聖政章 二百四十一祭事を以て政の字に訓ず ── 祭祀と政事とは義を一にす底本 下巻 三百二十頁ほか
原文
或疑、外朝聖人以政爲正也、今所解多在以政爲誠、何也、愚謂、中國以祭祀郊社宗廟爲政之要、故以祭事訓政字、是祭祀政事一義也、蓋祭祀者、主於誠、政事亦在人君之誠、政不以誠、則唯存條目而無綱領、日煩月勞而無敦化之功、是所以民免而無恥也、
訓読
或は疑ふ、外朝の聖人、政を以て正と爲す。今解するところは多く政を以て誠と爲すに在るは何ぞやと。愚謂へらく、中國は郊社宗廟を祭祀するを以て政の要と爲す。故に祭事を以て政の字に訓ず。是れ祭祀と政事とは義を一にすればなり。蓋し祭祀は誠を主とし、政事も亦人君の誠に在り。政誠を以てせざれば、則ち唯だ條目を存して綱領なく、日に煩はしく月に勞して敦化の功なし。是れ民免れて恥なき所以なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さて次には、ある人が疑つて申します。『外つ国の聖人は、政を正の意味に解いて居る。ところが今の解釈では多く、政を誠と致して居るのはなぜであるか』と。素行はこれに答へて謹んで按じて申します。中国では郊社宗廟を祭祀することを政の要と致します。それゆゑに祭事を以て政の字に訓ずるのであります。これは祭祀と政事とが義を一つにして居るからであります。思ふに祭祀は誠を主とし、政事もまた君主の誠に在ります。政が誠によらなければ、ただ細かな条目だけがあつて大綱がなく、日々に煩はしく月々に骨を折つても、人を厚く感化する功がないのであります。これが『民は刑罰を免れることだけを考へて恥ぢる心を失ふ』といふことの原因なのであります。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十四「祭事を以て政の字に訓ず ── 祭祀と政事とは義を一にす」に依る。本章でもつとも有名な一節である。「祭事を以て政の字に訓ず」――日本語の「まつりごと」が「祭り」と同語であることを、素行は偶然ではなく祭祀と政事とが義を一にする証拠として読む。中国の「政は正なり」(『論語』顏淵篇)に対して、日本の「政は祭なり」を置くわけである。聖政章四節(kj231、sp04)の「神に交はるの道は誠に在り」と、十三節(kj240、sp13)の「政は誠を以てするに在り」とが、ここで一本に繫がる。
聖政章 二百四十二誠の至れるや、鬼神も亦在すが如し底本 下巻 三百二十一頁ほか
原文
惟誠之至、鬼神亦如在、況人民乎、以治國、其如示諸掌乎、然乃正誠之二義、更無間隔也、
訓読
惟だ誠の至れるや、鬼神も亦在すが如し、況んや人民をや。以て國を治むる、それ諸を掌に示すが如きか。然らば乃ち正誠の二義、更に間隔することなし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ただ誠が極まりましたときには、鬼神さへもそこに在すかのやうであります。まして人民に於てはなほさらであります。それによつて国を治めるのは、手の平を指し示すやうにたやすいことでありませう。さうでありますならば、『正』と『誠』との二つの意味は、まつたく隔たるところがないのであります。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十五「誠の至れるや、鬼神も亦在すが如し」に依る。前節の問ひへの答への締めくくりである。「正」と「誠」とは別の教へではない――誠が極まれば、おのづと正しい。素行はここで中国の解釈を退けるのではなく、日本の「まつりごと」の語感の方がより深く同じ一点を突いてゐる、と申して居るのであります。
聖政章 二百四十三或は疑ふ、政敎法令は德の末にして形の下なるものか底本 下巻 三百二十二頁ほか
原文
或疑、政敎法令者德之末、而形之下乎、愚謂、否、有物必有則、有天下國家、必有政敎法令、政敎法令之外、豈有此德乎、明聖之主亦用之、愚昧之君亦用之、其利鈍煩簡、而治亂相因、共在此四者、四者正明、猶權衡設而不可欺以輕重、繩墨設而不可欺以曲直、否則平正・眞僞・邪正何能辨乎、
訓読
或は疑ふ、政敎法令は德の末にして、形の下なるものかと。愚謂へらく、否。物あれば必ず則あり、天下國家あれば必ず政敎法令あり、政敎法令の外、豈にこの德あらんや。明聖の主も亦これを用ひ、愚昧の君も亦これを用ふ。その利鈍煩簡、而して治亂相因る、共にこの四つの者に在り。四つの者正明なるときは、猶ほ權衡を設けて欺くに輕重を以てすべからず、繩墨を設けて欺くに曲直を以てすべからざるがごとし。否らざれば、平正・眞僞・邪正何ぞ能く辨ぜんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次に、ある人はまた疑つて申します。『政や教や法令は、徳の末端であつて、形而下のものではないか』と。素行はこれに答へて申します。さうではない。物があれば必ずその法則がある。天下国家があれば必ず政と教と法令とがある。政教法令の外に、いつたいどこにその徳があらうか。聡明な君主もこれを用ひ、愚かな君主もこれを用ふ。その切れ味の良し悪し、煩雑さと簡潔さ、さうして治まると乱れるとが互ひに因となるのは、ともにこの四つのものにかかつて居ります。この四つが正しく明らかでありますれば、ちやうど秤を据ゑれば軽重をごまかせず、墨縄を張れば曲直をごまかせないやうなものであります。さうでなければ、平らか正しいか、真か偽か、邪か正かを、どうして見分けることが出来ませうか。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十六「或は疑ふ、政敎法令は德の末にして形の下なるものか」に依る。制度を「徳の末」として軽んじる議論への正面からの反論である。素行は「政教法令の外に、豈にこの德あらんや」と言ふ。徳は制度の向かう側にあるのではなく、制度としてしか現れない。しかも制度は賢君も愚君も等しく用ひる――だからこそ、権衡(はかり)や繩墨(墨縄)のやうに、それ自体が正しく明らかであることが要るのであります。
聖政章 二百四十四良工と器用 ── 鈍器を用ふれば筋を勞し骨を苦しむ底本 下巻 三百二十三頁ほか
原文
或疑、政敎法令者、猶器用、人君修德則器用自利、否乃雖有器用不可乎、愚謂、雖良工無器用、則無施工之用、良工之爲良工、器用利而備也、如用鈍器、勞筋苦骨、竟不遂功也、
訓読
或は疑ふ、政敎法令は猶ほ器用のごとし。人君德を修むるときは器用自ら利し、否らざれば乃ち器用ありと雖も可ならざらんかと。愚謂へらく、良工と雖も器用なきときは工を施すの用なく、良工の良工たるは器用利くして備はればなり。鈍器を用ふる如くんば、筋を勞し骨を苦しめて竟に功を遂げざるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
またある人は疑つて申します。『政や教や法令は、道具のやうなものである。君主が徳を修めれば道具はおのづと切れ味がよくなり、さうでなければ道具があつても役に立たないのではないか』と。素行はこれに答へて申します。すぐれた工人であつても道具がなければ腕をふるひやうがない。すぐれた工人がすぐれた工人でありうるのは、道具が切れて揃つてゐるからであります。なまくらな道具を用ひましたならば、筋を疲れさせ骨を苦しめて、結局は仕事を仕上げることが出来ないのであります。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十七「良工と器用 ── 鈍器を用ふれば筋を勞し骨を苦しむ」に依る。前節への追ひ討ちである。「徳さへあれば道具は要らない」といふ反論を、良工と道具の比喩で崩す。良工が良工たる所以は、道具が切れて備はつてゐるからだ――徳が先で制度が後、ではない。両方なければ何も切れないのである。同じ比喩は次段の「舟と水」に引き継がれる。
聖政章 二百四十五舟と水 ── 二つの者相持して后に功化の實を談ずべし(聖政章の結び)底本 下巻 三百二十四頁ほか
原文
凡政敎法令之備也、猶乘舟濟大川、能水與不能、共檝而逸安、專以修德期其功、猶能水者恃己力以泅水濟、甚勞而少功、危而寡濟者、況不修德不以政敎法令、唯以私知妄作要治平之功、猶無舟之可乘技之可泅、恃力構私以入水、不溺而何待之乎、故治國平天下之要、不可出修身以正政敎、二者相持而后可談功化之實、中華往古聖主政敎之功、所著于舊紀不乏、後世襲之律之以祖述憲章、乃無爲過化之治、千萬世可蒙其澤也、
訓読
凡そ政敎法令の備はるや、猶ほ舟に乘りて大川を濟るがごとし。水を能くすると能くせざると、共に檝りて逸んじ安し。專ら德を修むるを以てその功を期するは、猶ほ水を能くする者の己れが力を恃みて以て水を泅いで濟るがごとく、甚だ勞して功少なく、危くして濟る者寡なし。況んや德を修めず政敎法令を以てせずして、唯だ私知妄作を以て治平の功を要むるは、猶ほ舟の乘るべく技の泅ぐべきなくして、力を恃み私を構へ、以て水に入るがごとし。溺れずして何をか待たんや。故に治國平天下の要は身を修めて以て政敎を正しくするに出づべからず。二つの者相持して而して后に功化の實を談ずべし。中華往古の聖主政敎の功は舊紀に著はるるところ乏しからず。後世これに襲りこれに律り、以て祖述憲章せば、乃ち無爲過化の治、千萬世もその澤を蒙るべし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そもそも政と教と法令とが備はつて居りますのは、舟に乗つて大河を渡るやうなものであります。泳ぎの出来る者も出来ない者も、ともに舵を取つてゆつたりと安らかに渡れる。ひたすら徳を修めることだけでその功を期待するのは、泳ぎの出来る者が自分の力を頼んで水を泳いで渡るやうなもので、ひどく骨が折れるのに成果は少なく、危なくて渡り切る者はまれであります。まして徳も修めず、政や教や法令にもよらないで、ただ自分勝手な知恵とでたらめとで天下を治める功を求めるのは、乗るべき舟も泳ぐ技もないままに、力を頼み私心をかまへて水に入るやうなものであります。溺れるほかに何を待つことがありませうか。それゆゑに国を治め天下を平らかにする要は、身を修めて政と教とを正しくすることの外には出ませぬ。この二つが互ひに支へ合つて、はじめて感化の実を語ることが出来るのであります。中華の遠い昔の聖なる君主たちの政教の功は、古い記録に現れて居るものが少なくありませぬ。後の世がこれを承けこれにのつとつて、祖述し憲章と致しますならば、無為にして人が化して行く治が千万年ののちまでその恵みを及ぼすでありませう。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十八「舟と水 ── 二つの者相持して后に功化の實を談ずべし」に依る。聖政章の結びである。舟と泳ぎ――制度が備はつてゐるとは、泳げない者も渡れるといふことである。徳だけを頼むのは、達人が素手で川を泳ぐやうなもの。渡れないわけではないが、渡れる者はごく少ない。「二つの者相持して而して后に功化の實を談ずべし」。修身と制度、そのどちらか一方を選ぶ議論を、素行はここで終らせてゐる。
聖政章 二百四十六聖政章 その四・完の結び底本 下巻 三百二十五頁ほか
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
かやうにいたしまして、聖政章の全体を通観いたしますと、その一の『祭政一致の義』に始まり、義は必ず時に隨ふといふ制度観、政の要は民心と習俗とを察するに在るといふ主題文、三種の神寶を大殿に安置した上世の祭政一致の姿、天下の政事は郊祀宗廟の祭祀より大なるはなしといふ按語、教を四方に施す正朔の始め、憲法から律令への沿革、殉死といふ悪しき習俗の廃止、巡狩・國史・巡省による統治の情報収集、農桑を勧める詔、これらを一つ一つ辿つて参りました後、素行はいつたんこれを『政は誠に在り、敎は弘め審にするに在り』と総括し、時・水土・人情・事物・大倫の五つの『能く』を並べて見せました。さうして本章の後半に於きましては、これらの制度が徳の末端に過ぎないのではないかといふ疑ひに対して、正面から答へて参ります。日本語の『まつりごと』が『祭り』と同語であることは、祭祀と政事とが義を一にする証拠である。誠が極まれば、正しさとの間に隔たりはない。政教法令の外に徳はなく、制度は賢君も愚君も等しく用ひる道具である。良工が良工たる所以は道具が備はつてゐるからであり、舟に乗れば泳げない者も大河を渡れる。修身と制度、この二つが相支へ合つてはじめて、政治の感化といふものの実を語ることが出来るのであります。神知章が『人を知ることの難しさ』を説いたのに対し、聖政章はその人の上に立つて『政治の制度をいかに整へるか』を説いて参りました。この二つを合はせて見ますと、素行の統治論は、人を得ることと、制度を整へることと、この両輪が揃つてはじめて完成すると申せませう。聖政章はここに完結し、次に読み進めます禮儀章では、この政治の制度の上に立つて、礼といふものがいかに人と人との間柄を秩序立てるかといふことが説かれて参ります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。聖政章は全十八節(全集版sp01〜sp18)にわたり、その一(六十一冊目)からこの四(六十四冊目)まで四冊を費やして読本化した。祭政一致の理念から説き起こし、悪しき習俗の廃止・巡狩・國史・農桑といふ具体的な政教の実例を経て、後半では「政教法令は徳の末か」といふ疑ひに三段構へ(祭事=政の語釈、良工と器用、舟と水)で答へるといふ構成であつた。作業メモに記した通り、「制度より人(神治章・神知章)――聖政章十六〜十八で修正され、以後はその上に立つ」という全体構成の見立て通り、聖政章の終盤(kj243〜kj245、sp16〜sp18)はまさに制度と徳(人)との関係を正面から論じ直す段となつてゐた。聖政章はここに完結し、次は禮儀章へと講義が進む。