神治章 百三十五七年の御事 ── 「朕既に富めり」の問答底本 下巻 百五十四、百五十六頁
原文
七年、夏四月辛未朔、天皇居臺上、而遠望之、烟氣多起、是日語皇后曰、朕既富矣、豈有愁乎、皇后對曰、何謂富乎、天皇曰、烟氣滿國、百姓自富歟、皇后曰、宮垣壞而不得修、殿屋破而衣被露、何謂富乎、天皇曰、其天之立君、是爲百姓、然則君以百姓爲本、是以古聖王者、一人飢寒、顧之責身、今百姓貧則朕貧也、百姓富則朕富也、未之有百姓富而君貧也。
訓読
七年、夏四月辛未の朔、天皇臺の上に居まして、遠くこれを望みたまふ。烟氣多く起これり。この日皇后に語りて曰はく、朕既に富めり。豈愁へあらんやと。皇后對へて曰さく、何をか富めりと謂ふやと。天皇曰はく、烟氣國に滿てり。百姓自ら富めるかと。皇后曰さく、宮垣壞れて修むることを得ず、殿屋破れて衣被露はなり。何をか富めりと謂はんやと。天皇曰はく、それ天の君を立つるは、是れ百姓の爲なり。然らば則ち君は百姓を以て本と爲す。ここを以て古の聖王は、一人も飢寒すれば、これを顧みて身を責む。今百姓貧しきときは則ち朕貧しきなり。百姓富めるときは則ち朕富めるなり。未だこれ百姓富みて君貧しきことはあらざるなりと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
前に申しますやうに、三年の間租税もお取りにならず、人民もお使ひにならないで、大分國中が裕かになつたらうと御心に召されたものでありますから、それで七年の夏四月に仁德天皇が高い所にお登りになつて周圍を御覽になつた所が、今度は以前とは違つて何處の家からも食べ物を作る爲に火を焚いたと見えて、其の烟が一ぱい立つて居りました。そこで天皇は非常にお喜びになりまして皇后に向はれて、モウ自分は富んで來た、何も心配はないと仰せられました。それで皇后が、富むとはどういふことを仰せられるのでありますかと言つてお尋ね申した所が、天皇が仰せられるには、今見る通り、國中に何處にも烟が立つて居る。どの家でもみな富んで來たに相違ない。これほど目出度いことはないではないか。斯う仰せられたので皇后がまた仰せられるのは、今毎日の自分逹の生活といふものは實に不自由なもので、垣根が破れても繕ふことも出來ず、屋根が破れて雨が漏つたり、露が降つたりして着物も濡れる位であります。これほど貧しい生活はないと思つて居るのに、富んだと仰せられるのはどういふ譯でございませうか。斯うお尋ねになつた時に天皇が仰せられるには、一體萬民の上に立つて君主となるのは、自分の爲にではない。天が君たる者を護つて下さるのは、多勢の人間の爲に力を盡させようといふお心持からである。それであるから天のお護りになるといふ御恩を忘れてはならない。君たる者は百姓を以て本とするのであるから、みなが裕かに生活し、みなが安樂になるやうにといふことばかりを考へて、其の他に何も考へてはならないのである。それであるから昔から勝れた天子は、世の中の多勢の人民の中にタッタ一人が飢ゑたり凍えたりして困つて居るのでも、まだ政治の仕方が不完全なのであらうと思うて自ら責めて、どうも滿足に責任を果すことが出來ないといふことを大いに悲しんだといふことである。それであるから多勢の人間が貧しいのは即ち上に立つ所の自分が貧しいのであつて、多勢の人間が裕かであれば上に立つ所の自分が富んだのである。國民がみな裕かであつて君たる者が貧しいといふ譯はない。今見る所がみなが裕かになつて、滿足して居るやうであるから、これでモウ何も心配することはないのである。と斯う仰せられました。
解説
全集版js21「宮垣壞れて修めず」(中朝事実_6.html)の原文・訓読と一致する。「民の竈」(その十四)の後日談にあたる著名な問答で、天皇の自賛に対して皇后が「宮垣壞れて修むることを得ず」と現実を指摘し、天皇がなほ「百姓貧しきときは則ち朕貧しきなり」と答へるところに、素行・小林が繰り返し説く「君は民を本とす」の思想が最も端的に示されてゐる。
神治章 百三十六秋八月・九月の御事 ── 大兄皇子の御領地と課役再開の詔底本 下巻 百五十四、百五十七頁
原文
秋八月己巳朔、丁丑、爲大兄去來穗別皇子、定壬生部、亦爲皇后定葛城部、九月、詔諸國曰、課役並免、旣經三年、由是國稍空虛、百姓貧乏、今爲三年、當調役以修理宮室。
訓読
秋八月己巳の朔、丁丑、大兄去來穗別皇子の爲に、壬生部を定む。亦皇后の爲に葛城部を定む。九月、諸國に詔して曰はく、課役並びに免すこと、旣に三年を經たり。これに由りて國稍空虛となり、百姓貧乏せり。今三年と爲し、當に調役を以て宮室を修理すべしと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また此の秋八月になりまして、大兄去來穗別皇子といふ方の爲に、御領地として壬生部といふ所を御決定になり、また皇后の御領地として葛城部といふ所をお定めになりました。これは非常に大切な事でありまして、一家でも其の通りでありますが、家族が飢ゑて居つて其の家の主人が安心して居られるものではない。上に立つ方は何時でも萬民のお手本をお示しになるのでありますから、皇子樣にも皇后樣にも御生活の心配のないやうに、それ々の御領地をお定めになつたといふことは洵に結構なことであります。併しそれを初めから御決定にならないで、人民の生活が裕かになるやうにといふことを主になさつて、それから人民の生活が裕かになつてモウ心配がないといふ所で、天皇御自身の御家族のことに考へをお向けになつたといふことは、實に人の上に立つ方のお手本と申さなければならないのであります。是れで先づ皇后樣も御安心になつた譯であらうと思はれます。それから九月に諸國に詔して、課役を並びに免じてから旣に三年を經た、これに由つて國がやや空しくなり、百姓も貧しくなつたので、今三年を限つて、當に調役を以て宮室を修理すべしと仰せられました。
解説
全集版js21(中朝事実_6.html)の第二段とほぼ一致する。ただし全集版js21の訓読は「大兄去來穗別皇子の爲に、妃を定む」とあるが、底本の影印は「壬生部」に作り、また通行の『日本書紀』本文(仁德紀七年八月条)も皇子の養育にあたる部民「壬生部」を定めたとするのに一致するため、ここでは底本に從つて「壬生部」とした。皇子の壬生部・皇后の葛城部を定めたのち、三年の課役免除を打ち切り宮室修理の調役を科す旨の詔が続き、次段(kj137)の「官民の請願」へとつながる。
神治章 百三十七官民の請願と忍受 ── 「恐らくは罪を天に獲んか」底本 下巻 百五十五、百五十七〜百五十八頁
原文
既經三年、因此宮殿朽壞、府庫已空、今黎首富饒而不譴、是以里無鰥寡、家有餘儲、若當此時、非賦税調以修理宮室者、恐獲罪于天乎、然猶忍之不聽。
訓読
既に三年を經て、此に因りて宮殿朽壞し、府庫已に空し。今黎首富饒にして譴めず。是を以て里に鰥寡無く、家に餘儲あり。若し此の時に當りて、賦税調を以て宮室を修理せずんば、恐らくは罪を天に獲んか。然れども猶これを忍びて聽かず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
先づ斯ういふ譯で人民もみな生活が裕かになり、また皇室の方も一先づ御安定といふことになりましたから、秋九月に至りまして諸國の者がみな願ひ出て申しますには、税もお取りにならず、また勞働等も御免除になつてから已に三年になつて居ります。其の間に御殿も破れてしまひ、また天子樣の所に物をお貯へになる倉がありますが、其のお倉も空しくなつて、召上る物もないといふやうな状態で、非常に御不自由であると思はれます。ところが今日の所では人民の方は非常に裕かであつて、『黎首』といふのは人民全體のことでありますが、人民は至つて安樂であるから、道に物が落ちて居つても拾はないといふほどになつて居ります。從つて『鰥寡無く』──夫を失つたり妻を失つたりして生活に困る者もなく、また銘々の家には毎日の暮しが安樂であるのみならず、後の蓄へも出來るといふやうな有樣であります。これは全くの上の御仁德の致す所であつて、みなが心から感謝するより外はないのであります。斯うなつてもまだ税も出さないし、勞働を以て上のお役に立つといふこともしないで、以前の通りで居つたのでは、御殿はだん々破れるばかりで、天子樣初め皆樣のお住ひになる所もなくなる始末であります。斯ういふことをして居つては天が自分逹をお咎めになるでありませう。あまり御恩を忘れてはならない。これほど御恩を受けて居るのであるから、これに報ゆる爲に、天子樣初め皆樣が安らかにお住ひになるやうにしなければなりませぬ。若し此の際に於て此の御恩に報ゆる事に骨折らないといふことであるならば、天が必ず自分逹に罰を下されるでありませう。それは實に恐れ多いことであります。それであるからどうぞこれは税もお取り下さるやうに、また自分逹が骨折つて御所をも建直しませうといふことを申したのでありますけれども、それでもまだ急にお許しがありませんでした。
解説
この一段は全集版js21には見当たらず、底本の影印(OCR)から新たに文字を起こした。「黎首富饒而不譴(黎首富饒にして譴めず)」「里無鰥寡、家有餘儲」など、句の一部に判読の難しい箇所があり、文字の同定には若干の不確かさが残ることをお断りしておく。内容としては、課役免除から三年を経て宮殿が朽ち果てる一方で民は豊かになり、官民ともにこれを咎めなかったため、天皇はなほ三年、修理の調役を科すことを許さなかったという次第を述べる。次段(kj138)の「十年」に至って、ついに造営が許されることになる。
神治章 百三十八宮室造営と「聖帝」の称底本 下巻 百五十五〜百五十六、百五十八〜百五十九頁
原文
十年冬十月、甫科課役、以構造宮室、於是百姓不令、而扶老携幼、運材負土、不問晝夜、戮力競作、是以未經幾時、而宮室悉成、故於今稱聖帝也。
訓読
十年の冬十月、甫めて課役を科し、以て宮室を構造す。是に於て百姓令せずして、老を扶け幼を携へ、材を運び土を負ひ、晝夜を問はず、力を戮せて競ひ作る。是を以て未だ幾時をも經ずして、宮室悉く成りぬ。故に今に聖帝と稱す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから十年になりまして、初めてみなの心持がそれほどであるならば、これから税も取ることにしよう。また御所をも建直さなければならぬから、此の爲にみなに骨折つて貰はうといふことになりまして、崩れ果てた御所をまたお建直しになることに決定されました。そこで人民は非常に喜んで、どうか一つ自分逹の力を以て此の御恩の萬一にも報ゆる爲に、少しも早く御所を立派にして上げようといふので、誰も命令しないけれども、若い者は勿論のこと、年取つた者も我も々といふので、其の年寄を助けて一緒に引連れ出る。また子供も一緒に働かうと求めるものであるから皆引連れて、そこで皆が喜び勇んで、或は材木を運んだり、『土』といふのは畚のことで、畚の中に土を入れて運んだりして、御所を建てることに手を盡して、夜も骨折つたものでありますから、忽ちにして出來上つて、幾程も經ずして御所が元の通り立派になつたといふことであります。それは凡ての時代に於ける人の上に立つ方のお手本であるといふことで、今日になるまでこれを聖帝と申して、誠に人君たるお手本をお示しになつた方であると、みな其の御德を讃へ合つて居るのであります。
解説
kj137に続く一段で、こちらも全集版js21には見当たらない。「百姓令せずして(誰に命じられたわけでもなく)」「老を扶け幼を携へ」「晝夜を問はず、力を戮せて競ひ作る」――命令によらず国中が我先にと御所の再建に加はつたとする描写は、『日本書紀』仁德紀十年冬十月条によく知られる一節で、「聖帝」という諡(おくりな)にも似た称の由来を語る場面である。前段(kj137)の「忍びて聽かず」(三年間なほ許さなかつた)と対をなし、上(天皇)の徳と下(民)の心が響き合つてはじめて事が成るという、素行・小林の一貫した主題がここに集約されてゐる。
神治章 百三十九仁德天皇の御德と國民の敦厚 ── その十五の結び底本 下巻 百五十九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の事蹟は昔から言ひ傳つて有名なので、彼此れ説明をするにも及びませぬけれども、此の御恩を受け恩に報いなければ、天の咎を得るだらうといふことをみなが思つたといふのは感心なことであります。これは當然のことのやうでありますけれども、どうも人間といふものは恩を受ければ恩に慣れ易く、安樂になれば其の安樂に慣れ易いものでありまして、斯ういふやうに反省をするといふことは實に感心なことと申さなければならぬのであります。併しながらそれも全く上に立つ方の御德の致す所でありまして、上に立つ方が御自分のことを少しもお考へにならぬのでありますから、下の者の風俗人情も斯様に敦くなりまして、みなが本當に頼もしい國民となつたといふことがよく現はれて居るのであります。それで斯ういふ風に上下一致といふことが實現されれば、國が大いに疲弊するのは申すまでもないことであります。人間が誠心を以てして動かない者はないので、幾ら世が末になつても、人間がマルで人間たる分別を失ふといふことはないのでありますから、誠心を以てお互ひが感謝し合ひ、またお互ひが助け合ふといふことであれば、どんな困難の中でも必ず其の困難を越えて行くことの出來る筈であります。此の事は有らゆる事業に從事する人の特に心に掛けて居なければならぬ譯であります。以上、七年より十年に至る仁德天皇と國民との間の御信賴の御事蹟を以て、その十五の結びと致します。次の冊その十六は、底本下巻百六十頁からの謹按「是れ民の産を豐にし、民の力を寛にするの極なり」の一節──全集版js22「一人を以て億兆の父母たり」に相當する箇所──より始める見込みであります。
解説
「上下一致」の語に、素行・小林の政治思想の帰結が示されてゐる。恩を施す者(君)と恩に報いる者(民)とが互ひに誠心を尽くしてこそ國が治まるのであり、どちらか一方のみでは成り立たない。次冊その十六では、この一連の事蹟を承けて素行自身が「謹按」として記す総括(全集版js22相当)へと進む。