皇統章 二(結)君主の德と位 ── 氣聚まりて形を生ずれば必ず其の精あり底本 二九五頁
原文
凡氣聚生形。則必有其精。謂之心。謂之性。是其主也。
訓読
凡そ氣聚まりて形を生ずれば、則ち必ず其の精あり。之を心と謂ひ、之を性と謂ふ。是れ其の主なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体一國がよく治まる為めには、上にお立ちになる君主が最も勝れた方でなければならないので、これは人間の身体でも天地の間の一切の出来事でも同じであります。
凡て形のない所の気というものが集まると、其の気の中から形が生ずるのであります。それからまた形が出来ればその中に魂という、此の形を支配するものがある。其の形を支配するものを心とも謂えば性とも謂う。即ち心というものが形の主であって、形は心に使はれて動くのであります。
解説
素行の理論の骨格。気が聚まって形になり、形には必ず精がある。それを心と呼び性と呼ぶ。そしてそれが主である。
この論法をそのまま天地に当てはめると――天地には日月があり、日月が天地の主である。人民には君長がある。三つの層が同じ構造で並ぶ。これが皇統章の理論的な支えになる。
この気・形・精の枠組みは朱子学の理気論を下敷きにした素行独自の組み立てである。ただし素行は朱子学から離れて古学に向かった人で、「理」ではなく「精」を主に置くところに、その独自性がある。
読むときの注意。この論法は類推である。「天地に主があるように、国にも主がある」というのは、比喩を根拠に使っている。中國章の結び(ck155)の身体の比喩について述べたのと同じく、比喩はそれ自体では結論を決めない。
皇統章 二(結)日月は天地の主なり ── 四時の運行、寒暑の去來底本 二九五〜二九六頁
原文
天地相成。而陰陽之精。縣象著明。之謂日月。日月者天地之主也。四時之運行。寒暑之去來。云一日。云一月。云一歳。皆以日月爲綱紀。
訓読
天地相成りて、而して陰陽の精縣象著明なる、之を日月と謂ふ。日月は天地の主なり。四時の運行、寒暑の去來、一日と云ひ一月と云ひ一歳と云ふ、皆日月を以て綱紀と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
天地の間も其の通りで、天地が出来上ると陰陽というものの働きが現れて来る。此の陰陽の働きの最も明かに人の目に見えるものが日と月である。それであるから日と月は天地の主である。天地を治めるものであると言って宜しい。
日月の運りが少しも違はないで、其の間に於て春夏秋冬という四季が生じ、此の四季の中に於て暑さ寒さの区別が立つ。此の春夏秋冬の運り行き、暑さ寒さの変化というものは一日と雖も変る所はない。一刻と雖も狂はない。
此の陰陽の働きの結果として生れた春夏秋冬及び寒暑の別が立って後に一日、一月、一年というような区別が皆正しく立って、何年経ってもこれは狂はないのであります。要するに斯ういう区別というものは日月に基くのである。日月がなければ夜も昼もないのでありますから、一日だの一と月だのという区別のあろう筈はないのであります。
解説
暦のもとになるのが日と月だから、その二つが天地の主なのだ――理屈としては、これはきわめて筋が通っている。
「縣象著明」は『易経』繋辞上の「縣象著明、日月より大なるは莫し」から。天に懸かってはっきり見えるもののうち、日月より大きいものはない。
小林の噛みくだきが良い。「日月がなければ夜も昼もないのでありますから、一日だの一と月だのという区別のあろう筈はない」――時間の区分そのものが日月に依存している、と。抽象的な「主」という語が、ここで「暦の基準」という具体に着地する。
中國章の最終段(ck148)で「天行は健なり」――天の運行に狂いがない――を説いたのと、同じ土台の上にある議論である。
皇統章 二(結)天地の氣候正しからざれば ── 人民の君長ある亦然り底本 二九五〜二九六頁
原文
天地之氣候不正。則縣象又不著明。人民之有君長亦然。人民之精可以主之。不以其精。則人物不能盡其性也。
訓読
天地の氣候正しからざれば、則ち縣象又著明ならず。人民の君長ある、亦然り。人民の精は以て之を主とすべく、其の精を以てせざれば、則ち人物其の性を盡すこと能はざるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで若し天地の間の此の順序というものが正しく行はれないで狂いが生ずるならば、此の天に懸かって地の上を照して居る所の日月の働きというものもまた狂いを生じて、今吾々が見るような明かなものではなくなるのであります。
天地の間の順序というものが、千萬年を通じて変らないから、それで気候も順になり、また此の地上に於ける萬物も其の生を遂げて行くのであります。
國に君主がいらっしゃるということも亦其の通りであって、チャウド日月が空に懸かって地上を照らすと同じように、君主たる方は勝れた徳を具えられ、其の徳を以て國をお治めになるのであります。
それであるから君主たる者が最も勝れた方でないと其の國は治まらない。「精」というのは本当に勝れたものという意味で、其の精とも謂うべき方が君主として上に居て國を治めて下さらなければ、其の國に住む所の人間が皆それぞれの力を尽して、それぞれの仕事に満足して骨折るということは出来ないのであります。
解説
「人民の精は以て之を主とすべし」――人民のなかの「精」たる者を主とすべきである。
ここは注意して読みたい。素行の言い方は「人民の精」であって、人民のなかから最も勝れた者が主になるとも読める。皇統章の序(kd01)で小林が「日本では人民が集まって王を立てたのではない」と強調したのとは、字面のうえでは逆向きの言い方である。
もっとも素行の文脈では、これは選挙の話ではなく「最も勝れた者が上に立たなければ治まらない」という原則を述べたものだろう。小林も「君主たる者が最も勝れた方でないと其の國は治まらない」と、資質の話として受けている。
それでも「其の精を以てせざれば、則ち人物其の性を盡すこと能はざるなり」――上に立つ者が勝れていなければ、下の者は持てる力を出し切れない――という一句は、統治者の側に条件を課している。血統だけで足りるとは、素行は書いていない。
皇統章 二(結)二神共に議る ── 其の事を容易にせざるなり底本 二九六頁
原文
蓋二神共議者。不容易其事也。
訓読
蓋し二神共に議る者は、其の事を容易にせざるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから上に立つ方は最も勝れた方でなければならぬので、一番初めに天照大神のお生れになる前に伊弉諾・伊弉冉尊が御一緒に御相談をなさって、そうしてどうぞ勝れた子を生みたいということを仰しゃって、それから此の天照大神のような勝れた方がお生れになったというのは、詰り一國の君主たる者を立てるのには容易にしてはならぬということを表はすのであります。
解説
「二神共に議る」=「其の事を容易にせざるなり」。二柱が相談したという神話の一場面を、素行は「ことを軽々しく決めなかった」という意味に読む。
神話の所作から手続きの重さを読み取る――これは前の冊(kd14)で鏡を「明にして倚らず」と読んだのと同じ手つきである。神々の動作の一つひとつが、統治の作法の教えになる。
その二(ck20)以来の「名から実を読む」方法が、ここでは「所作から義を読む」方法に変わっている。素行の読み方の幅がよく見える箇所である。
皇統章 二(結)鏡は明にして倚らず ── 一切の私の心持を捨てゝ底本 二九六〜二九七頁
原文
以神鏡者。明而不倚也。
訓読
神鏡を以てするは、明にして倚らざるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから鏡をお手にお持ちになった時に此の天照大神がお生れになったというのは、即ち此の天照大神の御徳が鏡の如きものであるということを表はすので、決して偏るということはないのである。
鏡というものは明かであって、どういう物でもありのままを映すので、一國の君主たる者もそれでなければならないのであります。何でもある通りを映す。そうして心に偏頗がなく、其の下に治められる所の人民を悉く我が子のように思はれて、特にどれを愛するとか、どれを憎むとかいう一切の私の心持を捨てて之をお治めになって、そこで初めて國がよく治まるのであります。
解説
鏡=公平さ。前の冊(kd14)で小林は鏡を自省に読み替えたが、ここでは素行の原義どおり「明にして倚らず」=偏らないこととして説く。同じ語を、場面によって二通りに読む。
「何でもある通りを映す」――鏡は好き嫌いで映し方を変えない。だから「特にどれを愛するとか、どれを憎むとかいう一切の私の心持を捨てて」治めよ、と。
この一句は、中國章の結び(ck156)の「豈一人の私を縱にせんや」とまっすぐつながる。統治者に課される第一の条件は、私を去ること――素行の議論は、章が変わってもここに戻ってくる。
八咫鏡が三種の神器の一つであり、天照大神の御霊代とされることを思うと、鏡を公平さの象徴と読むのは、神器章の議論への伏線でもある。
皇統章 二(結)惟れ精惟れ一 ── 君主の地位といふものが絶對である底本 二九七頁
原文
雖天神之靈。欲生天下主。而惟精惟一。可以見之也。
訓読
天神の靈と雖も、天下の主を生まんと欲して惟れ精惟れ一、以て之を見るべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうような人物が即ち本当に一國の君主たる所の資格を備えた者でありますから、伊弉諾・伊弉冉尊のような方でも、國を治める所の人物を生まうとお思いになる時には「惟れ精惟れ一」で、即ち心を専らにして、どうか立派な者を生みたいということを誠心を以て祈られて、それから斯ういう善いお子がお生れになったという訳であります。
國を治めるということは非常に重大なる責任を負うて居るものでありますから、其の人を得なければ國は治まらないということは、此の神代の事実を以て見てもよく解るのであります。
それ故に君主の地位というものが絶対であるということを考えて、人民たる者も誠心を以て此の君主をお輔け申すということを忘れてはならぬのであります。
解説
「惟れ精惟れ一」は『尚書』大禹謨の「人心惟れ危ふく、道心惟れ微なり。惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」――いわゆる十六字心伝から。宋学がもっとも重んじた句である。
素行はこれを神々が主を生もうとするときの心構えに用いる。儒学の心法の語を、神代の場面に当てる――この書の方法そのものである。
読むときの注意。小林の結び「君主の地位というものが絶対である」は、素行の原文にはない。素行が言っているのは「其の人を得なければ國は治まらない」――資質の話である。ところが小林はそれを地位の絶対性という話に接続する。
前段(kd24)の「其の精を以てせざれば、則ち人物其の性を盡すこと能はざるなり」という、統治者の側に条件を課す言い方と較べると、向きが逆になっている。この講義に一貫した転回の、もう一つの現れ方である。
皇統章 二(結)其の生る所日となり月となる ── 天地茲に位す底本 二九七頁
原文
故所其生爲日爲月。而天地茲位。
訓読
故に其の生るる所日となり月となる。而して天地茲に位す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで伊弉諾・伊弉冉尊は真に誠心を以て此の國を治むべき人物をお生みになることを念願せられ、また其の外のお子様もそれぞれ勝れた方がお生れになったのであります。
先づ初めにお生れになったお二方は天照大神、月弓尊で、即ち日月となって永く後世を照され、それで天が位し、萬物が皆宜しきを得るということの土台が定まった。
解説
「天地茲に位す」――『中庸』の「中和を致して、天地位し、萬物育す」を踏まえた言い方である。中と和が行きわたれば天地はそれぞれの位置を得、万物が育つ。
素行は、日と月が生まれたことをもって天地が位を得たとする。秩序が定まる起点を、二柱の誕生に置いているのである。
中國章が「中」の一字を論じ続けた章だったことを思い出すと、ここで『中庸』の語が出てくるのは自然な流れである。中國章と皇統章とは、同じ思想の別の面ということになる。
皇統章 二(結)河海猛惡も亦其の長あり ── 皆それぞれ其の所を得る底本 二九七頁
原文
爲蛭兒。爲素戔嗚尊。河海猛惡。亦有其長。
訓読
蛭兒となり、素戔嗚尊となる。河海猛惡も亦其の長あり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
其の後にお生れになったのが蛭兒と素戔嗚尊である。此の蛭兒、素戔嗚尊というような方々は、前にお生れになった天照大神、月弓尊という方々よりは徳が及ばないように見えて居るが、また宜しきに応じてそれぞれの働きをなさったのであります。
蛭兒命は海に行って、海の中に棲む多くのものを治められ、素戔嗚尊は根の國に行って、其処に居る所の未開のものを心服させて、其の地方を開かれた。皆それぞれの性質に応じてそれぞれ適当なる所の働きを為さったのであります。
其の所を得られさえすれば、蛭子のように海や川の中へ出られた方でも、素戔嗚尊のように猛悪な性質の方でも皆それぞれ立派に御役に立たれたのであります。
解説
「河海猛惡も亦其の長あり」――荒れる河海にも、それを統べる者がいる。素行はこの一句で、蛭兒と素戔嗚尊にそれぞれの領分を与える。
前の冊の kd11・kd12・kd19 で見た「性質は向け方次第」「人間に棄てた者はない」という小林の議論が、実は素行の原文にきちんと根拠を持っていたことが、ここで分かる。「其の所を得られさえすれば」――場所さえ合えば、どの性質も役に立つ。
これは適材適所の思想である。中國章その九(ck137)の「當國の幹了しき者を取りて其の國郡の首長に任ず」、その十(ck152)の「人物の計會」と、同じ考え方が神代にまで遡って適用されている。
次段(kd30〜kd34)で、素行はこの考え方をさらに徹底させる。
皇統章 二(結)其の量に因り其の分を命ず ── 噫神の德大なる哉、公なる哉底本 二九七〜二九八頁
原文
夫所共生。皆天神之子。而因其量命其分。噫神之德大哉。公哉。
訓読
夫れ共に生るる所、皆天神の子なり。而して其の量に因り其の分を命ず。噫神の德大なる哉、公なる哉。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
皆「其の量に因り」即ち其の性質に依り、また力に依って各々其の方面を分って、國の内に留まって君主となる方もあれば、或は外に出てそれぞれの務めを果して、そうして此の國の威光を外に輝かすという働きを為さる方もある。
斯ういうようにして此の國全体が大いなる発展をしたのであります。実に此の神の御徳というものは極めて大きなものであり、また永く後世の仰ぐべきものと考えなければならぬのであります。
斯ういう訳でありまして、日本の國というものは一番初めから先づ國内がよく治まって、そうして外に向っても其の力を伸ばすという本性を具えたものであるということを認めなければならぬ。これが即ち國民の永く理想として行くべき事であります。
解説
「皆天神の子なり」――生まれた者はみな天神の子である。そのうえで「其の量に因り其の分を命ず」――器量に応じて役割が与えられる。そして素行は感嘆する。「噫、神の德大なる哉、公なる哉」。
「公」の一字が効いている。えこひいきがない、ということである。器量の差はあるが、扱いに差はない。kd26 の「鏡は明にして倚らず」と、まっすぐつながる。
読むときの注意。ただし小林の結びは、また例の方向へ向かう。「外に出てそれぞれの務めを果して、此の國の威光を外に輝かす」「外に向っても其の力を伸ばすという本性を具えたもの」「これが即ち國民の永く理想として行くべき事」――素行の原文は「其の量に因り其の分を命ず」で止まっており、外に力を伸ばすことも、それを国民の理想とすることも、書いていない。
この読本で確認してきた転回(ck98・ck100・ck130・ck149・kd10・kd12・kd16)と同じ型が、ここでも繰り返される。「みな天神の子で、器量に応じて役がある」という美しい命題と、その後に付く一句とは、分けて読みたい。
皇統章 三竊かに按ずるに ── 天神天下の主を生まんと欲して、日の神以て生る底本 二九八〜二九九頁
原文
竊按。天神欲生天下之主。而日神以生。故以日神爲地神之太祖。朝廷宗廟之統之第一。然乃歷代之聖主。不守二神之精一。致縣象著明之實。則豈承神明之統乎。
訓読
竊に按ずるに、天神天下の主を生まんと欲して、日の神以て生る。故に日の神を以て地神の太祖、朝廷宗廟の統の第一と爲す。然らば乃ち歷代の聖主、二神の精一を守り、縣象著明の實を致さずんば、則ち豈神明の統を承けんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また素行が自分で考えて見るのに、伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の神が天下の主を生まうと思召された時に、其のお心が現はれて日の神とも謂うべき徳の勝れた方がお生れになった。
それ故此の日の神を以て此の地上を治める所の君主の御先祖となさったので、此の天照大神の御子孫が即ち代々天皇となって此の國をお治めになるのであります。
それであるからズット昔から言えば天照大神より以前にいろいろ神様はあったけれども、此の地の上の日本の國をお治めになる天皇の御系統は天照大神に始まるものと考えて宜しいので、國民は皆朝廷の宗廟に於ては之を第一と尊ばれて、伊勢の皇大神宮というものをお建てになったのである。
此の意義はよく弁えなければならぬのであります。
解説
第三段。「竊かに按ずるに」――ひそかに考えてみるに。素行が自分の見解を述べるときの、いちばん改まった書き出しである。
ここで素行は皇統の起点をはっきり定める。天照大神=地神の太祖、朝廷宗廟の統の第一。それ以前にも神々はいたが、地上の統治の系譜はここから始まる、と。
そして続く一句が重い。「然らば乃ち歷代の聖主、二神の精一を守り、縣象著明の實を致さずんば、則ち豈神明の統を承けんや」――代々の天子が、二神の「精一」を守り、日月のように明らかであるという実を示さなければ、どうして神明の系統を承けたと言えようか。
これは条件文である。血統を承けているだけでは足りない、実を示さなければならない――素行は皇統に条件を課している。kd24 の「其の精を以てせざれば、人物其の性を盡すこと能はず」と同じ向きの議論であり、皇統章の性格を考えるうえで見落とせない箇所である。
皇統章 三(承)或は疑ふ ── 二神の聖、何ぞ此の二不肖を生みませるや底本 二九八〜二九九頁
原文
或疑。二神之聖。何生此二不肖乎。愚謂。噫是何言乎。二氣五行之變。未嘗無過不及。
訓読
或は疑ふ、二神の聖、何ぞ此の二不肖を生みませるやと。愚謂へらく、噫是れ何の言ぞや。二氣五行の變、未だ嘗て過不及なきにあらず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また或る人は此の伊弉諾・伊弉冉尊がお子様をお生みになったということに就いて疑いを懐いて、伊弉諾・伊弉冉尊という神々は非常に勝れた方で、非常な徳を具えた方々であるから、何事もお心の儘でありそうなものである。それであるのに何故蛭兒とか素戔嗚尊とかいうような、徳の足りない御子をお生みになったのであろう。此の事は実に疑はしいと、斯ういうような意見を持って居る者もあるのであります。
併し素行が考えるには、それは甚だ間違った考え方である。そういうことを考えるのは、後世の者が恣まに自分の考えを以て昔の神々の神聖な御事蹟を批判するもので、そういう不遜なことは大いに慎まなければならぬのである。
先づ此の天地の間の有様を見ても陰陽の気が元で、それから木火土金水の五つというものが錯綜して萬物を生ずるのであるが、此の陰陽及び五行の種々錯綜して働きをする場合に於ては過不及がある。
解説
この書でもっとも鋭い問答。「聖なる二神が、なぜ不出来な子を生んだのか」――誰もが思う疑問を、素行は正面から取り上げる。
そして答えの第一声が「噫、是れ何の言ぞや」。ああ、何ということを言うのか。語調の強さがそのまま文に出ている。この書のなかで、素行がこれほど感情を露わにする箇所はほとんどない。
答えの筋は二段構えである。第一に陰陽五行の変化には、もともと過不及がある――完全に均一な生成などない。第二が次段(kd33)の精と粗の議論である。
附録「或疑」(『中朝事實』十五)が二十の疑問に一つずつ答える形をとっているように、素行は問いを立てて答えるという書き方を好む。ここもその一例で、疑問を封じるのではなく、理屈で応じているところに読む価値がある。
ただし小林が「後世の者が恣まに自分の考えを以て昔の神々の神聖な御事蹟を批判するもので、そういう不遜なことは大いに慎まなければならぬ」と、問うこと自体を不遜と言い添えているのは、素行の答え方とは向きが違う。素行は理屈で答えており、問いを封じてはいない。
皇統章 三(承)精と粗と相因りて、而して後萬物遂ぐ ── 是れ其の至大なり、至公なり底本 二九八〜二九九頁
原文
天地之大。其精爲日月星辰。爲名山大川。其粗爲風雲雷雨。爲潢汙丘陵。精粗相因。而後萬物遂。天共覆之。地共載之。是其至大也。至公也。
訓読
天地の大、其の精は日月星辰となり、名山大川となる。其の粗は風雲雷雨となり、潢汙丘陵となる。精粗相因り、而して後萬物遂ぐ。天共に之を覆ひ、地共に之を載す。是れ其の至大なり、至公なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
天地の間の物を見ると、其の陰陽五行の働きの最も「精なるもの」――即ち秀でたる働きが「日月星辰」――日とか月とか星とかいうものになる。地上を流れる大きな川とかいうようなものになる。また「粗なるもの」即ち陰陽の働きの比較的粗雑な、働きの充分でない方の現はれたものは、雨ともなれば、風ともなり、雷ともなれば雲ともなる。或は少さい川とか丘とかいうものになって現はれる。
此の天地の間には様々なものがあって、之を比べて見れば大きいものもあれば少さいものもある。非常に美しいものもあれば美しくないものもある。併し其の全体が相集まって統一を保ち秩序を具え、相調和して此の天地全体の美を成してゐるのであります。
其の一つ一つを取り立てて言えば詰らないように見えるものもあるけれども、併しながらこれは天地の調和を成す為めにそれぞれ役に立って居るのである。精なるものにも、粗なるものにも皆存在の意義があって、互いに相助けて、そこで萬物が其の性を遂げ、天はこれを覆い地はこれを載せて、永久に渝らない。
それであるから此の全体を見る時は天地の作用は至公至正と謂はなければならない。実に天地の間の働きは広大なものである。
解説
この段の核心。天地の「精」は日月星辰・名山大川となり、「粗」は風雲雷雨・潢汙丘陵となる。そして「精粗相因り、而して後萬物遂ぐ」――精と粗とが互いに因となって、はじめて万物が成る。
「天共に之を覆ひ、地共に之を載す」――天はどちらも覆い、地はどちらも載せる。えこひいきをしない。「是れ其の至大なり、至公なり」。
これは『中庸』の「天地の道は、博きなり、厚きなり、高きなり、明なり、悠なり、久なり」や、「萬物並び育して相害はず」の思想と地続きである。優れたものだけの世界は成立しないという洞察は、儒学の自然観のなかでも最も広い部類に属する。
小林の噛みくだきも良い。「其の一つ一つを取り立てて言えば詰らないように見えるものもあるけれども、これは天地の調和を成す為めにそれぞれ役に立って居る」「精なるものにも、粗なるものにも皆存在の意義があって、互いに相助けて」。
前の冊の kd12「人間に棄てた者はない」、kd16「一として無意味のものはない」が、ここで素行の原文そのものに根拠を持っていたことが分かる。この冊でいちばん拾いたい一段である。
皇統章 三(結)桑麻を貴びて菅蒯を棄つるなり ── 上を取りて下を遺す底本 二九八〜二九九頁
原文
人物在天地亦然。故明暗曲直。柔剛弱强並行。各盡其性。是神聖贊其化也。二神者是天地也。生此明暗柔猛。以主萬物。萬物各盡其性。其道不亦偉乎。因子之說。則取上而遺下。貴桑麻而棄菅蒯也。生此四神。而天下始安。萬民得所。二神所共議。無俗學可以疑焉。
以上、定本朝之主。
訓読
人物天地に在るも亦然り。故に明暗曲直、柔剛弱強並び行はれ、各其の性を盡す。是れ神聖其の化を贊くるなり。二神は是れ天地なり。此の明暗柔猛を生じ、以て萬物に主とし、萬物各其の性を盡す。其の道亦偉ならずや。子の說に因れば、則ち上を取りて下を遺し、桑麻を貴びて菅蒯を棄つるなり。此の四神を生みて天下始めて安く、萬民所を得。二神共に議りたまふ所、俗學の以て疑ふべき無し。
以上、本朝の主を定む。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
人と物とが天地の間に在るのも亦其の通りである。それであるから明かなものと暗いもの、曲ったものとまっすぐなもの、柔かいものと剛いもの、弱いものと強いものとが並び行はれて、各々其の性を尽すのである。これが即ち神聖が天地の化育をお助けになるということである。
伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は即ち天地である。此の明暗柔猛のお子様をお生みになって、それを以て萬物の主とせられ、萬物が各々其の性を尽すようになさった。其の道はまた偉大ではないか。
若し貴方の説に従うならば、上等なものだけを取って下等なものを遺し、桑や麻のような立派なものを貴んで、菅や蒯のような粗末なものを棄てるということになるのである。
此の四柱の神をお生みになって、そこで天下が初めて安らかになり、萬民が其の所を得たのである。二神が御一緒に御相談になったこと、俗學の徒が疑いを挟むべきものではないのである。
これで「本朝の主を定む」ということの一段が終るのであります。
解説
「子の說に因れば、則ち上を取りて下を遺し、桑麻を貴びて菅蒯を棄つるなり」――この一句が、素行の反論の決め手である。
桑麻は衣料になる上等な草木、菅蒯は縄や筵にする粗末な草。「不出来な子を生むはずがない」と言うのは、上等なものだけを取って粗末なものを棄てるのと同じだ、と。具体物に落とした反駁で、抽象論よりずっと効く。
「明暗曲直、柔剛弱强並び行はれ、各々其の性を盡す」――相反する性質が並び行われ、それぞれが持ち前を尽くす。「是れ神聖其の化を贊くるなり」は『中庸』の「天地の化育を贊く」から。
「萬民所を得る」――万民がそれぞれの居場所を得る。中國章その九(ck137)の適材適所論が、ここで存在論の水準まで広げられている。
この段は皇統章のなかで、いちばん普遍的に読める一節だろう。神代の話でありながら、優れた者だけで世界は成り立たないという一般命題として、そのまま今日にも届く。
皇統章 三(結)天照大神と吾が皇室 ── 皇統は天照大神に始まると考へて宜しい底本 二九九〜三〇〇頁
原文
故以日神爲地神之太祖。朝廷宗廟之統之第一。
訓読
故に日の神を以て地神の太祖、朝廷宗廟の統の第一と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の地の上の日本の國をお治めになる天皇の御系統は天照大神に始まるものと考えて宜しいので、朝廷の宗廟に於ては之を第一と尊ばれて、伊勢の皇大神宮というものをお建てになったのである。國民は皆此の意義はよく弁えなければならぬのであります。
天照大神が一番初めの神と言はれないけれども、併し此の土の上に國を建てた日本という國の皇室を中心として考えれば、天照大神の御血統をお受けになった天皇が神のお心持を御自身のお心持となされて我等をお治めになるのだと、斯様に解釈するのが当然のことであります。
それであるから「歴代の聖主」即ち日本の天皇たる方は、伊弉諾・伊弉冉尊が心を尽して此の國の主となるべき方を生まうと思召された、其のお心持を承けられて、苟くも此の天皇の御位を守る以上は心のあらん限りの力を尽して、國土が安らかに、人民が皆其の所を得るようにとのみ考えていらっしゃる。
解説
「天照大神が一番初めの神と言はれないけれども」――小林はここで、はっきり断っている。天照大神は最初の神ではない。天先章で扱ったとおり、国常立尊をはじめ神世七代が先にある。
そのうえで「此の土の上に國を建てた日本という國の皇室を中心として考えれば」――視点を限定したうえで、天照大神を起点とする、と。限定を明示しているのが良い。素行の「地神の太祖」という語も、天神ではなく地神の太祖であって、同じ限定を含んでいる。
「苟くも此の天皇の御位を守る以上は心のあらん限りの力を尽して」――ここでも位に伴う務めが語られる。kd31 の「縣象著明の實を致さずんば、豈神明の統を承けんや」という条件文を、小林はきちんと受け止めている。
kd27 で「君主の地位というものが絶対である」と述べたのと較べると、同じ講義のなかで強調点が揺れている。この揺れ自体が、この講義を読むときの手がかりになる。
皇統章 三(結)歴代の聖主 ── 苟くも此の天皇の御位を守る以上は底本 三〇〇頁
原文
然乃歷代之聖主。不守二神之精一。致縣象著明之實。則豈承神明之統乎。
訓読
然らば乃ち歷代の聖主、二神の精一を守り、縣象著明の實を致さずんば、則ち豈神明の統を承けんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
國土が安らかに、人民が皆其の所を得るようにとのみ考えていらっしゃる。そうして日月が空に懸かって明かであると同様に明かな智慧を具え、勝れた徳をお具えになって、永く此の國をお治めになるのであります。
これだけの御徳がなければ神々の御子孫として人民が永く仰ぎ尊んで、皇統は無窮に続くのであります。
それで勿論吾等は歴代の天皇、何れも斯ういうような御徳を具えていらっしゃる方と考えなければならぬのであります。
此の点は日本人として大いに考えなければならぬことであります。天皇の中に於て其の御事蹟が歴史に詳しく伝はって居る方と、また比較的詳しく伝はって居ない方とがありまして、其の詳しく伝はって居る方の御徳のみが後世の者には記憶されて居りますけれども、併し歴代の天皇のお心持は皆御同様でなければならない。たとい歴史に其の御事實が伝はって居ないでも、天皇其の方のお心持はやはり史上に伝はった天子様と同じ御心持であったに違いない。
解説
「これだけの御徳がなければ」――小林はここで、素行の条件文をそのまま繰り返す。徳があるから仰がれるのであって、その逆ではない。
そして記録の有無という現実的な問題に触れる。事績が詳しく伝わる天皇と、そうでない天皇とがある。小林はそれを「たとい歴史に其の御事實が伝はって居ないでも、お心持はやはり同じであったに違いない」と埋める。
読むときの注意。これは論証ではなく信念の表明である。記録がないことを「同じであったに違いない」で埋めるのは、歴史の読み方としては成り立たない。小林自身も「考えなければならぬ」という言い方をしており、事実の記述ではなく態度の要請として述べていることは、文からも読み取れる。
とはいえ、この一句が置かれた場所は考えておきたい。徳を条件とする議論の直後に、条件の検証を免除する一句が来る。素行が課した条件が、ここでゆるめられている。
皇統章 三(結)僭越なる尊稱 ── 日本には大王も小王もない底本 三〇〇〜三〇一頁
原文
歷代之聖主。
訓読
歷代の聖主。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうことを考えまして、私共は御歴代の天皇を、御同様に尊い方として永く仰いで行かなければならないのであります。
此の國の人民の分際として、天皇の間に上下を付けるというような考えが仮りにもあってはならぬのであります。西洋は人民が初めに國を作って、其の人民の中から役に立つ者を王とするというような習慣でありますから、役に立たない者は人民の力で廃めてしまうことも出来るし、またたとい王の位を保って居る者でも、其の働きの大小に依って其の価値を多くの者が皆で勝手に決めて、其の最も勝れたものを「大王」などと言う。
併し日本はそういうことではないので、神様の御血統をお承けになった方が何れも天皇となっていらっしゃるのでありますから、人民が天皇に対して彼此れ大小とか、甲乙とかいうものを分けるということは甚だ当を得ない。
日本には大王も小王もないので、歴代の天子様は皆昔の神様の後をお承けになった天子様でありますから、吾々は共に尊い方として永くこれを仰ぐという心持でなければならぬのであります。
明治以後に西洋の風習が伝はってから、西洋の真似をして「大帝」などという名を恣まに付けるのは甚だ僭越な話でありまして、人民が勝手に天皇に対して大小を分つということは、今後固く慎しまなければならぬことと思はれるのであります。
解説
この冊でいちばん意外な一段。小林が「明治大帝」という呼び方を「甚だ僭越」だと戒める。
「明治大帝」は大正から昭和にかけて広く使われた呼称で、この講義が語られた時期にはごく普通の言い方だった。それを西洋の真似だとし、「人民が勝手に天皇に対して大小を分つ」ことだと批判している。
論理は一貫している。人民が王を選ぶ国では、王に等級を付けられる。日本はそうではないのだから、等級を付けること自体が筋違いだ――kd01 で立てた枠組みが、ここで当時の慣用を批判する側に働いている。
皇室を尊ぶ立場から、皇室に関する当時の通用語を戒める。この講義がただの追従ではないことを示す箇所として、記憶しておきたい。
読むときの注意。ただし「西洋は人民が初めに國を作って……役に立たない者は人民の力で廃めてしまうことも出来る」という西洋像は、kd01 の補注で述べたとおり理念型である。ヨーロッパの王権も世襲が原則で、「大王(グレート)」の称号は人民の投票ではなく後世の史家や慣用によって付いたものである。