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中朝事實 十五(附録「或疑」)

山鹿素行 著 ── 禮に一定の則ありて一定の事なし 原文・訓読・現代語訳・解説の四層 <完結巻>

この読本について

『中朝事實』の附録「或疑」。本編十三章を書き終えた素行が、予想される反論を十三立てて、自分で答えていく――いわば想定問答集です。これで本読本は完結します。

並ぶ問いは多岐にわたります。天地開闢と万物の化生は怪しくないか。日本人は呉の泰伯の子孫だという説はどうか。神代の禮は不備ではないか。後世の修飾は自然の誠に反しないか。典籍がないのに「学」を言えるのか。外国と比べて人材はどうか。儒と仏と道とは。修身崇德の教えはあるのか。なぜ自国を「中國」と称するのか。聖徳太子は本当に聖徳か。そして最後に――禮の制度が代ごとに変わるのはなぜか。

答えのなかには、本編よりも踏み込んだ言い方が出てきます。「我が土に居て我が土を忘れ、その國に食みてその邦を忘れ…猶ほ父母より生れて父母を忘るるがごとし」――泰伯後裔説への反駁は、素行の執筆動機がもっとも直截に出た一段です。

もう一つ、「紅藍紅を染めて紅は藍より紅なり」という比喩も印象的です。神代の禮が素朴だったことを認めたうえで、後の世の修飾はその素朴を裏切るのではなく、染め重ねた結果なのだと説きます。「穴居野處より棟宇閣棲に至り、汙尊抔飲より簠簋籩豆に詑る」――出発点の粗さを恥じない、という態度がここにあります。

そして結びの第二十節。「禮に一定の則ありて、一定の事なし」――変わらない原理と、変わってよい形とを分ける。本編を通じて素行が説いてきた〈中身と形〉の主題が、最後の問いへの答えとして提示されます。

読みどころと注意。第十一〜十三節の仏教・道教批判は、素行の立場がもっとも強く出るところです。西域の風土と結びつけて仏教を論ずる論法は、当時の地理観・文明観に立つもので、そのままには受け取れません。また第十八〜十九節の聖徳太子擁護は、蘇我馬子の弑逆を討たなかったことをどう見るかという難問への答えで、素行が『春秋』の筆法を持ち出して弁護する箇所です。いずれも解説にことわりを入れました。

翻刻について。原文・訓読文は廣瀬豊編『山鹿素行全集 思想篇 第十三巻』の影印からの文字起こしに目視校正を加えたものです。旧字体・異体字を含む古い活字のため、なお誤りが残っている可能性があります。現代語訳と解説はこの読本のために新たに書き起こしたものです。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

或疑(あるひはうたがう)
「ある人は疑って言う」。想定される反論を自分で立てて答える形式。本編各章にも頻出するが、附録はこの形式だけで構成される。
氣化(きか)
気の変化によって物が生ずること。「萬物種を襲ひて來ると雖も、氣に因りて以て化せざるはなし」。
泰伯後裔説(たいはくこうえいせつ)
日本人は呉の泰伯の子孫だとする説。中国の史書に見え、日本でも一部で唱えられた。素行はこれを強く否定する。
自然と當然(しぜんととうぜん)
第七節。「天地人物は皆な自然當然、互ひに相ひ根ざす」。おのずとそうであることと、そうあるべきこととは切り離せない。
紅藍(こうらん)
第六節。「紅藍紅を染めて紅は藍より紅なり」。藍から染め出した紅は、もとの藍より紅い。修飾が本質を裏切らないことの比喩。
授受敩習(じゅじゅこうしゅう)
第八節。「學とは授受敩習の名なり」。授け受け、教え習うこと。書物がなくても学はある、という素行の定義。
上知は移らず(じょうちはうつらず)
『論語』陽貨篇「唯だ上知と下愚とは移らず」。第九節で人材論の前提として引かれる。
公共(こうきょう)
第十五節。「天地とその德を同じくし、人物とその道を共にす。古今以て同じく、尊卑以て共にす」。私意に落ちないこと。
磤馭盧嶋(おのごろじま)
国生みの最初の島。素行は「二神これを國中の柱と爲す」ことを、日本が天地の中である証とする。
過厚と淸薄(かこうとせいはく)
第十七節。外朝(中国)は行きすぎて厚く、西蕃(インド)は薄すぎて及ばない。その中を得ているのが本朝だ、とする。
憲法十七條(けんぽうじゅうしちじょう)
第十八節。素行は太子の建てた憲章を「禮を以て輩を制す」ものとして高く評価し、三宝の説はそれを覆すに足りないとする。
一定の則(いっていののり)
結びの第二十節。「禮に一定の則ありて、一定の事なし」。変わらない原理と、変わってよい形との区別。

登場する神・人物

泰伯(たいはく)
周の古公亶父の長子。位を弟に譲って呉に去ったとされる。日本人がその子孫だという説を素行は否定する。
綏靖天皇(すいぜいてんのう)
神武天皇の子。母方の姨である五十鈴依媛を妃とした。素行は草昧の世に後代の禮を求めるなと説く。
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
唐で李白・王維らと交わった。禮儀章 下では「その本を忘る」と批判されたが、ここでは人材の例として挙げられる。
圓載(えんさい)
入唐した天台僧。皮日休・陸龜蒙ら晩唐の文人と交わった。
粟田真人(あわたのまひと)
則天武后から麟徳殿で宴を賜わった。
橘正通・對馬守親光(たちばなのまさみち・つしまのかみちかみつ)
外国で美官や厚禄を授けられたと素行が挙げる人物。
聖徳太子(しょうとくたいし)
附録の第十八〜十九節で正面から論じられる。憲法十七条の制定と外交とを評価する一方、仏教の受容と、蘇我馬子の弑逆を討たなかったことが問われる。
蘇我馬子(そがのうまこ)
崇峻天皇を弑した。素行は「馬子の弑逆の罪、太子の聰明、未だ嘗てその機を知らずんばあらず」と難問として立てる。
伯夷(はくい)
『孟子』に「悪を悪むこと、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するがごとし」とある潔癖の人。第十九節で孔子の評価とともに引かれる。
管仲(かんちゅう)
斉の桓公を輔けて九合諸侯を成した。主君を殺した者に仕えたが、孔子はその功を認めた。第十九節の論拠となる。

或疑 一萬物の化生 ── 氣化の説更に疑ふべきなし
原文
或疑、天地開闢之始、萬物化生、太甚有可怪疑、
愚謂、世間物之始、未嘗不化生也、陽升而爲天、陰降而爲地、天地豈化生乎、夫天地之閒、往來屈伸無息、其未人蒸鬱、萬物自生、一生之後種類連綿、以充塞於天下、人唯見連續底、以爲無氣化、先其近而忘其遠也、土壤之蒸、必生菌栭、水草之腐、必有𧕅虫、何又蒸腐而已乎、物各化其誼、構精絪縕以生此人、亦非氣化哉、萬物雖襲種聯來、無不因氣以化、氣化之說更無可疑焉也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、天地てんち開闢かいびやくの始はじめ、萬物ばんぶつの化生くわせいは、太はなはだ甚はなはだ怪あやしみ疑うたがふべきありと。
愚ぐ謂おもへらく、世間せけん物ものの始はじめ、未いまだ嘗かつて化生くわせいせずんばあらざるなり。陽やう升のぼりて天てんと爲なり、陰いん降くだりて地ちと爲なる。天地てんち豈あに化生くわせいならずや。夫それ天地てんちの閒あひだ、往來わうらい屈伸くつしん息やむことなし。その未いまだ人ひとあらざる處ところ、蒸鬱じようくつして、萬物ばんぶつ自おのづから生しやうず。一ひとたび生しやうじての後のち、種類しゆるゐ連綿れんめんして、以もつて天下てんかに充塞じゆうそくす。人ひとは唯ただ連續れんぞくする底ていを見みて、以もつて氣化きくわなしと爲なす。その近ちかきを先さきにしてその遠とほきを忘わするるなり。土壤どじやうの蒸むすや、必かならず菌栭きんじを生しやうじ、水草すゐさうの腐くさるや、必かならず𧕅虫ぼうふりあり。何なんぞ又また蒸腐じようふのみならんや。物もの各おのおのその誼ぎを化くわし、構精こうせい絪縕いんうんして以もつてこの人ひとを生しやうず。亦また氣化きくわにあらずや。萬物ばんぶつは種たねを襲よりて聯つらなり來きたると雖いへども、氣きに因よりて以もつて化くわせざるはなし。氣化きくわの說せつ、更さらに疑うたがふべきなきなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「天地が開けたはじめ、万物が化して生じたというのは、はなはだ怪しみ疑うべきところがある」。
私はこう考える。世の中の物のはじめは、化して生じなかったものはない。陽が升って天となり、陰が降って地となった。天地こそが化生したものではないか。そもそも天地のあいだ、往き来し縮み伸びることがやまない。まだ人のいなかったところが蒸し立ちこめて、万物がおのずと生じた。ひとたび生じてからは、種類が連なり続いて天下に満ちた。人はただ連続しているところだけを見て、気の変化などないと考える。近いところを先にして遠いところを忘れているのだ。土が蒸せば必ずきのこが生じ、水草が腐れば必ず虫が湧く。どうして蒸すことと腐ることだけであろうか。物はそれぞれその道理のままに変化し、精を構え気が立ちこめてこの人を生ずる。これもまた気の変化ではないか。万物は種を受け継いで連なってくるとはいえ、気によって変化しないものはない。気化の説は、これ以上疑うべきところがない。

解説
附録の第一問。「神話の万物化生は不合理ではないか」という、もっとも素朴で強い疑いから始まる。
素行の答え方が面白い。神秘に逃げず、身近な自然現象を挙げるのである。「土壤の蒸すや、必ず菌栭を生じ、水草の腐るや、必ず𧕅虫あり」――きのこも虫も、種から来たのではなく気から生じている。とすれば化生は神話の中だけの話ではない、と。
批判も鋭い。「人は唯だ連續する底を見て、以て氣化なしと爲す。その近きを先にしてその遠きを忘るるなり。」――目に見える範囲だけで判断してはならない。
自然発生説は今日では否定されているが、神話を神秘としてではなく自然の理として説明しようとする姿勢は、素行の合理性がよく出たところである。

或疑 二或は疑ふ、中華は吳の泰伯の苗裔なりと
原文
或疑、中華者、吳泰伯之苗裔、故神廟揭三事以爲額、嘗東山之僧圓月、修日本紀、以爲泰伯之後、朝儀不協、而遂火其書、大概中華之朝儀多襲外國之制例、否、
愚謂、中華之始、舊紀所著、無可疑、而以吳泰伯爲祖者、蓋出夫僭妄之虛聲、文字之輩、章句之儒、好奇彫空之所設也、夫中華精秀于萬邦乎、悉出神聖之知德、故國稱神國、位稱神位、器稱神器、其敎曰神勅、其兵曰神兵、是神體物不遺也、後世好偉其虛、稱無稽之言、皆記誦之信耳、而忘其所本也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、中華ちうくわは吳ごの泰伯たいはくの苗裔べうえいなり。故ゆゑに神廟しんべうに三事さんじを揭かかげて以もつて額がくと爲なす。嘗かつて東山とうざんの僧そう圓月ゑんげつ、日本紀にほんぎを修しうするに、以もつて泰伯たいはくの後のちと爲なす。朝儀てうぎ協かなはず、而しかして遂つひにその書しよを火やく。大概たいがい中華ちうくわの朝儀てうぎは多おほく外國ぐわいこくの制例せいれいを襲よるや、否いなやと。
愚ぐ謂おもへらく、中華ちうくわの始はじめは、舊紀きうきの著あらはすところ、疑うたがふべきなし。而しかるに吳ごの泰伯たいはくを以もつて祖そと爲なすは、蓋けだし夫かの僭妄せんまうの虛聲きよせい、文字もじの輩やから、章句しやうくの儒じゆ、奇きを好このみ空くうを彫ほるの設まうくるところに出いづるなり。夫それ中華ちうくわの萬邦ばんぱうに精秀せいしうなるや、悉ことごとく神聖しんせいの知德ちとくに出いづ。故ゆゑに國くにを神國しんこくと稱しようし、位くらゐを神位しんゐと稱しようし、器うつはを神器じんぎと稱しようし、その敎をしへを神勅しんちよくと曰いひ、その兵へいを神兵しんぺいと曰いふ。是これ神かみ物ものに體たいして遺のこさざるなり。後世こうせいその虛きよを偉いとするを好このみ、無稽むけいの言げんを稱しようす。皆みな記誦きしようの耳みみを信しんじて、その本もととするところを忘わするるなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「この国は呉の泰伯の子孫であるという。だから神廟に三つの事を掲げて額としている。かつて東山の僧である圓月が『日本紀』を修めたとき、泰伯の後裔とした。朝廷の議に合わず、ついにその書を焼いた。おおむねこの国の朝儀は、多くは外国の制度の先例に倣っているのではないか」。
私はこう考える。この国のはじめについては、古い記録が記すところに疑うべきものはない。それなのに呉の泰伯を祖とするのは、思うにあの身のほど知らずの虚しい言い立て、文字だけの輩、章句だけの儒者が、奇を好み空を彫るように作り出したものである。そもそもこの国が万邦にぬきんでているのは、ことごとく神聖なる方々の知と徳とに由来する。だから国を神国と称し、位を神位と称し、器を神器と称し、その教えを神勅といい、その兵を神兵という。これは神が万物に行きわたって残らないということである。後の世は虚しいことを偉いとするのを好み、根拠のない言を唱える。みな暗誦して聞いたことだけを信じて、その本とするところを忘れているのだ。

解説
泰伯後裔説――日本人は周の泰伯の子孫だという説への反駁。中世に中巌圓月が『日本書紀』の改修でこれを採り、朝廷の容れるところとならずに焚書されたという逸話が引かれる。
素行の批判の矛先は、また国内の学者に向く。「文字の輩、章句の儒、奇を好み空を彫るの設くるところ」――禮儀章 中四十二節の「記誦文字の俗儒」とまったく同じ言い方である。
そして「皆記誦の耳を信じて、その本とするところを忘るるなり」。聞きかじりを信じて自分の足もとを忘れる、という批判が、附録でも繰り返される。次節でこの批判がさらに強い言葉になる。

或疑 三我が土に居て我が土を忘る ── 亂臣なり賊子なり
原文
竊按、人之壽夭、必繫世之淳漓、上古之人多壽、人之度量、必襲地之水土、中華之人多靈武、凡自人皇建至崇神帝、十世、年歷七百年、聖主壽算各向百歲、外朝之王者、此閒三十有餘世、若泰伯之苗末、何異外朝之壽、況帝之聖武雄才、果扶手長跪之屬乎、蓋居我土而忘我土、食其國而忘其邦、生其天下而忘其天下者、猶生于父母而忘父母、豈是人之道乎、唯非未知之而已、附會牽合、以我國爲他國者、亂臣也賊子也、朝儀多襲外朝之制、亦必非效此、自然之勢也、

訓読
竊ひそかに按あんずるに、人ひとの壽夭じゆえうは、必かならず世よの淳漓じゆんりに繫かかる。上古しやうこの人ひとは壽いのちながきこと多おほし。人ひとの度量どりやうは、必かならず地ちの水土すゐどを襲よる。中華ちうくわの人ひとは靈武れいぶなること多おほし。凡およそ人皇にんわうより崇神帝すじんていに建いたるまで、十世じつせい、年とし七百年しちひやくねんを歷へたり。聖主せいしゆの壽算じゆさん各おのおの百歲ひやくさいに向なんなんとす。外朝ぐわいてうの王者わうじやは、この閒かん三十有餘世さんじふいうよせいなり。若もし泰伯たいはくの苗末べうまつならば、何なんぞ外朝ぐわいてうの壽じゆに異ことならんや。況いはんや帝ていの聖武せいぶ雄才ゆうさい、果はたして扶手長跪ふしゆちやうきの屬たぐひならんや。蓋けだし我わが土どに居ゐて我わが土どを忘わすれ、その國くにに食はみてその邦くにを忘わすれ、その天下てんかに生うまれてその天下てんかを忘わするる者ものは、猶なほ父母ふぼより生うまれて父母ふぼを忘わするるがごとし。豈あに是これ人ひとの道みちならんや。唯ただ未いまだこれを知しらざるのみに非あらず。附會ふくわい牽合けんがふして、我わが國くにを以もつて他國たこくと爲なす者ものは、亂臣らんしんなり賊子ぞくしなり。朝儀てうぎの多おほく外朝ぐわいてうの制せいを襲よるは、亦また必かならずしもこれに效ならふに非あらず。自然しぜんの勢いきほひなり。

現代語訳
ひそかに考えてみるに、人の寿命の長短は、必ずその世の厚さ薄さにかかっている。上古の人は長寿の者が多い。人の度量は、必ずその土地の風土を受け継ぐ。この国の人は霊妙で武にすぐれた者が多い。そもそも人皇から崇神天皇に至るまで十代、年数は七百年を経ている。聖なる君主の寿命はそれぞれ百歳に近い。外国の王者は、その間に三十余代である。もし泰伯の末裔であるなら、どうして外国の寿命と異なることがあろうか。まして天皇の聖なる武と雄々しい才とは、はたして手を組んでひざまずくような類であろうか。思うに、わが土地にいながらわが土地を忘れ、その国の食を食みながらその国を忘れ、その天下に生まれながらその天下を忘れる者は、ちょうど父母から生まれながら父母を忘れるようなものだ。どうしてこれが人の道であろうか。ただ知らないというだけではない。こじつけ引き寄せて、わが国を他国だとする者は、乱臣であり賊子である。朝儀が多く外国の制度に倣っているのも、必ずしもこれを真似たのではない。自然のなりゆきである。

解説
『中朝事實』の執筆動機が、もっとも直截に出た一段。
「我が土に居て我が土を忘れ、その國に食みてその邦を忘れ、その天下に生れてその天下を忘るる者は、猶ほ父母より生れて父母を忘るるがごとし。」――自国を知らないことを、親を忘れることになぞらえる。禮儀章 中四十二節「我が國の我が國を尊ぶことを知らざるに至る」の、より強い言い直しである。
ただし「我が國を以て他國と爲す者は、亂臣なり賊子なり」という断罪は、学説の当否を忠不忠に置き換えるもので、議論としては行きすぎている。
また前半の論拠――神代の紀年(百歳近い天皇が十代で七百年)を実数として扱う――は、そのまま受け取れない。神話的紀年である。
最後の「朝儀の多く外朝の制を襲るは、必ずしもこれに效ふに非ず。自然の勢なり」は、禮儀章 下四十九節「短を措きて長に就くの道」と同じ立場で、模倣ではなく合理的な選択だという説明である。

或疑 四草昧の始、禮の全備を求むべからず
原文
或疑、綏靖帝以其姨五十鈴依媛爲元妃、兄妹於禮、最可長乎、
愚謂、禮者、本天地之道、從人物之情、監數世之勢、以節其制、故草昧之始、禮之全備、不可求之、外朝伏羲女媧兄妹以爲夫婦、堯舜同姓以爲昏姻、可幷按也、且禮必有一代之制、有水土之差、故禮者以其至誠、以品節之、以外朝之例不可準焉、

訓読
或あるひは疑うたがふ、綏靖帝すゐぜいていその姨をば五十鈴依媛いすずよりひめを以もつて元妃げんぴと爲なす。兄妹けいまいは禮れいにおいて、最もつとも長ちやうずべけんやと。
愚ぐ謂おもへらく、禮れいは、天地てんちの道みちに本もとづき、人物じんぶつの情じやうに從したがひ、數世すうせいの勢いきほひを監かんがみて、以もつてその制せいを節せつす。故ゆゑに草昧さうまいの始はじめ、禮れいの全備ぜんびは、これを求もとむべからず。外朝ぐわいてうの伏羲ふくぎ女媧ぢよくわ兄妹けいまい以もつて夫婦ふうふと爲なす、堯げう舜しゆん同姓どうせい以もつて昏姻こんいんを爲なす。幷あはせ按あんずべきなり。且かつ禮れいには必かならず一代いちだいの制せいあり、水土すゐどの差さあり。故ゆゑに禮れいはその至誠しせいを以もつて、以もつてこれを品節ひんせつす。外朝ぐわいてうの例れいを以もつて準じゆんとすべからず。

現代語訳
ある人は疑って言う。「綏靖天皇はその母方の叔母である五十鈴依媛を第一の妃とされた。近親の婚は禮においてもっとも重んずべきことではないのか」。
私はこう考える。禮は天地の道に基づき、人と物との情に従い、幾代かのなりゆきを見きわめて、その制度に節目をつける。だから物事がまだ定まらないはじめに、禮が完全に備わっていることを求めてはならない。外国でも伏羲と女媧とは兄妹でありながら夫婦となり、堯と舜とは同姓で婚姻をした。あわせて考えるべきである。そのうえ禮には必ずその時代ごとの制度があり、風土の違いがある。だから禮は、その至誠によって段階を定めるのである。外国の先例を基準としてはならない。

解説
近親婚をどう見るか、という問い。素行の答えは時代を遡って後代の基準を当てはめるなというもの。「草昧の始、禮の全備は、これを求むべからず」。
そのうえで中国側の例(伏羲と女媧、堯と舜)を挙げて「幷せ按ずべきなり」――そちらも同じではないか、と返す。附録に頻出する論法で、相手の基準をそのまま相手に向けるやり方である。
結びの「外朝の例を以て準とすべからず」は、祭祀章十七節「中朝また中朝の禮あり」、禮儀章 中二十六節「外朝の例を必とし…尤も不正の至りなり」と一続きの主張である。

或疑 五神聖の天縱、豈に一擧して萬目を備へんや ── 時勢と機微
原文
或疑、神聖之天縱、豈一擧而備萬目、待後世之修飾、而后潤色哉、
愚謂、事物之生成、必有時有勢、機微之豫備、時勢未及則不可著明擧行、能與時勢屈伸者、神聖也、凡卵仁旣備時夜棟梁之機、而向卵仁求之、太早計者、時勢之然也、卵仁、未嘗無其機矣、蓋神聖之知也德也、旣太極、含蓄來、草昧未遠、時勢屯蒙、未可發徵、皇統連綿之後、人情之恆、事物之感、不可掩、而品節修飾、此道無不致、

訓読
或あるひは疑うたがふ、神聖しんせいの天縱てんしよう、豈あに一擧いつきよして萬目ばんもくを備そなへんや。後世こうせいの修飾しうしよくを待まちて、而しかして后のちに潤色じゆんしよくせんやと。
愚ぐ謂おもへらく、事物じぶつの生成せいせいには、必かならず時ときあり勢いきほひあり。機微きびの豫備よび、時勢じせい未いまだ及およばざれば則すなはち著明ちよめいに擧あげ行おこなふべからず。能よく時勢じせいと與ともに屈伸くつしんする者ものは、神聖しんせいなり。凡およそ卵仁らんじんは旣すでに時夜じや棟梁とうりやうの機きを備そなふ。而しかるに卵仁らんじんに向むかひてこれを求もとむるは、太はなはだ早計さうけいなり。時勢じせいの然しからしむるなり。卵仁らんじんは、未いまだ嘗かつてその機きなくんばあらず。蓋けだし神聖しんせいの知ちなり德とくなり、旣すでに太極たいきよくにして、含蓄がんちくし來きたる。草昧さうまい未いまだ遠とほからず、時勢じせい屯蒙ちゆんもうなれば、未いまだ徵ちようを發はつすべからず。皇統くわうとう連綿れんめんの後のち、人情にんじやうの恆つね、事物じぶつの感かん、掩おほふべからず。而しかして品節ひんせつ修飾しうしよく、この道みち致いたさざるなし。

現代語訳
ある人は疑って言う。「神聖なる方々の天から与えられた資質があれば、一挙にすべての項目を備えられたはずではないか。どうして後の世の修飾を待って、そのあとで色づけするのか」。
私はこう考える。事物が生じ成るには、必ず時があり勢いがある。かすかな兆しの備えは、時と勢いとがまだ及ばなければ、はっきり掲げて行うことはできない。よく時勢とともに屈み伸びできるのが、神聖なる方々である。そもそも卵の中身には、すでに夜明けを告げる鶏となる兆しが備わっている。それなのに卵に向かってそれを求めるのは、あまりにも早すぎる計らいである。時勢がそうさせるのだ。卵の中身に、その兆しがなかったことはない。思うに神聖なる方々の知も徳も、すでに究極のものとして内に含んで来ている。物事がまだ定まらず、時勢が混沌としていれば、まだ兆しを表に出すことはできない。皇統が連綿と続いた後、人情の常や事物の感じが覆いようもなくなって、段階をつけ飾り整えるという道が、尽くされないことはない。

解説
「なぜ神代に完成していなかったのか」という問いへの答え。素行が持ち出すのは卵の比喩である。
「卵仁は旣に時夜棟梁の機を備ふ。而るに卵仁に向かひてこれを求むるは、太だ早計なり。」――卵の中にはすでに鶏になる可能性がある。だが卵に向かって「鳴け」と求めるのは早すぎる。可能性はあるが、時が来なければ現れない。
禮儀章 上十七節の「建儲+論敎」、聖政章一節の「義は必ず時に隨ふ」と同じ時間の感覚である。素行は制度を、完成品としてではなく時とともに開いていくものとして見る。次節の紅藍の比喩がこれを承ける。

或疑 六紅藍紅を染めて、紅は藍より紅なり
原文
紅藍染紅、紅紅於藍、靑藍染靑、色靑於藍者、在其染練之久、故穴居野處、至棟宇閣棲、汙尊抔飲、詑簠簋籩豆、結繩鳥跡、屆科斗篆隷、皆其初太疎、而經歷之漸、飾文潤色、竟及乎黼黻文章也、然乃太上貴素樸以稱、若求修飾、則太早計而已、

訓読
紅藍こうらん紅べにを染そめて、紅べには藍あゐより紅あかく、靑藍せいらん靑あをを染そめて、色いろは藍あゐより靑あをしとは、その染練せんれんの久ひさしきに在あり。故ゆゑに穴居けつきよ野處やしよより、棟宇とうう閣棲かくせいに至いたり、汙尊をそん抔飲はういんより、簠簋ほき籩豆へんとうに詑いたり、結繩けつじよう鳥跡てうせきより、科斗かと篆隷てんれいに屆いたる。皆みなその初はじめ太はなはだ疎そにして、經歷けいれきの漸ぜん、飾文しよくぶん潤色じゆんしよくして、竟つひに黼黻ほふつ文章ぶんしやうに及およぶなり。然しからば乃すなはち太上たいじやうは素樸そぼくを貴たふとびて以もつて稱しようす。若もし修飾しうしよくを求もとむれば、則すなはち太はなはだ早計さうけいなるのみ。

現代語訳
紅花の藍が紅を染めて、その紅はもとの藍より紅く、青い藍が青を染めて、その色はもとの藍より青いというのは、染め練ることの久しさによる。だから穴に住み野に暮らすところから、棟をあげ楼閣に住むまでになり、地面をくぼめて酒を盛り手ですくって飲むところから、簠簋・籩豆の器を用いるまでになり、縄の結び目と鳥の足あとから、科斗文字・篆書・隷書に至った。みなそのはじめははなはだ粗く、時を経るにつれてしだいに飾り整え色を添えて、ついには礼服の精緻な模様にまで及んだのである。とすれば、いちばん古いところは素朴であることをこそ貴んで称える。もしそこに修飾を求めるなら、あまりにも早すぎる計らいというだけである。

解説
「靑は藍より出でて藍より靑し」――『荀子』の名高い一句を、素行は文明の発展そのものにあてはめる。
三つの系列が並ぶ。住まい(穴居野處 → 棟宇閣棲)、器(汙尊抔飲 → 簠簋籩豆)、文字(結繩鳥跡 → 科斗篆隷)。禮儀章 下五十一節の書体史がここで再登場する。
眼目は結びである。「太上は素樸を貴びて以て稱す。若し修飾を求むれば、則ち太だ早計なるのみ。」――出発点が粗いのは当たり前で、それを恥じる必要はない。後世の修飾は素朴を裏切るのではなく、染め重ねた結果である。
祭祀章十一節の「茅屋の大廟」――飾らないことで徳を示す――と読み合わせると、素行が素朴も修飾もどちらも肯定していることが分かる。

或疑 七自然と當然と互ひに相ひ根ざす
原文
或疑、後世修飾之禮、殆非神聖自然之誠乎、
愚謂、天地人物皆自然當然互相根、蓋陰陽積累甚多、而后有此天地、有此人物、是當然之則也、陰自降陽自昇、天地萬物自然之道也、若必自然、本於虛無、薄於慈悲、若專當然、要於修飾、投於騈黃、神聖之道有自然當然、因其事物、致其道而已、故草業潤色相因、而后天下之禮行焉、

訓読
或あるひは疑うたがふ、後世こうせい修飾しうしよくの禮れいは、殆ほとんど神聖しんせい自然しぜんの誠まことに非あらざるかと。
愚ぐ謂おもへらく、天地てんち人物じんぶつは皆みな自然しぜん當然たうぜん互たがひに相あひ根ねざす。蓋けだし陰陽いんやう積累せきるゐすること甚はなはだ多おほくして、而しかして后のちにこの天地てんちあり、この人物じんぶつあり。是これ當然たうぜんの則のりなり。陰いん自おのづから降くだり陽やう自おのづから昇のぼるは、天地てんち萬物ばんぶつ自然しぜんの道みちなり。若もし必かならず自然しぜんとせば、虛無きよむに本もとづき、慈悲じひに薄せまらん。若もし專もつぱら當然たうぜんとせば、修飾しうしよくに要もとめ、騈黃べんくわうに投とうぜん。神聖しんせいの道みちは自然しぜん當然たうぜんあり。その事物じぶつに因よりて、その道みちを致いたすのみ。故ゆゑに草業さうげふ潤色じゆんしよく相あひ因よりて、而しかして后のちに天下てんかの禮れい行おこなはる。

現代語訳
ある人は疑って言う。「後の世に飾り整えた禮は、ほとんど神聖なる方々の自然の誠に反するのではないか」。
私はこう考える。天地も人も物も、みな「自然」と「当然」とが互いに根ざし合っている。思うに陰と陽とが幾重にも積み重なって、そののちにこの天地があり、この人と物とがある。これが「当然」の法則である。陰がおのずと降り陽がおのずと昇るのは、天地万物の「自然」の道である。もしひたすら自然だけを取るなら、虚無に基づき、慈悲に傾くことになる。もしもっぱら当然だけを取るなら、飾ることばかりを求め、こじつけに落ちる。神聖なる方々の道には、自然も当然もある。その事物に応じて、その道を尽くすだけである。だから創業と潤色とが互いに拠り合って、そのうえで天下の禮が行われるのである。

解説
自然(おのずとそうである)と當然(そうあるべきである)――この二つを分けたうえで、「互ひに相ひ根ざす」と結ぶ。
そして両極端を斥ける。自然だけなら「虛無に本づき、慈悲に薄らん」――老荘と仏教の側へ落ちる。當然だけなら「修飾に要め、騈黃に投ぜん」――形式主義とこじつけに落ちる。
これも二本立ての論法である。聖政章十八節の修身+制度、禮儀章 下七十節の禮+儀と、まったく同じ形をしている。「草業潤色相因りて、而して后に天下の禮行はる」――創業と修飾とは対立しない。前二節の議論がここで理屈づけられる。

或疑 八中華に典籍の證すべきなし ── 學とは授受敩習の名なり
原文
或疑、中華無典籍可證、而今以學教、庶幾乎附會乎、
愚謂、學者授受敩習之名也、既有人物、則未嘗無授受敩習之義也、謹按、太古天神有宜汝往循之教、而二神受之傳業、乃有唱和之效、天孫又受神勅而繼其志、人皇同床共殿、以敩習神靈之教、懼若小心以存如在之誠、皆是授受敩習之義也、典籍者、史氏記其事而己、何必讀書執簡而己哉、況入鹿之亂有書厄乎、夫外朝者、優文之水土、而言學字、始出於伊訓、然乃五帝之盛、大夏之謨、豈無盛乎、俗學未知學、故以重於文書爲率、是章句之末也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、中華ちうくわは典籍てんせきの證しようすべきなし。而しかるに學教がくけうを以もつてするは、庶こひねがはくは附會ふくわいに幾ちかからんかと。
愚ぐ謂おもへらく、學がくは授受じゆじゆ敩習かうしふの名ななり。既すでに人物じんぶつあるときは、則すなはち未いまだ嘗かつて授受じゆじゆ敩習かうしふの義ぎなくんばあらず。謹つつしんで按あんずるに、太古たいこ、天神てんじんに宜よろしく汝なんぢ往ゆきて循をさむべしの教をしへあり。而しかして二神にしんこれを受うけて業げふを傳つたへ、乃すなはち唱和しやうわの效かうあり。天孫てんそん又また神勅しんちよくを受うけてその志こころざしを繼つぎ、人皇にんわうは床ゆかを同おなじくし殿とのを共ともにして、以もつて神靈しんれいの教をしへを敩習かうしふし、懼若くじやくとして心こころを小せうにし、以もつて如在によざいの誠まことを存そんす。皆みな是これ授受じゆじゆ敩習かうしふの義ぎなり。典籍てんせきは、史氏ししその事ことを記しるすのみ。何なんぞ必かならずしも書しよを讀よみ簡かんを執とるのみならんや。況いはんや入鹿いるかの亂らんに書厄しよやくあるをや。夫それ外朝ぐわいてうは優文いうぶんの水土すゐどにして、學がくの字じを言いふは、始はじめて伊訓いくんに出いづ。然しからば乃すなはち五帝ごていの盛さかんなる、大夏たいかの謨ぼ、豈あに盛さかんなること無なからんや。俗學ぞくがくは未いまだ學がくを知しらず、故ゆゑに文書ぶんしよを重おもんずるを以もつて率そつと爲なす。是これ章句しやうくの末すゑなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「この国には典拠とすべき典籍がない。それなのに學の教えをもって説くのは、こじつけに近いのではないか」。
私はこう考える。學とは、授け受け・習い覚えることの名である。すでに人と物とがある以上、授け受け習い覚えるという意味がなかったためしはない。謹んで考えるに、太古、天神には「汝ゆきて修めよ」という教えがあり、二神はこれを受けて業を伝え、そこに唱え和するはたらきがあった。天孫はまた神勅を受けてその志を継ぎ、人皇は床を同じくし殿を共にして神靈の教えを習い覚え、おそれつつしみ心を小さくして、神がそこにおられるかのような誠を保った。みなこれが授け受け習い覚えるということである。典籍というものは、史官がその事を記したものにすぎない。どうして必ずしも書を読み木簡を手にすることだけであろうか。まして入鹿の乱には書物の災厄があったのだ。そもそも外国は文を尊ぶ風土であって、「學」の字が使われるのは伊訓にはじめて出てくる。とすれば五帝の盛んな治世や大夏のはかりごとに、盛んなものがなかったであろうか。俗学はまだ學というものを知らず、だから文書を重んずることを第一とする。これは章句の末節である。

解説
「典籍がないなら学問もなかったのではないか」――この書の全体に向けられうる批判への、正面からの答え。
素行の反論は學の定義を書物から切り離すことにある。「學は授受敩習の名なり」――教え伝え、習い覚えること。それなら書物の有無とは関わらない。
そのうえで三点を挙げる。書物が無かったのではなく焼けた(入鹿の乱=乙巳の變で失われた『天皇記』『國記』)、中国でも「學」の字の初出は『書經』伊訓であって五帝の世には無い、文書を重んじすぎるのは章句の末。
神知章一節「知は行の始め」以来の、知を書物に閉じこめない立場である。ただし、記録が無いことをそのまま積極的な根拠にはできない。この反論は批判をかわしはするが、素行の立論を裏づけるものではない。

或疑 九外朝及び高麗を中華の人材に比せば ── 上知は移らず
原文
或疑、外朝及高麗比中華之人材、其優劣如何、
愚謂、地有東西之阻、世有前後之差、而中華之神聖與外國之聖人一者、上知之不移、而同天地之秀氣也、夫往古神勅可以比堯舜禹之授受、淸廟茅屋、粢食不擊、可以比神廟之制、人統之授時可以比用夏時、故合之不論、逮如中人、外朝之人材更不可抗中華也、凡春秋傳所載、亂臣賊子、及名家冑族之冒惡沈婬、中華未曾有之屬不乏、況勃谿之前後乎、

訓読
或あるひは疑うたがふ、外朝ぐわいてう及および高麗かうらいを中華ちうくわの人材じんざいに比ひせば、その優劣いうれつ如何いかんと。
愚ぐ謂おもへらく、地ちに東西とうざいの阻そあり、世よに前後ぜんごの差さあり。而しかして中華ちうくわの神聖しんせいと外國ぐわいこくの聖人せいじんとを一いつにするものは、上知じやうちの移うつらずして、天地てんちの秀氣しうきを同おなじくすればなり。夫それ往古わうこの神勅しんちよくは以もつて堯げう舜しゆん禹うの授受じゆじゆに比ひすべく、淸廟せいべう茅屋ばうをく、粢食しし擊かざらずは以もつて神廟しんべうの制せいに比ひすべく、人統じんとうの授時じゆじは以もつて夏かの時ときを用もちふるに比ひすべし。故ゆゑにこれを合あはせて論ろんぜず。その中人ちゆうじんの如ごときに逮およびては、外朝ぐわいてうの人材じんざい更さらに中華ちうくわに抗かうすべからざるなり。凡およそ春秋傳しゆんじうでんに載のするところ、亂臣らんしん賊子ぞくし、及および名家めいか冑族ちうぞくの冒惡ぼうあく沈婬ちんいん、中華ちうくわに未いまだ曾かつて有あらざるの屬たぐひ乏とぼしからず。況いはんや勃谿ぼつけいの前後ぜんごをや。

現代語訳
ある人は疑って言う。「外国および高麗を、この国の人材と比べれば、その優劣はどうか」。
私はこう考える。土地には東西の隔たりがあり、世には前後の差がある。それでもこの国の神聖なる方々と外国の聖人とが一つであるのは、最上の知者は移り変わらず、天地のすぐれた気を同じくしているからである。そもそも往古の神勅は堯・舜・禹の位の授受に比べられ、清らかな茅葺きの廟に飾らぬ供物を供えるのは神廟の制に比べられ、人皇の代の暦の授け方は夏の暦を用いることに比べられる。だから合わせて論ずるまでもない。中くらいの人物になると、外国の人材はもはやこの国に対抗できない。そもそも『春秋』の伝が載せるところの乱臣賊子や、名家・名門の悪事や淫乱には、この国にかつて無かった類のものが少なくない。まして家庭内の争いの前後についてはなおさらである。

解説
人材の比較という、もっとも比べにくい問いに正面から答えた一段。
まず聖人の水準では優劣がないとする。「上知は移らず」(『論語』)を引いて、最高の人格は土地によって変わらないと言う。神勅=堯舜禹の禪讓、茅屋の祭=淸廟、暦の授時=夏時。祭祀章十一節・十四節で述べたことの再確認である。
問題は後半で、「中人の如きに逮びては、外朝の人材更に中華に抗すべからず」――中くらいの人物なら日本が上だ、と言い切る。根拠は『春秋』に載る乱臣賊子の多さである。だがこれは記録が詳しい側ほど不利になる比べ方であって、公平な比較にはなっていない。素行自身が前節で「典籍は史氏その事を記すのみ」と述べたばかりであることを思えば、なおさらである。この種の優劣論には、読む側の留保が要る。

或疑 十仲滿・粟田阿倍と書畫百工の技 ── 高麗は文と云ひ武と云ひ
原文
如詩賦章句、皆祖外國、而中華之文士鳴于此者、不可枚擧、仲滿圓載金蘭於盛唐之李王皮陸、唯非同時于此而已、不愧於彼、粟田阿倍者中朝之微臣、而或安於麟徳、或寵於肅宗、唯非不恊文章而已、可幷按也、書畫百工之技、劒刀器械之藝、亦多不愧於外國也、高麗者本我屬國也、云文云武、又不可比於外朝、況於中華乎、故慢表而受愧、獻鐵楯弓弭表、共恐懼中朝之文武、後世橘正遠少事親席、對馬守親光射虎、而麗王各授美官厚祿之屬、其人物可不言而知之也、

訓読
詩賦しふ章句しやうくの如ごときは皆みな外國ぐわいこくを祖そとして、中華ちうくわの文士ぶんしここに鳴なる者もの、枚擧まいきよすべからず。仲滿ちゆうまん圓載ゑんさいは盛唐せいたうの李り王わう皮ひ陸りくに金蘭きんらんたり。唯ただここに時ときを同おなじくするに非あらざるのみ。彼かれに愧はぢず。粟田あはた阿倍あべは中朝ちうてうの微臣びしんにして、或あるいは麟徳りんとくに安やすんじ、或あるいは肅宗しゆくそうに寵ちようせらる。唯ただ文章ぶんしやうに恊かなはざるのみに非あらず。幷あはせ按あんずべきなり。書畫しよぐわ百工ひやくこうの技わざ、劒刀けんたう器械きかいの藝げいも亦また多おほく外國ぐわいこくに愧はぢざるなり。高麗かうらいは本もと我わが屬國ぞくこくなり。文ぶんと云いひ武ぶと云いひ、又また外朝ぐわいてうに比ひすべからず。況いはんや中華ちうくわに於おいてをや。故ゆゑに慢みだりに表へうして愧はぢを受うけ、鐵てつの楯たて弓弭ゆはずの表へうを獻けんじて、共ともに中朝ちうてうの文武ぶんぶに恐懼きようくす。後世こうせい橘正遠たちばなのまさとほ少わかくして親席しんせきを事こととし、對馬守つしまのかみ親光ちかみつ虎とらを射いて、麗王れいわう各おのおの美官びくわん厚祿こうろくを授さづくるの屬たぐひ。その人物じんぶつ言いはずして知しるべきなり。

現代語訳
詩や賦や章句のようなものは、みな外国を祖としながら、この国の文士でそこに名を響かせた者は数えきれない。仲満(阿倍仲麻呂)や円載は、盛唐の李白・王維・皮日休・陸亀蒙らと深く交わった。ただ同じ時代にこの国にいたというだけではなく、彼らに劣ってはいなかった。粟田真人や阿倍仲麻呂はこの国のわずかな身分の臣であったのに、あるいは麟徳殿に迎えられ、あるいは粛宗に寵せられた。ただ文章が及ばなかったのではないというだけではない。あわせて考えるべきである。書画や諸職人の技、刀剣や器械の技芸も、多くは外国に劣らない。高麗はもともとわが属国である。文といい武といい、外国にも比べられない。まして中華においてはなおさらである。だからみだりに上表して恥を受け、鉄の楯や弓弭の表を献じて、ともにこの国の文武に恐れかしこまった。後の世に橘正遠が若くして親席に侍し、対馬守親光が虎を射て、高麗の王がそれぞれ良い官と厚い禄を授けたたぐいがある。その人物のほどは言わずして知られよう。

解説
前節を受けた具体例。阿倍仲麻呂がここでは肯定的に扱われている点に注意したい。禮儀章 下六十七節では「終に歸らず」として批判された同じ人物が、ここでは唐の一流の文人と対等に交わった証拠として挙がる。素行の議論が論点ごとに人物評価を組み替えていることがよく見える箇所である。
後半の高麗についての記述――「高麗は本我が屬國なり」、鉄の楯・弓弭の表を献じたという話――は、『日本書紀』欽明紀などの記述に基づくが、史実としては成り立たない。武德章 下二十三〜二十七節の三韓征討・任那日本府の記述と同じく、近世の対外認識の枠組みの中で書かれたものとして読む必要がある。技芸の水準を誇る前半と、属国意識を語る後半とは、切り離して受け取るのが妥当である。

或疑 十一儒と釋道と ── 水土の差、風俗の殊
原文
或疑、儒與釋道、共異國之教、而異中國之道乎、
愚謂、神聖之大道、唯一而不二、法天地之體而本人物之情也、其教異端者、皆因水土之差風俗之殊、五方之民各有其性、以不同、唯中華得天地精秀之氣、一于外朝、故神授之聖受之、建極垂統、天下之人物各得其處、殆幾于千年、而後住吉大神賜三韓於我、初外國之典籍相通、以知其樸、其曰神教、其曰聖教、其皇極之受授天下之治致、猶合符節、自是通信修好、摘其經典、便其文字、以爲今日之補拾也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、儒じゆと釋道しやくだうとは共ともに異國いこくの教をしへにして、中國ちゆうごくの道みちに異ことなるかと。
愚ぐ謂おもへらく、神聖しんせいの大道だいだうは唯ただ一いつにして二にならず、天地てんちの體たいに法のつとりて人物じんぶつの情じやうに本もとづくなり。その教をしへの端たんを異ことにするは、皆みな水土すゐどの差さと風俗ふうぞくの殊ことなるとに因よれり。五方ごはうの民たみ各おのおのその性せいあり、以もつて同おなじからず。唯ただ中華ちうくわは天地てんち精秀せいしうの氣きを得えて、外朝ぐわいてうに一いつなり。故ゆゑに神かみこれを授さづけ聖ひじりこれを受うけ、極きよくを建たて統とうを垂たれたまふ。天下てんかの人物じんぶつ各おのおのその處ところを得うること殆ほとんど千年せんねんに幾ちかく、而しかして後のち住吉大神すみのえのおほかみ三韓さんかんを我われに賜たまひ、初はじめて外國ぐわいこくの典籍てんせき相あひ通つうじ、以もつてその樸ぼくを知しる。その神教しんけうと曰いひ、その聖教せいけうと曰いひ、その皇極くわうきよくの受授じゆじゆ、天下てんかの治致ちち、猶なほ符節ふせつを合あはせたるがごとし。是これより信しんを通つうじ好よしみを修をさめ、その經典けいてんを摘とり、その文字もじを便つかひ、以もつて今日こんにちの補拾ほしふと爲なすなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「儒と釋(仏)・道とは、ともに外国の教えであって、この国の道とは異なるのではないか」。
私はこう考える。神聖なる方々の大道はただ一つで二つではなく、天地の体に法り、人と物との情に基づいている。その教えのあらわれ方が異なるのは、みな風土の違いと風俗の異なりによる。東西南北中央の民にはそれぞれの性質があって、同じではない。ただこの国は天地の精秀な気を得て、外国と一つである。だから神がこれを授け、聖がこれを受け、極を建て統を垂れられた。天下の人と物とがそれぞれその所を得ることおよそ千年に近く、そののち住吉大神が三韓をわが国に賜り、はじめて外国の典籍が通じて、その素朴なさまを知った。その神の教えといい、その聖の教えといい、その皇位の受け渡し、天下の治め方は、割符を合わせたようであった。これより信を通じ好を修め、その経典を取り、その文字を用いて、今日の補いとしているのである。

解説
儒教も仏教も外来ではないか――この書の核心を突く問い。素行の答えは儒と釋道を分けることである。
まず原則を置く。「神聖の大道は唯だ一にして二ならず」。教えの現れ方の違いは「水土の差と風俗の殊なるとに因れり」――風土の差でしかない。神教章十七節「三教一致にあらず」以来の立場である。
そのうえで儒については「猶ほ符節を合はせたるがごとし」――外から入れたのではなく、もともと同じものを後から照合したら一致したのだ、と言う。だから経典も文字も「今日の補拾」として使ってよい。禮儀章 下四十九節「短を措きて長に就く」と同じ論法である。
次節では仏教に対してまったく違う判断が下る。

或疑 十二佛敎は西域の敎なり ── 異敎を禁ずるの明戒
原文
如佛教者、徹上徹下、悉異教也、凡西域者外朝之西藩也、其水土偏于西、天地寒燠燥濕甚殊、民生其間者、必有偏塞之俗、釋氏爲彼州之大聖、融通其水土人物、以設其教、其道可於西域、而不可施諸中國矣、夫信耳好奇者、人情之蔽、何時不然乎、釋教一通而人皆歸之、天下終習染不知其異教、牽合傅會以神聖爲佛之垂迹、猶腐儒以太伯爲祖、吁、是何謂哉乎、先天神嚴諱彼之戒、圓頂桑門不得進前、僧尼獻物不得上內侍所、是乃禁異教之明戒也、禁異教者、其教殊俗以不可施諸天下國家也、

訓読
佛教ぶつけうの如ごときは、徹上てつじやう徹下てつげ悉ことごとく異教いけうなり。凡およそ西域さいゐきは外朝ぐわいてうの西藩せいはんなり。その水土すゐど西にしに偏かたより、天地てんちの寒燠かんいく燥濕さうしつ甚はなはだ殊ことなり。民たみのその間かんに生しやうずる者ものは、必かならず偏塞へんそくの俗ぞくあり。釋氏しやくしは彼かの州しうの大聖たいせいたり。その水土すゐど人物じんぶつを融通ゆうづうして、以もつてその教をしへを設まうく。その道みちは西域さいゐきに可かにして、これを中國ちゆうごくに施ほどこすべからず。夫それ耳みみを信しんじ奇きを好このむは、人情にんじやうの蔽へいなり。何いづれの時ときか然しからざらんや。釋教しやくけう一ひとたび通つうじて人ひと皆みなこれに歸きし、天下てんか終つひに習染しふぜんしてその異教いけうたるを知しらず。牽合けんがふ傅會ふくわいして神聖しんせいを以もつて佛ほとけの垂迹すいじやくと爲なす。猶なほ腐儒ふじゆが太伯たいはくを以もつて祖そと爲なすがごとし。吁ああ、是これ何なんの謂いひぞや。先天せんてんの神かみは彼かれを諱いむの戒かいを嚴げんにし、圓頂ゑんちやう桑門さうもんは前まへに進すすむことを得えず、僧尼そうにの獻物けんもつは内侍所ないしどころに上のぼることを得えず。是これ乃すなはち異教いけうを禁きんずるの明戒めいかいなり。異教いけうを禁きんずるは、その教をしへ俗ぞくを殊ことにして、以もつてこれを天下てんか國家こくかに施ほどこすべからざればなり。

現代語訳
仏教のようなものは、上から下まで、ことごとく異なる教えである。そもそも西域は外国の西の藩屏である。その風土は西に偏り、寒さ暖かさ、乾き湿りが大きく異なる。民でその間に生まれる者には、必ず偏り塞がった風俗がある。釈迦はその地方の大聖であって、その風土と人とに融通させて、その教えを設けた。その道は西域には適するが、これをこの国に施すことはできない。そもそも耳で聞いたことを信じ、奇異なものを好むのは、人情の覆いである。どの時代にそうでないことがあろうか。仏教がひとたび通じてからは人はみなこれに帰し、天下はついに染まり切って、それが異なる教えであることを知らない。こじつけ引き寄せて、神聖なる方々を仏の垂迹だとする。ちょうど頭の固い儒者が太伯を祖とするのと同じである。ああ、これは何ということか。先天の神は仏を忌む戒めを厳しくされ、剃髪した僧は御前に進むことができず、僧尼の献上物は内侍所に上げることができない。これこそ異なる教えを禁ずる明らかな戒めである。異なる教えを禁ずるのは、その教えが風俗を異にしていて、これを天下国家に施すことができないからである。

解説
仏教への評価。前節の儒とはまったく違う判断が下る。
論拠は同じ水土である。「その道は西域に可にして、これを中國に施すべからず」――仏教が誤りだから斥けるのではなく、成り立った土地が違うから移せないと言う。相対主義的な形をとった排斥である。
もっとも強い言葉が向かうのは本地垂迹説――神を仏の仮の姿とする説である。「猶ほ腐儒が太伯を以て祖と爲すがごとし」と、附録二節の呉太伯説と並べて斥ける。素行にとって両者は同じ過ち――自国の根本を外に求める錯誤――なのである。
ただし「其の水土に偏塞の俗あり」という西域観は、神教章・禮儀章に繰り返される華夷の枠組みそのもので、宗教の内容ではなく風土から一括して低く見る議論である。前節までの「五方の民各々その性あり」という相対主義が、ここでは一方的な優劣判定に転じている。

或疑 十三歧路分れ派す ── 道家・仙道は治敎の補にあらず
原文
到後世歧路分派、人人縱其情、王道迷津、神亦遠靈、聖亦不興、各信其私説臆意、不規諸朝廷之正教、而徴言異端競起、以薄忘根本也、道家不行于世之説、出明宋濂、凡仙道亦人之奇也、何國無之乎、中華之仙道、足傳于舊組口碑、宋濂何知哉、是非治教之補、唯養氣食生之事、不足論之、姑舍是、

訓読
後世こうせいに到いたり歧路きろ分わかれ派はし、人人ひとびとその情じやうを縱ほしいままにして、王道わうだう津しんに迷まよひ、神かみも亦また靈れいに遠とほざかり、聖ひじりも亦また興おこらず、各おのおのその私説しせつ臆意おくいを信しんじてこれを朝廷てうていの正教せいけうに規はからず、而しかして徴言ちようげん異端いたん競きそひ起おこりて、以もつて根本こんぽんを忘わするるに薄せまるなり。道家だうかの世よに行おこなはれざるの説せつは、明みんの宋濂そうれんに出いづ。凡およそ仙道せんだうも亦また人ひとの奇きなり。何いづれの國くにかこれ無なからんや。中華ちうくわの仙道せんだうは舊組きうそ口碑こうひに傳つたはるに足たれり。宋濂そうれん何なんぞ知しらんや。是これ治教ちけうの補ほに非あらず。唯ただ氣きを養やしなひ生せいを食はむの事ことのみ。これを論ろんずるに足たらず。姑しばらくこれを舍おく。

現代語訳
後の世になると分かれ道がいくつにも枝分かれし、人々はその情をほしいままにして、王道は渡し場を見失い、神もまた霊妙さから遠ざかり、聖もまた興らず、各人がその私説や思いつきを信じて、これを朝廷の正しい教えに照らし合わせず、細かな言葉と異端とが競い起こって、根本を忘れるところまで来ている。道家がこの国の世に行われていないという説は、明の宋濂に出ている。そもそも仙道もまた人の奇異とするところである。どの国にこれが無かろうか。この国の仙道は、古くからの言い伝えに残るだけで十分である。宋濂にどうしてそれが分かろうか。これは治め教えることの補いではない。ただ気を養い生を食むというだけの事である。論ずるに足りない。しばらくこれを措いておく。

解説
仏教批判の帰結と、道家・仙道の処理。
前半は「歧路分れ派す」――道が枝分かれして「王道津に迷ふ」という現状診断。神治章・聖政章で繰り返された「根本を忘る」という語が、ここで附録の総括として置かれる。
後半は明の宋濂への反論である。宋濂は『日東曲』などで日本を論じたが、素行は「宋濂何ぞ知らんや」と一蹴する。外から見た者の見聞の浅さを突く、附録に一貫した姿勢である。
そして道家・仙道そのものは「氣を養ひ生を食むの事のみ。これを論ずるに足らず」と、議論の対象からあっさり外す。仏教にあれだけ言葉を費やしたのと対照的で、素行にとって危険なのは民心を奪う教えであって、養生の術ではなかったことがうかがえる。

或疑 十四中華の敎、修身崇德の審らかなるを未だ聞かず ── 寶鏡を以て敎を表す
原文
或疑、中華之教、修身崇德之審、未聞焉、
愚謂、神聖繼天建極、非不在修身崇德之道矣、知德之顯象著明也、立身揚名而垂迹於日月者、修身崇德之義也、言行之暴惡横邪也、詛父於天罪、亦不能免者、反之也、夫二神以白銅鏡天璽矛、天祖以三器奉天孫、別以寶鏡嚴其勅、是乃萬世所以修身崇德之神教也、蓋神聖以寶鏡表其教、豈可不由其乎、

訓読
或あるひは疑うたがふ、中華ちうくわの教をしへ、身みを修をさめ德とくを崇たふとぶの審つまびらかなるを、未いまだこれを聞きかずと。
愚ぐ謂おもへらく、神聖しんせいの天てんに繼つぎ極きよくを建たてたまふは、身みを修をさめ德とくを崇たふとぶの道みちに在あらずんばあらず。知ちと德とくとの顯象けんしやう著明ちよめいなればなり。身みを立たて名なを揚あげて迹あとを日月じつげつに垂たるる者ものは、身みを修をさめ德とくを崇たふとぶの義ぎなり。言行げんかうの暴惡ばうあく横邪わうじやなるや、父ちちを天罪てんざいに詛そし、亦また免まぬかるること能あたはざる者ものは、これに反はんすればなり。夫それ二神にしんは白銅鏡ますみのかがみ天璽てんじの矛ほこを以もつてし、天祖てんそは三器さんきを以もつて天孫てんそんに奉ほうじ、別べつに寶鏡はうきやうを以もつてその勅ちよくを嚴げんにしたまふ。是これ乃すなはち萬世ばんせい身みを修をさめ德とくを崇たふとぶ所以ゆゑんの神教しんけうなり。蓋けだし神聖しんせいは寶鏡はうきやうを以もつてその教をしへを表あらはしたまふ。豈あにそれに由よらざるべけんや。

現代語訳
ある人は疑って言う。「この国の教えには、身を修め徳を崇ぶことについての詳しい説を、まだ聞いたことがない」。
私はこう考える。神聖なる方々が天を継ぎ極を建てられたのは、身を修め徳を崇ぶという道にほかならない。知と徳とのあらわれが明らかだからである。身を立て名を揚げて、その跡を日月のように残す者は、身を修め徳を崇ぶという意味を体している。言行が乱暴で邪であり、父を天罪に呪って、それでも罰を免れることができなかった者は、これに背いたからである。そもそも二神は白銅鏡と天璽の矛とをもってされ、天祖は三種の神器を天孫に授け、別に宝鏡をもってその勅を厳かにされた。これこそ万世にわたって身を修め徳を崇ぶための神の教えである。思うに神聖なる方々は宝鏡によってその教えを表された。どうしてそれによらずにいられようか。

解説
「日本には修養論がないではないか」という問い。相手は、朱子学のような体系的な修身の教説が神道側に見当たらないことを突いている。
素行の答えは教説ではなく象徴で示されたというものである。「神聖は寶鏡を以てその教を表したまふ」――鏡は自分の姿を映す。映して正すことが、そのまま修身の教えだという。神器章十節・十一節で述べた「鏡は明を象る」がここに戻ってくる。
「父を天罪に詛す」は素戔嗚尊を指し、神教章に見えた例である。従った者と背いた者を対で示すやり方も、この書に一貫している。
次節ではこの答えが、より理屈の側から展開される。

或疑 十五知を致すに在り ── 公共とは何ぞ
原文
竊按、人物皆有此性心、而人爲萬物之長者、其知靈於禽獸也、靈者何、明而不惑也、其知不明則不異于禽獸、知而惑則未致其實、故修道崇德、唯在致其知、其知不致、則所德所道、皆落在於私意、專德己所德者、己所道、而不得公共底、所謂公共者、與天地同其德、與人物共其道、古今以因、尊卑以共、乃神聖所建極之道德也、然夫所致唯在此知、故以寶鏡表神勅、是外國之大聖、所以大學之道以致知格物也、

訓読
竊ひそかに按あんずるに、人物じんぶつは皆みなこの性心せいしんあり。而しかして人ひとの萬物ばんぶつの長ちやうたるものは、その知ちの禽獸きんじうより靈れいなればなり。靈れいとは何なにぞ。明めいにして惑まどはざるなり。その知ち明あきらかならざるときは則すなはち禽獸きんじうに異ことならず。知しりて惑まどふは則すなはち未いまだその實じつを致いたさざればなり。故ゆゑに道みちを修をさめ德とくを崇たふとぶは、唯ただその知ちを致いたすに在あり。その知ち致いたさざるときは、則すなはち德とくとするところ道みちとするところ、皆みな私意しいに落在らくざいして、專もつぱら己おのれの德とくとするところを德とくとし、己おのれの道みちとするところを道みちとして、公共こうきようなるを得えず。所謂いはゆる公共こうきようとは、天地てんちとその德とくを同おなじくし、人物じんぶつとその道みちを共ともにし、古今ここん以もつて因より、尊卑そんぴ以もつて共ともにす。乃すなはち神聖しんせいの極きよくを建たつるところの道德だうとくなり。然しかして夫かの致いたすところは唯ただこの知ちに在あり。故ゆゑに寶鏡はうきやうを以もつて神勅しんちよくを表あらはす。是これ外國ぐわいこくの大聖たいせい、大學だいがくの道みちに致知ちち格物かくぶつを以もつてする所以ゆゑんなり。

現代語訳
ひそかに考えてみるに、人も物もみなこの性と心とを持っている。それでいて人が万物の長であるのは、その知が禽獣より霊妙だからである。霊妙とは何か。明らかであって惑わないことである。その知が明らかでなければ禽獣と異ならない。知っていて惑うのは、まだその実を尽くしていないからである。だから道を修め徳を崇ぶのは、ただその知を尽くすことにある。その知を尽くさなければ、徳とするところ道とするところが、みな私意の中に落ち込んで、もっぱら自分が徳と思うものを徳とし、自分が道と思うものを道として、公共であることができない。いわゆる公共とは、天地とその徳を同じくし、人と物とその道を共にし、古今にわたって拠りどころとなり、貴い者も卑しい者もともにするものである。これこそ神聖なる方々が極を建てられた道徳である。そしてその尽くすところは、ただこの知にある。だから宝鏡によって神勅を表すのだ。これは外国の大聖が、大學の道を致知格物からはじめたのと同じ理由である。

解説
前節の「寶鏡」の意味を、知の側から説き直した一段。
順序はこうである。人が万物の長であるのは知が霊妙だから。霊とは「明にして惑はざる」こと。ゆえに修身崇德は「唯だその知を致すに在り」。
そして公共という語が定義される。「天地とその德を同じくし、人物とその道を共にし、古今以て因り、尊卑以て共にす」――時代を越え、身分を越えて共有できるもの。その反対が私意である。神知章七節「私意を去る」がここで概念として結晶している。
結びで『大學』の致知格物と結びつけられるのが重要である。素行はここで神器の鏡と大學の致知とを同じ一つのことだと言っている。この読本の底本が『大學』の仕様で作られていることを思えば、偶然とは思えない照応である。

或疑 十六本朝を中國と稱するは ── 磤馭盧嶋を國中の柱と爲す
原文
或疑、本朝稱中國者、直以稱美之乎、又有其所以之名歟、
愚謂、二神以磤馭盧嶋爲國中之柱、是乃本朝爲天地之中也、天照大神在於天上曰、聞葦原中國有保食神、又高皇産靈尊欲立天津彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主、是天神皆以此地爲中國、自是歷代稱中國、蓋地在天之中、而中國又得其中、是乃中之又中也、土得天地之中、則人物必精秀而事義又無過不及之差、本朝太祖天御中主尊國常立尊、其尊號名義既有常中之言、以建國中之柱、故所以其爲中國、乃天然之勢也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、本朝ほんてうを中國ちゆうごくと稱しようするは、直ただちにこれを稱美しようびするや。又またその所以ゆゑんある名なか。
愚ぐ謂おもへらく、二神にしん磤馭盧嶋おのごろじまを以もつて國中こくちゆうの柱はしらと爲なす。是これ乃すなはち本朝ほんてうは天地てんちの中ちゆうたるなり。天照大神あまてらすおほみかみ天上てんじやうに在いまして曰のたまはく、聞きく、葦原中國あしはらのなかつくにに保食神うけもちのかみありと。又また高皇産靈尊たかみむすびのみこと天津彦火瓊瓊杵尊あまつひこほのににぎのみことを立たてて以もつて葦原中國あしはらのなかつくにの主あるじと爲なさんと欲ほつしたまふ。是これ天神てんじん皆みなこの地ちを以もつて中國ちゆうごくと爲なすなり。是これより歷代れきだい中國ちゆうごくと稱しようす。蓋けだし地ちは天てんの中なかに在あり、而しかして中國ちゆうごく又またその中ちゆうを得う。是これ乃すなはち中ちゆうの又また中ちゆうなり。土ど天地てんちの中ちゆうを得うれば、則すなはち人物じんぶつ必かならず精秀せいしうにして、事義じぎ又また過不及くわふきふの差さなし。本朝ほんてうの太祖たいそ天御中主尊あめのみなかぬしのみこと國常立尊くにのとこたちのみことは、その尊號そんがう名義めいぎ既すでに常中じやうちゆうの言げんあり、以もつて國中こくちゆうの柱はしらを建たてたまふ。故ゆゑにその中國ちゆうごくたる所以ゆゑんは、乃すなはち天然てんねんの勢いきほひなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「本朝を中國と称するのは、ただこれを褒め称えているだけなのか。それとも、そう呼ばれるだけの理由のある名なのか」。
私はこう考える。二神は磤馭盧嶋をもって国の中央の柱とされた。これこそ本朝が天地の中央であるということである。天照大神は天上にあって「葦原中國に保食神がいると聞く」と仰せられ、また高皇産靈尊は天津彦火瓊瓊杵尊を立てて葦原中國の主にしようとされた。これは天神がみなこの地を中國としているのである。これより歴代、中國と称してきた。思うに地は天の中にあり、そのうえで中國はさらにその中を得ている。これこそ中の中である。土地が天地の中を得れば、そこに生まれる人と物とは必ず精秀であり、事の筋道にも過不足の差がない。本朝の太祖である天御中主尊・國常立尊は、その尊号の名義にすでに「常」「中」の語があり、それによって国の中央の柱を建てられた。だからこの国が中國である理由は、天然のなりゆきなのである。

解説
書名『中朝事實』の「中朝」の由来を正面から説明した一段。中國章一節の議論が、附録で改めて要約される。
根拠は三つ。磤馭盧嶋が「國中の柱」であること、『日本書紀』が繰り返し「葦原中國」と呼ぶこと、天御中主尊・國常立尊の尊号に「中」「常」の字があること。
「中の又中なり」という言い方に、素行の意図がよく出ている。地が天の中にあり、この国がその地の中にある――二重の中心である、と。
ただし「中國」を地理的中心と読むこの解釈は、素行の独自の読み替えである。『日本書紀』の「葦原中國」は本来高天原と根国の間にある地上の意で、世界の中央という含みはない。素行はこの語を、中華の「中國」に対抗する概念として読み直したのである。読み替えであることを承知したうえで、その意図を読むべき箇所である。

或疑 十七外朝は過厚に幾く、西蕃は淸薄にして及ばず
原文
竊按、外朝之聖體、論諸此則殆幾過厚、所謂衣之有袞冕、食之有牛羊、居之有楊牀、祭廟以牲、誓盟殺牛、喪有含飯、婚膳姉妹之類、是也、西蕃之釋教、論諸此則太甚淸薄而不及也、其剃髮食茶、運水搬柴、以爲道、祭用疏漿、喪有火葬、及其大、終薄無君蔑父亂倫之類、是也、唯本朝神聖相續、大賢英才日興、揣其宜制其禮、是乃天地人物事義之中、至誠無息之道也、故皇統與天壤無窮、禮儀因循、天下由之、惜哉舊紀之詳、厄入鹿之火、然世世不乏于人、若因其遺風餘烈、以斟酌禮樂之實、亦不難乎矣、

訓読
竊ひそかに按あんずるに、外朝ぐわいてうの聖體せいたい、これをここに論ろんずるときは殆ほとんど過厚くわこうに幾ちかし。所謂いはゆる衣いに袞冕こんべんあり、食しよくに牛羊ぎうやうあり、居きよに楊牀やうしやうあり、廟べうに祭まつるに牲せいを以もつてし、誓盟せいめいに牛うしを殺ころし、喪もに含飯がんぱんあり、婚こんに姉妹しまいを膳ぜんとするの類たぐひ、是これなり。西蕃せいばんの釋教しやくけう、これをここに論ろんずるに、太はなはだ甚はなはだ淸薄せいはくにして及およばざるなり。その髮かみを剃そり、茶ちやを食くらひ、水みづを運はこび柴しばを搬はこぶを以もつて道みちと爲なし、祭まつりに疏漿そしやうを用もちひ、喪もに火葬くわさうあり、その大だいに及およびては、終つひに薄うすく君きみを無なみし父ちちを蔑ないがしろにし倫りんを亂みだるの類たぐひ、是これなり。唯ただ本朝ほんてうは神聖しんせい相あひ續つづきたまひて、大賢たいけん英才えいさい日ひに興おこり、その宜ぎを揣はかりてその禮れいを制せいす。是これ乃すなはち天地てんち人物じんぶつ事義じぎの中ちゆうにして、至誠しせい息やむことなきの道みちなり。故ゆゑに皇統くわうとうは天壤てんじやうと與ともに窮きはまりなく、禮儀れいぎ因循いんじゆんして天下てんかこれに由よる。惜をしい哉かな、舊紀きうきの詳つまびらかなる、入鹿いるかの火ひに厄やくせらる。然しかれども世世よよ人ひとに乏とぼしからず。若もしその遺風ゐふう餘烈よれつに因よりて、以もつて禮樂れいがくの實じつを斟酌しんしやくせば、亦また難かたからざらんや。

現代語訳
ひそかに考えてみるに、外国の聖なる制度は、これをここで論ずるとほとんど厚きに過ぎている。いわゆる衣に袞冕があり、食に牛羊があり、居に高い寝台があり、廟の祭に犠牲を用い、誓いの盟に牛を殺し、喪に含飯があり、婚に姉妹をあてる類が、それである。西の方の仏教は、これをここで論ずると、あまりにも清く薄くて及ばない。髪を剃り、茶を食し、水を運び柴を搬ぶことを道とし、祭に薄い汁を用い、喪に火葬があり、極端になると、ついには薄情になって君を無みし父をないがしろにし倫を乱す類が、それである。ただ本朝は神聖なる方々が相継がれて、大賢や英才が日々に興り、その適切さをはかってその禮を制した。これこそ天地・人物・事の筋道の中庸であって、至誠のやむことのない道である。だから皇統は天地とともに窮まりなく、禮儀は受け継がれて天下がこれによっている。惜しいことに、旧記の詳しいものは入鹿の火の災いにあった。しかし代々、人に乏しかったことはない。もしその遺された風と余った勢いとによって、禮樂の実を汲みとるならば、それも難しくはあるまい。

解説
過厚と淸薄――両極端を示して、その中間に自国を置く。附録全体の構図がもっとも明快に出た一段である。
外朝は厚きに過ぎる(袞冕・牛羊・犠牲・含飯)。西蕃は薄きに過ぎる(剃髮・火葬・無君蔑父)。本朝はその中。
この「中」は、前節の地理的な中を倫理的な中庸に読み替えたものである。「中國」の「中」に二つの意味を重ねる、素行の中心的な操作がここにある。
ただし列挙された外朝・西蕃の風習は、いずれももっとも極端な例を選んで並べたもので、自国側については同じ操作をしていない。比較の手続きとしては公平でない。
結びの「舊紀の詳らかなる、入鹿の火に厄せらる」は附録八節と呼応し、史料が失われても遺風から実を汲めるという、この書全体の方法宣言になっている。

或疑 十八八耳王子聖德と稱するは其の實なきか ── 憲章十七條と三寶の説
原文
或疑、八耳王子稱聖德、殆無其實歟、不能討馬子之弑逆、信西教而倣浮屠之法、其本大違聖德歟、
愚謂、馬子弑逆之罪、太子之聰明、未曾不知其機、有良史書太子八耳弑天王、而不隱、太子又爲法可受其惡、太子困蘇我之勸、以信異教、尤不可之大也、
竊按、太子攝政於推古帝、視其行、觀其施、治道之休善、皆神聖之道、而非西域之教、其撰憲章也、以禮爲人民之本、其通好外國也、以二大皇抗稱、而不屈、其聰明度量、可謂睿知寬仁、故天下大化、其薨也、少壯若喪考妣、哭泣之聲盈于衢路、耕耨釋釆杵、然乃其功化以聖德不亦宜乎哉、

訓読
或あるひは疑うたがふ、八耳王子やつみみのわうじ聖德しやうとくと稱しようするは、殆ほとんどその實じつなきか。馬子うまこの弑逆しいぎやくを討うつこと能あたはず、西教せいけうを信しんじて浮屠ふとの法はふに倣ならふ。その本もと大おほいに聖德しやうとくに違たがふかと。
愚ぐ謂おもへらく、馬子うまこが弑逆しいぎやくの罪つみは、太子たいしの聰明そうめいなる、未いまだ嘗かつてその機きを知しらずんばあらず。良史りやうしあらば、太子たいし八耳やつみみ天王てんわうを弑しいすと書しよして隱かくさざらん。太子たいし又また法はふの爲ためにその惡あくを受うくべし。太子たいし蘇我そがの勸すすめに困くるしみて、以もつて異教いけうを信しんず。尤もつとも可かならざるの大だいなるものなり。
竊ひそかに按あんずるに、太子たいし推古帝すゐこていに攝政せつしやうし、その行おこなひを視み、その施しを觀みるに、治道ちだうの休善きうぜん、皆みな神聖しんせいの道みちにして、西域さいゐきの教をしへに非あらず。その憲章けんしやうを撰えらぶや、禮れいを以もつて人民じんみんの本もとと爲なす。その好よしみを外國ぐわいこくに通つうずるや、二にの大皇たいくわうを以もつて抗稱かうしようして、而しかして屈くつせず。その聰明そうめい度量どりやう、睿知えいち寬仁くわんじんと謂いふべし。故ゆゑに天下てんか大おほいに化くわす。その薨こうずるや、少壯せうさう考妣かうひを喪うしなふが若ごとく、哭泣こくきふの聲こゑ衢路くろに盈みち、耕耨かうどう采杵さいしよを釋おく。然しからば乃すなはちその功化こうくわ聖德しやうとくを以もつてするや、亦また宜うべならずや。

現代語訳
ある人は疑って言う。「八耳皇子を聖德と称するのは、ほとんど実がないのではないか。馬子の弑逆を討つことができず、西の教えを信じて仏の法に倣った。その根本が大きく聖德に違うのではないか」。
私はこう考える。馬子の弑逆の罪について、太子ほどの聡明さであれば、その兆しを知らなかったはずがない。すぐれた史官がいたなら「太子八耳、天皇を弑す」と書いて隠さなかったであろう。太子もまた法のためにその悪名を受けるべきである。太子は蘇我の勧めに困って、異なる教えを信じた。もっとも良くない大きな点である。
ひそかに考えてみるに、太子が推古天皇のもとで摂政となり、その行いを見、その施策を観ると、治め方の善さはみな神聖なる方々の道であって、西域の教えではない。憲章を撰ぶにあたっては、禮を人民の本とした。外国と好を通ずるにあたっては、二人の大皇として対等に称し、屈しなかった。その聡明さと度量とは、睿知・寛仁というべきである。だから天下は大いに化した。その薨去のときには、若い者も年配の者も父母を失ったかのようで、泣く声が街路に満ち、田を耕す者は鋤を置き、米を搗く者は杵を置いた。とすれば、その功と教化とを聖德と称するのも、もっともではないか。

解説
聖徳太子は本当に「聖德」か――蘇我馬子の崇峻天皇弑逆を討たなかったこと、仏教を信じたこと。この二点への答え。
注目すべきは、素行がまず非を認めることである。「良史あらば、太子八耳 天皇を弑すと書して隱さざらん」――『春秋』の筆法では、弑逆を討たなかった者がその罪を負う。太子も「法の爲にその惡を受くべし」。弁護の前に断罪を置く、この順序が素行の誠実さである。
そのうえで功を並べる。憲法十七條の「禮を以て人民の本と爲す」(第四條)、遣隋使の国書での対等表明、薨去のときの民の嘆き――「少壯 考妣を喪ふが若く、哭泣の聲 衢路に盈つ」は『日本書紀』推古二十九年の記事を踏まえる。

或疑 十八(承)憲章十七條と三寶の説 ── 一の非を以て十六條の是を掩ふ勿れ
原文
蓋此時釋氏之教雖熾繁、未至弄性彫空虛之太甚、唯尊信篤敬以祈福信奇而已、故太子所建之憲章以禮制輩、可幷按也、俗儒皆疑、憲章有三寶之説、然乃不足信之、愚謂、憲法之内一條有三法之敬篤、以一非掩十六條之是者、非君子之志、其建寺度僧者、皆西教之染習也、如憲章者、尤治世之要戒、豈可不信乎、後世佞信於太子之過誇、悉銷其實、以附會其私記臆説、更不足言論、唯據日本紀可證見之也、

訓読
蓋けだしこの時とき釋氏しやくしの教をしへ熾繁しはんなりと雖いへども、未いまだ性せいを弄もてあそび空虛くうきよを彫ゑがくの太甚たいじんには至いたらず。唯ただ尊信そんしん篤敬とくけいして以もつて福ふくを祈いのり奇きを信しんずるのみ。故ゆゑに太子たいしの建たつるところの憲章けんしやう、禮れいを以もつて輩ともがらを制せいす。幷あはせ按あんずべきなり。俗儒ぞくじゆ皆みな疑うたがふ、憲章けんしやうに三寶さんぽうの説せつあり、然しからば乃すなはちこれを信しんずるに足たらずと。愚ぐ謂おもへらく、憲法けんぱふの内うち一條いちでうに三法さんぽふの敬篤けいとくあり。一いつの非ひを以もつて十六條じふろくでうの是ぜを掩おほふ者ものは、君子くんしの志こころざしに非あらず。その寺てらを建たて僧そうを度どするは、皆みな西教せいけうの染習せんしふなり。憲章けんしやうの如ごときは、尤もつとも治世ちせいの要戒えうかいなり。豈あに信しんぜざるべけんや。後世こうせい太子たいしの過誇くわこに佞信ねいしんして、悉ことごとくその實じつを銷けし、以もつてその私記しき臆説おくせつを附會ふくわいす。更さらに言論げんろんするに足たらず。唯ただ日本紀にほんぎに據よりて證見しようけんすべきなり。

現代語訳
思うにこの時代、仏の教えは盛んであったとはいえ、まだ人の性をもてあそび空虚を彫るという極端には至っていない。ただ尊び信じ篤く敬って、福を祈り奇異を信ずるだけであった。だから太子の建てた憲章は、禮によって人々を律している。あわせて考えるべきである。俗儒はみな疑って言う。「憲章には三寶の説がある。ならばこれを信ずるに足りない」。私はこう考える。憲法の中の一条に三寶を篤く敬えとある。一つの非をもって十六条の是を覆う者は、君子の志ではない。寺を建て僧を得度させたのは、みな西の教えに染まった習いである。憲章のようなものは、まさに世を治めるための肝要な戒めである。どうして信じないでいられようか。後の世の人は太子を過度に誇る説におもねって信じ、ことごとくその実を消し去り、その私的な記録や思いつきをこじつけている。もはや論ずるに足りない。ただ『日本書紀』によって証拠を見るべきである。

解説
前段の続き。仏教信仰という非をどう扱うかが焦点になる。
まず時代を限定する。当時の仏教はまだ「性を弄び空虚を彫るの太甚には至らず」、福を祈る程度のものだった、と。
ついで憲法十七條の第二條「篤く三寶を敬へ」を理由に憲章全体を退ける俗儒に反論する。「一の非を以て十六條の是を掩ふ者は、君子の志に非ず」――ここは太子論を離れて、評価の一般原則として読める一句である。
結びの「唯だ日本紀に據りて證見すべきなり」は、中世以来の太子信仰が生んだ「私記臆説」を斥け、史料に還れという方法宣言。附録八節「典籍は史氏その事を記すのみ」と併せ読むと、素行が史料を軽んじているのではなく、後世の付会と一次史料とを厳しく分けていることが分かる。

或疑 十九太子先に弑逆の過あり ── 天地の道は寬大にして克く容る
原文
或疑、太子先有弑逆之過、豈以後善掩其大罪乎、今所論最似護其短也、
愚謂、天地之道寬大克容、故高明厚博而無息、神聖法諸、故悠久而無疆、嘗聞伯夷之惡惡、與惡人言如以朝衣朝冠坐於塗炭、然夫子以不念舊惡稱之矣、春秋之書也、爲懲亂臣賊子、而楚穆王弑其君父、夫子嚴書其罪、及修好、其臣害名稱佞書其佞、管仲相其鄰、及九合、以仁與焉、若所問之説、乃弑君相醜之罪、豈掩修好九合之後乎、而夫子之筆言如此、蓋馬子之弑逆、太子不討、猶晏嬰違婉與聞弑君之謀、而其建禮撰章、以化天下之人心、豈修好九合之屬乎哉、如護其短者、一家之私言、而非公議也、

訓読
或あるひは疑うたがふ、太子たいし先さきに弑逆しいぎやくの過あやまちあり。豈あに後善こうぜんを以もつてその大罪だいざいを掩おほはんや。今いま論ろんずるところ、最もつともその短たんを護まもるに似にたりと。
愚ぐ謂おもへらく、天地てんちの道みちは寬大くわんだいにして克よく容いる。故ゆゑに高明かうめい厚博こうはくにして息やむことなし。神聖しんせいこれに法のつとる。故ゆゑに悠久いういうにして疆かぎりなし。嘗かつて聞きく、伯夷はくいの惡あくを惡にくむや、惡人あくにんと言いへば朝衣てうい朝冠てうくわんを以もつて塗炭とたんに坐ざするが如ごとしと。然しかれども夫子ふうしは舊惡きうあくを念おもはずを以もつてこれを稱しようす。春秋しゆんじうの書しよたるや、亂臣らんしん賊子ぞくしを懲こらさんが爲ためなり。而しかるに楚その穆王ぼくわうその君父くんぷを弑しいす。夫子ふうし嚴げんにその罪つみを書しよす。好よしみを修をさむるに及およびては、その臣しん名なを害そこなひ佞ねいを稱しようすればその佞ねいを書しよす。管仲くわんちゆうその鄰となりに相しやうたり。九合きうがふに及およびては、仁じんを以もつてこれに與くみす。若もし問とふところの説せつのごとくんば、乃すなはち君きみを弑しいし醜しうに相しやうたるの罪つみ、豈あに修好しうかう九合きうがふの後のちを掩おほはんや。而しかるに夫子ふうしの筆言ひつげん此かくのごとし。蓋けだし馬子うまこの弑逆しいぎやく、太子たいし討うたざるは、猶なほ晏嬰あんえいの違婉ゐゑんして君きみを弑しいするの謀はかりごとに與聞よぶんするがごとし。而しかしてその禮れいを建たて章しやうを撰えらび、以もつて天下てんかの人心じんしんを化くわするは、豈あに修好しうかう九合きうがふの屬たぐひならんや。その短たんを護まもるがごとしとするは、一家いつかの私言しげんにして、公議こうぎに非あらざるなり。

現代語訳
ある人は疑って言う。「太子には先に弑逆を見過ごした過ちがある。どうして後の善行でその大罪を覆えようか。いま論ずるところは、まさにその短所をかばうように見える」。
私はこう考える。天地の道は寛大でよく容れる。だから高く明るく厚く広くて、やむことがない。神聖なる方々はこれに法る。だから悠久で限りがない。かつて聞いたことがある。伯夷が悪を憎むさまは、悪人と話すのは礼服礼冠のまま泥炭の中に坐るようだったと。しかし孔子は「昔の悪を思わない」ことをもって彼を称えた。『春秋』という書は、乱臣賊子を懲らすためのものである。それでも楚の穆王がその君父を弑したときには、孔子は厳しくその罪を書いたが、好を修めたときにはそのように書いた。その臣が名を損ない佞を働けばその佞を書いた。管仲は主君の敵の国の宰相となった。しかし桓公が諸侯を九たび集めたことについては、仁をもってこれを認めた。もし問う人の説のとおりなら、君を弑し醜い者の宰相となった罪が、どうして好を修め九合した後を覆わずにおれようか。それなのに孔子の筆はこのとおりである。思うに馬子の弑逆を太子が討たなかったのは、晏嬰が言葉を和らげて君を弑する謀りごとを聞き知っていたのと同じである。そのうえで禮を建て章を撰び、天下の人心を化したのは、まさに好を修め九合したたぐいではないか。その短所をかばっていると言うのは、一家の私言であって、公の議論ではない。

解説
前節への追撃と、その答え。「後の善で前の大罪は覆えない」という反論は正論である。素行はこれに『春秋』の筆法そのもので答える。
挙げるのは三つの先例。伯夷――潔癖の極みでありながら孔子は「舊惡を念はず」と称えた。楚の穆王――弑逆の罪は厳しく書かれたが、その後の善行も書かれた。管仲――主君の敵に仕えながら、九合の功によって「仁」を許された。
つまり罪を書くことと功を認めることとは両立する。これが素行の論拠である。だから「その短を護る」のではなく、罪も功も両方書くのだと言う。
ただし太子を晏嬰になぞらえる箇所は、弁護としてはかなり苦しい。晏嬰は君の弑逆に対して討たず死なず、ただ哭して去った人物である。素行自身が前節で「太子また法の爲にその惡を受くべし」と認めていることを思えば、ここは断罪と弁護の両方を並べたまま読むのが正しいだろう。
「天地の道は寬大にして克く容る」――賞罰章十四節「刑罰は已むを得ざるに出づ」と同じ、素行の底にある寛の思想である。

或疑 二十禮に一定の則ありて一定の事なし ── 結び「唯だ中華の文物を懸象すべきのみ」
原文
或疑、中華禮儀之制、無一定之事、代代變易、何乎、
愚謂、禮有一定之則、而無一定之事、是乃禮之實也、時有治亂、地有豐凶、人事長幼交代、事有豐嗇、物有始終新舊、有餘不足、豈以一定之率乎、故以一定之則制其宜、遁天地人物之性情、是神聖之禮也、豈唯中華乎、外國之聖聖亦然、故或尚質或尚文、或文質並行、周以農興、天子后妃必親耕織、而擧農桑、漢始行元日之賀禮、以君臣相和之屬、皆一代之制也、周禮者、萬代之模範、而夫子告顏子以行夏之時、然乃事者在今日時物之通而已、代代之變易、不可怪焉、
此一編仁德朝以下擧其尤者、而餘姑舍是、蓋三韓來服之後、外朝之典籍相通、故嘉言善行亦有蹈襲之嫌、況異教之太熾、神聖之道寬雜而不醇、今祖述往古之神勅、憲章人皇之聖教、唯懸象中華之文物、與天地參、非萬邦可幷比而已、

訓読
或あるひは疑うたがふ、中華ちうくわ禮儀れいぎの制せいは一定いちぢやうの事ことなく、代代よよ變易へんえきするは何なんぞやと。
愚ぐ謂おもへらく、禮れいに一定いちぢやうの則のりありて、一定いちぢやうの事ことなし。是これ乃すなはち禮れいの實じつなり。時ときに治亂ちらんあり、地ちに豐凶ほうきようあり、人事じんじに長幼ちやういう交代かうたいあり、事ことに豐嗇ほうしよくあり、物ものに始終しじゆう新舊しんきうあり、餘あまりあり足たらざるあり。豈あに一定いちぢやうの率そつを以もつてせんや。故ゆゑに一定いちぢやうの則のりを以もつてその宜ぎを制せいし、天地てんち人物じんぶつの性情せいじやうに遁したがふ。是これ神聖しんせいの禮れいなり。豈あに唯ただ中華ちうくわのみならんや。外國ぐわいこくの聖聖せいせいも亦また然しかり。故ゆゑに或あるいは質しつを尚たふとび、或あるいは文ぶんを尚たふとび、或あるいは文質ぶんしつ並ならび行おこなはる。周しうは農のうを以もつて興おこり、天子てんし后妃こうひ必かならず親みづから耕たがやし織おりて、農桑のうさうを擧あぐ。漢かんは始はじめて元日ぐわんじつの賀禮がれいを行おこなひ、以もつて君臣くんしん相あひ和わするの屬たぐひ。皆みな一代いちだいの制せいなり。周禮しゆらいは萬代ばんだいの模範もはんなり。而しかるに夫子ふうし顏子がんしに告つぐるに夏かの時ときを行おこなふを以もつてす。然しからば乃すなはち事ことは今日こんにち時物じぶつの通つうずるに在あるのみ。代代よよの變易へんえき、怪あやしむべからず。
この一編いつぺん、仁德朝にんとくてう以下いかはその尤もつともなる者ものを擧あげて、餘よは姑しばらくこれを舍おく。蓋けだし三韓さんかん來服らいふくの後のち、外朝ぐわいてうの典籍てんせき相あひ通つうじ、故ゆゑに嘉言かげん善行ぜんかうも亦また蹈襲たふしふの嫌うたがひあり。況いはんや異教いけうの太はなはだ熾さかんなるをや。神聖しんせいの道みち寬雜くわんざつにして醇じゆんならず。今いま往古わうこの神勅しんちよくを祖述そじゆつし、人皇にんわうの聖教せいけうを憲章けんしやうす。唯ただ中華ちうくわの文物ぶんぶつを懸象けんしやうすべきのみ。天地てんちと參さんし、萬邦ばんぱうの幷あはせ比ひすべきに非あらざるのみ。

現代語訳
ある人は疑って言う。「この国の禮儀の制度には一定の事がなく、代ごとに変わり移るのはなぜか」。
私はこう考える。禮には一定の則があって、一定の事はない。これこそ禮の実である。時には治乱があり、地には豊凶があり、人事には年長と年少の交代があり、事には豊かさと乏しさがあり、物には始めと終わり、新しさと古さがあり、余ることも足りないこともある。どうして一定の率をもって当てはめられようか。だから一定の則によってその適切さを定め、天地・人・物の性情に従う。これが神聖なる方々の禮である。どうしてこの国だけであろうか。外国の聖人たちもまた同じである。だから、あるいは質を尊び、あるいは文を尊び、あるいは文と質とが並び行われる。周は農によって興り、天子も后妃も必ずみずから耕し織って、農と養蚕とを挙げた。漢ははじめて元日の賀の礼を行い、君臣が和すようにした類である。みな一代の制度である。周の禮は万代の模範である。それでも孔子は顔淵に告げて、夏の暦を行えと言った。とすれば、事は今日の時と物とに通ずることにあるだけである。代ごとに変わり移ることを、怪しむべきではない。
この一編は、仁徳天皇の御代以下についてはその主だったものを挙げて、残りはしばらく措いた。思うに三韓が来服した後は、外国の典籍が相通じたので、よい言葉やよい行いにも踏襲の疑いがある。まして異なる教えが大いに盛んになった。神聖なる方々の道は寛く雑ざって、純粋ではなくなっている。いま往古の神勅を祖述し、人皇の聖なる教えを憲章とする。ただこの国の文物を掲げ示すだけである。天地と並び立ち、万邦がこれに比べられるものではない、というだけである。

解説
『中朝事實』の結び。最後の問いは「制度が代ごとに変わるのはなぜか」――一貫性がないではないか、という批判である。
答えが本書全体の要約になっている。「禮に一定の則ありて、一定の事なし。是れ乃ち禮の實なり。」――変わらない原理(則)と変わってよい形(事)とを分ける。時に治乱あり、地に豊凶あり、人に長幼あり、物に新旧あり。だから形が変わるのは当然で、変わらないほうが不自然なのである。
禮儀章 下七十節「禮ありて儀なきは可なり」、聖政章一節「義は必ず時に隨ふ」、附録五〜七節の卵と紅藍の比喩――すべてがここに収束する。
そして最後の一段。「この一編…唯だ中華の文物を懸象すべきのみ」。素行は自分の仕事を、新説を立てることではなく、自国の文物を掲げて見せることだと言う。「祖述」「憲章」は『中庸』の語で、孔子が堯舜を祖述し文武を憲章したのに自らをなぞらえたものである。
結びの「萬邦の幷せ比すべきに非ざるのみ」は、この書の自恃がもっとも強く出た句である。同時に、比較を拒む断言でもあって、開かれた議論としては閉じている。この一句をどう受け取るかは、読む側に委ねられている。