神治章 百六十二天照太神の天邑君・成務天皇の国郡造長底本 下巻 百八十三〜百八十四頁
原文
天照太神、因定天邑君、卽以其稻種、始殖于天狹田及長田、其秋垂穎八握、莫莫然甚快也。成務帝五年秋九月、令諸國以國郡立造長、縣邑置稻置、百姓緣此、天下無事焉。
訓読
天照太神因りて天邑君を定む。卽ち其の稻種を以て始めて天狹田及び長田に殖ゆ。其の秋垂穎八握に莫莫然として甚だ快し。成務帝の五年秋九月、諸國に令して以て國郡に造長を立て、縣邑に稻置を置く。百姓此に緣りて、天下無事なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には人民の間にそれぞれの地方を治める長官を置かれたことを挙げてあるのであります。天照大神が稲をお植ゑになつたといふことは前にもありましたが、此の稲をお植ゑになる時に邑君といふものを定められたといふのであります。邑君といふのは其の農村の取締をする所の職に在る者であります。これは農業に就いての指導をするばかりでなく、其の農民の間に争ひなどのないやうにこれを教訓したり、或は事が起れば之に然るべき判定を与へるといふやうな任務であつたと思はれるのであります。何分昔のことでありますから、どれだけの権限があつたかといふことは判りませぬけれども、たゞ指導するといふだけでなく、只今申すやうな様々な職分を帯びて居たものと考へられるのであります。どうしても人間は教へがないと争ひ合ふやうになりますから、たとひ土地が良くて収穫が多くても、収穫が多ければ多いほど、自分の方に余計取りたいといふやうな者が出て来るのは已むを得ませぬので、そこでやはり然るべき人物が其処に居つて、さういふやうな点の取締りをもしなければならないのであります。其の凡てが行届いて居つたから、秋になつて収穫が非常に多かつたといふことであらうと思はれるのであります。それから成務天皇の御時に、方々の国郡に造長を置き、また方々の県邑に稲置を置かれたといふことは前にもあつたのでありますが、これもやはり人民を指導するといふことと取締りをするといふこととの両方の任務を帯びて居つたものであります。教へて其の業に励ませるといふことも必要であるし、また欲を縦にしないやうにこれを取締るといふことも必要であつて、謂はゆる恩威並び行はれなければ、世の中は本当に治まつて行かないのであります。斯ういふ心持を以て此の職に当る者の力に依つて、天下が平かになり、また百姓も其の処を得たといふことであらうと思はれます。斯ういふやうに其の人物を選んで然るべき地位に置いたといふことは、詰り上に立つ所の天皇の御聡明であらせられたからの結果でありまして、国を治むる為の最も貴い模範であると考へられるのであります。
解説
天照太神による天邑君の制定と、成務天皇による国郡造長・県邑稲置の制を並べて、地方統治の起源を語る一節である。前段までの「農の利を尽す」「民の害を除く」という積極・消極両面の施策に続き、この段からは「民を治める仕組みそのもの」という、より制度論的な主題に移る。この一節に対応する全集版の分冊は現時点で未確認のため、底本のみを典拠として翻刻・訓読した。
神治章 百六十三謹按(一) ── 長を立てて統紀す底本 下巻 百八十四〜百八十五頁
原文
謹按、是天人建民之長之始也、凡物相聚、未嘗不有長以統紀焉也、烏獸之群、必有長焉、況其人乎、民有其業、業必有敎、人必有知、不知其敎、則百穀違時、稼穡失候、而民不得恒産、不制其欲、則鬪諍相起、獄訟日盛、而民以至死亡。
訓読
謹みて按ずるに、是れ天人民の長を建つるの始めなり。凡そ物相聚まれば、未だ嘗て長ありて以て統紀せずんばあらざるなり。烏獸の群すら必ず長あり。況んや其の人をや。民其の業あり、業には必ず敎あり、人には必ず知あり、其の敎を知らざれば、則ち百穀時に違ひ、稼穡候を失ひ、而して民恒産を得ず。其の欲を制せざれば、則ち鬪諍相起こり、獄訟日に盛にして、而して民以て死亡するに至る。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
謹んで按じますに、これが天が人のために民の長を建てられた始めであります。凡そ物が相集まれば、必ず長があつてこれを統べ紀めるものであります。烏や獣の群にすら必ず長がある。況して人間においてをや。民にはそれぞれの業があり、業には必ず教へがあり、人には必ず知恵がある。その教へを知らなければ、百穀は時節に違ひ、稼穡は時機を失ひ、民は恒産を得ない。その欲を制しなければ、争ひが起こり、訴訟が日ごとに盛んになつて、民は死に至る。
解説
「烏獣の群にすら必ず長あり、況して其の人をや」の一句は、統治の必要性を生物界の観察から説き起こす、素行の論法の特徴をよく示す。分量の多い謹按のため、この冊では三段(kj163〜kj165)に分けて収める。次段(kj164)ではこの原理が具体的な制度論へと展開される。
神治章 百六十四謹按(二) ── 百官の設けは民の為なり底本 下巻 百八十五頁
原文
故神之定、旣立邑君、以播時百穀、後世豈可忽焉乎、成務帝始分國郡、定封域、造長者主國郡、稻置者司縣邑、宜哉百姓安居、天下無事焉、夫天生蒸民、不能自治、遂有之君、君統萬民、不能獨理、寄之百官、百官所理、其揆惟萬、而所其緊悉在民、然乃百官之設非爲民乎、人君之重非爲民乎。
訓読
故に神の定め、旣に邑君を立て、以て時に百穀を播かしむ。後世豈忽せにすべけんや。成務帝始めて國郡を分ち、封域を定む。造長は國郡を主り、稻置は縣邑を司る。宜なる哉、百姓安居し天下無事なること。夫れ天蒸民を生ず、自ら治むること能はず。遂に之に君あり、君は萬民を統べ、獨り理むること能はず。之を百官に寄す。百官の理むる所、其の揆惟れ萬なれど、其の緊なる所は悉く民に在り。然らば乃ち百官の設け、民の爲に非ずや。人君の重きは民の爲に非ずや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
故に神の定めによつて、既に邑君を立て、時に応じて百穀を播かせられた。後世これを忽せにしてよいものであらうか。成務天皇は初めて国郡を分ち、その境を定められた。造長は国郡を治め、稲置は県邑を司る。げにも百姓は安んじて住み、天下は無事であつた。そもそも天は多くの民を生じたが、民は自ら治まることができない。そこで君主が立てられた。君主は万民を統べるが、独りでは治めることができない。そこで百官にこれを委ねる。百官の治める所は種々多岐にわたるが、その要は悉く民にある。とすれば百官を設けるのも、民のためではないか。人君を重んずるのも、民のためではないか。
解説
「百官の設け、民の為に非ずや。人君の重きは民の為に非ずや」の反語表現に、素行の民本思想が最も端的に現れてゐる。制度(造長・稲置・百官)はすべて民のためにあるという発想は、その十六(kj140)の謹按「一人を以て億兆の父母たり」とも通底する。
神治章 百六十五謹按(三) ── 民の長を軽んずるは天下国家を軽んずるなり底本 下巻 百八十五〜百八十六頁
原文
旣知天爲民立君、則莫不以重民爲先務、重民必在於撰民之長也、人非其人、則官不明、官不明、則民情不可致、民情塞、則非民之長也、後世得民安國豊者、得其人也、得民苦國衰者、不得其人也、故輕郡主縣令、是輕民、輕民是輕天下國家也、輕天下國家、非違乾靈授國之德、垂天孫統之基乎、四方嘉靖之休、萬國咸寧之化、其機端在于此也。
訓読
旣に天民の爲に君を立つることを知れば、則ち民を重んずるを以て先務と爲さゞるは莫し。民を重んずるは必ず民の長を撰ぶに在り。人其の人に非ざれば、則ち官明らかならず。官明らかならざれば、則ち民情致すべからず。民情塞がれば、則ち民の長に非ざるなり。後世民安く國豐かなるを得る者は、其の人を得たるなり。民苦しみ國衰ふるを得る者は、其の人を得ざるなり。故に郡主縣令を輕んずるは、是れ民を輕んずるなり。民を輕んずるは是れ天下國家を輕んずるなり。天下國家を輕んずるは、乾靈國を授くるの德に違ひ、天孫統を垂るるの基を虧くに非ずや。四方嘉靖の休、萬國咸寧の化、其の機端此に在るなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
既に天が民のために君を立てたと知れば、民を重んずることを第一の務めとしない者はない。民を重んずるとは、必ず民の長を選ぶことにある。その人が適任でなければ官は明らかにならない。官が明らかでなければ、民の情は上に届かない。民の情が塞がれば、それはもう民の長とはいへない。後世、民が安らかで国が豊かになるのは、適任の人を得たからである。民が苦しみ国が衰へるのは、適任の人を得なかつたからである。故に郡主・県令を軽んずるのは、民を軽んずることである。民を軽んずるのは、天下国家を軽んずることである。天下国家を軽んずるのは、天が国をお授けになつた徳に背き、天孫が統をお垂れになつた基を欠くことにならうか。四方が安らかに治まり、万国が皆寧らかになる、その機はまさにここにあるのである。
解説
「郡主県令を軽んずるは、是れ民を軽んずるなり」以下の一節が、この長い謹按全体の結論にあたる。地方長官の任命という、一見地味な制度上の問題を「天下国家を軽んずる」かどうかという次元にまで引き上げて論じる点に、素行の思考の特徴が現れてゐる。
神治章 百六十六素行の言葉 ── 統率者の必要底本 下巻 百八十六〜百八十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行が更に自分の意見を附け加へて申しますには、此の天照大神の御事蹟といひまた成務天皇の御事蹟といひ、共にこれは神代に於て、また人皇の世に於ての、人民を取締る所の長官を立てるといふことの始めとして、後世のお手本としなければならぬ事であります。一体物が集まれば其の全体を統一する所の者がなければならないといふことは当然であつて、たゞ沢山の物が集まつても、そこに統一がなければ何も出来ないのであります。それであるから鳥や獣でも一つの群をなせば、其の群を指導するものが必ず出来るのであります。況してや人間のことは鳥や獣の生活などよりもモット複雑なのでありますから、此の複雑な人間の仕事を取締る者がなければ、決して其の効果の挙らぬといふことは固より当然であります。また人民にはそれぞれの業が分れて居るので、或は農業をする者があり、或は工業を営む者があり、或は其の得た物を交易する所の商人といふ者もあるといふ訳で、なかなか鳥や獣などとは違つて分業といふことが繁くなつて居るのでありますから、これを取締る者がなくて其の成績を挙げ得られやう訳はないのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「烏獣の群にすら長がある」というkj163の謹按を、鳥獣と人間の生活の複雑さの違い、分業の必要性という観点からさらに敷衍する。
神治章 百六十七教への必要 ── 恒産と争いの禁底本 下巻 百八十七〜百八十九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
またどういふ業をするのにも、必ず教へといふものがなければならない。何故教へがなければならぬかと言ふと、人にはみな欲望といふものがあるからであります。若し其の欲望を自然の儘に任せて置けば、如何に得る所が多くても、それで満足しないで人の分までも取りたいといふことになりますから、争ひといふものが出来て来て、其の争ひに暇を費して居れば、仕事は迂闊に出来なくなる。それであるから自分の欲を縦にするといふことは、結局自分を不幸にすることである。そこで教へといふものを立てて其の争ひを制するといふことが、卽ち人々をして本当に幸福な生活を送らせる基になる訳であります。若しそれが出来なければ、収入のみが多くても決して幸福にはなれない。先づ第一は其の働く道を与へてよく働かせるといふことであります。一般の人民は思慮分別の足りないものでありますから、然るべき人がこれを教へて其の方法を授けてやらなければ、それぞれの仕事に力を打込むといふことは出来ない。若しこれを指導する者がなければ、『百穀時に違ふ』──穀物を植ゑることにも時節を失ふから、収り出来が悪い。随つて人民は『恒の産を得ず』──平生の生活に困らないだけのことが出来ないやうになるのであります。併しながらたゞ指導して働かせるといふばかりでは、其の欲に依つて争られるから、其の欲を制するための教訓を与へるといふことが必要であります。其の欲を制することを忽せにして置けば互ひに争ひ合つて、謂はゆる訴訟が多くなる。また其の争ひが益々酷くなれば、互ひに腕力に訴へて人を制するといふことになつて、或は死を招くといふやうな者も出来て来るのであります。斯ういふ訳であるから、天照大神の時に既に邑君といふものをお立てになつて、農業を御奨励になると共に、農民の間に起る所の争ひを止め、また農民を教訓して銘々の欲を制するやうになさつたのであります。そこで成務天皇の御時になつて国と郡とを分けて、造長・稲置といふやうなものを置いて、それぞれに其の地方の農民を指導し、また農民の風紀を取締るといふことを掌らせたのであります。詰り天照大神の御精神が、後に至つて完全に実行の上に現はれて来たと申して宜しい訳であります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「教へ」の必要性を、放置すれば争ひと訴訟が絶えないという人間の欲望の性質から説き起こす。「恒の産を得ず」の語はその十七(kj145・kj149「恒産恒心」)の議論とも呼応する。
神治章 百六十八統治の大綱 ── 百官と人君の職分底本 下巻 百八十九〜百九十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体人間といふものは沢山集まつてそれぞれの仕事をするので、其の沢山の人が自分で自分を治めて行けば、これは洵に申分がないのでありますけれども、何分にも思慮分別の足りない者が多いから、人民が多くあつても自分達だけで治めるといふことは出来ない。そこで之を治める為に君主といふものが上に立つのであります。其の君主たる者は万民を統べて行くのであるが、併し如何に智恵の勝れ、また慈悲の深い人が君となつても、一人の力を以て多くの者を治めるといふことは出来ない。そこで『百官』といふ、卽ち君を輔ける所の者があつて、それぞれの職務を分担して、さうして万民を平和にするやうに力を尽すのであります。それで其の百官といふやうな者の治むる所は、『惟れ万』といふのは種々雑多であつて、其の事務といふものは実に多い。併しどれほど多くても帰する所は一つである。卽ち凡ての人民を平和にし、凡ての人民が満足してそれぞれの業に従事するやうに之を指導するといふこと以外には何もないのであります。それであるから百官を設けるといふことは民の為めと思はなければならぬ。また人君が大切であるといふことも民の為めと思はなければならないので、卽ち人民の幸福、人民の繁昌といふことを離れて、何も考へることは出来ないのであります。それであるから人の上に立つ者は、自分は何故斯ういふ高い地位を保つて居るかといふことをよく考へて、自分が万民の上に立つて居るのはみなの為めであつて、自分が威勢に誇つたり、生活を裕かにして一身を安泰にする為に斯ういふ地位を保つて居るのではないといふことを知らなければならぬ。何と言つても民を重んずるといふことが根本である。それならばどうして人民をみな幸福にしてやれるかと言へば、先づ其の地方々々を取締るべき人を挙げるといふことを考へなければならない。若し其の人が適当の人でなければ官が明かでない。其の取締る役人が職分を満足に果すこと出来なければ、地方の事情がどういふ風になつて居るかといふことを、上に立つ君主が詳しく知る訳に行かない。それで詰り上と下との間が塞がつてしまつて、上の思召も下に普及せず、また下の者の考へも上にお判りにならないと、斯ういふことになつてしまふ。斯うなれば万民の上に立つ人が其の職分を満足に果すといふことは出来なくなるのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。君主一人では万民を治められないため百官が置かれるという構造は、kj164の謹按「君統萬民、不能獨理、寄之百官」をそのまま敷衍したもので、「上下の間が塞がる」という表現はkj165の「民情塞」に対応する。
神治章 百六十九国家安危の係る所 ── その二十の結び底本 下巻 百九十〜百九十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これは何時の時代でも同じことで、人民が安らかで国が豊かであるといふのは、詰り其の人民を指導し、また取締る所の地位に居る人が然るべき人物であるからであり、また人民が苦しんで国が衰へて行くといふのは、其の指導し、また取締りに当る人に其の人を得ないからであります。それであるから『郡主県令』といふのは地方の長官で、其の地方の長官を選ぶことを決して軽々しくしてはならない。これを軽々しくするといふことは、詰り民を軽んずることになるのであり、民を軽んずるといふことは天下国家を軽んずるといふことになるのであります。さうして天下国家を軽んずるといふことは、天照大神が皇孫を此の国にお降しになつた其の御趣意に背くことであり、また皇孫がお降りになつて以来正しきを以て国をお治めになつた、其の御精神に背くことである。卽ち此の国の基礎を危くすることになるのでありますから、これは極めて大切な事と申さなければならないのであります。それで『四方嘉靖』卽ち国中が洵に安かに治まればこれほど目出度いことはない、また万国が咸く寧らかになれば、これほど結構なことはないのでありますが、斯ういふやうな目出度い状態がどうして実現されるか、其の根本は上に立つ人の心の持ち方一つに在る。此の点に深く意を用ひて、徳を以て天下を化するといふ、謂はゆる帝王の政治でありまして、我が国がだんだんと繁栄をして来たのは、詰り此の根本に於て其の道に適つたからであると考へなければならないのであります。これが民の長を建つるといふことに就いての説であります。ところが兎角に人間といふものは心の緩り易いものでありますから、多勢の人の上に立つと、多勢の人の上に立つのは自分の為めだといふことをツイ忘れてしまつて、己れの欲望を恣にするといふやうになり易いのであります。それで支那の昔の賢人も『一人を以て天下を治む、天下を以て一人に奉ぜず』と申して居りますのは、詰り斯ういふ心得違ひを戒める為と思はれるのであります。我が国に於ては皇室のお心持は始終お変りがなくて、たゞ民の為めとのみ思召していらつしやるのでありますから、洵に有難いのでありますが、此の皇室をお輔け申す人々の中には、往々にして自分の地位、自分の勢力に誇つて、何故に此の地位を占めて居るか、何故に此の勢力が与へられて居るかといふことを忘れる人が出来るのですが、斯うなると其の罰を受けなければならないので、これ等のことは今後に於ても互ひに深く戒めて行かなければならないのであります。以上、天照太神・成務天皇に始まる地方官制度と、その意義を以て、その二十の結びと致します。次の冊その二十一は、底本下巻百九十一頁からの「愚謂──天下の治道」(封建と郡県の比較を論ずる一節)より始める見込みであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「一人を以て天下を治む、天下を以て一人に奉ぜず」は『呂氏春秋』貴公篇などに見える句で、権力の私物化を戒める古来の格言である。日本の皇室が「始終お変りがなく、民の為めとのみ思召す」とする一方、これを輔ける者への戒めで結ぶ構成は、この読本シリーズが繰り返し示す「理念と、それを担ふ人間の弱さ」という視点の一例である。