禮儀章 二十四朝儀に正旦を賀するの始 ── 朝廷の威儀は嚴正なるに在り
原文
神武帝辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年、故古語稱之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彦火火出見天皇焉、初天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣、倒語之用始起于茲、
謹按、是朝儀賀正旦之始也、是歲卽位之元年、故有正月之賀、而雖不同後世歲首行朝賀禮、賀正旦始于此、是乃朝儀之禮也、凡朝儀者、朝廷之禮儀也、朝廷以天地立其基、天下以朝廷爲標準、朝廷之威儀在以嚴正也、凡朝禮、有年中行事、有恆例、有臨時、有毎月禮、有公侯朝聘禮、有饗燕禮、有巡守田獵大射禮、有神社祭禮、而以歲首慶賀禮爲大儀、正月者、一年之始、歲序惟端、萬物惟新之節、臣子畢朝會拜賀、奉其慶、信義之常然也、
訓読
神武帝の辛酉年春正月庚辰の朔、天皇橿原宮に帝位に卽きたまふ。是の歲を天皇の元年と爲す。故に古語にこれを稱して曰はく、畝傍の橿原においてなり。太しく宮柱を底磐の根に立て、搏風を高天の原に峻峙して、始めて天下を馭す天皇、號けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。初め天皇天基を草創したまふの日なり。大伴氏の遠祖道臣命、大來目部を帥ゐて、密策を奉承し、能く諷歌倒語を以て、妖氣を掃蕩す。倒語の用始めて茲に起こる。
謹みて按ずるに、是れ朝儀に正旦を賀するの始なり。是の歲は卽位の元年なり、故に正月の賀あり。而して後世歲首に朝賀の禮を行ふとは同じからずと雖も、正旦を賀することここに始まる。是れ乃ち朝儀の禮なり。凡そ朝儀は、朝廷の禮儀なり。朝廷は天地を以てその基を立て、天下は朝廷を以て標準と爲す。朝廷の威儀は嚴正なるを以てするに在り。凡そ朝禮には、年中行事あり、恆例あり、臨時あり、毎月の禮あり、公侯朝聘の禮あり、饗燕の禮あり、巡守田獵大射の禮あり、神社祭の禮あり。而して歲首慶賀の禮を以て大儀と爲す。正月は一年の始、歲序惟れ端まり、萬物惟れ新たなるの節なり。臣子畢く朝會して拜賀し、その慶を奉ず。信義の常に然るなり。
現代語訳
神武天皇の辛酉の年、春正月庚辰の朔の日、天皇は橿原宮で帝位におつきになった。この年を天皇の元年とする。だから古語にこれを称して、畝傍の橿原において、という。宮柱を大地の底の岩の根に太く立て、千木を高天の原に高くそびえさせて、はじめて天下をお治めになった天皇を、神日本磐余彦火火出見天皇とお呼びする。天皇が天下の基を創めはじめられた日である。大伴氏の遠い祖である道臣命は、大來目部を率い、秘めた策を承って、風刺の歌と逆さことばとをよく用いて、妖しい気を払い除いた。倒語の用いはじめはここに起こる。
つつしんで考えてみるに、これが朝儀において元日を賀することのはじめである。この年は即位の元年であるから正月の賀がある。後の世に年の初めに朝賀の禮を行うのとは同じでないけれども、元日を賀することはここに始まる。これがすなわち朝儀の禮である。そもそも朝儀とは、朝廷の禮儀である。朝廷は天地によってその基を立て、天下は朝廷を標準とする。朝廷の威儀は、厳正であることによって成り立つ。そもそも朝廷の禮には、年中行事があり、恆例があり、臨時があり、毎月の禮があり、公侯の朝聘の禮があり、饗宴の禮があり、巡守・田猟・大射の禮があり、神社の祭の禮がある。そして年の初めの慶賀の禮を大いなる儀とする。正月は一年のはじめ、歳の順序がここに端を発し、万物が新しくなる節目である。臣下はみな朝廷に会して拝賀し、その慶びを奉る。信と義との常のありようである。
解説
中巻の開始。上巻八節で「卽位の禮」として引いた同じ記事を、ここでは朝儀の起点として読み直す。同じ史料を章の主題に応じて読み分けるという素行の方法が、同じ章の中でも働いている。
注目は朝廷の禮の一覧である。年中行事・恆例・臨時・毎月・朝聘・饗燕・巡守田獵大射・神社祭――八つの類を挙げ、そのうえで元日の賀を「大儀」とする。「朝廷の威儀は嚴正なるを以てするに在り」――威儀とは飾りではなく、朝廷が天下の標準であるための条件だ、という位置づけである。
禮儀章 二十五朝儀は一ならず ── 習俗の儀ありて因循し來る
原文
蓋朝儀不一、代代聖主、或追其例慕其風、或新立其儀、斟酌其制、而后悉備、其間多有習俗之儀、以因循來、又足存禮之大意也、竊惟、朝賀者、臣子拜慶度儀之禮、否乃臣子之情不可安、故一月有朔望晦之禮、其間又有大朝賀之節、群臣悉致敬於君上、以奉祝頌、是臣子之分定也、
訓読
蓋し朝儀は一ならず。代代の聖主、或はその例を追ひその風を慕ひ、或は新たにその儀を立て、その制を斟酌して而して后に悉く備はる。その間多く習俗の儀ありて、以て因循し來る。又禮の大意を存するに足るなり。竊かに惟ふに、朝賀は、臣子の慶を拜し儀を度るの禮なり。否らざれば乃ち臣子の情安んずべからず。故に一月に朔望晦の禮あり、その間に又大朝賀の節あり。群臣悉く敬を君上に致して、以て祝頌を奉ず。是れ臣子の分の定まりなり。
現代語訳
思うに朝儀は一つではない。代々の聖なる君主が、あるときは先例を追いその風を慕い、あるときは新たにその儀を立て、その制度を加減して、そうしてはじめてすべてが備わった。その間には習俗から生まれた儀も多くあって、それが受け継がれてきている。それもまた禮の大きな意味を保つのに足りるものである。ひそかに思うに、朝賀とは、臣下が慶びを拝し儀を計る禮である。そうでなければ臣下の心は安んじられない。だから一月のうちに朔・望・晦の禮があり、その間にまた大朝賀の節がある。群臣がみな敬いを君上に致して、祝いのことばを奉る。これが臣下としての分限の定まりである。
解説
「朝儀は一ならず」――儀式は一つの完成形があるのではなく、追う・慕う・新たに立てる・加減する、の積み重ねでできている、という認識。しかも「習俗の儀ありて因循し來る。又た禮の大意を存するに足るなり」と、由来のはっきりしない慣習まで肯定する。
これは聖政章二節「政の要は民心と習俗とを察するに在り」の応用である。素行にとって習俗は禮の下位ではなく、禮の一部なのである。
禮儀章 二十六朝賀は尊卑の禮を嚴にし、燕會は上下の情を和す
原文
宴會者、君上賜安於群臣也、有饗禮、有食禮、有燕禮、此所以上下交君臣和、德業成相親愛也、故以朝賀嚴尊卑之禮、以燕會和上下之情、故由朝賀正其威儀、因燕會作其風雅、外則以親禮容、內則以廣恩惠、然乃非徒威之儀之、非徒飲之食之、皆所以訓恭儉示惠慈也、夫王朝之儀、載然于舊紀、然能致其事物、以正其儀、乃其禮大成、可勝朝儀之實、後世必外朝之例、以附會中國之禮、尤不正之至也、
訓読
宴會は、君上の安きを群臣に賜ふなり。饗禮あり、食禮あり、燕禮あり。此れ上下交はり君臣和し、德業成りて相親愛する所以なり。故に朝賀を以て尊卑の禮を嚴にし、燕會を以て上下の情を和す。故に朝賀に由りてその威儀を正し、燕會に因りてその風雅を作す。外は則ち以て禮容を親しみ、內は則ち以て恩惠を廣む。然らば乃ち徒らにこれを威しこれを儀するにあらず、徒らにこれを飲みこれを食ふにあらず。皆恭儉を訓へ惠慈を示す所以なり。夫れ王朝の儀、舊紀に載然たり。然れども能くその事物を致し、以てその儀を正さば、乃ちその禮大いに成り、朝儀の實に勝ふべし。後世外朝の例を必とし、以て中國の禮に附會するは、尤も不正の至りなり。
現代語訳
宴会とは、君上が安らぎを群臣に賜わることである。饗の禮があり、食の禮があり、燕の禮がある。これは上下が交わり君臣が和して、徳と業とが成って互いに親しみ愛しむためのものである。だから朝賀によって尊卑の禮を厳しくし、燕会によって上下の情を和らげる。朝賀によってその威儀を正し、燕会によってその風雅を生み出す。外には禮の姿かたちを親しみ、内には恵みを広める。そうであれば、いたずらに威を張り儀式ばるのでもなく、いたずらに飲み食いするのでもない。みな恭しさと慎ましさとを教え、恵みと慈しみとを示すためのものである。そもそも王朝の儀は、古い記録にはっきりと載っている。しかしその事物をよく尽くし、その儀を正すならば、その禮は大いに成って、朝儀の実に堪えることができる。後の世に外国の先例を絶対とし、それをこの国の禮に無理にあてはめるのは、もっとも正しくないことのきわみである。
解説
本節の骨は「朝賀を以て尊卑の禮を嚴にし、燕會を以て上下の情を和す」という一対である。厳しくする儀式と、ゆるめる儀式――どちらか一方では足りない。禮儀章 上十七節の「建儲+論敎」、聖政章十八節の「修身+制度」と同じ二本立ての論法がここでも使われている。
結びの「後世外朝の例を必とし、以て中國の禮に附會するは、尤も不正の至りなり」は強い言い方である。ここで言う「中國」は日本のこと。中国の先例をそのまま日本の儀式に当てはめる態度への批判で、上巻十五節「敎諭の道、多く外朝の書籍を以て事と爲す。是れ後世の訛なり」と対をなす。
禮儀章 二十七神代の誓約 ── 誓と盟と
原文
素戔嗚尊昇天之時、溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴吼、此則神性雄健使之然也、天照大神素知其神暴惡、發詰問語、素戔嗚尊對曰、吾元無黑心、于時天照大神復問曰、若然者、將何以明爾之赤心也、對曰、請與姉共誓、夫誓約之中、必當生子、如吾所生是女者、則可以爲有濁心、若是男者、則可以爲有淸心、
謹按、是神代之誓約、乃後世誓盟之禮也、凡誓者、所以明己之信、解人之疑也、事物之間、或未嘗無其疑、解疑之道在誓約、訴鬼神、期信於幽冥、故天神許之、以明其淸濁之心也、後世因之、終有誓盟之禮、蓋誓者、唯以言辭請神祇、而約其信也、盟者、以物誠其事、猶盟以載書、歃血於神祇、之禮也、及後世、有作載書、歃血告神祇之禮也、
訓読
素戔嗚尊天に昇ります時に、溟渤これを以て鼓盪し、山岳これが爲に鳴吼す。此れ則ち神性雄健これをして然らしむるなり。天照大神素よりその神の暴惡を知りて、詰問の語を發したまふ。素戔嗚尊對へて曰さく、吾元黑心なしと。時に天照大神復た問ひて曰はく、若し然らば、將に何を以て爾の赤心を明らかにせんとするやと。對へて曰さく、請ふ、姉と共に誓はん。夫れ誓約の中に、必ず當に子を生むべし。如し吾が生むところ是れ女ならば、則ち以て濁き心ありと爲すべし。若し是れ男ならば、則ち以て淸き心ありと爲すべしと。
謹みて按ずるに、是れ神代の誓約にして、乃ち後世誓盟の禮なり。凡そ誓は、己れの信を明らかにし、人の疑ひを解く所以なり。事物の間、或は未だ嘗てその疑ひなくんばあらず。疑ひを解くの道は誓約に在り。鬼神に訴へ、信を幽冥に期す。故に天神これを許し、以てその淸濁の心を明らかにするなり。後世これに因り、終に誓盟の禮あり。蓋し誓は、唯だ言辭を以て神祇に請ひて、その信を約するなり。盟は、物を以てその事を誠にす。猶ほ盟するに載書を以てし、血を神祇に歃るの禮のごとし。後世に及びて、載書を作り、血を歃りて神祇に告ぐるの禮あるなり。
現代語訳
素戔嗚尊が天に昇られたとき、大海はそのために波立ち、山々はそのために鳴りとどろいた。これは神の性質が雄々しく健やかであるためにそうなったのである。天照大神はもとよりその神の乱暴なことをご存じで、問いただすことばを発せられた。素戔嗚尊が答えて申し上げた。「私にはもとより邪な心はありません」。そのとき天照大神はまた問われた。「そうであるなら、何によってお前の清らかな心を明らかにしようとするのか」。答えて申し上げた。「どうか姉上とともに誓約をいたしましょう。誓約の中で、必ず子を生むはずです。もし私の生むところが女であれば、汚れた心があるとお考えください。もし男であれば、清らかな心があるとお考えください」。
つつしんで考えてみるに、これは神代の誓約であって、すなわち後の世の誓盟の禮である。そもそも誓とは、自分の信を明らかにし、人の疑いを解くためのものである。事物のあいだには、疑いがなかったことはない。疑いを解く道は誓約にある。鬼神に訴え、信を幽冥の世界に期する。だから天神はこれをお許しになって、その心の清濁を明らかにされた。後の世はこれによって、ついに誓盟の禮ができた。思うに誓とは、ただことばによって神祇に請い、その信を約束するものである。盟とは、物によってその事をまことにするものである。盟約に載書を用い、血を歃って神祇に誓う禮のようなものだ。後の世になって、載書を作り、血を歃って神祇に告げる禮ができた。
解説
素行はここで「誓」と「盟」とを分ける。誓は言葉だけで神に請う。盟は物を伴う――載書(誓約文)を作り、血を歃る。上巻四節の盟神探湯も、この分類では盟の側になる。
誓約の定義がまた明快で、「己れの信を明らかにし、人の疑ひを解く所以なり」。素行は神意の顕現よりも、疑いを解くための手続きという側面に関心を置いている。次節でその現実的な理由が展開される。
禮儀章 二十八人は皆な聖賢にあらず ── 端を此に起こして戒を後に垂る
原文
人皆非聖賢、有信有僞、有直有曲、有正不可疑、有奸不可無疑、是天下之通情也、神聖之敎、通人情、詳致其道、故起端於此、垂戒於後、言以結之、明神以要之、天下之疑惑忽解、而事物之大義可決行之、否乃、人人可存疑、戸戸可各辨、今襲誓盟之禮、信僞曲直一擧而歸于道、其禮大哉、
訓読
人は皆聖賢にあらず。信あり僞あり、直あり曲あり。正にして疑ふべからざるあり、奸にして疑ひなかるべからざるあり。是れ天下の通情なり。神聖の敎は人情に通じ、詳かにその道を致す。故に端をここに起こし、戒を後に垂れ、言を以てこれを結び、明神を以てこれを要す。天下の疑惑忽ち解けて、事物の大義これを決行すべし。否らざれば乃ち、人人疑ひを存すべく、戸戸各辨ずべし。今誓盟の禮に襲つて、信僞曲直一擧して道に歸す。その禮大なる哉。
現代語訳
人はみな聖人賢人ではない。信もあれば偽りもあり、まっすぐもあれば曲がりもある。正しくて疑いようのない者もあれば、邪であって疑わずにいられない者もある。これが天下に通じる人情である。神聖なる方々の教えは人情に通じており、詳しくその道を尽くしている。だから端緒をここに起こし、戒めを後の世に垂れ、ことばによってこれを結び、明らかな神によってこれを固める。こうして天下の疑いはたちまち解けて、事物の大義を決行できるようになる。そうでなければ、人はそれぞれ疑いを抱き、家ごとにそれぞれ言い分を立てることになる。いま誓盟の禮によって、信と偽り、曲がりとまっすぐとが一挙に道に帰する。その禮は大きい。
解説
禮の必要を、素行は人間観から導く。「人は皆な聖賢にあらず。信あり僞あり、直あり曲あり」。全員が誠実なら手続きは要らない。そうでないからこそ、疑いを一挙に断ち切る装置が要る、というのである。
「否らざれば乃ち、人人疑ひを存すべく、戸戸各〻辨ずべし」――手続きがなければ、各人が各人の言い分を立て続ける状態になる。この現実主義は、禮儀章 上十七節の「多くは唯だ中人のみ」と同じ地面に立っている。
禮儀章 二十九或は疑ふ、君子屢しば盟すれば亂これを以て長ぜんや
原文
或疑、君子屢盟、亂是以長、作誓而民始畔、作會而民始疑、愚謂、聖人之道、能從天下之人情、故無偏無倚、徒杠輿梁成、而后民不病渉水、盟誓以約、而后民可免其疑、毎人而試之、日亦不足矣、然盟誓必有禮、用之不以禮、民畔而不恥、何必誓盟乎、凡知也仁也勇也、孰不有爲、如其不致其道、猶不如不誓、專要神屢盟、是用之不以禮也、如周豐言、盟而無信、何足取之乎、
訓読
或は疑ふ、君子屢しば盟すれば、亂これを以て長ぜんや。誓を作して民始めて畔き、會を作して民始めて疑ふと。愚謂へらく、聖人の道は、能く天下の人情に從ふ。故に偏るなく倚るなし。徒杠輿梁成りて、而して后に民水を渉るを病へず。盟誓以て約して、而して后に民その疑ひを免るべし。人ごとにしてこれを試みば、日も亦足らず。然れども盟誓には必ず禮あり。これを用ふるに禮を以てせざれば、民畔きて恥ぢず。何ぞ必ずしも誓盟せんや。凡そ知なり仁なり勇なり、孰れか爲すことあらざらん。如しその道を致さざれば、猶ほ誓はざるに如かず。專ら神を要して屢しば盟するは、是れこれを用ふるに禮を以てせざるなり。周豐の言のごとく、盟して信なくんば、何ぞこれを取るに足らんや。
現代語訳
ある人は疑って言う。「君子がしばしば盟いを立てれば、かえって乱れがそれによって増す。誓いを作ってはじめて民は背き、会盟を作ってはじめて民は疑う、というではないか」。私はこう考える。聖人の道は天下の人情によく従う。だから偏りもなく寄りかかりもない。歩き橋も車橋も架かって、はじめて民は川を渡るのに苦しまなくなる。盟誓によって約束して、はじめて民はその疑いを免れることができる。一人ひとりについて確かめていたのでは、日がいくらあっても足りない。しかし盟誓には必ず禮がある。禮によらずにこれを用いれば、民は背いても恥じない。それならどうして誓盟する必要があろうか。そもそも知であれ仁であれ勇であれ、何ごとかを成さないものはない。もしその道を尽くさないなら、むしろ誓わないほうがましである。ひたすら神に頼ってしばしば盟うのは、禮によらずに用いているということだ。周豐のことばのように、盟っても信がなければ、どうして取るに足りようか。
解説
反論に対する答えが見事な一段である。橋のたとえ――孟子が子産を評した「徒杠輿梁成りて、民、渉ることを病まず」を借りる。子産は自分の車で人を渡してやったが、孟子は「橋を架けろ」と言った。一人ひとり確かめていては日が足りない。制度を架けよ、というわけである。
そのうえで素行は反論の半分を認める。「盟誓には必ず禮あり。これを用ふるに禮を以てせざれば、民畔きて恥ぢず」。中身のない誓いを重ねれば批判者の言うとおりになる、と。形式が形式であるだけでは効かない――上巻二十三節の「桃梗土偶」と同じ警戒である。
禮儀章 三十推古帝十五年 ── 小野臣妹子を大唐に遣はす
原文
推古帝十五年、秋七月戊申朔、庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事、十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐、唐國號妹子臣曰蘇因高、卽大唐使人裴世淸、下客十二人、從妹子臣至於筑紫、遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等、爲唐客更造新館於難波高麗館之上、六月壬寅朔、丙辰客等泊于難波津、是日以飾船三十艘、迎客等于江口、安置新館、於是以中臣宮地連磨呂、大河內直糠手、船史王平、爲掌客、
訓読
推古帝の十五年、秋七月戊申の朔、庚戌、大禮小野臣妹子を大唐に遣はす。鞍作福利を以て通事と爲す。十六年夏四月、小野臣妹子大唐より至る。唐國、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ。卽ち大唐の使人裴世淸、下客十二人、妹子臣に從ひて筑紫に至る。難波吉士雄成を遣はして、大唐の客裴世淸等を召す。唐客の爲に更に新館を難波の高麗館の上に造る。六月壬寅の朔、丙辰、客等難波津に泊る。是の日飾船三十艘を以て、客等を江口に迎へ、新館に安置す。ここに中臣宮地連磨呂、大河內直糠手、船史王平を以て、掌客と爲す。
現代語訳
推古天皇の十五年、秋七月戊申の朔、庚戌の日、大禮の位の小野臣妹子を大唐に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。十六年の夏四月、小野臣妹子が大唐から帰り着いた。唐の国では妹子臣を蘇因高と呼んだ。そして大唐の使者である裴世淸と、随行の者十二人とが、妹子臣に従って筑紫に至った。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客である裴世淸らを召された。唐の客のために、あらためて新しい館を難波の高麗館のほとりに造った。六月壬寅の朔、丙辰の日、客たちは難波津に停泊した。この日、飾り船三十艘をもって、客たちを江口に迎え、新館に落ち着かせた。そこで中臣宮地連磨呂・大河内直糠手・船史王平を、接待役とされた。
解説
ここから章は外交に入る。妹子の派遣は推古十五年(六〇七年)、隋の煬帝の時代である。書紀が隋を「大唐」と記しているのは後代の呼称による。
素行はこの一連の記事を、そのまま長く引く。飾船三十艘で江口に迎える、新館を造る、掌客を置く――こうした具体的な手続きこそが「禮」だからである。上巻二十二節の「事あれば則ちその職あり」がここに現れている。
禮儀章 三十一妹子、大國の書を失ふ ── 天皇赦して坐せず
原文
爰妹子臣奏之曰、臣參還之時、唐帝以書授臣、然經過百濟國之日、百濟人探以掠取、是以不得上、於是群臣議之曰、夫使人雖死之、不失旨、是使矣、何忘之、失大國之書哉、則坐流刑、時天皇勅之曰、妹子雖有失書之罪、輙不可罪、其大國客等聞之亦不良、乃赦之不坐也、
訓読
爰に妹子臣これを奏して曰さく、臣參り還るの時、唐帝書を以て臣に授く。然れども百濟國を經過するの日、百濟人探りて以て掠め取る。ここを以て上ることを得ずと。ここに群臣これを議して曰さく、夫れ使人はこれに死すと雖も、旨を失はず、是れ使なり。何ぞこれを忘れて、大國の書を失はんや。則ち流刑に坐せしめよと。時に天皇これに勅して曰はく、妹子書を失ふの罪ありと雖も、輙く罪すべからず。それ大國の客等これを聞くことも亦不良なりと。乃ちこれを赦して坐せざるなり。
現代語訳
そこで妹子臣が奏上して申し上げた。「臣が帰参いたしますとき、唐の帝が書を臣にお授けになりました。しかし百済国を通り過ぎる日に、百済の人が探し出して奪い取りました。そのため差し上げることができません」。そこで群臣が議して申し上げた。「そもそも使者というものは、たとえ死んでもその使命を失わない。それでこそ使者である。どうしてそれを忘れて、大国の書を失うことがあろうか。流刑に処すべきです」。そのとき天皇が勅して言われた。「妹子には書を失った罪があるとはいえ、たやすく罪してはならない。あの大国の客たちがそれを聞くのもよろしくない」。そこでこれを赦して罪に問われなかった。
解説
国書紛失事件。群臣の議論は原則論として正しい――「使人は死すと雖も旨を失はず、是れ使なり」。にもかかわらず天皇は罰しない。理由が興味深く、「その大國の客等これを聞くことも亦た不良なり」――使者を処罰したと相手国に伝わるのがよくない、という外交的判断である。
素行はこの記事に按語を付けていない。事実をそのまま置くことで、次節以下の隣好論への布石にしている。
禮儀章 三十二唐客を朝に饗す ── 金の髻華、五色の綾羅
原文
秋八月辛丑朔、癸卯唐客入京、是日遣飾騎七十五疋、而迎唐客於海石榴市衢、額田部連比羅夫以告禮辭焉、壬子召唐客於朝庭、令奏使旨、時阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人爲客之導者也、於是大唐之國信物、置於庭中、時使主裴世淸親持書、兩度再拜、言上使旨而立之、其書曰、皇帝問倭皇、使人長吏大禮蘇因高等至具懷、朕欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情無隔遐邇、知皇命居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、遠修朝貢、丹欵之美、朕有嘉焉、稍暄比如常也、故遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別、時阿倍臣出自進以受其書、而進行、大伴囓連迎出承書、置於大門前机上而奏之、事畢而退行、
訓読
秋八月辛丑の朔、癸卯、唐客京に入る。是の日飾騎七十五疋を遣はして、唐客を海石榴市の衢に迎ふ。額田部連比羅夫以て禮辭を告ぐ。壬子、唐客を朝庭に召し、使旨を奏せしむ。時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人客の導者と爲るなり。ここに大唐の國信物を庭中に置く。時に使主裴世淸親ら書を持ちて、兩度再拜し、使旨を言上してこれを立つ。その書に曰く、皇帝倭皇に問ふ。使人長吏大禮蘇因高等至りて懷ひを具さにす。朕欽みて寶命を承け、區宇に臨仰し、德化を弘め、含靈に覃び被らしめんことを思ふ。愛育の情遐邇を隔つることなし。皇の命海表に居りて、民庶を撫寧し、境內安樂、風俗融和なることを知る。深き氣至誠にして、遠く朝貢を修む。丹欵の美、朕嘉すること有り。稍暄かなること比常の如きなり。故に鴻臚寺の掌客裴世淸等を遣はし、稍往意を宣ぶ。幷せて物を送ること別の如しと。時に阿倍臣出でて自ら進みて以てその書を受けて、進み行く。大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の前の机の上に置きてこれを奏す。事畢りて退き行く。
現代語訳
秋八月辛丑の朔、癸卯の日、唐の客が都に入った。この日、飾り馬七十五頭を遣わして、唐の客を海石榴市の街路に迎えた。額田部連比羅夫が挨拶のことばを告げた。壬子の日、唐の客を朝廷に召して、使いの趣旨を奏上させた。このとき阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人が客の案内役となった。そこで大唐の国からの贈り物を庭の中に置いた。使者の主である裴世淸はみずから書を持ち、二度にわたって再拝し、使いの趣旨を申し上げてこれを立てた。その書にいう。「皇帝が倭皇に問う。使者である長吏・大禮の蘇因高らが到着して、思いを詳しく伝えた。朕はつつしんで天の命を承け、天下に臨み、徳による感化を広めて、生きとし生けるものに及ぼしたいと思っている。愛し育てる心に、遠い近いの隔てはない。皇の命が海の外にあって民を安んじ、国内は安楽、風俗は和やかであると聞いた。深い心が誠にあふれ、遠くから朝貢を修めている。その真心の美しさを、朕は喜ばしく思う。このごろやや暖かくなり、朕は常のとおりである。そこで鴻臚寺の掌客である裴世淸らを遣わして、こちらの意を伝えさせる。あわせて品々を別紙のとおり送る」。そのとき阿倍臣が出てみずから進んでその書を受け取り、進んで行った。大伴囓連が迎え出て書を受け、大門の前の机の上に置いてこれを奏上した。事が終わって退出した。
解説
隋からの国書の全文である。「皇帝、倭皇に問ふ」――「問ふ」は上位者が下位者に用いる語で、書式としては対等ではない。素行はこの書をあえて全文引き、次節以下で太子の答書と対比させる。
一方で、迎接の手続きの詳細(飾騎七十五疋、海石榴市での出迎え、掌客、庭中の国信物、書を机上に置いて奏上)を丁寧に写しているのも見逃せない。禮とは所作の集積であるという上巻以来の立場が、ここでも一貫している。
禮儀章 三十三東天皇敬みて西皇帝に白す ── 太子の答書
原文
九月辛未朔、乙亥饗客等於難波大郡、辛巳唐客裴世淸罷歸、則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、福利爲通事、副于唐客而遣之、爰天皇聘唐帝、其辭曰、東天皇敬白西皇帝、使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解、季秋薄冷、尊何如、想淸念、此卽如常、今遣大禮蘇因高、大禮乎那利等、往謹白不具、
一書曰、群臣議曰、妹子懈怠失蕃國表、罪合流刑、其狀聞奏、天皇問聖德太子、太子奏曰、妹子之罪定不可寬、然修好善隣、妹子之功也、加以隋國使共來、思復如何、天皇大悅、免罪、
訓読
九月辛未の朔、乙亥、客等を難波の大郡に饗す。辛巳、唐客裴世淸罷り歸る。則ち復た小野妹子臣を以て大使と爲し、吉士雄成を小使と爲し、福利を通事と爲し、唐客に副へてこれを遣はす。爰に天皇唐帝に聘す。その辭に曰く、東の天皇敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世淸等至り、久しき憶ひ方に解く。季秋薄冷し。尊何如。想ふに淸念ならん。此卽ち常の如し。今大禮蘇因高、大禮乎那利等を遣はす。往きて謹みて白す。不具。
一書に曰く、群臣議して曰さく、妹子懈怠して蕃國の表を失ふ。罪は流刑に合ふと。その狀を聞奏す。天皇聖德太子に問ひたまふ。太子奏して曰さく、妹子の罪は定めて寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來るを以てす。思ふに復た如何と。天皇大いに悅びて、罪を免したまふ。
現代語訳
九月辛未の朔、乙亥の日、客たちを難波の大郡でもてなした。辛巳の日、唐の客である裴世淸が帰国した。そこでふたたび小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通訳として、唐の客に添えて遣わした。ここで天皇が唐の帝に使いを送られた。そのことばにいう。「東の天皇がつつしんで西の皇帝に申し上げます。使者である鴻臚寺の掌客・裴世淸らが到着し、久しい思いがようやく晴れました。晩秋のややひえびえとする折、ご尊体はいかがでしょうか。清らかにお過ごしのことと存じます。こちらは常のとおりです。いま大禮の蘇因高、大禮の乎那利らを遣わします。参上してつつしんで申し上げます。以上」。
ある書にいう。群臣が議して申し上げた。「妹子は怠って蕃国の表を失いました。罪は流刑に当たります」。そのありさまを奏上した。天皇が聖徳太子にお尋ねになった。太子が奏して申し上げた。「妹子の罪は、確かに寛大にはできません。しかし好誼を修め隣国と善くするのは、妹子の功でもあります。そのうえ隋国の使者がともに来ております。あらためてお考えになってはいかがでしょうか」。天皇は大いに喜ばれ、罪を免ぜられた。
解説
本章でもっとも名高い一句、「東天皇敬みて西皇帝に白す」。隋の書が「皇帝、倭皇に問ふ」であったのに対し、こちらは「東の天皇、西の皇帝に白す」――東と西、天皇と皇帝を並べる書式である。素行はこの対称性に、日本が中華であることの証を見る(次々節)。
もう一つ、聖徳太子が妹子を庇う場面。「妹子の罪は定めて寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり」――罪は罪として認めたうえで、功と並べて量る。禮儀章 上十四節で素行が太子の教育を高く評価したのは、こういう判断ができる人物に育ったからだ、という筋になっている。
禮儀章 三十四皇帝の字は天下に一つのみ ── 太子筆を握りて書す
原文
又曰、隋帝書曰、皇帝問倭皇云云、天皇問太子曰、此書如何、太子奏曰、天子賜諸侯王書式也、然皇帝之字、天下一耳、而用皇字、彼有其禮、天皇召太子以下、而議答書之辭、太子握筆書之曰、東天皇敬問西皇帝云云、帝謹白不具、
訓読
又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝倭皇に問ふ云云。天皇太子に問ひて曰はく、この書は如何と。太子奏して曰さく、天子の諸侯王に賜ふの書式なり。然れども皇帝の字は、天下に一のみ。而るに皇の字を用ふ、彼にその禮ありと。天皇太子以下を召して、答書の辭を議したまふ。太子筆を握りてこれを書して曰く、東の天皇敬みて西の皇帝に問ふ云云。帝謹みて白す、不具と。
現代語訳
またいう。隋の帝の書には「皇帝が倭皇に問う」云々とあった。天皇が太子に問われた。「この書はどうであろうか」。太子が奏して申し上げた。「これは天子が諸侯王に賜わる書式です。しかし『皇帝』の字は天下に一つだけのもの。それなのに(こちらにも)『皇』の字を用いています。あちらにもそれなりの禮があるということです」。天皇は太子以下を召して、答書のことばを議された。太子は筆を握ってこれを書いて言った。「東の天皇がつつしんで西の皇帝に問う」云々、「帝つつしんで申し上げる、以上」。
解説
隋の国書をどう読むか、という判定の場面。太子の分析は二段になっている。①これは天子が諸侯王に与える書式である(=対等ではない)。②しかし「倭皇」と「皇」の字を用いている。「皇帝」は天下に一つのはずの語であって、その一字をこちらにも分けている――だから「彼にその禮あり」、向こうにも礼儀はある、と読む。
そのうえで答書を「東天皇敬問西皇帝」とする。相手の書式を分析し、それに対応する書式で返す――外交文書を禮の問題として扱う一部始終が、ここに記録されている。
禮儀章 三十五隣好を修むるの始 ── 同氣相求め、同類相應ず
原文
謹按、是修隣好之始也、隣者何、可以相對也、修好者何、氣候水土人物事義、可以好之、可以通之也、同氣相求、同類相應、金終止于山、玉終入于水、各從其類、天之道也、天地之博、宇宙之渺、迄乎此州嶋、唯外國一事義於中華、故修好善隣、猶石水相投膠漆相入、千載之神聖、一日遇之、萬里之遠波、一葦航之、自是隣交之道大啓、互相聘禮、外朝之經典、廣布于世、人人知聖賢之事迹、文字言語之用不乏、大補中國之治平、是風從虎雲從龍、所以雲行雨施、品物大成也、
訓読
謹みて按ずるに、是れ隣好を修むるの始なり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候水土人物事義、以てこれを好くすべく、以てこれを通ずべきなり。同氣相求め、同類相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各その類に從ふは、天の道なり。天地の博き、宇宙の渺たる、この州嶋に迄びて、唯だ外國のみ事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くするは、猶ほ石と水と相投じ、膠と漆と相入るがごとし。千載の神聖、一日にこれに遇ひ、萬里の遠波、一葦これを航る。これより隣交の道大いに啓け、互に相聘禮す。外朝の經典、廣く世に布き、人人聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ雲は龍に從ふ、雲行雨施して、品物大いに成る所以なり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが隣国と好誼を修めることのはじめである。隣とは何か。互いに向かい合うことのできる相手をいう。好誼を修めるとは何か。気候・風土・人・道理を、よくし合い、通じ合わせることである。同じ気は互いに求め合い、同じ類は互いに応じ合う。金は結局は山にとどまり、玉は結局は水に入る。それぞれがその類に従うのは、天の道である。天地は広く宇宙は果てしないが、この島国について見れば、ただ隋の国だけが道理をこの国と一つにできる相手であった。だから好誼を修め隣国と善くするのは、石と水とが投じ合い、膠と漆とが入り合うようなものである。千年の神聖なる歩みが一日にして出会い、万里の遠い波も一本の葦で渡れるほどになった。これより隣交の道が大いに開け、互いに使いを交わす禮を行うようになった。外国の経典が広く世に行きわたり、人々は聖賢の事跡を知り、文字と言語の用に不足しなくなった。大いにこの国の治まり平らかであることを助けた。これは風が虎に従い雲が龍に従うように、雲が行き雨が施されて、万物が大いに成るということである。
解説
本章でもっとも美しい一段。「隣とは何ぞ。以て相對すべきなり」――隣とは、向かい合える相手のことだ。この定義から、対等の外交という考えが引き出される。
そして「同氣相求め、同類相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各〻その類に從ふは天の道なり」。外交を自然の理として説く。日本と隋とが交わったのは、条件が合ったからだ、というわけである。
注意したいのは結論の方向。素行は外来のものが入ってきたことを積極的に評価している。「外朝の經典、廣く世に布き…大いに中國の治平を補ふ」。上巻十五節の「敎諭の道、多く外朝の書籍を以て事と爲すは後世の訛なり」と矛盾はしない――順序が逆でなければよい、という一貫した立場である。
禮儀章 三十六唯だ太子の大手筆のみにあらず ── 志の洪量なる
原文
普隣之時、其實不露乎、蓋以國之大小、則彼大也、以人治之遠近、則彼遠也、土地廣、故人物衆庶也、治平遠、故事義無疆、當時初制書、以東天皇敬問西皇帝、唯非太子大手筆矣、志氣洪量、能知所以本朝爲中華也、
訓読
隣を普くするの時、その實露はれずや。蓋し國の大小を以てすれば、則ち彼大なり。人治の遠近を以てすれば、則ち彼遠きなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遠し、故に事義疆りなし。當時初めて書を制するに、東の天皇敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆のみに非ず。志氣洪量、能く本朝の中華たる所以を知るなり。
現代語訳
隣国とよしみを通ずるとき、その実が現れないことがあろうか。思うに国の大小でいえば、あちらが大きい。人が治めてきた歴史の遠近でいえば、あちらが遠い。土地が広い、だから人が多い。治まってきた歴史が長い、だから道理の蓄積に限りがない。その当時、はじめて国書を作るのに「東の天皇がつつしんで西の皇帝に問う」とした。これはただ太子の見事な筆というだけではない。志と気概が大きく広く、本朝が中華である理由をよく知っていたということである。
解説
素行は相手の大きさを率直に認める。国土も広く、人も多く、統治の歴史も長い――「彼大なり」「彼遠きなり」。そのうえで、なお対等の書式を選んだところに太子の見識を見る。
ここで言う「本朝の中華たる所以」は、規模の話ではない。禮儀章 上七節の定義――中華かどうかは禮によるかどうかで決まる――に立っている。だから小国でも中華でありうる、という論理になる。
ただし、この「中華」概念そのものが華夷秩序の枠内にあることは押さえておきたい。素行は序列を否定したのではなく、序列の基準を「地」から「禮」に移し替えたのである。次節からその論法が中国王朝史の批判に向かう。
禮儀章 三十七外朝はその地博くして約ならず ── 境を四夷に接す
原文
夫外朝其地博而不約、治敎盛則所盡惟迂、守文不明、則戎狄據之、吳越荊楚之僭列諸侯、平王之東遷於洛、或割十六州以賂契丹、或逃臨安、稱臣於胡元、皆是所逼於戎狄也、是一大土中盡地築城、以立封域、接境於四夷也、故天下之勢、或袤南北、而東西縮、或東西長而縮南北、或有九州十二州、或以十道二十三路、而經畫不一、王統數易姓、是博而不約之失也、
訓読
夫れ外朝はその地博くして約ならず。治敎盛んなるときは則ち盡くるところ惟れ迂し。守文明らかならざれば、則ち戎狄これに據る。吳・越・荊楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或は十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或は臨安に逃れ、臣を胡元に稱す。皆是れ戎狄に逼られるところなり。是れ一つの大土の中に地を盡し城を築きて、以て封域を立て、境を四夷に接すればなり。故に天下の勢、或は南北に袤くして東西縮み、或は東西長くして南北に縮み、或は九州十二州あり、或は十道二十三路を以てす。而して經畫一ならず、王統數姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。
現代語訳
そもそも外国はその土地が広くて締まりがない。政と教とが盛んになっても、行きわたるべき先が遠すぎる。守るべき法度が明らかでなければ、異民族がそこに拠る。呉・越・荊楚が身分を越えて諸侯に列し、周の平王が東の洛邑に都を移し、あるいは十六州を割いて契丹に贈り、あるいは臨安に逃れて元に臣従した。みな異民族に迫られてのことである。これは一つの大きな陸地の中で、土地を余さず城を築いて領域を立て、境を四方の異民族と接しているからである。だから天下の勢いは、あるときは南北に長く東西に縮み、あるときは東西に長く南北に縮み、あるときは九州十二州に分かれ、あるときは十道二十三路に分かれる。こうして区画は一定せず、王統はしばしば姓を替える。これが「広くて締まりがない」ことの失である。
解説
ここから中国王朝史への批判が始まる。素行の論点は地理的条件で、大陸の中央にあって四方を他民族と接するために、境界が定まらず王朝が交替してきた、というもの。「博くして約ならざるの失」という一語にまとめている。
この議論は史実の扱いとして粗いことを断っておきたい。平王の東遷(前八世紀)、燕雲十六州の割譲(十世紀)、南宋の臨安遷都(十二世紀)は、それぞれ千数百年にわたる別々の事情による出来事であって、「地が広い」という一因に還元できるものではない。また「戎狄」「胡元」という語は当時の華夷観念そのままの蔑称である。
ここは明清交替(一六四四年)から数十年という執筆時の状況――中国が「夷狄」の王朝に統べられているという同時代認識――が、素行の中国史理解を強く方向づけている箇所として読むのが適当である。
禮儀章 三十八人主治世の來ること久しくして ── 春秋の亂臣賊子
原文
人主治世之來久、治亂盈虛大變、人心悉澆訛、春秋之時、去古未遠、而亂臣賊子弑君父、猶薙草、大臣世臣行妖事、猶禽獸、是非治道變化之失、微弱之失乎、
訓読
人主治世の來ること久しくして、治亂盈虛大いに變じ、人心悉く澆訛たり。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子の君父を弑するは、猶ほ草を薙るがごとし。大臣世臣の妖事を行ふは、猶ほ禽獸のごとし。是れ治道變化の失、微弱の失にあらずや。
現代語訳
君主が世を治めてきた歴史が長くなるにつれ、治まると乱れる、満ちると虚しくなるが大きく入れ替わり、人心はことごとく薄くなり偽りを帯びた。春秋の時代は、古い時代からさほど遠くないのに、乱臣賊子が君や父を弑することは、まるで草を刈るようであった。大臣や代々仕える臣が怪しげな事を行うのは、まるで禽獣のようであった。これは統治の道が変わってしまった失であり、脆く弱くなった失ではないだろうか。
解説
前節の地理論に続いて、こんどは時間の経過を論点にする。長く続けば人心は薄くなる。春秋時代の下剋上を、その証拠として挙げる。
『春秋』における弑逆の多さは孟子以来くり返し論じられた主題であり、素行の指摘自体は目新しいものではない。ここでの狙いは次節との対比――中国は時とともに乱れたが日本はそうでない、という結論を導くための前置きである。その対比の当否は次節の解説で触れる。
禮儀章 三十九唯だ中國はこれに反す ── 封域自ら天險あり
原文
唯中國反之、卓立于四海、封域自有天險、自神聖繼天立極爾來、四夷竟藩籬亦不得窺、皇統連綿、與天壤無窮、況神代之治悠久、人皇之祚永算、今日之澆季、亦猶優於周之末也、
訓読
唯だ中國はこれに反す。四海に卓立し、封域自ら天險あり。神聖天を繼ぎ極を立てて爾來、四夷竟に藩籬をも亦窺ふことを得ず。皇統連綿として、天壤と窮まりなし。況んや神代の治の悠久なる、人皇の祚の永算なるをや。今日の澆季も、亦猶ほ周の末より優れるなり。
現代語訳
ただこの国だけはそれと反対である。四方の海に抜きん出て立ち、その領域はおのずと天然の険しさを備えている。神聖なる方々が天を継いで極を立てられて以来、四方の異民族はついに垣根をのぞくことさえできなかった。皇統は連綿として、天地とともに窮まりがない。まして神代の治の悠久なこと、人皇の位の長く続いてきたことは言うまでもない。今日のような人情の薄れた末の世でも、なお周の末よりは優れている。
解説
前二節を承けた結論。日本は海に囲まれているから境界が動かず、皇統が連綿とした――地理から皇統の連続を説明する論法である。
ここは本書の中核的主張であると同時に、もっとも批判的に読むべき箇所でもある。「四夷竟に藩籬をも窺ふことを得ず」は、白村江の敗戦(六六三年)や元寇(一二七四・八一年)を考えれば、そのままには受け取れない。「今日の澆季も亦た猶ほ周の末より優れり」も、比較の物差しが示されない断定である。
むしろここで見るべきは、素行がなぜこう言いたかったかのほうだろう。中国が異民族王朝に統べられた明清交替の直後、日本が中華の正統を継ぐ、という主張を組み立てる必要があった――そういう時代の書物として読むと、この一段の熱と無理の両方が理解できる。
禮儀章 四十古は人少くして氣淳し ── 然れども今に至るまで人物亦た厚からずや
原文
古者人少而氣淳、治久人多則氣澆而人漓者、天地之數也、後世誠不及古遠矣、然至今、人物亦不厚乎、且往古之神化、人皇之聖治、神勅之明敎、歷世之法令、知仁之行、威武之嚴、何事乏乎外朝、故與彼相對、自稱皇帝、修好善隣、更所以不恥之也、
訓読
古は人少なくして氣淳く、治久しく人多きときは則ち氣澆くして人漓きは、天地の數なり。後世誠に古に及ばざること遠し。然れども今に至るまで、人物亦厚からずや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝より乏しからん。故に彼と相對して、自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くして、更にこれを恥ぢざる所以なり。
現代語訳
古い時代は人が少なくて気風が厚く、治まって久しく人が多くなれば気風が薄くなり人も薄情になるのは、天地の数のなりゆきである。後の世が古に及ばないことは、まことに遠く隔たっている。しかしいまに至るまで、人はやはり厚みを保っているではないか。そのうえ、遠い昔の神による感化、人皇の聖なる統治、神勅の明らかな教え、代々の法令、知と仁との行い、武の威厳の厳しさ――何ひとつ外国に劣るものがあろうか。だからあちらと向かい合って、みずから皇帝と称し、好誼を修め隣国と善くして、それを少しも恥じることがないのである。
解説
隣好論の締めくくり。前半で「後世は古に及ばない」という一般論をいったん認めるのが素行らしい。時が経てば人情は薄くなる、それは「天地の數」だ、と。
そのうえで「然れども今に至るまで、人物亦た厚からずや」と反転させ、神化・聖治・神勅・法令・知仁・威武の六つを並べて「何事か外朝より乏しからん」と結ぶ。
結論は「彼と相對して、自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くして、更にこれを恥ぢざる」。第十二節の「隣とは相對すべきなり」がここに戻ってくる。対等を主張してよい根拠は何か――これが第十四節からの長い議論の目的だったことがわかる。列挙された六項目が本当に比較に堪えるかは別問題だが、素行の関心が優劣ではなく対等の資格にあったことは押さえておきたい。
禮儀章 四十一或は疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も好を修むる隣にあらずやと
原文
或疑、高麗百濟新羅之來朝、亦不修好善隣乎、愚謂、新羅王子來朝、任那來貢、旣在崇神垂仁帝之朝、其後住吉大神賜高麗百濟新羅任那等於天皇、及若櫻宮、免衣而各面縛與槻、封圖籍降、從指阿利那禮河以誓請神祇以盟、伏爲飼部、不乾舶柁、毎歲不絕朝貢、初毎國置官家、爲海表之藩屛、自是歷代以子弟爲質、常朝貢、否乃征伐以懲不庭、是海外之諸蕃、皆爲中國之屬、唯外朝可以遇信而已、諸蕃不足稱隣、中華終不行聘禮於彼地、厚往薄來以柔遠人懷外國耳、
訓読
或は疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝するも、亦好を修め隣を善くするにあらずやと。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神垂仁帝の朝に在り。その後住吉大神高麗・百濟・新羅・任那等を天皇に賜ふ。若櫻宮に及びて、衣を免ぎて各面縛し槻を與へ、圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指すに從ひて以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟す。伏して飼部と爲り、舶柁を乾かさず、毎歲朝貢を絕たず。初め國ごとに官家を置き、海表の藩屛と爲す。これより歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否らざれば乃ち征伐して以て不庭を懲す。是れ海外の諸蕃、皆中國の屬たり。唯だ外朝のみ以て信を遇すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華終に聘禮を彼の地に行はず。往くを厚くし來るを薄くして、以て遠人を柔げ外國を懷くるのみ。
現代語訳
ある人は疑って言う。「高麗・百済・新羅が来朝するのも、また好誼を修め隣国と善くするということではないのか」。私はこう考える。新羅の王子が来朝し、任那が貢を奉ったことは、すでに崇神・垂仁天皇の朝にあった。その後、住吉大神が高麗・百済・新羅・任那などを天皇に授けられた。若櫻宮の御代になって、衣を脱ぎ、それぞれ後ろ手に縛って槻を差し出し、地図と戸籍とを封じて降った。阿利那禮河を指して誓い、神祇に請うて盟った。伏して馬飼いの部となり、船の舵を乾かすひまもなく、毎年朝貢を絶やさなかった。はじめは国ごとに官家を置いて、海の外の守りの垣とした。これより歴代、子弟を人質として、常に朝貢した。そうでなければ征伐して従わないことを懲らしめた。こうして海外の諸蕃はみなこの国に属するものであった。ただ隋の国だけが信をもって遇すべき相手である。諸蕃は隣と称するに足りない。この国はついに聘禮をあちらの地で行わなかった。行くものは厚くし来るものは薄くして、遠い人をやわらげ外国をなつけただけである。
解説
本読本の中でもとくに慎重に読むべき節である。
素行はここで、隣(対等)と諸蕃(従属)とを分ける。隋は隣、朝鮮諸国は諸蕃だ、という区分である。根拠に挙げているのは『日本書紀』神功紀の記述だが、これらは史実としては成り立たない。神功皇后の三韓征伐は考古学的にも文献学的にも裏づけを欠き、任那日本府をめぐる記述も、七・八世紀の編纂当時の外交的立場を過去に投影したものと考えられている。素行はそれを疑わずに読み、しかも「面縛」「飼部」といった屈従の描写をそのまま引いている。
この節が近代の対外膨張論に接続していったことも事実であり、その意味でも史料批判を欠いた記述として明確に線を引いたうえで読む必要がある。
一方で、この節は前節までの隣好論の限界もよく示している。「隣とは相對すべきなり」という開かれた定義を立てながら、素行は相対する資格を隋にしか認めなかった。対等の思想が、それ自体としては序列の思想と両立してしまう――この構造は、思想史の教材として押さえておく価値がある。
禮儀章 四十二或は疑ふ、外朝も亦た來聘するやと
原文
或疑、外朝亦來聘乎、愚按、推古朝隋煬帝遣文林郎裴世淸來聘、天智朝唐客郭務悰等來聘、其書曰、大唐帝敬問日本國天皇、天武朝郭務悰又來聘、其後中朝置遣唐使、通信於外朝、然外朝之書簡、多以語侯王、世衰入弱、以此爲足、其失何在乎、唯遺端於記誦文字之俗儒、以至我國之不知尊我國、應輕蒙擧而爲野、何德之衰乎、
訓読
或は疑ふ、外朝も亦來聘するやと。愚按ずるに、推古の朝に隋の煬帝文林郎裴世淸を遣はして來聘せしむ。天智の朝に唐客郭務悰等來聘す。その書に曰く、大唐の帝敬みて日本國の天皇に問ふと。天武の朝にも郭務悰又來聘す。その後中朝遣唐使を置き、信を外朝に通ず。然れども外朝の書簡、多くは侯王を以て語る。世衰へ弱に入り、此を以て足れりと爲す。その失何れに在るや。唯だ端を記誦文字の俗儒に遺し、以て我が國の我が國を尊ぶことを知らざるに至る。應に輕蒙擧して野と爲すべし。何ぞ德の衰へたるや。
現代語訳
ある人は疑って言う。「外国もまた使いを送ってくるのか」。私が考えてみるに、推古の朝には隋の煬帝が文林郎の裴世淸を遣わして来聘させた。天智の朝には唐の客である郭務悰らが来聘した。その書には「大唐の帝がつつしんで日本国の天皇に問う」とあった。天武の朝にも郭務悰がまた来聘した。その後この国は遣唐使を置いて、外国と信を通わせた。しかし外国からの書簡は、多くはこちらを諸侯王のように扱って語る。世が衰えて弱くなり、それで足りるとするようになった。その失はどこにあるのか。ただ暗誦と文字だけの俗な儒者に糸口を遺してしまい、そのために我が国が我が国を尊ぶことを知らないまでになった。軽々しく蒙昧なものとして持ち上げ、野卑なものと見なすようになった。何と徳の衰えたことか。
解説
唐からの国書に「大唐帝敬みて日本國天皇に問ふ」とあった――「敬」と「日本國天皇」の語が入っている。素行はここに、推古朝の対等が唐代にも引き継がれた証拠を見る。
批判の矛先が向くのは外国ではなく国内の儒者である。「唯だ端を記誦文字の俗儒に遺し、以て我が國の我が國を尊ぶことを知らざるに至る」――暗誦と文字だけの学問が、自国を軽んじる態度を育てた、と。上巻十五節の「敎諭の道」批判が、ここで最も鋭い形で出ている。
『中朝事實』という書物の動機そのものを述べた一節と読んでよい。
禮儀章 四十三太子、表を破りて使を責む ── 表狀の禮を正す
原文
應神帝二十八年、秋九月高麗王遣使朝貢、因以上表、其表曰、高麗王敬白本國也、時太子菟道稚郎子讀其表、怒之、責高麗之使、以表狀無禮、則破其表、
謹按、是正表狀之禮也、凡太子讀外朝之典籍、在此十五年、然乃外朝之文字相通未遠、而太子之聰明、雖莫不通達、中州非同氣相應、如何遽臻弘文之盛乎、高麗者我屬國、而表狀無禮、太子破表責使、其嚴如此、志氣德量、可幷按也、
訓読
應神帝の二十八年、秋九月、高麗王使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。その表に曰く、高麗王敬みて本國に白すと。時に太子菟道稚郎子その表を讀みて、これを怒り、高麗の使を責むるに、表狀無禮なるを以てす。則ちその表を破る。
謹みて按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子外朝の典籍を讀むこと、此に十五年に在り。然らば乃ち外朝の文字相通ずること未だ遠からず。而も太子の聰明、通達せずといふことなしと雖も、中州は同氣相應ずるにあらず。如何ぞ遽かに弘文の盛に臻らんや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なり。太子表を破り使を責む。その嚴なることかくの如し。志氣德量、幷せ按ずべきなり。
現代語訳
応神天皇の二十八年、秋九月、高麗王が使いを遣わして朝貢した。あわせて上表した。その表にいう、「高麗王がつつしんで本国に申し上げる」。そのとき太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、高麗の使者を責めた。表の文言が無禮であるという理由である。そこでその表を破った。
つつしんで考えてみるに、これは表状の禮を正したのである。そもそも太子が外国の典籍を読むようになって、ここに十五年である。とすれば外国の文字が通じるようになってからまだ遠くない。太子の聡明は通じないところがなかったとはいえ、この国は(隋のように)同じ気が応じ合う相手ではなかった。どうして急に文の盛んな段階に至れようか。高麗はわが属国でありながら、表の文言が無禮であった。太子は表を破って使者を責めた。その厳しさはこのようであった。その志と気概、徳の大きさは、あわせて考えるべきである。
解説
書式が禮であることを、逆の側から示した節。「本國」という語が問題にされている――高麗が日本を「本国」と呼ぶのは、書紀の記述では自らを分家のように位置づけつつ、書式としては対等以上を装うものと読まれた。
ただし「高麗は我が屬國」という前提は史実として成り立たない。前節と同じ問題がここにも及んでいる。四〜五世紀の倭と高句麗は敵対関係にあり、広開土王碑が示すのはむしろ倭の敗退である。
読みどころは別のところにある。素行は「外朝の文字相通ずること未だ遠からず」――漢字が入ってまだ日が浅い時期だった、と時代条件を注記している。上巻十四節で太子の教育を論じた延長で、文明の受容には段階があるという見方を示しているのである。
禮儀章 四十四國史・憲章・詔書 ── 文辭命令は國家の大禮なり
原文
履中帝四年、秋八月辛卯朔、戊戌始於諸國、置國史、記言事、達四方志、
謹按、是置國史之禮也、
推古帝十二年夏四月丙寅朔、戊辰皇太子親肇作憲法十七條、
謹按、是作憲章之書初也、
十六年、聘唐帝、其辭曰、東天皇敬白西皇帝、
謹按、是詔書之禮也、此後公式之禮大行、賜新羅王渤海王於璽書、以曰天皇敬問其國王、是乃天子賜諸侯王書禮也、凡文辭命令者、國家之大禮也、因文字言語之褒貶、以存尊卑親疎之禮、爲後世國史之例、草創討論潤色之義、更不可忽也、
訓読
履中帝の四年、秋八月辛卯の朔、戊戌、始めて諸國に國史を置きて、言事を記し、四方の志を達せしむ。
謹みて按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。
推古帝の十二年夏四月丙寅の朔、戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作りたまふ。
謹みて按ずるに、是れ憲章の書を作るの初なり。
十六年、唐帝に聘す。その辭に曰く、東の天皇敬みて西の皇帝に白すと。
謹みて按ずるに、是れ詔書の禮なり。この後公式の禮大いに行はれ、新羅王渤海王に璽書を賜ふに、以て天皇敬みてその國王に問ふと曰ふ。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言語の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創討論潤色の義、更に忽せにすべからず。
現代語訳
履中天皇の四年、秋八月辛卯の朔、戊戌の日、はじめて諸国に国史を置いて、言と事とを記させ、四方の志を届けさせられた。
つつしんで考えてみるに、これが国史を置く禮である。
推古天皇の十二年、夏四月丙寅の朔、戊辰の日、皇太子がみずからはじめて憲法十七条をお作りになった。
つつしんで考えてみるに、これが憲章の書を作ることのはじめである。
十六年、唐の帝に使いを送られた。そのことばにいう、「東の天皇がつつしんで西の皇帝に申し上げる」。
つつしんで考えてみるに、これが詔書の禮である。この後、公式の禮が大いに行われ、新羅王や渤海王に璽書を賜わるのに、「天皇がつつしんでその国王に問う」と記した。これはすなわち天子が諸侯王に賜わる書の禮である。そもそも文辞と命令とは、国家の大いなる禮である。文字と言語の褒めるか貶すかによって、尊卑親疎の禮を保ち、後の世の国史の先例とする。草案を作り、討論し、潤色するという道理を、けっしておろそかにしてはならない。
解説
三つの記事を短い按語で並べる、目録のような節。國史(記録)・憲章(法)・詔書(文書)――いずれも「文字にすること」が禮になる、という括りである。
結びの「文辭命令は、國家の大禮なり」が要点。文書の一語一語が尊卑親疎を表すのだから、草創・討論・潤色(『論語』憲問篇に見える鄭の外交文書の分業)をおろそかにするな、と説く。第十一節で太子が答書を「議した」場面が、ここで原則として言い直されている。
禮儀章 四十五天皇記・國記を録す ── 皇記國記本記を爲るの始
原文
三十八年、皇太子嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部、幷公民等本記、
謹按、是爲皇記國記本記之始也、孝德帝四年有鞍作之事、時父蘇我臣蝦夷臨誅、悉燒天皇記國記、船史惠尺卽疾取所燒國記、而奉中大兄、當此時往古之典籍、悉燒失之、其後天武帝詔群臣、令記定帝紀及上古諸事、命境部連石積等、更肇造新字一部四十四卷、自是連綿典籍再造、文事大行于世、然而中國往古之實、火入焉、舊紀不明、唯猶存灰殘之燼竹、以撫往事、亦萬世之所憾也、嗚呼惜哉、
訓読
三十八年、皇太子嶋大臣共にこれを議し、天皇記及び國記、臣連伴造國造百八十部、幷びに公民等の本記を錄す。
謹みて按ずるに、是れ皇記國記本記を爲るの始なり。孝德帝の四年鞍作の事あり。時に父蘇我臣蝦夷誅に臨み、悉く天皇記國記を燒く。船史惠尺卽ち疾く燒かるるところの國記を取りて、中大兄に奉る。この時に當り、往古の典籍、悉くこれを燒き失ふ。その後天武帝群臣に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。境部連石積等に命じて、更に新字一部四十四卷を肇造す。これより連綿として典籍再び造られ、文事大いに世に行はる。然れども中國往古の實、火ここに入る。舊紀明らかならず。唯だ猶ほ灰殘の燼竹を存して、以て往事を撫す。亦萬世の憾むところなり。嗚呼惜しい哉。
現代語訳
二十八年、皇太子と嶋大臣(蘇我馬子)とがともに議して、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造・百八十部、ならびに公民らの本記を記した。
つつしんで考えてみるに、これが皇記・国記・本記を作ることのはじめである。孝德天皇の四年に鞍作(蘇我入鹿)の事件があった。そのとき父の蘇我臣蝦夷は誅されるに臨んで、ことごとく天皇記・国記を焼いた。船史惠尺がすばやく焼かれかけた国記を取り出して、中大兄皇子に奉った。このとき、遠い昔の典籍はことごとく焼け失われた。その後、天武天皇が群臣に詔して、帝紀および上古の諸事を記し定めさせられた。境部連石積らに命じて、あらためて新字一部四十四巻をはじめて作らせた。これより連綿として典籍がふたたび作られ、文の事業が大いに世に行われた。しかしこの国の遠い昔の実は、火の中に入ってしまった。古い記録は明らかでない。ただ灰の中に残った燃えさしの竹簡を頼りに、過ぎ去った事をなでるばかりである。これもまた万世の恨むところである。ああ、惜しいことだ。
解説
中巻の結び。史書の誕生と焼失を並べて記す。推古二十八年に太子と馬子とが『天皇記』『國記』を録し、乙巳の変でそれが焼かれ、船史惠尺が『國記』だけを火中から救い出した――そして天武朝の修史事業(『古事記』『日本書紀』へつながる)へ。
素行の按語は、めずらしく感情を隠さない。「唯だ猶ほ灰殘の燼竹を存して、以て往事を撫す。亦た萬世の憾むところなり。嗚呼惜しい哉」。
これは『中朝事實』を書いている素行自身の立場でもある。彼が使える史料は、あの火事のあとに残ったものだけなのだ。上巻から一貫して「記録が政の一部である」と説いてきた人が、その記録の欠落を嘆いてこの巻を閉じる。構成として実に効いている。
禮儀章 下では、この後に文字と言語の議論――倭訓と漢字、五音、和漢の字義の違い――が続きます。