神治章 百四十四崇神天皇十二年の詔 ── 男の弭調・女の手末調底本 下巻 百六十四〜百六十五頁
原文
崇神帝十二年、春三月丁丑朔、丁亥、詔曰、朕初承宗廟、獲保黎元、既不能弘化流德、而陰陽錯繆、寒暑失序、疫病多起、百姓蒙災、然今解罪改過、敦禮神祇、又敎導以黎元、擧兵以討不服、是以官無廢事、下無逸民、敎化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外旣歸化、宜當此時、更科調役以稅人民、始校人民、更科調役、此謂男之弭調、女之手末調也。
訓読
崇神帝の十二年、春三月丁丑の朔、丁亥、詔して曰はく、朕初めて宗廟を承け、黎元を保つことを獲たり。既に化を弘め德を流くこと能はずして、陰陽錯繆し、寒暑序を失ひ、疫病多く起こり、百姓災を蒙れり。然れども今罪を解き過ちを改め、禮を神祇に敦くし、又黎元を以て敎へ導き、兵を擧げて以て不服を討つ。ここを以て官に廢事なく、下に逸民なく、敎化流行し、衆庶業を樂しむ。異俗重譯して來り、海外旣に歸化せり。宜しくこの時に當りて、更に調役を科して以て人民に稅すべしと。始めて人民を校へて、更に調役を科す。これを男の弭調、女の手末調と謂ふなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
崇神天皇の時に人口を調査し、さうして租税の制度を確定されたといふことがありますが、その詔が出て居るのであります。卽ち崇神天皇の十二年正月に詔を下されまして仰せられるのには、自分は天皇の位を承け繼いで宗廟を保つことを得たのであるが、何分にも其の力が足りないので、天皇たる所の責を全うすることの出來ないことを恥かしく思つて居つた。自分の智惠は蔽はれて、國の末の末までをよく見究めるといふことが出來ず、また自分の德も甚だ低いものであるから、國民を皆安んずることも出來ない。それで國の政治が道を失つて居つたものであるから、天地の神々もこれをお誡めになる恩召と見えて、陰陽も違うて氣候も調はず、暑さ寒さの順序も狂うて居り、また疫病も多く起つて、國中の者は皆災ひを蒙つて居つた。これは洵に自分の力の足らぬ結果であつて、恥かしいことと申さなければならない。ところが自分は深く自ら責めて過ちを改め、また神々に對してお詫びをも申上げ、どうか此の人民の安らかになるやうにと心を籠めて祈つて、尚ほ其の上に人民にも敎へを與へて、銘々の業を勵むやうにこれを勤め、それでも命を用ひない者に對しては、これに制裁を與へる爲に之を征伐した。そこで世の中は洵に平かになり、また天地の神々も自分の心を察して以前の通りに護つて下さつたと見えて、世の中は全體に安かになつて、朝廷に勤めて居る者も各々其の仕事に努力して廢れた官もなくなり、また下々の人民にも怠けて居るといふ者は少しもなくなつた。斯ういふ譯で敎へは普く世の中に行はれ、多勢の人間も皆自分の業を樂しんでするやうになつて來たものであるから、此の國の威勢が外にまでも及んだと見えて、異なる風俗の國からも交通を求めて來た。斯ういふやうに國内も平かになり、また外の國も交はりを求めて來るやうになつたのであるから、此よりは國内をモット整頓して、是れから後も永く守つて行くべき所の制度を正しく立てたいと思ふ。就いては人民の數を調べて、さうして其の人民にそれ々負擔し得る程度の租税を課すといふことから始めなければならぬのである。さうして人民の數を調べた上に、先づ長幼の次第を立てなければならぬ。父と子の間、兄弟といふものの別を明かにして、さうして其の家の中の順序といふものの亂れないやうにしなければならず、また人民であれば國を維持する爲、それ々の負擔をするといふのは當然のことであるから、其の負擔をするに就いての秩序といふものをも正しくしなければならない。
解説
原文・訓読は全集版js23「課役 ── 民の産を制して後に教ふ」(中朝事実_6.html)の詔の部分と一致する。教化が行き渡り人々が仕事を楽しむようになつてから、はじめて調役を科す──という順序が眼目である。次段(kj145・kj146)ではこの詔が実際にどう実行されたかを述べる。
神治章 百四十五詔の実行 ── 人口調査と弭調・手末調の実際底本 下巻 百六十五〜百六十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういふ御趣意で詔が出まして、それから秋九月に至りまして、此の詔に仰せられた通りのことの實行に掛かつたのであります。卽ち人民の數をスツカリ調べて、そこで此の家は親は何といふ者で、其の下に子供が何人あるかといふことを一々調査して、其の人口に應じて調役を科す、卽ち租税を定めて、男の方には弓弭の調といふものを課した。獲物の一部を稅として出すことにしたのであります。また女の方は手末の調といふので、『手末』といふのは手から出た物といふ意味で、卽ちこれは織物のことであります。機を織つて其の出來た織物の一部を稅として上に納めることであります。先づ男女共に自分の働きが一々國のお役に立つのであるから、働くのにも大いに張合ひがある譯でありまして、斯ういふ事が此の時にスツカリ定まつたのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。前段(kj144)の詔が具体的にどう実行されたかを述べる。「男の弭調・女の手末調」は日本最古の税制のひとつとして知られ、後世まで長くその名残りをとどめた。
神治章 百四十六御肇國天皇 ── 崇神天皇の治世の完成底本 下巻 百六十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういふ譯で國内がよく整頓致しましたから、天地の神々も共に力を協せて此の國をお護りになつたと見えて、國はます々安らかになりまして、風雨も時に順ひ、穀物なども毎年よく出來て、饑饉などといふこともなくなつたものでありますから、どの家も皆生活が裕かになつて、人民が皆滿足するといふやうになりまして、實に天下泰平とも謂ふべき状態が茲に實現されたのであります。それで此の崇神天皇のことを後世からお稱め申して御肇國天皇と申上げました。『御肇國』といふのは、國を治める所の制度を始めて完全にお立てになつた方といふ意味であります。勿論御歴代の天子樣は何れも同じ御心持でいらつしやるには相違ないのでありますが、時代が續くに從つて、斯ういふ風に凡ての制度が整頓して參りまして、國の國たる所の體裁がスツカリ整うて參つた譯であります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。崇神天皇がこの事蹟によつて「御肇國天皇」と称せられたことは、その十三で扱つた「崇神天皇の自責の叡慮」(底本百四十七頁)に始まる崇神天皇の一連の御事蹟の、いはば総仕上げにあたる。
神治章 百四十七謹按 ── 民の産を制するなり底本 下巻 百六十七〜百六十八頁
原文
謹按、是制民之產也、既庶既富、未嘗不以敎、人皆有欲、民者其蚩爾也、有情而不知節、有欲而不知制、故唯養之而不加制、則不可得而保其身、專戒之而不以養、則不可得而恒心、撫育敎導互相持、而後所以家給知恥也、帝以養民爲心、以導民爲敎、始制調賦之先後、敎長幼之次序、其化大哉。
訓読
謹みて按ずるに、是れ民の產を制するなり。既に庶にして既に富めば、未だ嘗て以て敎へずんばあらず。人皆欲あり、民は其れ蚩爾たるなり。情ありて節を知らず、欲ありて制を知らず。故に唯これを養ひて制を加へざれば、則ち其の身を保つことを得べからず。專らこれを戒めて以て養はざれば、則ち恒の心を得べからず。撫育敎導互に持し、而して後家給して恥を知る所以なり。帝民を養ふを以て心と爲し、民を導くを以て敎と爲し、始めて調賦の先後を制し、長幼の次序を敎へたまふ。其の化大なる哉。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
謹んで考へて見ますと、これが民の產を制するといふことであります。人民が既に多く集まり、既に富んだならば、必ず之に敎へを施さなければならない。人はみな欲を持つて居るものであつて、民といふものは、事の道理を深く辨へない蚩爾たる者に過ぎない。情はあつても節度を知らず、欲はあつても制限を知らないものである。それであるから、たゞこれを養ふばかりで制限を加へなければ、其の身を保つことは出來ない。また專らこれを戒めるばかりで養ふことをしなければ、恒に變らぬ心を得ることも出來ない。撫で育て敎へ導くといふ二つのことが互ひに相持つて、初めて家々が豐かになり恥を知るやうになる所以である。崇神天皇は民を養ふことを以て御心とし、民を導くことを以て敎へとなされ、はじめて調賦を科する先後の順序を制定し、長幼の次第をお敎へになつた。其の御德化の大なることであります。
解説
全集版js23(中朝事実_6.html)は謹按の冒頭「是制民之產也、民既立而既富、未嘗不敎」と末尾「故先制其產以養之、旣富而後知恥」のみを短く引くが、底本にはその中間に「人皆欲あり、民は其れ蚩爾たるなり」以下、恒産と恒心、撫育と敎導の両輪を説く一節が続く。この中間部分は底本の判読がやや難しく、特に「蚩爾」の二字は前後の文意から推した復元であることをお断りしておく。次段(kj148)で素行はこの謹按を敷衍し、『論語』の孔子と冉有の問答を引く。
神治章 百四十八素行の言葉 ── 孔子と冉有の問答に見る「富ましめて後に教ふ」底本 下巻 百六十八〜百七十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで素行がこれに就いて自分の意見を附け加へて申しますには、此の崇神天皇の御時に人口を調べ、長幼の順次を正し、また租税の制度を立てられたといふことは、人民と國家の常の生活との關係を正しくされるといふ御趣意に出たのであります。一體人民といふものは、たゞ多勢居ればそれで滿足といふものではないので、富まなければならぬ、卽ち生活が裕かでなければならない。また生活が裕かであるばかりでは滿足ではないので、卽ち人として相交はる所の道といふものが立つて居なければならないのであります。此の事に就いては孔子の敎へが論語の中に出て居ります。卽ち、子衞に適く。冉有僕たり。子曰く、庶なるかな。冉有曰く、旣に庶なり、又何をか加へん。曰く、之を富まさん。曰く、旣に富めり、又何をか加へん。曰く、之を敎へん。と斯うあります。衞といふ國はさう大きな國ではありませぬけれども、地味も良し風土も良かつたものであるから、國民の生活が裕かでありました。それで孔子が或る時衞に行つた所が、衞の國民の生活状態が洵に裕かである様子を見て、これは結構だと思つて、『庶なるかな』と言つてこれを褒められた。『庶』といふのはもろもろといふことで、もろもろといふのは多勢榮えて居るといふやうな意味であります。此の時に孔子の弟子の冉有といふ者が孔子にお供をして行きまして、僕を勤めて居つたのであります。『僕』といふのは馭者のことであります。前にも一度申したと思ひますが、支那の昔に於ては、馭者といふ者は其の乘る人と竝んで腰を掛けて馬を御するのであります。それですから君主が外に出る時には最も地位の高い者が馭者になり、父が外に出る時には長男が馭者となり、先生が外に出る時には其の弟子の中の主な者が馭者となるといふやうな定めでありまして、此の時は冉有が馭者となつて、孔子と竝んで車の中に腰掛けて居つたのであります。それで孔子が冉有に向つて、あゝ此の衞といふ國は實に裕かな國である。人民が多勢繁昌して居つて結構であると、斯ういふことを言はれました。そこで冉有が、多勢人民が居るといふことは結構でありますが、此の多勢の人民をどういふ風にしたならばモウ一層幸福になるでありませうかと問ひました。それで孔子が答へて言はれるには、多勢が本當に滿足して生活をする爲には、たゞ生きて居るといふだけではいかぬ、富むやうにしなければならぬ。卽ち農業を始めいろいろな事業を勵むやうに之を奬勵し、就いてもよく指導してやつて皆が富んで少しも生活に不自由のないやうにしなければならぬのであらうと、斯う答へられました。そこで冉有が、それは洵に御尤もであるが、旣に人民が富んで來たならば、それからどうしたら宜しいであらうかと問ひました所が、孔子が答へて言はれるには、皆が生活に困らなくなつて各々其の業を勵むやうになつたならば、これに敎へを與へなければならぬ。卽ち父子兄弟夫婦に各々道といふものがあるから、其の道を守るやうに敎へを與へて行かなければならぬ。若し敎へがなければ、富んでも滿足しないで、更に欲望を長ずるばかりであつて、相爭つて際限がないのであるから、敎へを與へなければならぬと斯ういふことを言はれたのであります。此の孔子の言ふ通り、國を治める順序といふものは、先づ生活の安定なやうにしてやつて、それから敎へを與へるといふのが、聖賢に相通じて居る所の仕方であります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。『論語』子路篇「子適衞、冉有僕、子曰、庶矣哉、冉有曰、旣庶矣、又何加焉、曰、富之、曰、旣富矣、又何加焉、曰、敎之」を引く。js23の解説に「按語は『管子』『論語』の順序──まず富ませ、しかるのちに教える──を引く」と既に触れられてゐる通り、この一節がその典拠にほかならない。「庶─富─敎」の三段階は、前冊その十五・その十六で語られた仁德天皇の免税・宮室造營の逸話とあはせて読むとき、免じるべき時と課すべき時との判断基準を示すものとして理解できる。
神治章 百四十九恒産と恒心 ── その十七の結び底本 下巻 百七十〜百七十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで今此処にも其の事を申してあります。富めば敎へなければならぬ。敎へないでたゞ生活を裕かにした所が、決して人民は幸福にはならない。併しながら生活に困つて居る者に敎へを與へても、なかなか敎へを守るといふやうに心の餘裕がないのであるから、それで生活を裕かにするといふことと、人の道を敎へるといふこととが相竝んで行かなければ、本當に世の中は治まらないのであります。人間といふものは皆欲があるし、それから一般人民は蚩爾たり──考へが足りない。充分の敎養がないのであるから、人間の道などといふものはなかなか解らないのであります。それであるから銘々欲望といふものを持つて居るけれども節を知らない。其の欲望を自ら抑へて、其の分に安んずるといふ心得が足りないのであります。若し之を自然の儘に任せて置けば相爭ふといふやうになるのは當然のことと謂はなければならないのであります。それ故に『唯之を養うて』──生活を安定にしてやるだけで、これに敎へを施すといふことをしないで置くと、幾ら收入が多くても銘々の身を安全に保ち、銘々の家をよく齊へて行くといふことの出來るものではない。また『戒めて』──人間の道を心得なければならぬと言ふばかりで、其の生活を裕かにしてやらなければ、いくら戒めを與へても其の戒めを守らないのであります。それで孟子が、恒の産がなくても恒の心があるといふのは、これは特別の君子とも稱せらるべき者に限るので、一般の人民は恒の産がなければ恒の心はないといふことを申して居りますが、これは如何にも尤もでありまして、生活が安定しなければ恒の心は得られない。心といふものがどうも始終混亂して居て、他人はどうなつても自分さへ好ければ宜いといふやうな、欲心のみが增長して來るのであります。それであるから之を撫育して、其の生活を裕かにしてやるといふことと、それから之を敎導して、卽ち人間の道を辨へさせるといふことと、此の二つの事が揃つて、そこで初めて銘々の家も裕かになるし、また銘々が恥を知つて罪を犯さないやうになるのでありまして、此の二つの條件を相具へなければ、實に善い政治とは謂はれないのであります。崇神天皇が此の點に深く御心をお用ひになりまして、民を養ふといふことに力をお盡しになり、また民を導く爲に敎へをお與へになつたといふことは、實に有難いことでありまして、此の二つの條件が本當に揃ひましたから、日本の國はますます繁榮をして參つたわけであります。此の民の敎へといふことと裕かにするといふことの實行方法として人口を調べて、そこで負擔の餘り重くならないやうに、適當なる所の租税を賦課するといふことをお定めになり、また長幼の順序といふものを立てて、子としては親を敬はなければならぬ、弟としては兄に從はなければならぬといふことをお敎へになつたので、斯うなつて初めて此の國が本當の模範の國になつた譯でありますから、此の御恩といふものは實に大きいものと申さなければなりません。それで後世から御肇國天皇といふやうな尊稱を奉つて居るといふことも尤もなことであつて、これは永く後世のお手本ともなるべき所の御事蹟と申さなければならないのであります。以上、崇神天皇十二年の課役の制を以て、その十七の結びと致します。次の冊その十八は、底本下巻百七十一頁からの「六十二年秋七月」の詔──河内狭山の埴田と依網池・苅坂池・反折池の三池の開鑿の一節より始める見込みであります。
解説
『孟子』梁惠王上「無恒産而有恒心者、惟士爲能、若民則無恒産、因無恒心」を承けた一節。撫育(養ふ)と敎導(敎へる)の両輪が揃つてはじめて善い政治といへるとする結論は、kj147の謹按の趣旨と呼應する。崇神天皇の課役制定(男の弭調・女の手末調)を以て、この冊は結ばれる。次冊その十八では話題が変はり、灌漑用の池の造営という、民生に関わる別の具体的施策が語られる。