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中朝事實 小林一郎 講義 二十九(神教章 その七)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 斟酌の必要、外朝と我れとその致を一にす、王仁の系譜異伝、發展の基礎、俗儒の見 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第二十九冊。神教章の第七分冊(底本 下巻 六十一頁後半〜六十八頁)を収めます。前冊末尾の「和漢同一揆」(『孟子』の「先聖後聖、其の揆一なり」)を承けて、まず小林自身の言葉で外国の学問をどう取捨すべきか──「斟酌の必要」を説き起こし、続けて山鹿素行の謹按「或は疑ふ、外朝は我れに通ぜずして而も文物明かなり」「況んや外朝と我れと其の致を一にす」「或は疑ふ、王仁は徳高くして難波津の詠を為す」の三段に入り、最後に小林独自の敷衍として發展の基礎・王仁の人物・俗儒の見(助長の説話)を説きます。

この冊の読みどころ(一)。「彼と我とは国体が異ひますから、如何に聖賢の教へでも日本の国体に合はないものがある」──小林はまず斟酌(取捨選択)の必要を説き、これが素行の謹按への導入となります。

この冊の読みどころ(二)。素行の謹按は、外朝(支那)に頼って国を発展させたのではないかという疑いに対し「否、開闢より外朝は我れより優ならず」と正面から答へ、それでも外国に学ぶのは「亦寛容ならずや」という度量の大きさゆゑだと説きます。小林本にはこの原文に、全集版(山鹿素行全集)には見えない独自の一節が複数含まれています──「内外相待ちて人物以て成る」「亦我れ足らざる無し」、そして王仁の逸話に付された『古語拾遺』の出典注記、「王仁の才徳は国史に著はれず」という指摘、俗儒批判の一段などです。

この冊の読みどころ(三)。難波津の詠を王仁の作と称へる巷説に対し、素行は「王仁は漢籍に通ずる博士に過ぎない」と釘を刺します。此処から小林は『孟子』の「助長」の故事(苗を引つ張つて枯らした宋人の話)を引いて、徳川時代の儒者達の空疎な議論をも批判する一段へと展開します。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文(山鹿素行全集版の対応節 中朝事実_5.html(sg22・sg23・sg24)と照合して確認しました)、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。なお本冊は神教章の結語(sg25「學は效なり」、火と水の喩)の一歩手前までを収め、章の結びは次冊に続きます。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

斟酌(しんしやく)
事情を汲み取つて程よく取捨すること。ここでは外国の学問のうち何を取り入れ何を退けるかの判断をいう。
古語拾遺(こごしふゐ)
大同二年(八〇七)斎部広成の撰。忌部氏に伝はる祭祀の故実を記した書。阿知使主・王仁が官物の出納を記録したとの記事が見えるとされる。
助長(じよちやう)
『孟子』公孫丑上に見える故事。苗の生長の遅いのを気にした宋人が苗を引つ張つて伸ばしたところ、苗はみな枯れてしまつたという話。無理に力を添へることがかへつて害になる譬へ。
勘合(かんがふ)
勘合貿易の勘合。ここでは隣国との公式な交はり・貿易が絶えたことを指す。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
應神天皇(おうじんてんわう)
第十五代天皇。譽田天皇とも申す。阿直岐・王仁を召して典籍を伝へさせたと伝はる。
仁德天皇(にんとくてんわう)
第十六代天皇。難波高津宮に都す。難波津の詠は其の御即位を寿いだ歌と伝はる。
王仁(わに)
百済より渡来したと伝はる学者。応神天皇十六年に来朝し、菟道稚郎子の師となつたと伝はる。難波津の詠の作者と伝へられるが、素行はこれに懐疑的である。

神教章 五十一斟酌の必要底本 下巻 六十一頁(後半)
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
併しながら彼(支那)と我(日本)とは国体が異ひますから、如何に聖賢の教へでも、其の中には日本の国体に合はないものがあります。それでこれを斟酌するといふことが必要なのでありまして、卽ち取るべきものは取るし、捨つべきものは捨てゝ、日本に役に立つ所だけを実行するといふことが肝要なのであります。歴代の天皇が特に深く意を用ひて支那のものを学びますれば、何れも此の国を盛んにする補助とすることが出来るのであります。更に考へますと、応神天皇は「己を虚しうして」百済の博士をお招きになつたのでありまして、日本は既に盛んになつたと誇るといふお心持は少しもなく、尚ほ良きが上にも良くしたいといふ深い思召から、斯ういふことをなされたのであります。

解説
前冊末尾(kg50)の「和漢同一揆」を承けて、本冊の主題「斟酌」を提示する導入部。外国に学ぶことと、日本の国体を保つこととは矛盾しない──取るべきは取り、捨つべきは捨てるという実際的な態度が、続く素行の謹按への布石となる。

神教章 五十二謹按 ── 外朝は我れに優るか底本 下巻 六十一頁(後半)〜六十二頁
原文
或疑。外朝不通我。而文物明。我因外朝。而廣其用。愚按。否。自開闢。神聖之德行。明敏無兼備。雖不知漢籍。亦更無一介之闕。幸通外朝之事。取其所長。以輔王化。不亦寛容乎。何唯外朝而已。凡天下之間。詳知並畜。校短考長。待用無遺。従事是適。量之大也。内外相待。人物以成。若護短拒外。非君子所爲。

訓読
あるひうたがふ、外朝ぐわいてうれにつうぜずしてしか文物ぶんぶつあきらかなり。れは外朝ぐわいてうりてようひろくすと。あんずるに、いな開闢かいびやくより、神聖しんせい德行とくかう明敏めいびんそなはらざるはく、漢籍かんせきらずといへども、またさら一介いつかいくるものし。さいはひ外朝ぐわいてうことつうじ、ちやうずるところりてもつ王化わうくわたすく、また寛容くわんようならずや。なん外朝ぐわいてうのみならんや。およ天下てんかあひだつまびらかにならたくはへ、たんくらちやうかんがへ、ようちてのこすことく、ことしたがひてこれかなふ、りやうだいなるなり。内外ないぐわい相待あひまちて、人物じんぶつもつる。まもるをこばむがごときは、君子くんしところあらず。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ある人は疑って言う。「外朝(支那)は我が国のことに通じていなかったのに、文物はみな明らかにここから来た。我が国は外朝によってその用を広げたのではないか」と。わたしが考えるに、否である。開闢このかた、神聖の徳行は明敏でどこにも欠けたところがなく、漢籍を知らなかったといっても、それでも何ひとつ欠けるところはなかった。幸いに外朝の事に通じて、そのすぐれたところを取り、王化を助ける。なんと寛容なことではないか。どうして外朝だけに限ろうか。天下のあいだのことを詳しく知り併せ蓄え、短いところと長いところを比べ、用いるときのために取っておく。事に応じてそれにかなうようにする、これが度量の大きさである。内外が互いに支え合ってこそ、人も物事も成り立つ。守るべきを拒むようなことは、君子のすることではない。

解説
全集版(sg22)とほぼ同内容だが、小林本には字句の異同と加筆がある。全集版の「王仁不通我」が小林本では「外朝不通我」と一般化され、「用于天下之閒」が「輔王化」となる。さらに「内外相待。人物以成。若護短拒外。非君子所爲。」の一節は全集版には見えない、小林本独自の加筆である。単に外朝と我れとの長短を比較するだけでなく、「内外相い待ちて人物成る」という相互性を最後に強調する点が特色である。

神教章 五十三外朝と我れとその致を一にす底本 下巻 六十二頁
原文
況外朝與我一其致。而其歴世尤久。其封域太廣。其人物衆多。政事損益也。足以共觀之乎。是所以中州之冠八紘也。後世勘合絶。不脩鄰交之好。亦我無不足。可幷考也。

訓読
いはんや外朝ぐわいてうれといつにして、しか歴世れきせいもつとひさしく、封域はういきはなはひろく、人物じんぶつ衆多しゆうたなる、政事せいじ損益そんえきや、とももつこれるにるをや。中州ちうしう八紘はつくわうかんたる所以ゆゑんなり。後世こうせい勘合かんがふえて鄰交りんかうよしみをさめざるも、またらざるし。あはかんがふべきなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
まして外朝と我が国とは向かうところを同じくしていて、しかもかの国は歴代の世がきわめて久しく、領域はたいへん広く、人物も数多く、政治の増減得失を、ともに見てとるのに十分である。これこそ中州が天下に冠たる理由である。後の世に勘合貿易が絶えて隣国との交わりを修めなくなったとしても、それでも我が国に何ひとつ足りないところはない。そのこともあわせて考えるべきである。

解説
全集版(sg23)とほぼ同内容だが、末尾に「亦我無不足」の一句が加はる。全集版は交はりの断絶を惜しむ調子で結ぶが、小林本はそこに「それでも我が国は何ひとつ不足しない」という一句を添へ、対外交流の価値を認めつつも自足の精神を最後に念押ししている。素行の基本姿勢──外朝に学ぶことと、日本が本来何ひとつ欠けていないこととは矛盾しないという立場──がここでも一貫している。

神教章 五十四王仁の系譜異伝ふたたび ── 古語拾遺と俗儒批判底本 下巻 六十二〜六十三頁
原文
或疑。王仁德高。且善於毛詩。故爲難波津之詠。遂以成仁德帝之聖。愚按。否。王仁者通漢籍之博士也。此時人未通漢字。故造端於彼而已。後令阿知使主與王仁。記官物之出納。──見古語拾遺。──則其職掌可知也。難波帝者。古今以爲聖帝。王仁之才德不著于國史。野無遺賢。朝無謬擧。王仁德寛仁之明主。食祿唯爲文首。則可恥之至也。俗學末儒蔑中國。以信外邦。是貴耳賤目之徒。附益助長之弊也。

訓読
あるひうたがふ、王仁わにとくたかくして毛詩まうしくす。ゆゑ難波津なにはづうたつくり、つひもつ仁德帝にんとくていせいすと。あんずるに、いな王仁わに漢籍かんせきつうずるの博士はかせなり。ときひといま漢字かんじつうぜず、ゆゑたんかれせしのみ。のち阿知使主あちのおみ王仁わにとをして官物くわんもつ出納しゆつなふしるさしむ。──古語拾遺こごしふゐゆ。──すなは職掌しよくしやうるべきのみ。難波帝なにはていは、古今ここん聖帝せいていす。王仁わに才德さいとく國史こくしあらはれず、遺賢ゐけんなく、てう謬擧びうきよなし。王仁わに寛仁くわんじん明主めいしゆにして、食祿しよくろく文首ふみのおびとたり。すなははぢづべきのいたりなり。俗學末儒ぞくがくまつじゆ中國ちうごくなみろにしてもつ外邦ぐわいはうしんず。みみたふといやしむの附益助長ふえきぢよちやうへいなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ある人は疑って言う。「王仁は徳が高く、しかも『詩經』を修めた。だから難波津の詠を作り、ついに仁徳天皇の聖徳をなさしめたのだ」と。わたしが考えるに、否である。王仁は漢籍に通じた博士にすぎない。この時はまだ人々が漢字に通じていなかったので、そのきっかけを彼に作らせたにすぎない。後に阿知使主と王仁とに官の物の出納を記録させた──『古語拾遺』に見える──ことからすれば、その職掌がどのようなものであったかは知れる。難波の帝(仁徳天皇)は、古今ともに聖帝とされる。王仁の才徳は国史には著されておらず、野に遺れた賢者もなく、朝廷に誤った登用もなかった。王仁は寛仁の明主であって、俸禄はただ文書役の首座であったにすぎない。ならば恥じるべきことの極みである。俗な学問をする浅はかな儒者が日本を蔑ろにして外国を信じ込むのは、耳で聞いたことを貴び目で見たことを賤しむ徒であり、これはかの「助長」の弊害そのものである。

解説
全集版(sg24)とほぼ同内容だが、小林本にはここに三つの独自の加筆がある。第一に「──見古語拾遺──」という出典注記。第二に「王仁之才德不著于國史」──王仁の才徳は正史に記録されていないという指摘。第三に「俗學末儒蔑中國以信外邦是貴耳賤目之徒。附益助長之弊也。」──俗な儒者が日本を軽んじて外国を信じ込むことを「助長」の弊害と断じる一句である。「助長」とは『孟子』公孫丑上に見える故事──苗の生長を助けようとして引つ張り、かへつて枯らしてしまつた宋人の話──に由来する。小林はこの故事を次段(kg57)で自ら敷衍して説明している。

神教章 五十五發展の基礎 ── 和漢の優劣底本 下巻 六十四〜六十五頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
或る人はまた別の説をなして、支那は日本と交通をしなくても支那だけでだんゞ盛んになつて学問も技藝も発達した、然るに我が国は朝鮮・支那と交通したお蔭で学問も技藝も伝はつて国を盛んにする助けとなつた、さう考へて見ると支那の方が日本より勝れて居る国と言つて宜しい、といふ意見を立てる者がありますが、素行が考へますにそれは全く間違つて居ります。一体我が国は開闢以来、上に立つ方のお徳が普く行き亘り、また上より賜つたお教へを皆がよく守つて参りましたので、別に外国と交通をしなくても国はますゝ発展して行つたのであります。漢籍を知らなくても些かも欠けるところがなかつた。幸に外国の事にも通じて其の長所を取り、王化を輔けるといふことは、寛容の道であつて、独り外国の学問を伝へるといふことばかりでなく、何事でも学んで宜いことは学ぶのが人間として最も大切な事であります。さうして「短を校べ長を考へ」──良い所と悪い所とがあるから、悪い事は止めて良い方を伸ばして行く、これが人物といふものを成り立たせる道であります。まして支那は歴代の世も久しく、領域も広く、人物も多く、政治の得失を見るにも十分な材料がある。後の世に勘合貿易が絶えて交はりを修めなくなつたことも、惜しむべきことであります。

解説
前段(kg52kg53)の謹按を、小林が「和漢の優劣」という誰もが抱きさうな疑問の形で説き直す一段。「支那の方が交通なしに発展したのだから支那の方が勝れて居る」という俗説を紹介したうえで、これを退けるのが眼目である。日本の発展の基礎はあくまで神代以来の徳と教へにあり、外国の学問はそれを補ふものに過ぎない、という位置づけが繰り返し確認される。

神教章 五十六王仁の人物 ── 難波津の詠と文首底本 下巻 六十六〜六十七頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
王仁は難波津の詠を作つて仁徳天皇の御即位を寿いだと世に伝はつて居ります。「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」──此の歌は『古今和歌集』の仮名序にも「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける」とあつて、古くから王仁の作と言ひ伝へられて参りました。それで王仁は徳の高い人物で、しかも『詩経』にも通じて居つたから、斯ういふ立派な歌をも作り、遂に仁徳天皇の御聖徳を成し遂げさせ申したのだ、と申す者があります。然るに素行はこれに対して、王仁はもと漢籍に通ずる博士に過ぎない、と釘を刺します。当時の日本人はまだ漢字といふものに通じて居りませんでしたから、其の端緒を王仁に開かせたまでのことであります。其の証拠に、後に阿知使主と王仁とをして官の物の出納を記録させたと『古語拾遺』に見えて居ります。出納の記録といふのは、今で申せば帳簿係のやうな実務でありまして、其の職掌の実体はこゝに知られるのであります。難波の帝(仁徳天皇)は古今を通じて聖帝と称せられる御方でありますが、其の御聖徳は王仁の才によつて作られたものではなく、御自身の御徳によるものであつたことは国史にも著はれて居りません。

解説
前段(kg54)の謹按「王仁德高。且善於毛詩。故爲難波津之詠。」を、小林が難波津の詠の伝承と『古今和歌集』仮名序の記述を補ひながら説き直す一段。王仁への過大評価に釘を刺す素行の論法──職掌の実務(出納の記録)から人物像を推し量る──が、より具体的な例とともに敷衍される。

神教章 五十七俗儒の見 ── 助長の説話底本 下巻 六十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
王仁を持ち上げるあまり難波の帝の御聖徳まで王仁のお蔭であるかのやうに言ふのは、俗な見方と申さねばなりませぬ。素行はこれを「附益助長」の弊であると断じます。「助長」といふ言葉は『孟子』の中にある故事でありまして、或る農夫が自分の植ゑた苗の生長の遅いのを気にして、苗を引つ張つて伸ばしてやつたところ、家に帰つて「今日は疲れた、苗の生長を助けてやつたのだ」と喜んで居りましたが、其の子が畑に見に行くと苗はみな枯れてしまつて居つた、といふ話であります。何でも無理に力を添へるといふことは、結局害の方が多いといふので、これを「助けて長ずる」と申しまして、後の人の戒めとして居るのであります。此の故事に照らして見ますと、要らないことに力を用ゐるのは俗儒の見であり、無理に力を添へるといふことは結局害が多いといふことが解ります。此の議論は頗る適切なもので、徳川時代の儒教の盛んであつた時代には、斯ういふ無益な議論に耽つて、多くの事を知つて居るらしく見せかけて実は役に立たない議論をして居る者が随分多かつたのであります。斯ういふ過ちに陥らないやうにと戒めたことは、洵に素行の卓見と申して宜しいのであります。

解説
前段(kg54)末尾の「附益助長之弊也」を、小林が『孟子』公孫丑上の「助長」の説話そのものを引いて説き明かす一段。俗儒批判は徳川時代の儒者への批判にも及び、「多くの事を知つて居るらしく見せかけて実は役に立たない議論をして居る」という一句には、小林自身の実学志向が窺へる。次冊にて素行自身の謹按「學は效なり」(火と水の喩)に至り、神教章はここに完結する。