神知章 百九十九臣才の選(一)── 具瞻の臣、初め運動の労無し底本 下巻 二百三十二〜二百三十三頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行が尚ほ自分の意見を付け加へて申しますのには、此の天孫御降臨の時に五人の臣下を選んでお付けになつたといふことは、詰り臣下として君を輔くる実力のある者を選ばれたといふことの始めであつて、君たる方が如何に聖人たる徳を具へて居らしつても、これを輔けるのに其の人を得なければ、なかなか王業を始めるといふことは難しいのであります。それで特に人物をお選びになつたものとは、これを鑑と致しまして御歴代の天皇はみな其の臣下に勝れた人を挙げるといふことに御心を用ひて居らつしやるのであります。一体国を治める所の道は、人を用ひることを本にするのであつて、人がなければ、如何に制度が整つて居つても、其の制度を活用することは出来ない訳であります。況してや『草昧』卽ち事業を始める最初に在つていろいろ困難の多い時には、制度なども立たないのでありますから斯ういふ時には専ら人の力に依るより外はないので、其の人を得さへすれば、如何なる困難の中も越えて行くといふことが出来ないといふことはないのであります。それで皇孫をお輔け申した神々といふのは、何れもこの日本の国土に功があつた。卽ち天照大神に功があつたのであります。それからまた重ねて皇孫のお護りとして左右に侍して参つたのでありますから、これは極めて国家創立の際に功勲の高い人であると申さなければならぬのであります。又これ等の方々は此の御一代だけでなく、前の代からの御先祖をお助け申して居つたので、其の名は各々世の中に知られ、また一般の人々も、これは立派な人である、此の人は本当に頼りになるといふことを誰も知らない者はなかつたのであります。丁度高い山があれば誰も仰ぎ見ない者はなく、また広い海があれば、其の海の岸に立つた者は、これほど大きな海があるかと言つて驚くのでありますが、それと同じやうに、これ等の人々はみな世間の仰ぎ見る所で、其の様子を見ただけでも『具瞻』――みなが共に仰ぎ見るといふやうな意味で、みなが成るほど立派な方であると言つて心服するやうな方々であつたのであります。それであるから『初めに運動の労無く』――それほど特別に手柄を立てるといふことがなくて、さういふ方が居られるだけで、モウ多勢の人が頼もしく思ふのでありますから、其の世の中に及ぼす所の功徳といふものは極めて大きいのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。その二の結び(kj198)で説かれた「文武・大小・親疎」の分限論を承け、素行はここで具体的に五部神・二神を例に、「具瞻」(衆望を一身に集めること)こそが功臣の本質だと説く。「初めに運動の労無く」――華々しい手柄なしに、居るだけで人心を安んずる存在への評価が独特である。
神知章 二百臣才の選(二)── 衣を垂れ手を拱きて底本 下巻 二百三十三〜二百三十四頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで天照大神が斯ういふ勝れた方を見出されて之を皇孫にお付けになつて、皇孫が永く此の人々を相談相手として万事をなさるやうにといふ思召で、一緒に此の日本の国土にお降しになつたのであります。それから御歴代がズツと其の後をお継ぎになりまして、さうして前に神武天皇の詔にもありますやうに、『徳を養ふ』卽ち正しい道を以て国をお治めになるといふことが、御歴代に亙つてお続きになりました。それで人民は皆天のお道に悛きましたから、特別に何か法令を立てるとか、規則を作るとかいふことを煩はしくしないでも、『衣を垂れ手を拱いて』――上の方はジツとして居らつしゃれば、其のお徳を以て下の者はみな懐いて行く、また臣下の者もみなそれぞれの任務を果して参つたのであります。斯ういふ訳でありますから、たとひ此の国に己れの力を恃んで我が儘をする者があつても、さういふ者も皆心服してしまつたといふことは当然であります。随つて一般の人民の風俗も厚くなりまして、本当に一国が一家のやうな実を挙げて参つた訳であります。無論これは其の上に立つ方のお徳の然らしむる所でありますが、また一つはこれをお輔け申した所の臣下に其の人を得たといふことが大きな原因となつて居るのであります。それで臣下の中には文官もあれば武官もあるし、また地位の高い者もあり低い者もあり、また君主のお側に始終仕へて居る者もあり、また外に出て仕事をして居て、余り君主には近づかない者もあるけれども、それぞれの任務は実に大切なのであつて、其の中の一人でも欠けては、国を治める所の全体の政治といふものは行届かないことになるのであります。それで文武の大臣といふやうな者は一番地位の高い者でありますから、これは経綸康済を事とする。『経綸』といふのは政治の根本を立てて、さうして国を治め民を安んずるといふ一番大切な任務に従事するのであります。それから君主のお側に仕へて居る所の者は『薫陶涵養』と致しまして、卽ち君主のお徳が勝れてあるが上にも勝れて居らつしやるやうにお輔け申上げ、日毎の御生活の間に於て自ら万民の手本となるやうな御行ひが続きますやうに心を尽すのであります。此の如くにして其の職の重い者、卽ち大臣といふやうな者は、国が安らかになるか危くなるかといふことが其の人々の力の尽し方で決まるのでありますから、卽ち一国の安危を一身に負うて居る者と謂はなければならない。それから『職の親しき者』卽ち君主のお側に仕へて居る者は、『習染』といふのは自然々々に習はしとなつて、君主がますます徳を養ひ、智慧をお磨きになるやうに、お側からお輔け申すのであります。斯ういふ訳でそれぞれの職分は異ふが、併しながらどういふ職分に在つても、それが天下を安んずるといふ根本に深き関係のあるといふ点に於ては、少しも異りはないのであります。それであるから如何なる職に居る人も、みな己れの私を忘れまして、本当に力を一にして君主をお輔け申上げ、また国の将来を発展させて行くことに心を用ふべきものであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。「衣を垂れ手を拱きて」は『書経』武成篇に由来する成句で、為政者が徳によつて統治し法令を煩はしくしない理想を表す。文官と武官、経綸康済と薫陶涵養という職分の分立は、次段(kj201)で引かれる『書経』皋陶謨「天工人其れ之に代る」の議論への布石になつてゐる。
神知章 二百一臣才の選(三)── 天工人其れ之に代る底本 下巻 二百三十四〜二百三十六頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで此処に出て居ります事実に就いて見ると、五人の神がお側に附いて居るといふことがあつて、それからまた二柱の神は天子と同じ所に在つて三種神器をお護り申すやうにといふことを特別に命ぜられて居ります。これは詰り大臣を敬する所の御心持で、君主を輔ける所の人は非常に責任が重いのであるから、それで上よりしても斯ういふ風に懇ろにこれに命ぜられるのであります。お前達の力に依つて国が治まるのであるから、どうぞ骨折つて呉れといふやうに言葉を尽してこれに命ぜられた訳であります。それからまた天忍日命とか天鈿目命とかいふやうな方々は、天孫の御降臨の時にお先に立ち、お側に附いて御守護を申上げ、さうして雲路を分けて此の国にお降りになつたのでありますが、これは卽ち文武の道に於て勝れた人々を左右に侍せしめて、さうして斯んな立派な方がお降りになるのであるから、多勢の者も必ず心服しなければならぬぞと言つて、一般の者に心服する所の心持を起させるのであります。何れもこれは重要な任務を果した者でありまして、其の人を得るといふことが国を建てる始めに於て最も肝要なことであつたのであります。そこで勿論上に立つ天皇が御立派な方であり、それに斯ういふやうな勝れた人々がお付き申して居つたのでありますから、道も正しく立ち、道も行はれて、国民はみな此のお徳に懐き、また御威光に服しまして、国の根本といふものがシツカリと立つたのでありまして、これは後世から到底真似ることの出来ない位に立派な御事蹟であります。それで此の時既に『輔弼』卽ち上の方をお輔け申す所の重任に居る大臣といふやうな者、それからお側に附いて居る者、また御護衛を申上げる者といふやうな職分がみな分れて居りまして、これより以後も大概これに基いて多勢の任務といふものを分つて、それぞれ然るべき人物を用ひられるといふことになつた訳であります。書経の中に皋陶といふ人の言つたことに『天工人其れ之に代る』といふことがあります。『天工』といふのは天の働きといふ意味で、天は人民を生じ、また人民を護るのでありますが、形のないものであります。此の形のない天の働きを誰が代つてやるかと言へば、人がこれに代るより外はない。此の天の働きに代る人が卽ち天子であります。天子の徳が勝れて居れば天の道が行はれ、天子に其の人を得なければ天の道は行はれないのでありますから、詰り天の働きを人が代るのであります。それ故に帝王たる者は其の責任の重いといふことを考へて、決して心を弛めてはならぬといふことを皋陶といふ臣下が申して居りまして、これは本当に善い教訓であると言つて、舜といふ天子もこれに対しては感謝して居るのであります。此の日本の建国の始めに於て、多勢の臣下が君主をお輔け申したといふことが『天工人其れ之に代る』といふ言葉によく当るのでありまして、卽ち各々其の職分を全うして、代々の御代からの有難い思召を一般の人民に徹底せしめる為に努めたのであります。それでこれより後に至つてもそれぞれの官に応じて人を任じて、各々其の人を得たから、日本の国はますます発展して来たので、此の事を軽々しく思つてはならない。後の世になると制度が整つて参りましたから、其の整うた制度をのみ継ぎ足すといふやうな憾ひがあるのでありますが、これは余ほど惜しまなければならぬことであります。幾ら法律が完備しても、人が違へば法律の活用といふものも出来ないのでありますから、何処までも人を本位に考へて、立派な人物を集めるといふことが国を盛んにする根本であるといふ点に、特に意を用ひるやうにしなければならないのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。『書経』皋陶謨の「天工人其れ之に代る」――天の働きを人が代行するという政治思想が、この読本シリーズで幾度も説かれてきた「人を得る」ことの根拠として示される。舜と皋陶の故事を、日本の建国の事蹟に重ね合はせる読み方は、神教章以来この読本が一貫して採る「その揆一なり」の姿勢である。
神知章 二百二神武帝御東征、道臣命の功と論功行賞底本 下巻 二百三十六〜二百三十九頁
原文
神武帝甲寅年、東征之時、以大來目部爲侍臣、賜天種子命妻、大來目之遠祖日臣命、帥將軍之元戎、蹈山營行、乃隨烏所向、時勅曰、汝忠而且勇、加之能有導之功、是以改汝名爲道臣、
辛酉年春正月、天皇卽位、二年春二月乙巳、天皇定功行賞、賜道臣命宅地、以寵異之、又曰、以宇廐志麻治命・天富命爲左右臣、又曰、以宇麻志麻治命爲申食國政大夫、
訓読
神武帝の甲寅の年、東を征ちたまうて、大來目部を以て侍臣と爲す。天種子命に妻を賜ふ。大來目の遠祖日臣命、將軍の元戎を帥ゐ、山を蹈み行を營み、乃ち烏の向ふところの隨にす。時に勅して曰はく、汝忠にして且つ勇めり。加之能く導きの功あり。ここを以て汝が名を改めて道臣と爲すと。
辛酉の年春正月、天皇位に卽きたまふ。二年春二月乙巳、天皇功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて以て寵異たまふ。又曰く、宇廐志麻治命・天富命を以て左右の臣と爲す。又曰く、宇麻志麻治命を申食國政大夫と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には神武天皇御東征の時に当つて、特に功労のありました道臣命の事蹟を挙げられまして、前と同じやうに良き臣下を得れば必ず一切の事業が発展して行くといふことの証拠とした訳であります。神武天皇が甲寅の年に御東征になつた際に、大来目部を身近くお仕へする侍臣とされ、お側に附いて居りました所の天種子命といふ人に菟狭津媛といふ者を妻としてお与へになりました。大来目の遠祖である日臣命は、将軍の主力を率ゐて、山を踏み道を開いて進み、八咫烏の向かふ所に随つて進んだのであります。その時天皇が勅して仰せられるには、お前は忠義の志が厚く且つ勇気に富んだ、その上今回多勢の先に立つて道を開いたといふことも大きな功であるから、お前の名は日臣といふのであるけれども、改めて道臣といふ名にしたら宜からうと斯う仰せられまして、これより以後此の方は道臣命といふ名に変つたのであります。卽ち道を開くことに特に力を用ひた所以であらうと思はれます。それから辛酉の年に至りまして天皇が御即位の式をお挙げになりました。この際に此の道臣命には特別に恩賞を賜はつたと申すのであります。これは八年間の戦ひが済みまして、大和地方が平定致しましたから、橿原の宮に於て御即位の式をお挙げになりましたので、此の時に道臣命は大来目部――卽ち今日申せば近衛師団といふやうなものでありますが、此の軍隊を率ゐて、天皇の思召を特に承つて御警護を申上げたのであります。また併せて宇麻志麻治命・天富命を左右の臣とされ、宇麻志麻治命を申食国政大夫――国政を執り行ふ大夫とされたと伝はつて居ります。
解説
この段の原文・訓読は山鹿素行全集版『中朝事實』七・知人章九「論功行賞 ── 道臣命と大來目部」に依る。天穗日命・天稚彦の失敗(その一、kj187)、経津主神・武甕槌神の成功(その二、kj193)に続き、神武天皇御東征という具体的な史実に即して、功に応じて賞を明らかにすることの重要性が説かれる。「日臣」から「道臣」への改名は、其の功に応じて名を改めるという、日本古来の顕彰のあり方を示す一例である。
神知章 二百三天種子命・大来目部・八咫烏底本 下巻 二百三十七〜二百三十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の天種子命といふ人は非常に人物も立派であり、また国家の頼みとなるべき人でありましたから、天皇が特に斯ういふ風に御優待になつたものと思はれるのであります。此の天種子命といふのが中臣氏の先祖でありまして、中臣氏は後に至つて天智天皇をお輔け申した鎌足といふやうな人も現はれまして、これは大変な名家でありますが、其の先祖たる天種子命といふ方が斯ういふ風に非常に勝れた人であつたのであります。それからまた日臣命が率ゐられた大来目といふのは、詰り天皇に直属して居る所の軍隊を申すのでありまして、此の軍隊を率ゐて、さうして多勢の『督将』――総司令官として、山を踏み道を開いて大和の中央に向つて進んだのであります。此の時に道に迷うてどう進んで宜いか判らなかつたところ、八咫烏が道を示したといふことは、謂はゆる八咫烏の伝説として伝はつて居るので、此の事は前にありましたから此処では詳しく申しませぬが、此の八咫烏に導かれて道を進んで、大和の中央の地方を平定する際に大きな働きを致しました。これは非常に勇気に富み、また己れを犠牲にして如何なる困難をも冒すといふだけの、実に頼もしい心掛けの人でありまして、此の日臣命が率先して進んだので、多勢の人もこれに励まされて進みましたから、其の戦功に大変な功があつたのであります。斯ういふ神武天皇の御事蹟に就いて見ますと、天皇も無論非常に勝れた徳を具へていらしつた方でありますけれども、また臣下にも頼もしい者がありまして、謂はゆる君臣一致の力を以て日本の国の土台を固めるといふ大業を成就なさることが出来た訳であります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。八咫烏の説話への言及は簡略だが、これは既に神教章で詳述済みであることを踏まへた措置である。天種子命=中臣氏の遠祖という系譜への着目は、次段(kj203b)で論じられる論功行賞の意義と、遠く藤原鎌足に至る家系の由緒とを結びつける。
神知章 二百三恩賞を辞せざる道理底本 下巻 二百三十九〜二百四十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の功賞といふことは国を治める根本でありますから、勝れた君主は必ず功罰を明かにするといふことに特に力を用ひられるのであります。それからまた此の功のある者が賞を受けるといふのは、世間を奨励する為なのであります。固より自分の命を捨てて国に尽さうといふ者が恩賞を期待する筈はない。そんなことは勿論眼中にはないのでありますけれども、併し功のある者がそれだけの待遇をされるといふことが明かであると、世の中の者がこれに励まされて、自分も何とかして国の為に力を尽さうといふ心持になるのであります。それから功があつても少しも顧みられないといふことであると、世間の者が皆失望してしまふ。働いても働いた甲斐がない世の中であると思へば、どうしても力を尽さうといふ決心が鈍ります。それ故に功のある人は、自分一身から言へば恩賞などは受けたくはないのでありますけれども、他の者を励ますといふ意味から、与へられたる恩賞は少しも辞退しないでお受け申上げるのであります。斯ういふ時に自分は何も報酬が欲しくて働いたのではないと言つて恩賞を辞退するといふことは、清廉潔白のやうに見えるけれども、これは人の手本になる行ひとは謂へないので、やはり功賞を明かにされるといふ君主の思召に従ふことが、国の為に忠義なのでありまして、これ等のことは余ほど深く心を用ひなければならぬのであります。どうしても自分といふことを主として考へてはならないので、自分の利益を主にしては無論いかぬけれども、併し自分は欲がないとかいふやうなことを世の中に示さうと思ふのも、やはりこれは私の心持でありますから、凡ての私の心持を捨てるといふことが国に尽す道であるといふ心得を、誰も失はないやうにしなければならないのであります。
解説
原文には對應する漢文がなく、小林一郎の講義による敷衍箇所である。恩賞を辞退することは必ずしも美徳ではないという指摘が独特である。功に応じた賞を明らかにすることこそが世間を励まし、後に続く者を生むという実利的な観察は、道徳論に終始しない素行・小林の人材論の一面をよく示してゐる。
神知章 二百四謹按 ── 文武は猶ほ左右の手のごとし(その三の結び)底本 下巻 二百四十〜二百四十一頁
原文
謹按、一書以天種子命・天富命爲左右臣、又曰、以宇麻志麻治命・櫛玉命爲申食國政大夫、蓋皆大臣執政之儀、遡此時以文武之臣相拉也、凡文與武猶左右手、陰陽相對、不可偏廢、唯以時宜爲先後也、天孫臨降、及神武帝之時、皆有草昧屯蒙之難、非武臣不可得其創業、故先賞之、可併見於後世、重文臣輕武臣、是殆異上古之神制也、外朝聖人立政、以虎賁并論三事、以樞密并稱中書、況中州自往古以威武建皇統乎、
訓読
謹んで按ずるに、一書に天種子命・天富命を以て左右の臣と為すと。又曰く、宇麻志麻治命・櫛玉命を以て申食國政大夫と為すと。蓋し皆大臣執政の儀にして、此の時に遡りて文武の臣を以て相拉ぶるなり。凡そ文と武とは猶左右の手のごとし。陰陽相對して偏廢すべからず。唯時宜を以て先後と爲すなり。天孫臨降より神武帝の時に及ぶまで、皆草昧屯蒙の難あり。武臣に非ざれば其の創業を得べからず。故に之を先んじて之を賞する所、併せ見るべきなり。後世に至りて文臣を重んじ武臣を軽んず。是殆ど上古の神制に異なるなり。外朝の聖人は政を立て、虎賁を以て三事を并論し、樞密を以て中書と并稱す。況んや中州は往古より威武を以て皇統を建つるをや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
つつしんで考へてみますと、ある書物には天種子命・天富命を左右の臣とされたとあり、また別に宇麻志麻治命・櫛玉命を申食国政大夫――国政を執り行ふ大夫とされたとも伝はつて居ります。これらは思ふに、みな大臣として政を執る儀にして、この頃に遡つて文武の臣が並び立てられたのであります。そもそも文と武とは、あたかも左右の手のごときものであります。陰陽が相対するやうに、どちらかに偏り廃することがあつてはならない。ただその時々の事情に応じて、どちらを先にするかが定まるだけのことであります。天孫が天降りになつてから神武天皇の御代に至るまでは、いづれも草創の困難な時期でありました。武臣でなければその創業を成し遂げることは出来ません。それゆゑにこれを先んじて賞せられた所以は、後の世にも併せて見て取るべきであります。しかるに後世になりますと、文臣を重んじて武臣を軽んずるといふ風が生じました。これは上古の神代の制度とはほとんど異なるものであります。支那の聖人が政治を立てるに当つても、虎賁――武を掌る官を以て三公と並び論じ、枢密――軍機を掌る官を以て中書と並び称したのであります。まして我が国は、遠い昔から武威を以て皇統をお建てになつたのでありますから、なほさらのことであります。
解説
この謹按は底本 二百四十〜二百四十一頁に見えるが、影印の彫朽が甚だしく、山鹿素行全集版にも対応する分冊が見当たらないため、この読本の原文・訓読は判読可能な範囲でのおおよその再構成である。断定は避けたい。『文武猶左右手、陰陽相対、不可偏廃』――文武の均衡という主題は、その二の結び(kj198)の「臣に文武あり」を承け、その三全体を貫く。底本ではこの後に「以上重文武の大臣」の一句があり、ここでその三の一区切りとする。次のその四では、四道将軍の派遣(全集版cj10「四道將軍 ── 武官の始め」)へと講義が進む。