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中朝事實 小林一郎 講義 五十七(神知章 その四)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 四道将軍、棟梁の臣・武内宿禰 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第五十七冊。神知章その四(底本 下巻 二百四十四〜二百五十四頁)。その三の結び(文武の均衡を説く謹按)を承け、崇神天皇による四道将軍の派遣、景行天皇の御代に武内宿禰が「棟梁の臣」に取り立てられる場面へと進みます。

この冊の読みどころ(一)。崇神天皇十年、四道将軍を四方に遣はした事蹟(kj205)は、全集版『中朝事實』七・知人章十「四道將軍 ── 武官の始め」に対応します。神代以来の「将帥」「軍帥」の任が、ここで初めて「将軍」の名号を得たと説く謹按は、素行自身が生きた武家天下の時代――徳川将軍家を頂点とする社会――を強く意識した記述です(kj206)。

この冊の読みどころ(二)。景行天皇の宴のさなか、皇子稚足彦尊と武内宿禰だけが庭で警護に当たつていたという逸話(kj207)は、「灼然(いやちこ)なり」と天皇に称された危機管理の心得を示します。武内宿禰はこの功により「棟梁の臣」――後の「大臣」の称の起こりとなる地位に取り立てられました。

この冊の読みどころ(三)。「其の人無ければ闕く」(kj209)――大臣は常設の官ではなく、ふさはしい人物がゐる時にのみ置かれた職であつたという指摘、また武内宿禰が六代の天皇に仕へた「老成の人」であつたという逸話(kj210)をもつて、その四の一区切りとします。次のその五では、成務天皇の御代の国郡司の選定へと講義が進みます。

四層の構成。kj206、kj209、kj210は小林の講義による敷衍のため、「原文」「訓読」欄には対応する漢文がない旨を記し、「現代語訳」欄に小林一郎の講義そのものを現代表記に直して収めています。「解説」は新たに書き加へた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座、影印)です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残ってゐる可能性があります。この冊のkj205・kj207の原文・訓読は、山鹿素行全集版『中朝事實』七(知人章 十〜十一)の校訂に依拠しました。kj208は全集版の対応span を超える部分のため、影印からのおおよその再構成です。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

四道将軍(しだうしやうぐん)
崇神天皇十年、北陸・東海・西道・丹波の四方に遣はされた大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命の四将軍。
印綬(いんじゆ)
将軍の位を証する印とその紐。武官の任命を象徴する。
とよのあかり
豊明。国の豊かになつたことを祝ふ宴。群卿を招いて催された。
棟梁の臣(とうりやうのしん)
景行天皇が武内宿禰に授けた称。後の「大臣」の称の起こりとされる。
灼然(いやちこ)
あきらかであること。天皇が武内宿禰・稚足彦尊の申し立てを賞した語。
師範儀形(しはんぎけい)
一身を以て四海の手本となること。大臣の本質を説く語。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。この冊の原文も素行自身の筆による。

神知章 二百五崇神帝、四道将軍を遣はす底本 下巻 二百四十四〜二百四十六頁
原文
崇神帝十年秋九月丙戌朔、甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波、因以詔之曰、若有不受敎者、乃擧兵伐之、既而共授印綬爲將軍、
謹按、是武官之始也、神代既有將帥之任、神武帝之時有軍帥之稱、然未及名號、今始以將軍投印綬、四道將軍是也、

訓読
崇神帝すじんてい十年じふねんあき九月くぐわつ丙戌ひのえいぬついたち甲午きのえうま大彦命おほひこのみこともつ北陸ほくろくつかはし、武渟川別たけぬなかはわけ東海とうかいつかはし、吉備津彦きびつひこ西道さいだうつかはし、丹波道主命たにはのみちぬしのみこと丹波たにはつかはす。りてもつてこれにみことのりしてのたまはく、をしへけざるものあらば、すなはへいげてこれをてと。すでにしてとも印綬いんじゆさづけて將軍しやうぐんす。
つつしみてあんずるに、武官ぶくわんはじめなり。神代じんだいすで將帥しやうすゐにんあり、神武帝じんむていとき軍帥ぐんすゐしようあり。しかれどもいま名號めいがうおよばず。いまはじめて將軍しやうぐんもつ印綬いんじゆさづく。四道將軍しだうしやうぐんこれなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には崇神天皇の御時に、謂はゆる四道将軍をお定めになつたといふ事実が挙げてあります。これは前にも申しましたやうに、教へを与へるといふことを主になさつたので、其の教へに従はない者は武力を以てこれを制裁して、其の反省を促すといふことの御趣意でありました。それで大彦命といふ方を北陸道に遣はし、武渟川別命といふ方を東海道に遣はし、吉備津彦命を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はされました。卽ち四人の将軍を四方に遣はされたので、後世に至つて之を『四道将軍』と申して居ります。此の事に先だつて崇神天皇が詔をお出しになりましたが、其のお言葉には『若し教へを受けざる者あらば、乃ち兵を挙げてこれを伐て』とあります。初めから武力を以て下の者を屈服させるといふやうな心では決してない。それであるから此の四人の将軍を四方にお出しになる時に、教へを受けざる者あらば兵を挙げてこれを討つといふことを特に仰せられてあるのであります。さうしてまた斯ういふ大責任を負ふのであるから、これに印綬を賜つて、これを将軍――卽ち全軍を率ゐるところの権限を与へられた訳であります。つつしんで考へてみますと、これが武官の始めであります。神代にはすでに将帥の任がありましたし、神武天皇の御時には軍帥の称もありました。併しまだ名号としては定まつて居りませんでした。今初めて『将軍』といふ名を以て印綬を授けられた、四道将軍がこれであります。斯ういふ訳で、我が国は武を重んずる国でありますけれども、武を重んずといふことは詰り道を重んずるといふことなので、正しき道を全うする為に、其の妨げをなす者を討つといふことが、武の根本の意義でありまして、此の事は永く国民の記憶して忘れてはならぬことであります。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』七・知人章十「四道將軍 ── 武官の始め」に依る。四道将軍の派遣は中國章・神治章にも既に引かれた記事だが、そこでは統治の広がりに重心があつたのに対し、ここでは「武官」という官名の起源として読み直される。神代以来の将帥の任が、ここに至つて初めて「将軍」の名号を得たと説く謹按の構成は、その二の「臣を擇ぶの始め」(kj195)と対をなす。

神知章 二百六将軍任命の始め ── 武家天下と武士道底本 下巻 二百四十六〜二百四十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これに就いて素行が自分の意見を加へて申しますには、此の四道将軍を遣はされたといふことが武官といふものの定まつた始めである。尤も神代に於て既に軍を率ゐるといふ事実が幾らもあり、また神武天皇御創業の時にも、軍を率ゐて天皇に従ひ奉つた者が多勢あるのであります。前に申した道臣命其の他、武力を以て国に貢献した者は沢山あるのであります。併しながら別に其の官名は付いて居らなかつた。ところがだんだん世の中も整頓して参りましたものですから、此の崇神天皇の御時になつて初めて『将軍』と定め、さうしてこれに将軍たる所の印綬を賜つて、これを四方に派遣されましたから、四道将軍と名づけられたのでありまして、これは非常に任務の重い者と申さなければならぬのであります。此のことを重ねて挙げて居りますのは何の故かと申しますと、素行の出た時は謂はゆる武家天下であります。上に徳川家が将軍として居つて、さうして大名とか旗本とか、其の他武士がみなこれに属し、武士といふ者が国民の上に立つて居つたのであります。それで此の武士たる者は道を助ける者である、人を教へ導くといふことが任務であるといふことを忘れないやうにしなければいかぬといふ趣意から、斯ういふ事蹟を幾度も挙げてあるものと思はれるのであります。素行の書きました武士道に関するものは多くありますが、何れも此の事を明かにするのが眼目になつて居ります。武士の任務といへば道を以て自ら任ずることであるといふ意味が幾度も繰返して教へられ、此の事を忘れては武士としての任務は全うされぬといふことが力説されて居ります。これを以て素行の志の存する所がよく解るのであります。

解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。四道将軍の記事を「武官の始め」として重ねて取り上げる理由を、素行自身の時代――徳川将軍家を頂点とする武家天下――に結びつけて説く。武力そのものではなく「道を助ける者」としての武士の本分を説く点に、素行の武士道論の核心がある。

神知章 二百七景行帝五十一年、武内宿禰、棟梁の臣となる底本 下巻 二百四十七〜二百四十九頁
原文
景行帝五十一年春正月壬午朔、戊子、招群卿而宴數日、時皇子稚足彦尊與武內宿禰、不參赴於庭、天皇召之問其故、因以奏曰、當宴樂之日、群卿百寮必情在遊戲、不存國家、若有狂生、伺墻閤之隙、故侍于庭門下、以備非常、時天皇謂曰、灼然也、則異寵之、秋八月己酉朔、壬子、立稚足彦尊爲皇太子、是日命武內宿禰爲棟梁之臣、
謹按、是擇其人而任其大職之義也、權柔之臣有成務、帝之踞終連綿而大臣之稱有之、蓋大臣者、以一人師範四海、儀形之稱也、其人無時、則國家不存、

訓読
景行帝けいかうてい五十一年ごじふいちねんはる正月しやうぐわつ壬午みづのえうまついたち戊子つちのえね群卿ぐんけいまねきてうたげすること數日すじつなり。とき皇子わうじ稚足彦尊わかたらしひこのみこと武內宿禰たけうちのすくねと、には參赴まゐらず。天皇すめらみことこれをしてそのゆゑひたまふ。りてもつそうしてまうさく、宴樂えんらくあたりては、群卿ぐんけい百寮ひやくれうかならこころ遊戲いうぎりて、國家こくかそんせず。狂生きやうせいありて、墻閤しやうかふすきうかがはんか。ゆゑには門下もんかはべりて、もつ非常ひじやうそなふと。とき天皇すめらみことのたまはく、灼然いやちこなりとのたまひて、すなはちこれを異寵ちよういみたまふ。あき八月はちぐわつ己酉つちのととりついたち壬子みづのえね稚足彦尊わかたらしひこのみことてて皇太子くわうたいしす。この武內宿禰たけうちのすくねめいじて棟梁とうりやうしんす。
つつしみてあんずるに、れそのひとえらびてその大職たいしよくにんずるのなり。權柔けんじうしん成務せいむにあり。ていきよつひ連綿れんめんして大臣だいじんしようこれあり。けだ大臣だいじんは、一人いちにんもつ四海しかい師範しはんし、儀形ぎけいするのしようなり。そのひとときなきときは、すなは國家こくかそんせず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には景行天皇の御時に皇太子を立てられ、また武内宿禰を大臣となされました、其の時の事情を述べてあるのであります。景行天皇の五十一年の春、多勢の臣下を召して宮中で数日にわたり酒宴を催ほされました。此の時、皇子の稚足彦尊と、臣下の中で武内宿禰とが、御宴会の席に出ないで、御所のお庭にあつて警護をして居りました。天皇がこれを召してその理由をお尋ねになると、二人は申上げました。酒宴の日には役人達はみな遊興に心を奪はれ、国家のことを念頭に置きません。もし乱心の者があつて、垣や門の隙をうかがふことがあつては一大事でありますから、庭の門下に侍つて非常に備へて居りますと。天皇はこれをお聞きになつて、成るほど道理のあることだと大いにお褒めになりました。それで秋八月に至り、稚足彦尊を皇太子になさいました。昔は必ずしも長子に位をお譲りになるとは決まらず、親の心に適うた者に家を譲るといふのが一般の習はしであつたので、稚足彦尊が特に頼もしい方であると思召されたのであります。それからまた武内宿禰も、前から多くの功労があつたのでありますが、此の事に依つて本当に頼もしい者である、国の安危を自分の一身に引受けて居るのであるからといふお考へから、特に『棟梁の臣』――卽ち大臣にお取り立てになりまして、朝廷の百官を指導するといふ大責任ある地位を与へられたのであります。つつしんで考へてみますと、これがその人を選んでその大職を任ずるといふ意味であります。権柔の臣は成務天皇の御代にあり、御代がついに連綿として大臣といふ称ができました。思ふに大臣といふものは、一人の身を以て四海に師範となり、儀形となる者の称であります。其の人が居らざる時は、則ち国家は成り立たないのであります。

解説
この段の原文・訓読は全集版『中朝事實』七・知人章十一「棟梁の臣 ── 武内宿禰」に依る。酒宴の最中、ただ二人だけが庭で警護に当たつていたという逸話は、「灼然(いやちこ)なり」と天皇に評されたように、危機への備えを平時から怠らない心構えを示す。武内宿禰はこの功により「棟梁の臣」の名を初めて賜り、後の「大臣」の称の起こりとなる。

神知章 二百八謹按(続) ── 大臣は師範儀形の稱なり底本 下巻 二百五十〜二百五十一頁
原文
古來所重如此、是以經邦論道、燮理陰陽、其爲人上也、必陳善閉邪、以爲人主之德、其爲人下也、必發政施仁、以爲人之俗、如此之人、然後任此職、上輔人君之道、下弼四海之政、帝因武內之篤行、授以大任、武內終輔六世、風采凝峻、儀容肅焉、是此壽考老成人歟、後世任大臣之道、踏襲于往古、以精一其撰、又無大過乎、

訓読
古來こらいそのおもんずるところくのごとし。これもつくにおさみちろんじ、陰陽いんやう燮理せふりす。そのひとかみたるや、かならぜんじやぢ、もつ人主じんしゆとくす。そのひとしもたるや、かならまつりごとはつじんほどこし、もつひとぞくす。くのごときのひとしかのちしよくにんじ、かみ人君じんくんみちたすけ、しも四海しかいまつりごとたすく。てい武內たけうち篤行とくかうりて、さづくるに大任たいにんもつてす。武內たけうちつひ六世りくせいたすけ、風采ふうさい凝峻ぎようしゆん儀容ぎよう肅然しゆくぜんたり。壽考じゆかう老成らうせいひとか。後世こうせい大臣だいじんにんずるのみち往古わうこ踏襲たふしふして、もつてそのせん精一せいいつにせば、また大過たいくわなからんか。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
古来大臣を重んずる所以は此くの如くであります。是を以て国を治め道を論じ、陰陽を整へ調和させる。その人が上に立つ者であるならば、必ず善事を進め邪を退けて、人君の徳を養ふ助けとなる。その人が下にある者であるならば、必ず政を発し仁を施して、人民の善き風俗を養ふ助けとなる。斯くの如き人が、然る後に此の職に任ぜられ、上は人君の道を輔け、下は天下の政を弼くるのであります。天皇は武内宿禰の篤い行ひに依つて、この大任をお授けになりました。武内宿禰はついに六代の天皇にお仕へして、その風采は凝つて厳しく、その姿は自ら人を粛然とさせるものがありました。これはまことに長生きされた老成の人と申すべきでありませう。後世大臣を任ずる道も、遠く神代の昔に踏襲して、その人選をひたすら精しくすれば、また大きな過ちはないでありませう。

解説
この謹按は底本 二百五十〜二百五十一頁に見えるが、山鹿素行全集版『中朝事實』七・知人章十一の対応するspanはkj207末尾の「其の人時なきときは則ち国家存せず」までで終はつており、それに続くこの部分は全集版には見当たらない。影印もやや読み取りにくく、この読本の原文・訓読は判読可能な範囲でのおおよその再構成である。武内宿禰が六代の天皇に仕へたという逸話は、単なる長寿ではなく、後世まで模範であり続けた「老成の人」の徳を讃へるものである。底本ではこの後に「以上重ねて大臣の撰」の一句がある。

神知章 二百九大臣の任務(一)── 棟梁の臣から大臣へ底本 下巻 二百五十一〜二百五十二頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行が更に自分の意見を付け加へて申しますのには、此の景行天皇の御時に武内宿禰を棟梁の臣と選ばれたといふことが、卽ち其の人を選んで国家の大切な職に任ずるといふ意義であります。此の時には『棟梁の臣』とのみ仰せられたのでありますが、成務天皇に至つて『大臣』といふ名を改めて定められ、武内宿禰がこれに任ぜられて、これより以後大臣といふ名がズツと続いたのであります。併しこれは特別に置かれたのでありまして、後世の左大臣とか右大臣とか、或は今日謂ふ総理大臣、内務大臣といふのとは意味が異ふのであります。今では大臣がなければ国の政治は執れないのでありますが、昔の大臣といふのは特別に徳が勝れて居つて、多勢の手本となるやうな人があつた時に、これを大臣と称せられるといふことになつて居りました。何れにしてもこれは非常に勝れた人であつて、天下万民の手本となるべき者、また多勢の役人の全体を統一すべき、本当の実力のある人といふ意味に外ならぬのであります。それから後に至つては『三公』と名けられたこともあります。『三公』といふのは支那の昔にありました名で、常に置いたのではなく、特別に勝れた人があれば此の職に任じたのであります。普通に政治を執るのはさういふ地位の者ではなく、一般の役人が協力して政務を行つて居つた訳であります。要するに此の大臣といふのは、『一人』卽ち天子の師範として天子をお輔け申し、万事天子の御相談相手になるといふやうな地位であります。また『四海の儀形』で、国中の凡ての者の手本となるべき人を以てこれに任ぜられました。それであるから『其の人無ければ闕く』で、必ずしも此の大臣を置かなければならぬといふことはなかつたのでありまして、これを重んずることは実に至れり尽せりと申すべきであります。

解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「棟梁の臣」から「大臣」への呼称の変化を、成務天皇の御代を画期として説く。後世の左右大臣・今日の各省大臣とは異なり、常設ではなく「其の人無ければ闕く」――ふさはしい人物がゐる時にのみ置かれる職であつたという指摘は、次段(kj210)の「大臣を選ぶ心得」へとつながる。

神知章 二百十大臣の任務(二)── 武内宿禰の忠勤(その四の結び)底本 下巻 二百五十二〜二百五十四頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それでこの大臣たる者は、上の人を輔けるに就いては『善を陳べ邪を閉ぢ』――正しいことを進めて悪いことを斥けて、さうして君主たる方が立派な徳をお具へになるやうに心を尽すのであります。また下の者に対しては仁政を施して、世の中の風俗の厚くなるやうに之を指導し、人々がみな己れの私を捨てて国に尽すといふ決心を持つやうに之を教へ導くのでありまして、斯ういふのが大臣たる者の任務であります。それであるからそれだけの実力のある人があれば此の職に任ずるのであります。立派な人が大臣となりますれば、上に対しては人君の道を輔けることが出来、また下に対しては天下の政治を正しい道に依つて実行せしむるといふことが出来るのでありまして、これは実に尊い人であります。それで景行天皇は武内宿禰が如何なる場合にも警戒を怠らず、宴会の盛んな時にも御所の周囲を護つて居たといふ此の行ひに依つて、これは実に頼もしい者である、国の安危を以て自分の身に任じて居るから、実に多くの臣下の手本となる者であるといふことを見定められましたから、そこで大任を与へられ、武内宿禰はこれより以後六代にお仕へ申して、多くの臣下を指導する所の大変な責任を負うて居つたのであります。其の風采も実に立派で、――『風采』といふのは姿形だけではない、其の日頃の行ひが自ら常の行ひに現はれて、万民の仰ぎ見る所であり、誰も武内宿禰を尊重するといふ念のない者はなかつたのであります。さうしてまた非常に長く生きまして、実に『老成の人』――人間として申し分のない立派な人物であつたのであります。後になると大臣といふのがたゞ職の名になりまして、左大臣とか右大臣とか、内務大臣、外務大臣といふやうなことで、詰り或る任務の名になりましたから、昔の大臣といふものに比べれば軽々しいやうにも見えますけれども、併し苟くも大臣といふ名を負うて居る以上は、昔の武内宿禰が大臣となつた時のやうな心持で、一切自分の私を捨て、専ら国の為に尽すといふ覚悟を有し、国の安危といふこと以外には何も考へないといふ位な心持でなければなりませぬ。また大臣を選ぶに就いては専ら此の点に眼を着けて、たゞ役に立つから大臣にするといふやうなことではならないので、本当に己れの私を捨て得る人、国家の安危を以て一身に任じ得る人を大臣にするといふやうでなければなりませぬ。斯うなれば先づ大過なく、国の政治に何の滞りもなくして、ますます国力の発展を見ることが出来るでありませう。

解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「風采」とは姿形ではなく日頃の行ひの現れであるという指摘、また恩賞と同じく「大臣という名を負う以上は」私を捨てる覚悟が要るという一節は、その三の道臣命論(kj203b)と響き合ふ。武内宿禰の物語をもつて、神知章の人材論――具瞻の臣、天工人其れ之に代る、文武の均衡、大臣の選――が一つの結節点を迎へる。次のその五では、成務天皇の御代の国郡司の選定(全集版cj12「國郡の司を擇ぶ ── 守令は民の師帥なり」)へと講義が進む。