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中朝事實 小林一郎 講義 五(中國章 その四)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 本朝の水土を論ず 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第五冊。中國章の続き(底本 上巻 二一八〜二二七頁)を収めます。この冊は「以上、本朝の水土を論ず」で締めくくられる、国土論の総まとめにあたります。

この冊の内容。前半は日本の地形の観察――東西に広く南北に短い、北の山を背にして南に開く、四方を海が囲む――から、これまで挙げてきた国の名(浦安國・玉牆内國・細戈千足國・磯輪上秀眞國)を裏づけていきます。

後半がこの章でもっとも重い箇所です。素行は中国(外朝)に五つの失を挙げます。領土が広すぎて守りきれない、四方の異民族に迫られて長城の築造に民を疲れさせる、内通する者や逃亡する者が出る、遊牧民に隙を突かれて王朝が交替する――そして日本にはそれがない、と対比します。

読むときの注意。この対比は、素行の対外認識がもっとも直截に出るところです。中国の歴史を「失」の一語でまとめ、元寇を持ち出し、高麗・新羅・百濟を「本朝の藩臣」と呼ぶ議論には、そのまま受け取れないものが多く含まれます。小林の講義がそこに昭和初期の言葉を重ねる箇所もあります。そのつど補注にことわりを入れました。

一方で見落とせないのは、素行が『後漢書』『唐書』の日本記事を「商賈販人の言に因る、証とするに足らず」と斥けることです。中国側の史料を無条件には信じない――名を重んじつつ、伝聞の記録は選り分ける。その姿勢は、その二で「倭」の字を斥けたのと同じ筋です。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』上(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

艮位(ごんい)
『易』八卦の艮=東北。「艮位に背きて離明に嚮ふ」=東北の山を背にして、南(離=火・明)に向かう。
離明(りめい)
『易』八卦の離=南・火・明。「聖人南面して天下を聽き、明に嚮ひて治む」(説卦伝)による。
封疆(ほうきょう)
国の領域・境域。「封域の要なし」=守りの要となる自然の境がない。
藩屏屯戍(はんぺいとんじゅ)
国境を守る垣とその守備兵。素行は中国の失の第一にこれを挙げる。
四夷(しい)
中華の側から四方の異民族を呼んだ語。東夷・西戎・南蛮・北狄。
胡元(こげん)
元朝。素行は「胡(北方民族)の元」と呼ぶ。世祖はフビライ。
商賈販人(しょうこはんじん)
商人・行商人。素行は中国の史書に載る日本記事を、彼らの伝聞に基づくものとして退ける。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
元世祖(げんのせいそ)
フビライ・ハン(一二一五〜一二九四)。元の初代皇帝。二度にわたり日本に遠征軍を送った(文永・弘安の役)。

中國章 七本朝の地形を論ず ── 艮位に背きて離明に嚮ふ底本 二一八〜二二一頁
原文
謹按。本朝之地。形長廣。──東西曰廣。南北曰袤。──西上東下。皆豐大也。背艮位。而嚮離明。象蜻蛉之臀呫。洋海廻四方。唯西方少可寄外域之船。而無襲來之畏。故稱浦安國・玉牆內國。是內木綿之眞迮國也。其形如戈。而品物無不備。尤秀精之地也。故曰細戈千足國。磯輪上秀眞國。帝曰。妍哉乎國之獲矣。噫大哉。

訓読
つつしんであんずるに、本朝ほんてう地形ちけいよこに(東西とうざいこうふ)ながく、たてに(南北なんぼくぼうふ)みじかく、西上せいじやう東下とうげみな豐大ほうだいなり。艮位ごんゐそむきて離明りめいむかふ。蜻蛉あきつ臀呫となめかたどる。洋海やうかい四方しはうめぐり、西方せいはうすこしく外域ぐわいゐきふねすべし。しかして襲來しふらいおそし。ゆゑ浦安うらやすくに玉牆たまがき内國うちつくにしようす。内木綿うつゆふ眞迮國まさきくになり。かたちほこごとくして、品物ひんぶつそなはらざるはし。もつと秀精しうせいなり。ゆゑ細戈千足國くはしほこちだるくに磯輪上秀眞國しわかみのほつまくにふ。ていのたまはく、妍哉乎あなにやをくにつるかなと。ああおほいなるかな

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行がこれに就いて自分の意見を述べて申しますには、我が國の大体の地形というものは、広い方が長いのである。「廣」というのは詰り東西をいうのである。それから「袤」の方は短かい。「袤」というのは詰り南北をいうのでありますが、要するに亜細亜の大陸に沿うて、細長い形をして居るのであります。
それから西の方から東の方までズット伸びて来て、東の方が寧ろ「豐大」で広いようになって居る。これは四國、九州を別にして本州だけを申したのでありましょう。それで「艮位」――即ち丑寅の方が背中になって、南の明るい方に向って居る國と申して宜しいのであります。

解説
第七段。国土論の総まとめにあたる長い按語である。
ここでの素行は観察者である。東西に長く南北に短い、北東の山を背にして南に開く――地形を淡々と記述する。「艮位に背きて離明に嚮ふ」は『易』説卦伝の「聖人南面して天下を聽き、明に嚮ひて治む」を踏まえた言い方で、地形をそのまま統治の姿勢に重ねている。
そのうえで、これまで挙げてきた国の名(浦安國・玉牆内國・細戈千足國・磯輪上秀眞國)を、地形の側から裏づけ直すという構成になっている。名を解き、次に実を見て、両者を照らし合わせる――「其の名と實と相應ず」(ck20)という命題の、最後の検証である。

中國章 七(承)洋海四方を廻る ── 西方だけが船を寄せうる底本 二二一頁
原文
洋海廻四方。唯西方少可寄外域之船。而無襲來之畏。

訓読
洋海やうかい四方しはうめぐり、西方せいはうすこしく外域ぐわいゐきふねすべし。しかして襲來しふらいおそし。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで、神武天皇も仰せられましたように、蜻蛉が自分の尻を舐めて居るような形になって居って、四方に海が続いて居るが、其の中で西の方が、先ず他から船を寄せるのに最も都合の好い所の形になって居ります。
若し何処にでも船が自由に寄せられるようであると、一朝事ある時には四方から攻め寄せるというようになり易いのでありますけれども、西の方だけが船を寄せるのに都合が好くなって居るから、他から俄かに襲われるという時には、これを防禦し易い。これは地形上、洵に都合の好い國と申さなければならぬのであります。

解説
四方が海で、開いた口は西だけ――だから守りやすい、という地政学的な観察。
素行の議論としては具体的で、根拠のはっきりした部類に入る。実際、対外交渉も外敵も、この時代までは西からのみ来た。元寇も博多に来ている。
ただし「襲來の畏れ無し」という断定は、その元寇を経験した後の国で書かれたものである。素行は後の段でその元寇に触れ、「大兵悉く敗れて」と勝った側から語る。襲来がなかったのではなく、防いだのだが、ここでは前者のように書かれている。前冊 ck53 と同じ、断定が事実を追い越す癖である。

中國章 七(承)浦安國・玉牆内國・内木綿の眞迮國底本 二二一頁
原文
故稱浦安國・玉牆內國。是內木綿之眞迮國也。

訓読
ゆゑ浦安うらやすくに玉牆たまがき内國うちつくにしようす。内木綿うつゆふ眞迮國まさきくになり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういう訳でありますから、「浦安國」――浦々までも安らかな國である。或は「玉牆の内國」――即ち牆を繞らして周囲を囲うて居るような國であるというような名が付いて居る訳であります。
また「内木綿の眞迮國」というのも同じ意味であります。一体「木綿」というのは神を祭る御幣のことでありますが、此の御幣というものは木綿を切って続けたものでありますから、此の國がズット続いて、縦に長くなって居って、そうして「眞迮」というのは、洵に護りの固い、安らかな國であるという意味であります。

解説
第六段(ck52・ck53)で挙げられた名が、地形の観察から裏づけ直される。名を先に解き、後から実で確かめる――この順序が、この章の方法である。
「内木綿(うつゆふ)」を御幣の楮布と解し、その形(細長く連なる)を国土に重ねるのは、素行らしい語義解釈である。現在の国語学では「うつゆふ」は「うち(内)+ゆふ(木綿)」で枕詞とされ、確定した解釈はない。
「眞迮(まさき)」を「護りの固い」と読むのも同様で、原義は「狭い」に近い。狭さを守りの利に読み替えるのが小林の解である。

中國章 七(承)其の形戈の如く、品物備らざるは無し底本 二二一〜二二二頁
原文
其形如戈。而品物無不備。尤秀精之地也。故曰細戈千足國。磯輪上秀眞國。帝曰。妍哉乎國之獲矣。噫大哉。

訓読
かたちほこごとくして、品物ひんぶつそなはらざるはし。もつと秀精しうせいなり。ゆゑ細戈千足國くはしほこちだるくに磯輪上秀眞國しわかみのほつまくにふ。ていのたまはく、妍哉乎あなにやをくにつるかなと。ああおほいなるかな

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから大体を言えば、國が戈のような形をして居て、此の國の中に有らゆる物が具わって居り、物資は豊かであり、随って人民の生活も安楽なのであります。最もこれは秀でた土地で、他の國に比べて見て地味も殊に良いし、人間の心もシッカリして居るのでありますから、真に万國に秀でたる國と謂って宜しいのであります。それで前にもあるように「細戈千足國」とか「磯輪上秀眞國」とかいう名がある訳であります。
神武天皇は「妍哉乎國の獲つるかな」と仰せられた。此の國の様子を御覧になって、これは非常に勝れた國である、斯ういう國に居るということは大いなる幸いであると仰せられたのは、洵に御尤もであって、実にこれは世界に比類のない立派な國と申さなければならないのであります。

解説
「其の形戈の如く」――国土の形を戈になぞらえ、それを「細戈千足國」の名に結びつける。
ここで「品物備らざるは無し」という一句が出る。物資が国内で揃うということで、前段の「西方だけが開いている」という守りの話と合わせて、自足できる国という像が組み上がる。中國章 その一の ck13「磤馭盧=自ら凝る=独立して倚らず」がここで実質を与えられている。
末尾の「世界に比類のない立派な國」は小林の言葉で、素行の「噫大哉」よりも踏み込んでいる。

中國章 七(承)早く開けたか晩く開けたか ── 漢學者の間違つた見解底本 二二二頁
原文
蓋國之在地。不可枚舉。而其文物古今所稱。以外朝爲宗。日本朝鮮次焉。

訓読
けだくに枚擧まいきよすべからず。しかして文物ぶんぶつ古今ここんしようするところ外朝ぐわいてうもつそうし、日本につぽん朝鮮てうせんこれぐと。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体、此の世界に國はどれほどあるかと言えば「枚擧すべからず」――数えられないほどある。併しながら其の中で文物の勝れて居る、即ち文化の程度の高いという点から言うと、「外朝」――即ち支那が一番上であって、日本や朝鮮はこれに続くものだと思われて居った。これは事実でありました。
併しながら、支那が日本や朝鮮よりも早く開けて居るから、それで支那が日本より実質に於て勝って居るという風に断定するには及ばない。早く開けたとか晩く開けたとかいうことばかりを考えてはならない。開けて後にどちらの文化が上になって居るかということを考えて見て、縦い後に開けても、先に開けた國よりも進歩して居れば、此の方が勝って居るものと考えなければならないのである。
然るに、漢学を修めた者などは、支那からいろいろなものを学んだから、何処までも向うが勝れて居るという風に思うのでありますが、これは間違った見解と謂わなければならぬのであります。

解説
素行がまず通説を認めるところから始めているのに注目したい。「文物古今稱する所、外朝を以て宗と爲し、日本朝鮮は焉に次ぐ」――中国が第一で日本・朝鮮が次、というのが当時の常識だった。小林も「これは事実でありました」と認める。
そのうえで反論する。論点は時期と水準を分けることである。「早く開けたとか晩く開けたとかいうことばかりを考えてはならない。開けて後にどちらの文化が上になって居るか」
これは筋の通った反論である。附録「或疑」六節「紅藍紅を染めて、紅は藍より紅なり」――後から染めたものが元より濃くなる――とまったく同じ論法で、素行の思考の型がここでも働いている(『中朝事實』十五・或疑 六節)。
ただし「では今どちらが上か」の判定は、次段以降、比較の手続きを欠いたまま進む。

中國章 七(承)外朝の五失(一) ── 封域の要なく、藩屏屯戍甚だ多し底本 二一八〜二二三頁
原文
愚竊考。惟四海之間。唯本朝與外朝。共得天地之精秀。神聖一其機。而外朝亦未如本朝之秀眞也。
凡外朝其封疆太廣。連續四夷。無封域之要。故藩屏屯戍甚多。不得守其約。失是一也。近迫四夷。故長城要塞之固。世世勞人民。失是二也。守成之徒。或通狄構難。或奔狄泄其情。失是三也。匈奴契丹北虜易窺其釁。數以劫奪。失是四也。終削其國。易其姓也。而天下左袵。大失其五也。況河海之遠。而魚蝦之美。運轉之利亦不給。

訓読
ひそかにかんがふるに、四海しかいあひだ本朝ほんてう外朝ぐわいてうとも天地てんち精秀せいしう神聖しんせいいつにして、外朝ぐわいてうまたいま本朝ほんてう秀眞しうしんごとくならざるなり。
およ外朝ぐわいてう封疆ほうきやうはなはひろく、四夷しい連續れんぞくし、封域ほうゐきえうなし。ゆゑ藩屏はんぺい屯戍とんじゆはなはおほく、やくまもることをず。しついつなり。ちか四夷しいせまる、ゆゑ長城ちやうじやう要塞えうさいかた世世よよ人民じんみんらうす。しつなり。守成しゆせいあるいはてきつうじてなんかまへ、あるいはてきはしりてじやうらす。しつさんなり。匈奴きようど契丹きつたん北虜ほくりよきんうかがやすく、しばしば劫奪かふだつもつてす。しつなり。つひくにけづり、せいふるなり。しかして天下てんかえりひだりにす。おほいしつなり。いはんや河海かかいとほき、しかして魚蝦ぎよか運轉うんてんまたらず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで素行が考えて見るのに、一体世界中で何処が殊に開けて居るかと言えば、それは日本と外朝――即ち支那とが天地の秀でた気を集めて居り、また勝れた人物も多く出て居るから、此の点に於ては世界の勝れた國の好一対と言って宜しい訳である。併しながら、此の支那と日本を更に委しく比べて見ると、支那でも決して日本の非常に秀でて居るのには及ばないのである。
それでは、どういう点に於て支那が我が國に及ばないのかと申しますと、第一に支那は領地が非常に広く、そうして他の未開の國に続いて居るのであるが、其の未開の國と支那の本國との間に、何処を境いとして宜いか、其の区別を立つべき所がない。それであるから、一朝外交がうまく行かなければ、何処からでも攻めて来られる処がある。
それで「藩屏屯戍」というのは、砦を置くとか或は城を構えるとか、兵を置いて或る土地を護るとかいうことを、一箇所や二箇所ではなく方々に設備して置かなければならない。それだけのことをしなければ、此の支那の本國というものを護って行くということが出来ないのであって、これが為めに非常に人を要し、また経費を要するので、日本と比べると、斯ういう所が大きな欠点と申すべきであります。

解説
この章でもっとも重い箇所。素行が中国(外朝)に五つの失を数える。
まず前提が置かれることに注意したい。「唯だ本朝と外朝と共に天地の精秀を得、神聖其の機を一にして」――日本と中国は好一対だ、と。前冊 ck35 と同じで、素行は中国を高く置いたうえで比較を始める。
第一の失は境界の欠如である。大陸国家は自然の境を持たないから、守備の負担が際限なく増える。これは地政学的な観察として的確で、実際に中国史を苦しめ続けた問題でもある。
読むときの注意。ただしこの比較には、決定的な非対称がある。日本に境界の負担がないのは、海に囲まれているという地理の偶然であって、徳や制度の優劣ではない。素行はそれを「失」と「得」の言葉で語るので、条件の違いが優劣に見えてしまう。読む側で切り分けたい。

中國章 七(承)外朝の五失(二) ── 長城要塞の固め、世世人民を勞す底本 二二三頁
原文
近迫四夷。故長城要塞之固。世世勞人民。失是二也。

訓読
ちか四夷しいせまる、ゆゑ長城ちやうじやう要塞えうさいかた世世よよ人民じんみんらうす。しつなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それからモウ一つは、今申した通り四方に未開の國があって、それ等の國に攻められる処れがあるから、城を築いたりすることを常に怠らないようにしなければならぬ。其の為めに人民の労力を費すことは大変なもので、秦の始皇の築いた万里の長城などというようなものは、殊に其の著しいものでありますが、此の為めに人民は、農業をするとか工業を営むとかいうような時間を、其の國を護るということにのみ大概取られてしまう。随って國の実力というものが、兎角欠乏して来るのであります。これが第二の欠点と申さなければならぬのであります。
また始終外國との間に様々な関係が起って来るから、其の外國との境いを護って居る者が、折り折りは彼の未開の外國と内通して、向うの味方になって支那を攻めるというようなこともある。

解説
第二の失――長城の負担。万里の長城を、素行は民を疲れさせるものとして見る。
この見方自体は中国の史論にもあり、素行の独創ではない。ただし民の労力が生業から取られる点に着目するのは、素行らしい実際的な視線である。天先章第四段「生きることが出来ないで道を学ぶなどという余裕のあろう訳はない」と同じで、まず民の生業という順序が一貫している。
武德章三十三節「事に先だちてこれが備を積み、事なくしてこれが防を爲す」と読み合わせると、素行は備えそのものを否定してはいない。備えが民を圧するほどになることを失とするのである。

中國章 七(承)外朝の五失(三・四) ── 狄に通じ、狄に奔る/釁を窺はれて劫奪せらる底本 二二三〜二二四頁
原文
守成之徒。或通狄構難。或奔狄泄其情。失是三也。匈奴契丹北虜易窺其釁。數以劫奪。失是四也。

訓読
守成しゆせいあるいはてきつうじてなんかまへ、あるいはてきはしりてじやうらす。しつさんなり。匈奴きようど契丹きつたん北虜ほくりよきんうかがやすく、しばしば劫奪かふだつもつてす。しつなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
或はまた他の國へ奔って行って、支那の内情を洩らす者もあり、其の為めに戦争をする場合に於て、支那本國の方がしばしば不利に陥るというような事もあったのである。これは第三の欠点と申さなければならぬのであります。
また匈奴とか契丹とか北虜とかいうような、詰り外にある所の未開の國々が、支那の内地の隙間を窺って、そうして兵を用いてしばしば攻め込んでは奪掠をするというようなこともあったのであります。支那の方からは向うの様子が能く解らないから、向うを攻めることは甚だ困難である。然るに外の國には支那の内地の様子が解り易い。また支那の内地の者が向うに内通して、國内の様子を洩らすなどということも度々あるから、兎角外國の方から支那に攻め込む機会が多いので、それで支那では何時でも損害を受けて居ります。これが先ず第四の欠点であります。

解説
第三・第四の失――内通・逃亡と、隙を突かれること
この二つは、第一の失(境界がない)から必然的に導かれる。境が曖昧なら、境に住む者はどちらにも属しうる。素行の議論は、この点では首尾一貫している。
読むときの注意。「未開の國々」「北虜」といった語は、中華の側が周辺民族を呼んだ言い方をそのまま借りたものである。素行は中国を批判しながら、その中国が作った華夷の枠組みで周辺民族を見ている。附録「或疑」十七節の「過厚と淸薄」も同じ構図で、枠組みを借りたまま中身を入れ替えるのが、この書の一貫した方法である(『中朝事實』十五・或疑 十七節)。

中國章 七(承)外朝の五失(五) ── 終に其の姓を易へ、天下袵を左にす底本 二二四頁
原文
終削其國。易其姓也。而天下左袵。大失其五也。況河海之遠。而魚蝦之美。運轉之利亦不給。

訓読
つひくにけづり、せいふるなり。しかして天下てんかえりひだりにす。おほいしつなり。いはんや河海かかいとほき、しかして魚蝦ぎよか運轉うんてんまたらず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また外國の勢力がだんだん強くなって来ると、外國が大挙して攻め込んで、支那の全部を己れの勢力範囲に置いて、自ら國王となって姓を易え、國の名を改めるということにもなって来る。例えば元が蒙古から攻め込んで支那に國を建て、清が満洲から攻め込んで支那を取って國を建てたというようなのが、其の例であります。
其の為めに、前に言うように着物を左り前に着るということでありますけれども、これは未開の國の風俗を其の儘移したということの形容であります。支那では髪の毛の周囲を剃って、残ったものを糸に混ぜて長く伸ばすなどという風が出来る。例えば辮髪などというようなものは、ツイ三四十年前まで支那に一般に行われて居ったのでありますが、これは満洲の風俗であります。満洲が支那を取ってからあらいう風が出来たもので、これは支那に以前からあった風俗ではなく、清の風俗であります。

解説
第五の失――王朝の交替と、それに伴う風俗の変化。元と清を例に挙げる。
「左袵」は『論語』憲問篇の管仲評から採った語で、前冊 ck26 でも出た。辮髪の例は小林が補ったもので、講義の時点(昭和初期)から見て「ツイ三四十年前まで」――辛亥革命(一九一一)で辮髪令が廃されたことを指す。受講者にとって身近な例として持ち出されている。
読むときの注意。王朝の交替を「失」と数えるのは、素行の皇統論(万世一系を最上とする)を前提にした評価である。王朝が代わることを悪とするかどうかは、そもそも評価の枠組みの問題であって、事実から導かれる結論ではない。
また元・清の支配下でも中国の文化は続き、むしろ拡大した面もある。「削る」「易える」の一語で片づけられるものではない。

中國章 七(承)河海の遠く、魚蝦の美給らず ── 支那人の生活底本 二二五頁
原文
況河海之遠。而魚蝦之美。運轉之利亦不給。

訓読
いはんや河海かかいとほき、しかして魚蝦ぎよか運轉うんてんまたらず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
先ず外國との関係が斯様に困難である上に、何分広い土地であるから、其の中央の所へ行くと海にも遠いし、河などにも遠くなって居て、日々食する所の魚のようなものも容易に得られず、これを皆遠くから運んで行かなければならないのであります。
それであるから、自然に其の風俗が日本などとは異うので、牛や羊を食べたりして魚の足らない所を補うということにもなる。また着物も、日本のように木綿や絹だけを着て居ないで、毛皮を多く着て居るというような訳である。それから夜寝るのでも、日本のように絹や木綿で作った蒲団の上に寝るのでなくて、寝台を造って其の上に寝るということになって居る。
斯ういうのは要するに、物資を得ることが足りないから、已むを得ずして斯ういう風俗が出来たものと見なければならぬので、日本と比べて見ると、洵に気の毒な状態と申さなければならぬのであります。

解説
この冊でもっとも注意して読むべき一段。
牛羊を食べる、毛皮を着る、寝台に寝る――これらを小林は「物資が足りないから已むを得ずして出来た風俗」「洵に気の毒な状態」と説く。
これは文化の違いを欠乏として読むものである。牧畜は魚の代用ではなく、寒冷乾燥地に適応した独自の生業であり、毛皮も寝台も同様に合理的な選択である。比較の基準を自分の側の生活に置いたために、違いがすべて不足に見えている。
素行の原文は「河海の遠き、魚蝦の美、運轉の利亦給らず」と、内陸で魚が手に入りにくいという事実を述べるにとどまる。「気の毒な状態」は小林の判断である。
なお素行自身、附録「或疑」十一節では「五方の民各々その性あり」と、風土の違いを優劣ではなく違いとして扱っていた(『中朝事實』十五・或疑 十一節)。この章と附録とで、立場が揺れている。

中國章 七(承)獨り本朝は天の正道に中す ── 天子は南面す底本 二二五頁
原文
獨本朝中天之正道。得地之中。正南面之位。背北陰之險。前擁數洲。而利河海。後據絕峭。而望大洋。每州悉有運漕之用。

訓読
ひと本朝ほんてうてん正道せいだうちゆうし、ちゆうたり。南面なんめんくらゐただしく、北陰ほくいんけんそむく。まへ數洲すうしうようして河海かかいあり、うしろ絕峭ぜつせうりて大洋たいやうのぞむ。毎州まいしうことごと運漕うんさうようあり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の支那や朝鮮に比べて見ると、独り我が國は非常に勝れた國であって、第一、天の道に一致した所の神々の高いお徳を以て此の國をお治めになって、そうしてまた土地も、方々の國の中央に位する最も気候風土の良い所を占めて居るのであります。
それで、南の方は海に臨んで居て日の光りを受けて居る。即ち「天子は南面する」ということを昔から言って居るけれども、正しく日本の天子は南面する所に居を占めていらっしゃるのである。また北の方は山が多くて、國を護るのに洵に適して居る。
それで西より東に至るまでズット地形が良くして、前の方――というのは即ち南の方には沢山國々が分立して居って、海も川も便利が好し、後ろの方――即ち北の方は山が重なっていて、其の山に登って遠く大洋を望むというようになって居るから、國防という上から言っても至って便利である。

解説
五失の対比として、日本の地形の利が並べられる。南に開き、北に山を負う。「天子は南面す」(『易』説卦伝)を、そのまま国土の向きに重ねる。
読むときの注意。ここでの「南面」は本州を南向きの斜面として見るという、かなり大まかな捉え方である。実際には日本海側も広い。素行の議論は畿内から見た地形観に立っている。
また前段(ck56)の「艮位に背きて離明に嚮ふ」がここで繰り返されており、易の枠組みが地理の記述を導いていることがよく見える。地形を見てから易で説明したのではなく、易の図式に地形を当てはめている面がある。

中國章 七(承)四海の廣きも猶ほ一家の約の如し底本 二二五頁
原文
故四海之廣。猶一家之約。萬國之化育。同天地之正位。

訓読
ゆゑ四海しかいひろきも一家いつかやくごとし。萬國ばんこく化育くわいく天地てんち正位せいゐおなじ。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そうして國々はみな海や川の便利に依って、物を運ぶということに於て何の障りもない。それであるから交通も便利であり、随って人の往来が繁いために、人情風俗というものもお互いに能く解り合って居る。
支那などでは北と南とでは、マルデ外國のような様子であるが、日本は隅から隅まで同じ國に住んで居るのだという心持で、お互いに能く睦み合って居るから、四海猶ほ一家の如くであります。

解説
「四海の廣きも猶ほ一家の約の如し」――国土が広くても一つの家のようにまとまっている。この一句が、五失との対比の要である。
小林の説明は具体的で説得力がある。海と川で物が運べる/人の往来が多い/だから人情風俗が通じ合う。これは交通と統合の関係を突いた観察で、地理的条件と社会的統合を結びつける議論として筋が通っている。
「支那などでは北と南とでは、マルデ外國のような様子である」という指摘も、当時としては的確である。
ただし、この差もまた国土の規模という条件の違いから来るもので、徳の優劣ではない。ck61 の補注と同じ留保が要る。

中國章 七(承)長城の勞なく戎狄の膺なし ── 品物備らざるは無し底本 二二六頁
原文
竟無長城之勞。無戎狄之膺。豈虛哉。況鳥獸之美。林木之材。布縷之巧。金木之工。無不備。聖神稱美之嘆。豈虛哉。

訓読
つひ長城ちやうじやうらうなく、戎狄じゆうてきようなし。きよならんや。いはんや鳥獸てうじう林木りんぼくざい布縷ふるかう金木きんぼくこうそなはらざるはし。聖神せいしん稱美しようびたんきよならんや。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それからまた國中が何処もよく発育して居って、人民は天地の正しい気を受けて、みな其の処に満足して居るし、外國と難を構えるという事もないから、長城を築くというような必要もない。また兵を出して外國を討つという事も肯てない。
況して其の物資の状態を言えば、鳥も獣も良いものが多く出るし、木材の勝れたものも多く出る。それから布でも絹でもみな手を尽して良い物を作り出し、或は金属とか木の細工とかいうようなものでもだんだん発達して、生活上必要な物は一つも欠くる所なく具わって居るのであります。
それでありますから、昔の神々がこれは良い國だと仰せられ、神武天皇も「妍哉乎」と仰せられ、其の他代々の君主がみな満足なさって、良い國である、斯ういう國を治めるのは幸いだというように仰せられて居るということは、決して偶然ではないのである。斯ういう國に生れたのであるから、吾々日本人たる者は、大いに自分の幸福を感謝しなければならないのであります。

解説
「長城を築く必要もない。また兵を出して外國を討つという事も肯てない」――この一句は、この講義の対外観を測るうえで重要である。
兵を出して外国を討たないことを、小林は誇るべきこととして挙げている。前冊 ck41「力づくであってはならぬ」と一貫しており、昭和初期の講演としては注目に値する。
ただし事実としては正確でない。素行自身、武德章で神功皇后の三韓征討を詳しく論じ、この章の次段では元寇を「大兵悉く敗れて」と語る。「討たなかった」のではなく「討った記録を別の章で誇っている」のである。
結びの「吾々日本人たる者は、大いに自分の幸福を感謝しなければならない」は、素行の「豈に虛ならんや」を、国民の心構えに翻訳したもの。この講義に一貫した着地の仕方である。

中國章 七(承)胡元世祖の來襲 ── 彼の地に歸る者僅かに三人底本 二二六〜二二七頁
原文
昔胡元世祖奪外朝。乘其勢。擊本朝。大兵悉敗。而歸彼地者僅三人。其後元主雖數窺。而不得侵我藩籬。

訓読
むかし胡元こげん世祖せいそ外朝ぐわいてううばひ、いきほひじやうじて本朝ほんてうつ。大兵たいへいことごとやぶれて、かへものわづかに三人さんにんなり。のち元主げんしゆしばしばうかがふといへども、しか藩籬はんりをかすことをず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうような尊い國でありますから、昔、元の世祖という者が外朝――即ち支那全体を奪って、其の勢いに乗じて日本に兵を向けたのでありますけれども、終に勝を制することは出来なかった。即ち弘安四年に彼は大挙して我が國を侵したのでありますが、悉く其の兵は敗れて、生きて彼の地に帰った者は僅かに三人だとさえ言われて居る。
其の後も元では、たびたび我が國の隙間を窺うて我が國に兵を向けようとしたけれども、到頭我が國の片隅をすら侵すことが出来なかったのであります。

解説
元寇(弘安四年=一二八一、弘安の役)。素行は「大兵悉く敗れて、彼の地に歸る者僅かに三人」と書く。
読むときの注意。「僅かに三人」は誇張である。弘安の役の元・高麗軍は十万を超えたとされ、生還者も相当数いた。この数字は中世以来の説話的な伝承で、素行はそれを採っている。
また日本側が勝てたのは、暴風雨という偶然に負うところが大きい。「終に勝を制することは出来なかった」という書き方は、国土の徳の証明としては弱い。
なお前段(ck57)で素行は「襲來の畏れ無し」と書いていた。ここで襲来があったことを自ら記しているのだから、あの断定は成り立たない。同じ按語の中で辻褄が合っていない箇所である。

中國章 七(承)高麗・新羅・百濟は本朝の藩臣か底本 二二七頁
原文
況高麗新羅百濟皆本朝之藩臣乎。聖神翔行太虛。而睊是鄕而降之。最宜哉。

訓読
いはんや高麗かうらい新羅しらぎ百濟くだらみな本朝ほんてう藩臣はんしんたるにおいてをや。聖神せいしん太虛そら翔行かけりゆきて、くにこれくだる。もつとうべなるかな

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
況してや、高麗だの新羅だの百濟だのというような朝鮮の國々は、神功皇后御征韓以来、我が國の部下に属して居るのであって、我に対しては臣下たる地位を占めて居るのであるから、朝鮮から我が國に侵略を企てるなどということは、固よりあろう筈はないのであります。
斯ういう良い國であるから、あの饒速日命が空を翔って此の土地を御覧になった時に、良い國であると言われて、そうして「虛空見日本國」という言葉を遺って居るということは洵に当然なことでありまして、此の國を本にして、軈て此の幸いを世界にまで分ってやろうというのが、日本の國民たる者の理想でなければならぬのであります。

解説
この冊で史実として最も成り立たない一段。
「高麗・新羅・百濟は皆本朝の藩臣」という認識は、『日本書紀』の神功皇后三韓征討記事と任那日本府の記述に基づくが、いずれも史実としては認められていない。三韓征討は神話的な記述であり、任那日本府についても、倭が朝鮮諸国を臣属させた実態を示す証拠はない。四〜六世紀の倭と朝鮮諸国は、むしろ対等な外交・軍事関係にあったとみられている。
素行の全集版でも、武德章 下二十三〜二十七節、禮儀章 中四十一・四十三節に同じ認識が繰り返し現れ、この読本ではそのつど注記してきた(『中朝事實』十三・武德章 下)。
末尾の「此の幸いを世界にまで分ってやろう」は素行の原文にない小林の言葉で、この冊の他の箇所(ck68 など)と同じ着地の仕方である。

中國章 七(結)支那の誣説 ── 商賈販人の言に因る、證とするに足らず底本 二二七頁
原文
後漢書曰。大倭王居耶麻臺。唐東夷傳曰。日本古倭奴也。是皆因商賈販人之言。記其事。故不足以證也。
以上論本朝之水土。

訓読
後漢書ごかんじよいはく、大倭王おほやまとわう耶麻臺やまとると。たう東夷傳とういでんいはく、日本につぽんいにしへ倭奴わぬなりと。みな商賈しやうこ販人はんじんげんりてことしるす。ゆゑもつしようとするにらざるなり。
以上いじやう本朝ほんてう水土すゐどろんず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ところが、外國からは斯ういうことがよく解らないものであるから、後漢書の中には「大倭王は耶麻臺という所に居る」とあって、何だか未開の國のことのような記事が出て居るのであります。それから唐の時代の東夷伝というものにも、「日本は昔あった倭奴というものだ」と言ってある。「奴」というのは、詰り未開の者としてこれを卑しむ意味であります。
斯ういうのはみな、日本と支那と交通の開けるに従って、日本の商人などが向うに参って日本のことを話したのを、宜い加減に聞いて、日本は支那よりも遙かに文化の程度の低い國であるというように考えた為めでありますが、支那の書物などに何と書いてあろうとも、そんなことに拘泥する必要は少しもない。日本人は日本人として此の國の実状を正しく知って、そうして自分の國は中國である、世界の最も勝れた國であるという自覚を失わないようにしなければならぬ訳であります。
これが先ず、日本の國の大体の地形等に関する記事であります。

解説
第七段の結び。中国側の史料をどう扱うかという、方法上の重要な一節である。
素行は『後漢書』倭伝と『新唐書』日本伝の記事を「商賈販人の言に因りて其の事を記す。故に以て證とするに足らざるなり」と斥ける。伝聞に基づく記録は証拠にならない――史料批判としては筋の通った指摘である。
その二の ck23・ck24 で「倭」の字を「倭音の假用」として斥けたのと、同じ姿勢の延長にある。他称を無条件に受け入れないという一貫性が、ここにある。
ただし片側にしか適用されない。素行は中国側の日本記事を伝聞として斥けながら、同じ中国側の史書に基づく朝鮮関係の記述(ck70)は疑わない。批判の刃が自説に有利な方向にだけ向いている。
史料批判の姿勢そのものは学ぶに値するが、それを自分の側にも向けるかどうかが分かれ目である。