者德之末、而形之下乎、愚謂、否、有物必有則、有天下國家、必有政敎法令、政敎法令之外、豈有此德乎、明聖之主亦用之、愚昧之君亦用之、其利鈍煩簡、而治亂相因、共在此四者、四者正明、猶權衡設而不可欺以輕重、繩墨設而不可欺以曲直、否則平正・眞僞・邪正何能辨乎、

訓読
或あるひは疑うたがふ、政敎せいけう法令はふれいは德とくの末すゑにして、形かたちの下しもなるものかと。愚ぐ謂おもへらく、否いな。物ものあれば必かならず則のりあり、天下てんか國家こくかあれば必かならず政敎せいけう法令はふれいあり、政敎せいけう法令はふれいの外ほか、豈あにこの德とくあらんや。明聖めいせいの主しゆも亦またこれを用もちひ、愚昧ぐまいの君きみも亦またこれを用もちふ。その利鈍りどん煩簡はんかん、而しかして治亂ちらん相あひ因よる、共ともにこの四よつつの者ものに在あり。四よつつの者もの正明せいめいなるときは、猶なほ權衡けんかうを設まうけて欺あざむくに輕重けいちようを以もつてすべからず、繩墨じようぼくを設まうけて欺あざむくに曲直きよくちよくを以もつてすべからざるがごとし。否しからざれば、平正へいせい・眞僞しんぎ・邪正じやせい何なんぞ能よく辨べんぜんや。

現代語訳
ある人は疑って言う。「政や教や法令は、徳の末端であって、形而下のものではないか」。私はこう考える。そうではない。ものがあれば必ずその法則がある。天下国家があれば必ず政と教と法令とがある。政教法令の外に、いったいどこにその徳があろうか。聡明な君主もこれを用い、愚かな君主もこれを用いる。その切れ味の良し悪し、煩雑さと簡潔さ、そして治まると乱れるとが互いに因となるのは、ともにこの四つのものにかかっている。この四つが正しく明らかであれば、ちょうど秤を据えれば軽重をごまかせず、墨縄を張れば曲直をごまかせないようなものだ。そうでなければ、平らか正しいか、真か偽か、邪か正かを、どうして見分けることができようか。

解説
制度を「徳の末」として軽んじる議論への正面からの反論。素行は「政教法令の外に、豈にこの德あらんや」と言う。徳は制度の向こう側にあるのではなく、制度としてしか現れない。しかも制度は賢君も愚君も等しく用いる――だからこそ、権衡(はかり)や繩墨(墨縄)のように、それ自体が正しく明らかであることが要るのである。

聖政章 十七良工と器用 ── 鈍器を用ふれば筋を勞し骨を苦しむ
原文
或疑、政敎法令者、猶器用、人君修德則器用自利、否乃雖有器用不可乎、愚謂、雖良工無器用、則無施工之用、良工之爲良工、器用利而備也、如用鈍器、勞筋苦骨、竟不遂功也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、政敎せいけう法令はふれいは猶なほ器用きようのごとし。人君じんくん德とくを修をさむるときは器用きよう自おのづから利とし、否しからざれば乃すなはち器用きようありと雖いへども可かならざらんかと。愚ぐ謂おもへらく、良工りやうこうと雖いへども器用きようなきときは工こうを施ほどこすの用ようなく、良工りやうこうの良工りやうこうたるは器用きよう利とくして備そなはればなり。鈍器どんきを用もちふる如ごとくんば、筋すぢを勞らうし骨ほねを苦くるしめて竟つひに功こうを遂とげざるなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「政や教や法令は、道具のようなものだ。君主が徳を修めれば道具はおのずと切れ味がよくなり、そうでなければ道具があっても役に立たないのではないか」。私はこう考える。すぐれた工人であっても道具がなければ腕をふるいようがない。すぐれた工人がすぐれた工人でありうるのは、道具が切れて揃っているからである。なまくらな道具を使ったのでは、筋を疲れさせ骨を苦しめて、結局は仕事を仕上げられない。

解説
前節への追い討ち。「徳さえあれば道具は要らない」という反論を、良工と道具の比喩で崩す。良工が良工たるゆえんは、道具が切れて備わっているからだ――徳が先で制度が後、ではない。両方なければ何も切れない。同じ比喩は次節の「舟と水」に引き継がれる。

聖政章 十八舟と水 ── 二つの者相持して后に功化の實を談ずべし
原文
凡政敎法令之備也、猶乘舟濟大川、能水與不能、共檝而逸安、專以修德期其功、猶能水者恃己力以泅水濟、甚勞而少功、危而寡濟者、況不修德不以政敎法令、唯以私知妄作要治平之功、猶無舟之可乘技之可泅、恃力構私以入水、不溺而何待之乎、故治國平天下之要、不可出修身以正政敎、二者相持而后可談功化之實、中華往古聖主政敎之功、所著于舊紀不乏、後世襲之律之以祖述憲章、乃無爲過化之治、千萬世可蒙其澤也、

訓読
凡およそ政敎せいけう法令はふれいの備そなはるや、猶なほ舟ふねに乘のりて大川たいせんを濟わたるがごとし。水みづを能よくすると能よくせざると、共ともに檝かぢりて逸いつんじ安やすし。專もつぱら德とくを修をさむるを以もつてその功こうを期きするは、猶なほ水みづを能よくする者ものの己おのれが力ちからを恃たのみて以もつて水みづを泅およいで濟わたるがごとく、甚はなはだ勞らうして功こう少すくなく、危あやふくして濟わたる者もの寡すくなし。況いはんや德とくを修をさめず政敎せいけう法令はふれいを以もつてせずして、唯ただ私知しち妄作まうさくを以もつて治平ちへいの功こうを要もとむるは、猶なほ舟ふねの乘のるべく技わざの泅およぐべきなくして、力ちからを恃たのみ私わたくしを構かまへ、以もつて水みづに入いるがごとし。溺おぼれずして何なにをか待またんや。故ゆゑに治國ちこく平天下へいてんかの要えうは身みを修をさめて以もつて政敎せいけうを正ただしくするに出いづべからず。二ふたつの者もの相あひ持ぢして而しかして后のちに功化こうくわの實じつを談だんずべし。中華ちうくわ往古わうこの聖主せいしゆ政敎せいけうの功こうは舊紀きうきに著あらはるるところ乏とぼしからず。後世こうせいこれに襲よりこれに律のつとり、以もつて祖述そじゆつ憲章けんしやうせば、乃すなはち無爲ぶゐ過化くわくわの治ち、千萬世せんばんせいもその澤たくを蒙かうむるべし。

現代語訳
そもそも政と教と法令とが備わっているのは、舟に乗って大河を渡るようなものである。泳ぎができる者もできない者も、ともに舵をとってゆったりと安らかに渡れる。ひたすら徳を修めることだけでその功を期待するのは、泳ぎのできる者が自分の力をたのんで水を泳いで渡るようなもので、ひどく骨が折れるのに成果は少なく、危なくて渡りきる者はまれである。まして徳も修めず、政や教や法令にもよらないで、ただ自分勝手な知恵とでたらめとで天下を治める功を求めるのは、乗るべき舟も泳ぐ技もないままに、力をたのみ私心をかまえて水に入るようなものだ。溺れるほかに何を待つことがあろうか。だから国を治め天下を平らかにする要は、身を修めて政と教とを正しくすることの外には出ない。この二つが互いに支え合って、はじめて感化の実を語ることができる。中華の遠い昔の聖なる君主たちの政教の功は、古い記録に現れているものが少なくない。後の世がこれを承けこれにのっとって、祖述し憲章とするならば、無為にして人が化していく治が千万年ののちまでその恵みを及ぼすであろう。

解説
聖政章の結び。舟と泳ぎ――制度が備わっているとは、泳げない者も渡れるということである。徳だけを頼むのは、達人が素手で川を泳ぐようなもの。渡れないわけではないが、渡れる者はごく少ない。「二つの者相持して而して后に功化の實を談ずべし」。修身と制度、そのどちらか一方を選ぶ議論を、素行はここで終わらせている。