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中朝事實 小林一郎 講義 二十七(神教章 その五)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 鏡を賜ふの深意、孝子の至情、鏡の本性、阿直岐・王仁の渡来 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第二十七冊。神教章の第五分冊(底本 下巻 四五〜五二頁)を収めます。前冊末尾の「以上往古の神勅」を承けて、まず小林自身の言葉で「當に猶ほ吾を視るがごとくすべし」の深意を、堯が舜に授けた十六字の心法と比べながら説き、続けて孝子の情・鏡の本性・鏡を範とする支那の故事を敷衍します。後半では舞台が転じ、阿直岐・王仁の渡来――日本が初めて外国の典籍を学んだ、その最初の記事に入ります。

この冊の読みどころ(一)。前冊の謹按で引かれた「雖堯舜禹之十六字。豈外乎此」の一句を、小林はここで具体的に、書經に見える十六字「人心これ危く、道心これ微なり。これ精しくこれ一にして、まことにその中を執れ」そのものを引いて説き明かします。

この冊の読みどころ(二)。「鏡の本性」を説く数頁は、この読本群でもとりわけ具体的な比喩に富みます。「己を虚しくして物を容れる」「来らざるは迎へず、往けば将らず」「泥に入れても汚れない」など、鏡の性質を一つ一つ君主の徳に重ね合はせる語り口です。

この冊の読みどころ(三)。底本下巻五十頁から、阿直岐・王仁が百済より渡来し、初めて日本に典籍が伝はつた記事が始まります。小林は『日本書紀』応神紀の本文だけでなく、『続日本紀』延暦九年の百済王眞道の上表文、桓武朝の武生連眞象の上言という、二つの異なる系譜伝承をも続けて引きます(全集版には見えない、小林本独自の引用です)。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文(山鹿素行全集版の対応節 中朝事実_5.html(sg19)と照合して確認しました。ただし阿直岐・王仁の系譜をめぐる続日本紀の引用は全集版にはなく、小林本独自のものです)、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

十六字(じふろくじ)
『書經』大禹謨に見える、舜が禹に位を譲る際に授けたとされる心法。「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中」。朱子学が道統の核心とする句。
厩坂(うまやさか)
阿直岐が貢がれた馬を飼つた軽(大和国)の地。その故事にちなむ地名として伝はる。
書首(ふみのおびと)
王仁の子孫と伝へられる氏族。記録・文書を掌る職掌にちなむ名という。
辰孫王・智宗王(しんそんわう・ちそうわう)
『続日本紀』延暦九年の百済王眞道の上表文に見える人物。百済貴須王の孫とされ、応神朝に入朝して皇太子の師となり、書籍を伝へたと記す。日本書紀の王仁とは別系統の伝承。
武生連眞象(たけふのむらじまさかた)
桓武朝の人。上言により、漢の高祖の後裔とする王仁の系譜(王狗の孫・狗孫王仁)を伝へる。
都慕大王(ともたいわう)
百済の始祖と伝へられる王。日の神の霊が扶餘に降つて国を開いたとされる伝承上の人物。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
應神天皇(おうじんてんわう)
第十五代天皇。譽田天皇とも申す。阿直岐・王仁を召して典籍を伝へさせたと伝はる。
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)
應神天皇の皇子。阿直岐・王仁の師事を受けたと伝はる。同母兄が仁德天皇。
阿直岐(あちき)
百済より良馬を貢った使者。経典を読むことができ、菟道稚郎子の師となつた。阿直岐史の始祖と伝はる。
王仁(わに)
阿直岐の推薦により百済から召された博士。諸々の典籍を菟道稚郎子に授けたと伝はる。書首等の始祖と伝はる。

神教章 三十五鏡を賜ふの深意 ── 十六字との比較底本 下巻 四十五頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行がなほ意見を述べて申しますには、この天照大神が鏡をお授けになつたといふことが、すなはち神のお与へになつた御訓戒であつて、「当に吾を視るがごとくせよ」と仰せられたのは、まことに意味が深いのである。すなはち天照大神の御徳を忘れないで、これを永くお手本として、子孫たる者はつねに其の徳を養ふことに励むやうにしなければならぬと、かういふ意味の仰せであつて、これは千万世の後までも歴代の天皇がお守りになつていらつしやる所であります。この御言葉はまことに簡単でありますけれども、其の中に含まれてゐる意味は実に深いものと申さなければならないのでありますが、昔堯が舜に位を譲り、舜が禹に位を譲られたといふことは書経などに明らかでありますが、舜が禹に位を譲られる時にこれに与へた戒めがあります。これが十六字でありまして、すなはち「人心これ危く、道心これ微なり。これ精しくこれ一にして、まことにその中を執れ」と、かういふのであります。この世の中を見ると、多勢の人間が私欲に耽つて過ちを犯す者が多いのである。それから「道心」といふのは正しい心持でありますが、正しい心持といふものがだんだん微かになる。それであるからこの多勢の人間を教へ導くといふことが君主たる者の重大なる責任であつて、君主たる者は「精しく一にして」、一生懸命になつて自分の責任を果すやうに努め、さうして何時でも中を執つて、決して一方に偏らないやうに、つねに中正な道に従つて政治をしなければならない。舜はかう言つたので、この十六字は本当に人に君たる者のつねに守るべきものであると言はれてゐるのでありますが、これも要するにこの天照大神が鏡をお授けになつたといふこと以上に出ることは出来ないのであります。

解説
前冊の謹按(kg33)の「雖堯舜禹之十六字。豈外乎此」を、ここで具体的に説き明かす。『書經』大禹謨の十六字心法「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中」の内容そのものを引き、日本の神勅の四字がこれに優ると重ねて説く。

神教章 三十六孝子の至情底本 下巻 四十六頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体人の子として親を思ふといふことは最も尊い行ひであつて、たとひ親が死んで後でも「恒に在すが如く」──始終自分の側に居るやうに思うて、親を思ふといふ心持であるならば、何事をするに就いても心に緩みが生ずるといふことはないのであります。あるいは人に依ると、初めは一生懸命になつて居ても、終ひにはだんだん緩んで来る者もある。あるいは或る事柄には気を付けるけれども、他の事は好い加減にするといふやうな者もあるが、さういふやうに心が緩んで来るとだんだんに正しい道に遠ざかつて、己れの私慾に従つて行ひを慎しまないといふやうになる。これでは到底其の地位を永く保つて、其の責任を全うすることは出来ないのであります。もし其の祖先を大切に思うて、祖先の戒めを忘れないといふやうな人であるならば、下の者に対しても常に情けを以て接して、よく下の者を保護し、下の者を教へ導くといふことが出来るので、祖先を忘れるやうな者が人民の為に力を尽すといふことの出来るものではないのであります。それであるから孔子も「三年父の道を改むること無きは孝と謂ふべし」といふことを申して居ります。この位に親の遺したことを重んずるといふ人であるならば、常に己を慎しんで何事にも力を打込んでやりますから、世の中の為にもなれば、また自分としても本当に意義ある一生を送ることが出来るのであります。一体人を思へば、其の人の遺した物をも大切にするといふことは当然でありますよ。例へば人の家の外を通つて其の庭に植ゑてある木を見ても、其の人が立派な人であると其の木までも懐かしく思ふ。また人を心から愛すると、其の人の住んで居る家の屋上に烏が留まつて居るのを見ても、其の烏までも懐かしく思はれるといふことが昔から言つてあるのであります。況して其の亡くなつた人の後に遺した器とか、或は其の後に遺した書物とかいふやうなものを見た時に、懐かしく思はずには居られない。況してや其の後に譲られた

解説
前冊末尾(kg34)の「後聖人以三年無改於父之道爲孝」「凡思其人猶愛其樹。愛其人猶及其烏」の一節を、小林が自分の言葉で敷衍する。「愛屋及烏」の故事成語が、身近な人情の説明に噛み砕かれてゐる。

神教章 三十七鏡の本性(一)底本 下巻 四十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
鏡といふものを見たならば、其の鏡を見て其の鏡を授けられた人を思ひ出し、其の徳に倣ふやうに努めるといふことは当然のことであります。また鏡といふものを見ると、鏡は実に明かであつて、凡ての物の姿をそのまゝに映すのであるから、之に習つて自分も徳を明かにし、万民を皆懐けるだけの働きをしようといふ心持の起るのは当然であります。さうして其の道を努めて行けば日に日に進歩するので、一時間でも一刻でも決して怠けてはならぬといふことも自ら考へられる訳であります。況してや天照大神の如きは、日月と同じやうな光りを具へ、天地と並ぶ所の徳を具へていらつしやるのであるから、其の御訓戒を守り、其の御事蹟をお手本として行けば、やはり同じやうに立派な智慧を具へ、同じやうに勝れた徳を具へるやうになられるといふことは固より当然であります。此の天照大神の御心持が鏡に遺つて居るのであるから、此の鏡に対すれば、神様は今でも生きていらつしやるのだといふ心持が起るべきであります。一体此の鏡といふのはどういふものであるかと言へば、金の非常に純な、雑りのないものを取つて作つて、其の上に之を銀とか錫とかいふものを以て磨いて、それで鏡其の物のシッカリして居るのと、上から取付けた銀や錫の光りとが相俟つて、「光彩の明を来す」──非常に美しく照り輝いて、凡ての物を照らすといふことになるのであります。すなはち智仁勇の三徳といふことを聖人が言つて居るが、此の智仁勇の徳を形に表はしたものが鏡であると申しても間違ひではない。さうして又鏡といふものは「己を虚しうして物を容れる」── 鏡其の物は何の色もないけれども、之に物を映せば、其の映つたものは其の通りの色、其の通りの形に映る。「来らざるは迎へず」── 物が近づかなければ其の形は映らない。また「往けば」── 離れてしまへば鏡に映つた形は消えてしまふ。鏡の方から追ひかけて行つても、其の形を映すといふことはない。

解説
「鏡の本性」を説く一段の前半。前冊の謹按(kg34)「蓋鏡之爲物也。虚己以容物。未來不迎。既往不將」を、日常の言葉で一つ一つ噛み砕いてゐる。

神教章 三十八鏡の本性(二)底本 下巻 四十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから鏡に蓋をしてしまへば隠れ、其の蓋を取つて実際に使へば、如何なる物をも照らすといふ働きをする。さうして物を照らすといふ場合に於ては少しも間違ひなく、少しも漏らすことなく之を照らすので、鏡といふものは少しも私の心持のないものであります。孔子は自分の心持をお弟子の子路といふ人にお話になつて、自分はどんな穢れた中に居つても少しも穢れはしない。例へば水晶の玉のやうなものであると泥の中に入つても泥に染まない。また砥石で如何に磨いても形が損することはないが、自分も其の通りである。どんな悪人の中に入つても、またどんな境遇の中に居ても、自分の守る所は変へないぞと言はれたが、鏡も其の通りであつて、泥の中に入れても汚れない、また鏡を擦り減らさうとしても擦り減らすことは出来ない。何時までも其の明かな光を持つて居るので、これを以て人に君たる者の手本とすべきものであります。ところで此の鏡を使ふのにもまた心得があつて、余り磨き過ぎるとタゞキラキラ光るだけであつて役に立たない。また久しく鏡を蔵つて置いて磨かなければ、だんだん錆びてしまふ。それであるから用のある時には出して、用のない時には蔵つて置き、また時節を経てから磨くといふやうにしなければならぬ。人の上に立つ人も其の通りで、幾ら下々のことを知つて居るからといつて、其の自分の智慧を振廻し過ぎると、下の者は自分の意見を述べることの隙間がなくなつてしまふ。また引つ込んで居て民間の事も聞かず、臣下にも接しないといふことが余り長くなれば、自然に世の中の形勢が判らなくなつて来る。それであるから鏡を使ふべき時には使ひ、また蔵ふ時には蔵ふといふやうにして、人君たる者は日々の行ひが中庸を得るやうに自ら反省しなければならない。すなはち日に新たにして息まないといふ心掛けがなければならぬので、それには鏡

解説
「鏡の本性」を説く一段の後半。孔子と子路の逸話を借りて「泥に染まらぬ鏡」を説き、さらに用不用の心得(磨き過ぎ・蔵ひ過ぎの戒め)を君主の自己抑制の教へへと転じる。前冊の「磨之不磷緇。精練而悠久也」(kg34)に対応する。

神教章 三十九鏡を範とする例底本 下巻 四十九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
を手本とするといふことが一番であります。天下の鏡といふものは皆此の通りのものである。それであるから人君たる者は此の鏡を手本として徳を養はなければならぬ。また独り人君のみならず、凡そ学問をする者が己れを省みて其の徳を完うするといふのには、鏡を手本にするといふことが最も適切なのであります。支那でも黄帝といふ人は鏡を鋳て、其の鏡に自分の姿を照らして自ら反省することに努めたといふことが伝はつて居る。また周の武王も鏡の銘といふものを作つて、鏡に己れの顔を照らすが如く、常に反省して過ちを少くしようといふことを自ら誓つた。唐の太宗といふ人も三鑑といふことを申して居る。また唐の玄宗は水を鏡として姿を映す通り、自分の行ひを反省しなければならないといふことを申して居ります。これは何れも人の上に立つ者の手本とすべきものであります。ところが天照大神の鏡をお授けになつたのは、これ等の支那の明君といふものに比べると、また到底比べることの出来ない位な深い思召があるのであるから、後世の帝王たる方が此の鏡を大切にして、鏡に依つて表はされた所の天照大神の御徳といふものをお手本として、始終其の政治に努めていらつしやれば、此の鏡が光りを発するやうに、君主たる方の御徳も益々世の中に知れ渡つて、日に新たにして皇室の御威光といふものがいよいよ御盛んになるといふことは少しも疑ひのない所であります。支那でも天子が少しの間でも其の父祖たる人と共に居て、其の戒めを受けて居る心持を失はず、身を慎しみ徳を修めたといふ例はあるが、それに比べて到底比べることの出来ないほどの御徳が日本の天子様には自ら具はつて居るので、天下が永く栄えて行くことは決して間違ひはない。斯ういふ意味に解釈すると、此の

解説
前冊の「外朝之黄帝鑄神鏡。武王作鏡銘。太宗存三鑑之戒。玄宗異水心之鏡」(kg34)を、小林が一つ一つ故事として説き直す。支那の明君の例を認めつつ、天照大神の鏡はこれらと同列ではないと結ぶのは、前冊の「豈此等之屬乎」の趣旨と同じである。

神教章 四十阿直岐・王仁の渡来底本 下巻 五十〜五十一頁
原文
天照大神が鏡をお授けになつたといふことが、非常に深遠な意味を持つものであるといふことは自ら解る訳であります。
譽田天皇十五年。秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。卽養於輕坂上之厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。
十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。故所謂王仁者。是書首等之始祖也。

訓読
天照大神あまてらすおほみかみかがみをおさづけになつたといふことが、非常ひじやう深遠しんゑん意味いみつものであるといふことはおのづかわかわけであります。
譽田天皇ほむたのすめらみこと十五年じふごねんあき八月はちぐわつ壬戌みづのえいぬついたち丁卯ひのとう百濟王くだらのこきし阿直岐あちきつかはして良馬よきうま二匹にひきたてまつらしむ。すなはかる坂上さかのうへうまやはしめ、りて阿直岐あちきもつつかさどはしむ。ゆゑにそのうまひしところづけて厩坂うまやさかふ。阿直岐あちきまた經典けいてんめり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつことしたまふ。ここいて天皇すめらみこと阿直岐あちきうてのたまはく、いましまされる博士はかせまたありやと。こたへてまうさく、王仁わにといふものあり、すぐれたりと。とき上毛野君かみつけののきみおや荒田別あらたわけ巫別かむなぎわけ百濟くだらつかはし、りて王仁わにさしむ。その阿直岐あちき阿直岐史あちきのふびと始祖しそなり。
十六年じふろくねんはる二月にぐわつ王仁わにけり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつことし、もろもろ典籍てんじやく王仁わにならひ、通達つうたつせざることし。ゆゑ所謂いはゆる王仁わには、書首ふみのおびと始祖しそなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
天照大神が鏡をお授けになつたといふことが、非常に深遠な意味を持つものであるといふことは自ら解る訳であります。
譽田天皇(応神天皇)の十五年、秋八月壬戌の朔、丁卯の日、百済王が阿直岐を遣わして良馬二匹を貢った。そこで軽の坂上の厩でこれを飼わせ、阿直岐にその世話を任せた。だからその馬を飼った所を名づけて厩坂という。阿直岐はまたよく経典を読むことができた。そこで太子菟道稚郎子の師とされた。ここで天皇は阿直岐に問われた。「もしそなたにまさる博士がほかにいるか」。答えて申し上げた。「王仁という者がおります。これがすぐれています」。そこで上毛野君の祖である荒田別、巫別を百済に遣わして、王仁を召させられた。かの阿直岐は阿直岐史の始祖である。
十六年春二月、王仁が来た。そこで太子菟道稚郎子の師とし、諸々の典籍を王仁に習って、通達しないものはなかった。だからいわゆる王仁は、書首らの始祖である。

解説
阿直岐・王仁の渡来を伝える基本史料(『日本書紀』応神紀)。全集版の対応節はsg19(同節は「二疋」と記すが、小林本は「二匹」とやや異なる字形で引く。小林本の字形に従つた)。馬を貢いだ使者がたまたま経典を読めたので師となり、さらに勝れた者を招く――という飾らない渡来の経緯が、次段以降の「学問をどう受け入れるか」という議論の前提になる。

神教章 四十一王仁の系譜をめぐる異伝底本 下巻 五十〜五十二頁
原文
百濟王眞道。後賜菅野姓。上表。延暦朝。曰。眞道等本系出自百濟王貴須王。貴須王者。百濟始興第十六世王也。夫百濟太祖都慕大王者。日神降靈奄扶餘而開國。天帝授籙。惣諸韓而稱王。降及近肖古王。遙慕聖化。始聘貴國。是卽神功攝政之年也。其年應神天皇命上毛野氏遠祖荒田別使於百濟。搜聘有識者。國主貴須王恭奉使者。探擇宗族。使其孫辰孫王。一名智宗王。隨使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以爲皇太子之師。於是始傳書籍。大開儒風。文教之興。誠在於是。
仁德天皇以辰孫王長子阿育王爲近侍。桓武朝。武生連眞象等言。漢高祖之後曰鸞。鸞之後王狗。轉至百濟。久素王時。聖朝使徴召文人。久素王以狗孫王仁貢焉。是又武生等之祖也。

訓読
百濟王眞道くだらのこきしまみち──のち菅野すがのかばねたまふ──上表じやうへうして(延暦朝えんりやくてういはく、眞道まみち本系ほんけい百濟王貴須王くだらのこきしきしゆわうよりづ。貴須王きしゆわう百濟くだら始興しこう第十六世だいじふろくせいわうなり。百濟くだら太祖たいそ都慕大王とぼたいわうかみ降靈かうれい扶餘ふよおほりてくにひらき、天帝てんていろくさづけ、諸韓しよかんべてわうしようす。くだつて近肖古王きんせうこわうおよび、はるかに聖化せいくわしたひ、はじめて貴國きこくへいす。すなは神功じんぐう攝政せつしやうとしなり。とし應神天皇おうじんてんわう上毛野氏かみつけののうぢ遠祖ゑんそ荒田別あらたわけめいじて百濟くだら使つかはし、有識者いうしきしや搜聘さうへいせしむ。國主こくしゆ貴須王きしゆわううやうやしく使者ししやほうじ、宗族そうぞく探擇たんたくし、まご辰孫王しんそんわう──一名いちめい智宗王ちそうわう──をして使つかひしたが入朝にふてうせしむ。天皇すめらみことよみしてとく寵命ちようめいくはへ、もつ皇太子くわうたいしす。ここいてはじめて書籍しよせきつたへ、おほい儒風じゆふうひらく。文教ぶんけうおこる、まことこれり。
仁德天皇にんとくてんわう辰孫王しんそんわう長子ちやうし阿育王あいくわうもつ近侍きんじす。桓武くわんむてう武生連眞象たけふのむらじまさかたまうさく、かん高祖かうそのちらんひ、らんのち王狗わうくてんじて百濟くだらいたる。久素王きうそわうとき聖朝せいてう使つかひして文人ぶんじんさしむ。久素王きうそわう狗孫王仁くそんわうにんもつたてまつる。また武生たけふなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
百済王眞道(後に菅野の姓を賜わった)が上表して(延暦の御代のことである)こう述べている。眞道らの本来の系統は百済王貴須王より出ている。貴須王は百済の興り第十六世の王である。そもそも百済の太祖都慕大王は、日の神の霊が扶餘に降って国を開いた方で、天帝から籙を授かり、諸々の韓をすべて統べて王と称した。時代が下って近肖古王に至り、はるかに聖化を慕って、初めて貴国(日本)に使いを送った。これがすなわち神功皇后の摂政の年である。その年、応神天皇は上毛野氏の遠祖荒田別に命じて百済に使わし、学識のある者を探し求めさせた。国主貴須王はうやうやしく使者を迎え、一族の中から選んで、その孫の辰孫王(またの名を智宗王という)を使者に従えて入朝させた。天皇はこれを喜ばれ、特別に寵命を加え、皇太子の師とされた。ここで初めて書籍が伝わり、大いに儒学の風が開けた。文教の興りは、まことにここにある。
仁徳天皇は辰孫王の長子阿育王を側近とされた。桓武天皇の御代、武生連眞象らが申し上げるには、漢の高祖の後裔を鸞といい、鸞の後裔が王狗であって、代を経て百済に至った。久素王の時、朝廷が使いを遣わして学識ある文人を召された。久素王は狗孫王仁を貢った。これもまた武生氏らの祖である。

解説
小林はここで、前段(kg40)の『日本書紀』本文だけでなく、『続日本紀』延暦九年の百済王眞道の上表文、および桓武朝の武生連眞象の上言という、二つの異なる系譜伝承を続けて引く。前者は辰孫王(智宗王)が百済貴須王の孫として入朝し、皇太子の師となつて「始めて書籍を伝へた」とする話であり、後者は王仁を漢の高祖の後裔・王狗の孫(狗孫王仁)とする、まつたく別系統の伝へである。両者は前段の阿直岐・王仁の記事とも人物・時期の対応が必ずしも一致せず、小林も次段でこれを深追いはしていない。史料が伝へる異伝の重なりをそのまま示す一節として読むべきところである。全集版にはこの二つの引用は見えず、小林本に独自のものである。

神教章 四十二儒教の傳来底本 下巻 五十二〜五十三頁(前半)
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には応神天皇の御宇に、支那から儒教が伝はりました時の事情が記されてあるのであります。仏教の伝はつたのはこれより後でありまして、我が国に於ては先づ儒教が伝はつて、然る後に仏教が伝はつたといふ順になつて居るのであります。それで此の儒教の伝はつた一番初めは、阿直岐が日本に来たのでありますが、阿直岐は元来儒教を伝へる為に来たのではなく、百済から馬を貢する其の使ひに来て、此の縁に依つて儒教を伝へるといふことになつたのであります。其の事がこゝに詳しく記されて居ります。すなはち応神天皇の十五年秋八月に、百済から阿直岐といふ者を使ひとして、良い馬を二匹貢した。そこでこれを軽の坂上の厩に飼つて置いて、阿直岐は馬を飼ふのに慣れて居たから、これを其の儘留めて馬を飼ふことを掌らせて置いたのであります。それで今でも此の故事に依つて厩坂といふ名が残つて居ります。また此の阿直岐は、たゞ馬を飼ふことに熟して居つたのみならず、経典を読むことに於ても長じて居つたから、それで応神天皇のお子様の菟道稚郎子といふ方が之を師とされたのであります。この菟道稚郎子は「太子」と書いてありますが、この方のお兄様が卽ち仁德天皇でありますけれども、応神天皇はこの菟道稚郎子の将来に非常に望みを嘱していらしつて、此の方に位をお伝へになるといふ思召でありましたので、それで「太子」と申してあるのであります。

解説
前二段(kg40kg41)で引いた漢文の内容を、小林が自分の言葉で説き直す一段。阿直岐が本来は馬の貢献の使者であり、儒教の伝来はいはば副産物だつたこと、菟道稚郎子が「太子」と呼ばれる事情(同母兄の仁德天皇より先に位を嘱望されてゐたこと)が、平易に説明される。次冊では、菟道稚郎子がさらに勝れた博士を求めて王仁を招く経緯へと話が続く。