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中朝事實 小林一郎 講義 八(中國章 その七)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 選の極、中の至 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第八冊。中國章の続き(底本 上巻 二四五〜二五〇頁)を収めます。

前半は遷都論の締めくくり――平安京をもって「選の極、中の至」とする一段です。名において「中州」「中華」であるだけでなく、実質においてもそうなった、と素行は結びます。

後半からは話が変わり、宮殿・宗廟・社稷といった建物と制度の起源をたどる段に入ります。伊弉諾・伊弉冉二尊が磤馭盧島に建てた「八尋の殿」と「天の柱」から説き起こされます。

この冊の読みどころ。「八尋の殿」の「八尋」を広さの数値ではなく「四方八方どこにも申し分がない」の意と読むところ、「柱を建てる」を「雨にも風にも障りを受けない、しっかりした建築ができた」と読むところ――神話の数字や具象を、その意味するところに翻訳していく小林の手つきが、ここでもよく出ています。

読むときの注意。前半の結びに「世界の國々をも指導すべき國であると考えるのは、決して日本人が勝手に決めるのではない」という一句が出てきます。素行の按語にはない言い方で、この読本で繰り返し確認してきた転回です。補注にことわりを入れました。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』上(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

選の極(せんのきょく)
選び抜いた極み。素行は平安京の選定をこう評する。
中の至(ちゅうのいたり)
中の極み。「選の極、中の至、一に神聖立國の道に歸す」。
八尋の殿(やひろのとの)
伊弉諾・伊弉冉二尊が磤馭盧島に化作した御殿。「尋」は両手を広げた長さ。
化作・化竪(けさく・けりゅう)
神の力で作りあらわすこと。『日本書紀』神代上の語。
四方四隅(しほうしぐう)
東西南北と四つの隅。合わせて八。素行は「八」をこの数と解する。
宗廟・社稷(そうびょう・しゃしょく)
祖先を祀る廟と、土地・穀物の神を祀る壇。国家の根本とされる二つの祭祀。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
神世七代の最後の男神。磤馭盧島に降り、八尋の殿と天の柱を化作する。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
伊弉諾尊の対となる女神。

中國章 十一(承)選の極、中の至 ── 名に於ても實質に於ても底本 二四五頁
原文
及平安城。選之極。中之至。一歸神聖立國之道。故時序正。而寒暑不過。土壤膏沃。而人物有文章。

訓読
平安城へいあんじやうおよびては、せんきよくちゆういたり、いつ神聖しんせい立國りつこくみちす。ゆゑ時序じじよただしくして寒暑かんしよぎず、土壤どじやう膏沃かうよくにして人物じんぶつ文章ぶんしやうあり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
平安という今の京都に都を遷されたということになれば尚更であって、モウ此の時分には支那との交通も盛んであるし、また國威もだんだん伸びて、北の方の奥羽地方にまでも天皇の御威光に懐かない者はないという位になって行ったので、斯ういう時に選ばれた京都の都というものは「選の極」――選び抜いた上で一番好い所であり、またこれは神代ながら御威徳をお具えになった天皇が國をお治めになる中心の土地として申し分のない所であって、洵にこれは「中の至り」――即ち國中を本当に統一する中心の地として、最も適当な所であったのであります。
それであるから、京都に都を遷されて後にも國はよく治まって、時の順序も正しく、春夏秋冬の気候も狂いがない。そうして又、此の都の近辺は土地も非常に広くて地味も良し、また多くの人間も都を中心として集まって、立派な人物が続々と出たのであります。

解説
「選の極、中の至」――選び抜いた極み、中の極み。素行が平安京に与えた評価である。
前段(その六 ck96)で「中とは地形の真ん中ではなく、精秀の氣」と定義し直したのを受けて、その定義に平安京が完全に当てはまる、と結ぶ。
ここで「奥羽地方にまでも天皇の御威光に懐かない者はない」という一句が出るが、平安初期はまさに坂上田村麻呂の蝦夷征討の時代であり、東北の平定は武力によるものだった。「懐かない者はない」は結果だけを見た言い方である。武德章 下十五・十六節の蝦夷の記述と同じく、討たれた側の視点はここにもない。

中國章 十一(結)名に於て中州・中華なるのみならず、實質に於ても底本 二四五頁
原文
中州中華之名。實相齊。建都之制大備。是乃墺區之生成也。
以上、論建都邑之始。

訓読
中州ちうしう中華ちうくわじつあひひとし。建都けんとせいおほいそなはる。すなは墺區あうく生成せいせいなり。
以上いじやう都邑といふつるのはじめをろんず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで愈々以て、日本を「中州」と言い「中華」と言っても差支えないような内容が充実して、即ち名に於て中州・中華であるのみならず、実質に於ても中州たり中華たる所の力が具わって、そこで初めて此の都が中央に在るという意味が完備された訳であります。
即ち神武天皇が國の墺區であると仰せられた其の意味が、此の京都に都を遷されるに及んで、愈々完全に形の上にも現われた訳であります。
斯ういう訳で、日本は支那などとは異って、他の國から迫害を受けるというようなことは決してないので、だんだんに発展に発展を重ねて来るという特別の國であるから、此の國を中國と称して、謂わゆる世界の國々をも指導すべき國であると考えるのは、決して日本人が勝手に決めるのではない、歴史上の事実等に徴しても間違いのないことと謂わなければならぬのであります。
先ずこれで、都を建てるということに就いての一通りの説明が終るのであります。

解説
第十一段の結び。素行の「中州中華の名、實相齊し」――名と実が一致した――が、中國章の全体を締めくくる。
その二の ck20「其の名と實と相應ず」という命題が、ここで最終的に証明されたことになる。名(豐葦原・大日本・大八洲・やまと・墺區)を解き、実(気候・風土・皇統・都の完備)と照らし合わせる――この長い章は、その一つの命題の論証だった
読むときの注意。末尾の「世界の國々をも指導すべき國であると考えるのは、決して日本人が勝手に決めるのではない」は、素行の按語にはない。素行は「中州中華の名、實相齊し」で止めている。
その六 ck98 と同じ転回で、名実一致の主張が、対外的な使命の主張に置き換わる。この講義に一貫した癖として、ここでも確認しておきたい。

中國章 十二八尋の殿を化作す ── 神代の神殿底本 二四六頁
原文
伊弉諾尊伊弉册尊。降居磤馭盧島。化作八尋之殿。又化竪天柱。
謹按。是天神宮殿之始也。今其制不可言。八者四方四隅之數。天者人物之所法也。能詳其實。則萬世之規制。又始于此也。

訓読
伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉册尊いざなみのみこと磤馭盧島おのごろじま降居かうきよして、八尋やひろ殿との化作けさくす。またあめはしら化竪けりゆうつ。
つつしんであんずるに、天神てんじん宮殿きゆうでんはじめなり。いませいふべからず。はち四方しはう四隅しぐうすうてん人物じんぶつのつとところなり。じつつまびらかにせば、すなは萬世ばんせい規制きせいまたここはじまるなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の國の都を建てられたということは、以上で一通り其の意義が明かなのでありますが、其の都に宮殿を建てられたということも、やはり神代に基く所があるということを茲に申すのであります。
即ち伊弉諾尊、伊弉册尊が磤馭盧島にお降りになった時に、八尋の御殿をお建てになったということがあります。また天の柱をお建てになったというような事もあるのであります。

解説
第十二段。話が都から建物へ移る。中國章はここから、宮殿・宗廟といった具体的な造営の起源をたどる段に入る。
『日本書紀』神代上の「八尋の殿を化作す」「天の柱を化竪つ」という一句が典拠。その一の ck11・ck12 で「國中の柱」を扱ったのと同じ場面だが、そこでは夫婦の約束の文脈だった。ここでは建築として読み直される。
素行が「今其の制言ふべからず」――どんな造りだったかは今では分からない――と正直に断っているのが目を引く。附録「或疑」十五節「庸愚の舌頭を容るべからず」と同じ、分からないところは分からないままにする作法である。

中國章 十二(承)柱を建てる ── 雨にも風にも障りを受けず底本 二四六頁
原文
又化竪天柱。

訓読
またあめはしら化竪けりゆうつ。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから「柱を建てる」というのは、無論家に柱の必要なのは申すまでもないのでありますが、ただ柱を建てるということでなく、其の建てられた家が実にシッカリして居て、雨にも風にも障りを受けず、本当に一國をお治めになる方がお住まいになる所として申し分のない建築が出来たと、斯ういう意味を表わしたものと考えられるのであります。

解説
「柱を建てる」を「しっかりした建築ができた」と読む――神話の具象を、その意味するところに翻訳する小林の手つきが、ここでもよく出ている。
その一の ck12 でも、小林は「國中の柱」を「眼に見えるような柱があったと解釈するには及ばない」と説いていた。柱=動かない、しっかりしているという読みは、天先章第一段の「常立」の解釈以来、この講義に一貫している。
次段からしばらく、宮殿はどの程度立派であるべきかという話に脱線する。この講義でもっとも人間味のある箇所である。

中國章 十二(承)王者は宮殿に贅澤をしない ── 堯舜の美談底本 二四七頁
原文
是天神宮殿之始也。今其制不可言。

訓読
天神てんじん宮殿きゆうでんはじめなり。いませいふべからず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
支那では、王者が自分の宮殿の建築に贅沢をしないということを、一種の勝れた徳として称えて居りまして、例えば堯や舜の時代に於ては非常に粗末な家であった、王者が自分は粗末な家に居って、人民の生活を裕かにする為めにのみ心を用いたということが、大変な美談として遺って居りまして、孔子などもこれを大変に称讃して居るのであります。
無論、王者が贅沢をしてはならぬのでありますけれども、併しながら兎に角一國の君主であるお方のお住まいになる所が、見る影もないような所であったのでは、人民がこれを崇拝する、またこれを尊敬するという意味も現われない訳でありますから、決して華やかな飾りをしたり何かするには及ばないが、兎に角シッカリした、雨にも風にも害を受けないという位な建物をお建てになるということは、また王者のお徳を形に表わす一つの途なのでありまして、何でも好いというようなものではないのであります。
此の事は余ほどシッカリと考えなければならぬことと思います。併しながら、動もすると贅沢を競うというようになるものでありますから、これは固く戒めなければならぬ所であります。我が國では決して御歴代の天皇が華やかな御生活などは遊ばされなかったのであります。

解説
質素すぎてもいけない、贅沢すぎてもいけない――小林の議論はここで微妙な均衡を取ろうとする。
『論語』泰伯篇の「禹は吾れ間然すること無し。……宮室を卑くして、力を溝洫に盡す」――禹は自分の住まいを質素にして治水に力を尽くした――が、ここで言う「美談」である。
小林はそれを認めたうえで、「見る影もないような所であったのでは、人民がこれを崇拝する意味も現われない」と限定を加える。
これは祭祀章十一節「茅屋の大廟、粢食を擧げず、以て至德を示す」――飾らないことで徳を示す――とは、やや違う立場である(『中朝事實』十四・祭祀章 十一節)。素朴さの徳と、形の必要と。素行が両方を説いていることの、小林なりの調停である。

中國章 十二(餘談)ヴエルサイユとフォンテンブローを見物して底本 二四七〜二四八頁
原文
今其制不可言。

訓読
いませいふべからず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これはチョット話が余談になるようでありますが、私は先年フランスに行った時に、ルイ十四世の居たヴエルサイユの宮殿と、それからナポレオン一世の居ったフォンテンブローの宮殿というものを見物しました。
実にどうも立派なもので、どの部屋も金銀を以て飾り立ててあって、殆んど眼も眩むような立派な建築でありました。また庭園も実によく整頓して居って、実に驚いた位に贅沢なものでありました。
それで此等の処を見物してパリへ帰って、それからフランスの人が一緒に行ってくれたものでありますから、まア今日はお蔭様で好い所を見せてもらって有難かったという訳で、夕食を一緒に食べました。

解説
この講義でもっとも人間味のある一段。小林一郎自身のフランス旅行の思い出が、そのまま語られる。
『中朝事實』の講義という枠を離れ、「これはチョット話が余談になるようでありますが」と断って始まる。聴衆を前にした講演の記録であることが、ここでいちばんよく分かる。
ヴェルサイユ宮殿とフォンテンブロー宮殿――どちらも「実に驚いた位に贅沢」。小林は素直に感嘆している。
この後、フランス人との対話になる。

中國章 十二(餘談)日本の御所は極めて御質素である ── フランス人の得意顔底本 二四八頁
原文
今其制不可言。

訓読
いませいふべからず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そうすると其のフランスの人が、「あなたは日本の人であるが、日本には今日見たようなああいう立派な建築がありますか」と言って尋ねた。
それで私は之に対えて、日本の昔の天子様の在らしった御殿などというものは、何れも皆極めて御質素なもので、今日見物したヴエルサイユやフォンテンブローの宮殿のような、金銀を以て飾り立てたというようなものは一つもない。またお庭というものは随分広いけれども、今日見た所のように四季の花の咲くような珍しい草木を巧みに植え並べてあるというようなことはない。比べて見れば、日本の昔の天子様のお住まいになった御殿でも庭でも、非常に御質素なものであるということを話しました。
そうすると其のフランスの人が非常に得意になって、「それはそうだろう、何にしろ日本とフランスとは文化の程度が異うから、お前も今日見たであろう」と言って、大変に誇って居ったのであります。

解説
場面が生きている。フランス人が「文化の程度が異う」と誇る――小林はその言葉をそのまま記録している。
この講義が行われた昭和初期、日本人が西洋で受けた扱いがどのようなものだったかが、一つの逸話として残されている。中國章の主題――他国と比べて自国をどう位置づけるか――が、抽象論ではなく実際に経験された場面として現れる箇所である。
小林はここで反論せず、まず「暫く向うの言うことを聴いて居って」から答える。その答えが次段である。

中國章 十二(餘談)立派な宮殿に住んだ人の後は決して滿足ではない底本 二四八〜二四九頁
原文
今其制不可言。

訓読
いませいふべからず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで私は暫く向うの言うことを聴いて居って、後で斯ういう風に話しました。
「それは何と言っても、あなたの所のヴエルサイユやフォンテンブローの宮殿の方が、日本のより非常に美しい。日本の奈良や京都の昔の御所を拝観して見ても、大概は木造りで、あんなに金銀を以て飾ってあるというような部屋は一つもない。極めて御質素である。併し其の中に住まわれた人はどうであろう。
ナポレオン一世はウォーターローの戦争で敗れて島流しになって、島で死んだではないか。またルイ十四世は自分の一生は無事であったが、孫のルイ十六世の時に革命が起って、ルイ十六世はパリの真ん中に引出されて首を斬られてしまった。ああいう立派な宮殿に住んだ人の後は、決して満足ではない。これは詰り無理をして自分の贅沢をしたからと謂わなければならぬ。
日本では歴代の天子様が御質素で在らせられて、木で造った御殿で、君達フランスの人から見たならば本当に質素過ぎると思うような御生活であったが、其の位な簡易な御生活でお済ましになって、専ら人民のことばかりを御軫念になったから、人民は皇室の御徳に懐いて居て、革命などは一つも起りはしない。」

解説
小林の反論。建物ではなく、そこに住んだ人のその後を見よという切り返しである。ナポレオン一世のセントヘレナ、ルイ十六世の処刑。
論法としてはその四の ck60「早く開けたか晩く開けたかではなく、開けて後にどちらが上か」と同じで、比較の基準をずらすやり方である。相手が持ち出した基準(建物の壮麗さ)を受け入れず、別の基準(統治の持続)に移す。
読むときの注意。フランス革命を「贅沢をしたから」の一語で説明するのは、当然ながら乱暴である。革命の原因は財政危機・身分制・啓蒙思想の広がりなど複合的で、宮殿の贅沢はその一要素にすぎない。
また日本に「革命が一つも起らなかった」という言い方も、承久の乱・南北朝・応仁の乱・戊辰戦争といった内乱の歴史を「革命ではない」と定義したうえで成り立つものである。比較の両側が単純化されているのは、この読本で繰り返し見てきた構造と同じである。

中國章 十二(餘談)威かす爲めに言つたのではない ── 有り體のことを申添へた底本 二四九頁
原文
今其制不可言。

訓読
いませいふべからず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういうことを申しました所が、其のフランス人は別に返事もしなかったのでありますが、それ限り何だか碌に話もしないで帰って行きました。
私は決して其のフランス人を威かす為めにそういうことを言ったのではないのでありますが、外國の宮殿の立派な所を見ますと、実に日本の昔の御所の御質素であらせられたということを有難く感じて、心から斯ういう國に生れて、斯ういう皇室の御恵みを受けるということが貴く思われるので、ツイ斯ういうようなことも言ったのであります。
日本の昔の御所が如何にも御質素であらせられたが、併しながら兎に角、君主のお住まいになる所として立派に多くの人の仰ぎ見るだけの形式を備えて居られたということは、これは世界の何れの國の君主も仰いで範とすべきものであろうと思われるのであります。
これは洵に余の事でありますけれども、今此の文を読んで思い出しましたから、序でに有り体のことを申添えた訳であります。

解説
余談の結び。「其のフランス人は別に返事もしなかった……それ限り何だか碌に話もしないで帰って行きました」――勝ち誇るでもなく、気まずさをそのまま書いている。
そして「私は決して其のフランス人を威かす為めにそういうことを言ったのではない」と自ら弁解する。言い過ぎたという自覚があったのだろう。この率直さが、この一段を読ませるものにしている。
結びで「君主のお住まいになる所として立派に多くの人の仰ぎ見るだけの形式を備えて居られた」と、ck103 の均衡に戻る。質素であっても、形は備わっていた
『中朝事實』の講義としては完全な脱線だが、比較のなかで自国をどう語るかという中國章の主題が、生身の経験として現れた箇所である。

中國章 十二(結)八は四方四隅の數 ── 何處から見ても申し分のない建物底本 二四九〜二五〇頁
原文
八者四方四隅之數。

訓読
はち四方しはう四隅しぐうすうなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
尚ほこれに就いて素行が申しますには、此の伊弉諾尊、伊弉册尊が御殿をお建てになったということが、日本では君主のお住まいになる御殿を建てることの初めであって、これより後は御歴代皆それぞれ御殿にお住まいになった訳であります。併し何分にもこれは神代のことであるから、どういう風にお造りになったのか、其の委しい事は今日に伝わって居りませぬ。
併し「八尋」とある此の「八」というのは、四方と四隅のことで、詰り何処から見ても申し分のない建物という意味に解釈すべきであります。

解説
「八尋」の「八」を、長さの数値ではなく方角の数と読む。四方(東西南北)+四隅で八。
その一の ck18 で「大八洲」の「八」を「八方を統ぶるの義」と解いたのと同じ読み方である。素行にとって「八」は数量ではなく完全性を表す数だった。
そこから小林は「何処から見ても申し分のない建物」と訳す。広さの話ではなく、どこにも欠けたところがないという意味だ、と。
神話の数字を意味に翻訳する――ck102 の「柱を建てる」と同じ手つきである。

中國章 十二(結)天は人物の法る所 ── 御德が形に現はれたもの底本 二五〇頁
原文
天者人物之所法也。能詳其實。則萬世之規制。又始于此也。

訓読
てん人物じんぶつのつとところなり。じつつまびらかにせば、すなは萬世ばんせい規制きせいまたここはじまるなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから「天の柱」とありますが、「天」というのは詰り人の手本であります。人間の道は天の道に基くのでありますから、「天」というのは詰り人間の手本となるべきものという意味に解釈して宜しいのであります。
それで、御殿が洵に立派に建ったということは、詰り其の君主たる方の御徳が形に現われたものと見て宜しいのであります。
従って此等の事を考えて、これを後のお手本とするならば、「万世の規制」――即ち後の世に永く仰いで範とすべき所が、此の二柱の神々の時に在るのであると解釈して宜しい訳であります。
後世になってもやはり此の二柱の神々の御徳が高くあらせられたから御殿も出来たのであるという解釈は、即ち其の御徳が永く続いて、此の國が永く安らかになって居るのであるという意味に取って、間違いのないものと思われるのであります。

解説
第十二段の結び。「天の柱」の「天」を「人の手本」と読む
天先章第六段「天地は人倫の大原にして、神聖は天地の性心なり」――人の道の根拠を天地に置く――が、ここでも働いている。天に法るから、その建物が万世の手本になる。
そして「御殿が立派に建ったということは、君主の御徳が形に現われたもの」。建物を徳の表現として読むのは、ck103 の議論(形は必要だが贅沢は戒める)と一続きである。
祭祀章三節「宗廟の設、神主の寄るところなければ、汎乎として定むべからず」――形がなければ心も定まらない――と同じ考え方で、心と形の両方が要るという素行の二本立ての論法が、ここでも保たれている(『中朝事實』十四・祭祀章 三節)。