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中朝事實 小林一郎 講義 六十二(聖政章 その二)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 殉を止めよ、妖神を殺すは夷狄の習俗なり 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第六十二冊。聖政章その二(底本 下巻 三百十二頁ほか)。その一の祭政一致の理念を承け、この冊では制度の沿革(憲法から律令へ)、悪しき習俗の廃止(殉死の禁止)、天皇みづから諸国を観る巡狩の道、妖神信仰への批判という、より具体的な政教のあり方を読み進めます。

この冊の読みどころ。崇神天皇二十二年の教化の実り、そして聖德太子の憲法十七条から大寶律令に至るまでの沿革(kj233、全集版sp06)に続き、垂仁天皇二十八年「その古風と雖も、良からずんば何ぞ従はん」と殉死を止めた詔(kj234、sp07)、野見宿禰の埴輪献上の按語(kj235、sp08)、景行天皇の巡狩(kj236、sp09)、仁德天皇の御代の妖神信仰を「夷狄の習俗」と斥ける按語(kj237、sp10)までを収めます。

四層の構成。この冊はすべて全集版の原文・訓読に対応する段で構成されています。「解説」は新たに書き加へた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座、影印)です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残ってゐる可能性があります。この冊のkj233〜kj237の原文・訓読は、山鹿素行全集版『中朝事實』八(聖政章 六〜十)の校訂に依拠しました。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

敦化(とんくわ)
篤く行き渡つた教化。崇神天皇二十二年の実りを形容する語。
巡察・按察・宣撫(じゆんさつ・あぜち・せんぶ)
いづれも地方の風俗・制度を正すために遣はされる使者・官の称。
殉(じゆん)
人を亡くなつた者に従はせ、共に葬ること。垂仁天皇の詔により止められた。
俑(よう)
人にかたどつた人形。中国では俑の風がかへつて殉死の弊に至つたとされる。
埴輪(はにわ)
野見宿禰が殉に代へて献じたとされる土の人形・土物。
巡狩(じゆんしゆ)
天子みづから諸国を巡り、風俗を正し政事を定めること。景行天皇の筑紫行幸に始まるとされる。
妖神(えうしん)
正しからざる神、鬼神の類。人を生贄とすることを求めたとされる河神など。

登場する神・人物

山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。この冊で聖政章の按語を記す。
小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
聖德太子(しやうとくたいし)
推古天皇の御代に憲法十七条を定めたとされる。kj233に引かれる。
淡海公(たんかいこう)
藤原不比等の諡号。文武天皇の朝に勅を奉じて律令を撰んだとされる。kj233に引かれる。
垂仁天皇(すゐにんてんわう)
第十一代天皇。二十八年、殉死を止める詔を発した。kj234に登場する。
野見宿禰(のみのすくね)
垂仁天皇三十二年、埴輪を作つて殉に代へたとされる。kj234・kj235に登場する。
景行天皇(けいかうてんわう)
第十二代天皇。十二年、筑紫に行幸し巡狩の始めとされる。kj236に登場する。
仁德天皇(にんとくてんわう)
第十六代天皇。十一年、强頸・茨田連衫子が河神に祈つた記事の御代。kj237に登場する。

聖政章 二百三十三憲法から律令へ底本 下巻 三百十二頁ほか
原文
及二十二年、敦化流行、衆庶樂業、皇庶既滿、人民皆知長幼之序課役之制、宜哉稽其至德乎、蓋迄後世、有巡察按察宣撫之法、以正其風俗制度、及推古帝、聖德太子定憲法、孝德帝詐天下之政制、天武帝定律令法式、文武帝朝淡海公奉勅撰律令、終帝之功、不亦大哉、

訓読
二十二年にじふにねんに及およびて、敦化とんくわ流行るかうし、衆庶しゆうしよ業げふを樂たのしむ。皇庶くわうしよ既すでに滿みち、人民じんみん皆みな長幼ちやういうの序じよ、課役かえきの制せいを知しる。宜むべなる哉かな、その至德しとくを稽かんがふるや。蓋けだし後世こうせいに迄いたるまで、巡察じゆんさつ・按察あぜち・宣撫せんぶの法ほふありて、以もつてその風俗ふうぞく制度せいどを正ただす。推古帝すゐこていに及およびて、聖德太子しやうとくたいし憲法けんぱふを定さだむ。孝德帝かうとくてい天下てんかの政制せいせいを詐さだむ。天武帝てんむてい律令りつりやう法式ほふしきを定さだむ。文武帝もんむていの朝てう淡海公たんかいこう勅ちよくを奉うけて律令りつりやうを撰えらぶ。帝ていの功こうを終をふる、亦また大だいならずや。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さて次に引かれますのは、崇神天皇の御代のその後、二十二年に及んでの記事であります。二十二年になりますと、篤い教化が行き渡り、人々はみな仕事を楽しむやうになつた。民は満ち足り、人民はみな長幼の序と課役の制とを知るに至つた。もつともなことであります、その至徳を考へて見れば。思ふに後の世に至るまで、巡察・按察・宣撫の法があつて、それによつて風俗と制度とを正して参りました。推古天皇の御代に至りましては、聖德太子が憲法をお定めになりました。孝德天皇は天下の政治の制度をお定めになりました。天武天皇は律令と法式とをお定めになりました。文武天皇の御代には淡海公が勅を奉じて律令をお撰びになりました。天皇の御功業をかやうに成し遂げられたことは、まことに大きなことではありませぬか。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章六「憲法から律令へ」に依る。崇神朝の教化から、聖德太子の憲法十七条を経て、大寶律令の完成までを一息に辿る。「人民皆長幼の序、課役の制を知る」――教へが知識になり、知識が制度になるといふ順序が示される。聖政章序(kj227)で説かれた祭政一致の理念が、ここでは具体的な法制の沿革として展開される。

聖政章 二百三十四殉を止めよ ── 垂仁帝の詔底本 下巻 三百十三頁ほか
原文
垂仁帝二十八年、詔曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣、其雖古風之非良何從、自今以後、議之止殉、
三十二年、野見宿禰、作埴輪土物以獻之、是則民之父母之誠所擴充也、

訓読
垂仁帝すゐにんていの二十八年にじふはちねん、詔みことのりして曰のたまはく、夫それ生いけるを以もつて愛めでしところを、亡なき者ものに殉したがはしむるは、是これ甚はなはだ傷いたましきかな。それ古風こふうと雖いへども、良よからずんば何なんぞ從したがはん。今いまより以後いご、これを議はかりて殉じゆんを止とどめよと。
三十二年さんじふにねん、野見宿禰のみのすくね、埴輪はにわ土物つちものを作つくりて以もつてこれを獻たてまつる。是これ則すなはち民たみの父母ふぼたるの誠まことの擴充くわくじゆうするところなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次に引かれますのが、垂仁天皇二十八年の詔であります。詔して仰せられました。『そもそも生きて居るものを、それも愛して居つた者を、亡くなつた者に殉じさせるといふことは、まことに痛ましいことである。たとひ古くからの風であつたとしても、良くないものであるならば、どうしてこれに従はうか。今より以後、これを議つて殉死を止めよ』と。さうして三十二年、野見宿禰が埴輪の土の物を作つて献上いたしました。これこそ民の父母たる誠の心が押し広げられたものであります。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章七「殉を止めよ ── 垂仁帝の詔」に依る。「その古風と雖も、良からずんば何ぞ従はん」――本章でもつとも力のある一句である。古いといふだけでは従ふ理由にはならない。聖政章一節(kj228、全集版sp01)の「義は必ず時に隨ふ」が、ここで殉死の廃止といふ具体的なかたちで実現する。

聖政章 二百三十五外朝は始め俑あり、遂に殉に至る底本 下巻 三百十四頁ほか
原文
謹按、殉者、以人殉亡者也、夫人君者、民之父母也、未有父母而不愛其子、殉亡者哀之過而愛之溢也、聖人立法、止殉之詔有之、三十二年、野見宿禰作埴輪土桓、以代之、是民之父母之誠擴充之所也、帝大之德、可謂大哉、蓋外朝始有俑、而其弊以至殉、以亂國、中國始有殉、而至作土物以止殉、其風俗之渾厚、可以見之也、

訓読
謹つつしみて按あんずるに、殉じゆんは、人ひとを以もつて亡なき者ものに殉したがはしむるなり。夫それ人君じんくんは、民たみの父母ふぼなり。未いまだ父母ふぼにしてその子こを愛あいせざるものはあらず。亡なき者ものに殉したがはしむるは、哀かなしみの過すぎて愛あいの溢あふるるなり。聖人せいじん法ほふを立たて、殉じゆんを止とどむるの詔みことのりこれあり。三十二年さんじふにねん、野見宿禰のみのすくね埴輪はにわ土桓どくわんを作つくりて、以もつてこれに代かふ。是これ民たみの父母ふぼたるの誠まことの擴充くわくじゆうするところなり。帝ていの大だいなる德とく、大だいなりと謂いふべき哉かな。蓋けだし外朝ぐわいてうは始はじめ俑ようあり、而しかしてその弊へい以もつて殉じゆんに至いたり、以もつて國くにを亂みだる。中國ちうごくは始はじめ殉じゆんあり、而しかして土物つちものを作つくりて以もつて殉じゆんを止とどむるに至いたる。その風俗ふうぞくの渾厚こんこう、以もつてこれを見みつべきなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行はこれについて謹んで按じて申します。殉とは、人を亡くなつた者に従はせることであります。そもそも君主は民の父母である。父母であつてその子を愛さない者はをりませぬ。亡き者に殉じさせるといふのは、哀しみが過ぎて愛があふれたものであります。聖人が法をお立てになつて、殉を止める詔をお出しになつた。三十二年、野見宿禰が埴輪の土垣を作つて、これに代へました。これこそ民の父母たる誠の心が押し広げられたところであります。天皇の大いなる御徳は、大きいと申すべきでありませう。思ふに外つ國の朝廷は、はじめ人形すなはち俑があつて、その弊がついに殉死にまで至り、國を乱すに至りました。日本ははじめ殉死があつて、そして土の物すなはち埴輪を作つて殉を止めるに至つたのであります。その風俗の渾然たる厚みは、これによつて見て取ることが出来るのであります。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章八「外朝は始め俑あり、遂に殉に至る」に依る。向かつた方向が正反対だ、といふのが素行の論点である。外つ國(中国)は人形(俑)から始まつて生きた人間の殉死に至つた。日本は殉死から始まつて人形(埴輪)に至つた。同じ二つの要素を持ちながら、経過の向きがまるで逆であるといふ、中國章でも見られた比較の型がここに用ゐられる。

聖政章 二百三十六巡狩の道 ── 西方の諸侯を觀る底本 下巻 三百十五頁ほか
原文
景行帝十二年、秋八月乙未朔、己酉、幸筑紫、
謹按、是巡狩之始也、此時觀西方之諸侯、以正其風俗、明制度、以定政事、此時天下大定、封域建、後至成務帝、縣邑之制・造長・首渠之法、竟定、天下猶一家、教化俗同、巡狩之道大哉、

訓読
景行帝けいかうていの十二年じふにねん、秋あき八月はちぐわつ乙未きのとひつじの朔ついたち、己酉つちのととり、筑紫つくしに幸いでます。
謹つつしみて按あんずるに、是これ巡狩じゆんしゆの始はじめなり。この時とき西方せいはうの諸侯しよこうを觀みて、以もつてその風俗ふうぞくを正ただし、制度せいどを明あきらかにし、以もつて政事せいじを定さだむ。この時とき天下てんか大おほいに定さだまり、封域はういき建たつ。後のち成務帝せいむていに至いたりて、縣邑けんいふの制せい・造長みやつこのをさ・首渠しゆきよの法ほふ、竟つひに定さだまり、天下てんか猶なほ一家いつかのごとく、教化けうくわ俗ぞくを同おなじくす。巡狩じゆんしゆの道みち大だいなる哉かな。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次に引かれますのが、景行天皇十二年、秋八月乙未の朔、己酉の日、筑紫に行幸あそばされたといふ記事であります。素行はこれを謹んで按じて申します。これが巡狩のはじめであります。この時、西方の諸侯を御覧になつて、その風俗を正し、制度を明らかにし、政事をお定めになりました。この時天下は大いに定まり、領域が建てられました。のちに成務天皇の御代に至りまして、県邑の制、造長・首渠の法がつひに定まり、天下はまるで一家のやうになつて、教化は俗を同じくするに至つたのであります。巡狩の道は、まことに大いなるものであります。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章九「巡狩の道 ── 西方の諸侯を觀る」に依る。巡狩の要点は「観る」ことに在る。諸侯を観、風俗を観る。聖政章二節(kj229、sp02)の「政の要は民心と習俗とを察するに在り」を、天皇みづから実行なさるのが巡狩である。報告を待つのではなく、みづから行つて見るといふところに、統治の情報をいかに得るかといふ問題への、素行の答へがある。

聖政章 二百三十七妖神を殺すは夷狄の習俗なり底本 下巻 三百十六頁ほか
原文
仁德帝十一年、武藏人强頸、河內人茨田連衫子二人、以禱于河神、
謹按、妖神殺人爲牲、是夷狄之習俗也、天孫未降之前、惡鬼妖怪之餘政也、蓋祭爲鬼神、非禮之祭、亨何河伯、嗟、可惑乎、夫帝之聰明俊德、天下之太平無事、豈思辨之不用、祭河伯以爲惑、人君不愼、

訓読
仁德帝にんとくていの十一年じふいちねん、武藏むさしの人ひと强頸こはくび、河內かふちの人ひと茨田連衫子まむたのむらじころものこ二人ふたり、以もつて河神かはのかみに禱いのる。
謹つつしみて按あんずるに、妖神えうしん人ひとを殺ころして牲いけにへと爲なすは、是これ夷狄いてきの習俗しふぞくなり。天孫てんそん未いまだ降くだらざるの前さき、惡鬼あくき妖怪えうくわいの餘政よせいなり。蓋けだし祭まつりは鬼神きしんの爲ためなるも、非禮ひれいの祭まつり、何なんぞ河伯かはくを亨まつらんや。嗟ああ、惑まどふべけんや。夫それ帝ていの聰明そうめい俊德しゆんとく、天下てんかの太平たいへい無事ぶじ、豈あに思辨しべんのこれを用もちひざらんや。河伯かはくを祭まつるを以もつて惑まどひと爲なす。人君じんくん愼つつしまざるべけんや。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次に引かれますのが、仁德天皇十一年、武蔵の人强頸、河内の人茨田連衫子の二人が、河の神に祈つたといふ記事であります。素行はこれを謹んで按じて申します。妖しき神が人を殺して生贄とするといふことは、これは夷狄の習俗であります。天孫がまだ天降りになる前の、悪鬼妖怪の残した政であります。思ふに祭りといふものは鬼神のためのものではありますが、礼にかなはない祭りに於て、どうして河の神をお祀り申すことがありませうか。ああ、惑ふべきことでありませうか。そもそも天皇の聡明さと優れた御徳、天下の太平無事に於て、どうして思慮分別をお用ひにならないといふことがありませうか。河の神を祀ることを、素行は惑ひであると申します。君主たる者、愼まないでゐられませうか。

解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』八・聖政章十「妖神を殺すは夷狄の習俗なり」に依る。人身供犠を「夷狄の習俗」「悪鬼妖怪の餘政」と切つて捨てる、本章でもつとも合理的な一節である。『論語』為政篇の「その鬼に非ずして之を祭るは、諂ふなり」を踏まへ、礼にかなはない祭りは祭りではないと説く。祭祀を政の第一に置いた聖政章四節(kj231、sp04)と矛盾しない――そこで示された基準が「至誠」であつたからである。誠に基づく祭祀と、恐れに基づく供犠とは別物だといふのが素行の立場である。なほ全集版の原文には、この段の末尾に「然猶信鬼神之妖、其子之淺謀以殺神之妖、此失處在乎、豈可擧此一事以爲帝之政弊、」というやや長い一節が続くが、対応する訓読・現代語訳が付されてゐないため、この冊では訓読のある範囲までを収めた。その二はここで一区切りとし、次のその三では「國史を置くの始」から「以上、政教の道を論ず」までを読み進める。