神治章 一吾が子孫の王たるべきの地なり
原文
天照大神勅皇孫曰、葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也、宜爾皇孫就而治焉、行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣、
一書曰、大己貴命與少彦名命戮力一心、經營天下、
訓読
天照大神皇孫に勅して曰はく、葦原千五百秋の瑞穗國は、これ吾が子孫の王たるべきの地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行せ。寶祚の隆えまさんこと、當に天壤と窮まりなかるべしと。
一書に曰く、大己貴命と少彦名命と力を戮せ心を一にして、天下を經營す。
現代語訳
天照大神が皇孫に仰せられた。「葦原の千五百秋の瑞穗國は、これはわが子孫が王として治めるべき地である。そなた皇孫よ、行って治めなさい。さあ行きなさい。皇位が栄えることは、まさしく天地とともに窮まりないであろう」。
一書にはこうある。大己貴命と少彦名命とは力を合わせ心を一つにして、天下を経営した。
解説
皇統章では「継承」の証として読まれた天壤無窮の神勅が、ここでは「就きて治せ」という命令の側から読まれる。位を授かることと、実際に治めることとは別である。そしてすぐ、二神が「力を戮せ心を一にして」経営した記事が並べられる。統治は一人の仕事ではない――これが神治章の出発点である。
神治章 二吾等が造れる國は善く成せりや
原文
一書曰、大己貴命與少彦名命、經營天下、曰、吾等所造之國、豈謂善成之乎、少彦名命對曰、或有所成、或有不成、是談也蓋有幽深之趣焉、
其後少彦名命、行至熊野之御崎、遂適於常世鄉矣、大己貴神獨言曰、吾一身而已、何能治此國乎、
訓読
一書に曰く、大己貴命と少彦名命と天下を經營して曰はく、吾等が造れる國は豈善く成せりと謂はんかと。少彦名命對へて曰はく、或は成せるところもあり、或は成さざるところもありと。この談や、蓋し幽深の趣あり。
その後少彦名命、行きて熊野の御崎に至り、遂に常世鄉に適きたまへり。大己貴神獨り言ひて曰はく、吾れ一身のみ。何ぞ能くこの國を治めんやと。
現代語訳
一書にはこうある。大己貴命と少彦名命とが天下を経営して言われた。「われらが造った国は、よくできあがったといえるだろうか」。少彦名命が答えて言われた。「できあがったところもあり、まだできあがっていないところもあります」。この問答には、思うに深く幽かな趣がある。
その後、少彦名命は行って熊野の御崎に至り、ついに常世の国へ去られた。大己貴神はひとり言って嘆かれた。「わたし一人だけである。どうしてこの国を治められようか」。
解説
素行が「幽深の趣あり」と書き添えた問答である。「善く成せりや」に対する答えが「或は成り、或は成らず」――事業は完成しない、というのが神みずからの答えなのである。しかも相棒は去り、大己貴神は「吾れ一身のみ」と嘆く。統治とは、終わらない仕事を、欠けた体制で続けることだという認識が、章の冒頭に据えられている。
神治章 三吾は汝の幸魂奇魂なり
原文
是時神光照海、忽然有浮來者、曰、如吾不在者、汝何能平此國乎、由吾在故、汝得建其大造之績矣、大己貴神問曰、然則汝是誰耶、對曰、吾是汝之幸魂奇魂也、大己貴神曰、唯然、迺知汝是吾之幸魂奇魂、今欲何處住耶、對曰、吾欲住於日本國之三諸山、故即營宮彼處、使就而居、此大三輪之神也、
訓読
この時神光海を照らし、忽然として浮かび來る者あり。曰く、如し吾れ在らずんば、汝何ぞ能くこの國を平げんや。吾れ在るに由るが故に、汝その大造の績を建つることを得たりと。大己貴神問ひて曰はく、然らば則ち汝は是れ誰ぞやと。對へて曰く、吾れは是れ汝の幸魂奇魂なりと。大己貴神曰はく、唯、然なり。迺ち汝は是れ吾が幸魂奇魂なりと知りぬ。今何れの處にか住まんと欲ふやと。對へて曰く、吾れは日本國の三諸山に住まんと欲ふと。故に即ち宮を彼の處に營りて、就きて居らしむ。此れ大三輪の神なり。
現代語訳
このとき神々しい光が海を照らし、たちまち浮かんで来るものがあった。「もしわたしがいなかったら、そなたはどうしてこの国を平定できただろうか。わたしがいたからこそ、そなたはその大いなる造化の功績を建てることができたのだ」。大己貴神が問われた。「それならば、そなたはいったい誰なのか」。答えて言った。「わたしはそなたの幸魂・奇魂である」。大己貴神は言われた。「なるほど、そのとおりだ。そなたがわたしの幸魂・奇魂であると分かった。今どこに住みたいと思うか」。答えて言った。「わたしは日本國の三諸山に住みたい」。そこで宮をその地に造って、そこに居させた。これが大三輪の神である。
解説
相棒を失って「吾れ一身のみ」と嘆いた大己貴神のもとに現れたのは、ほかならぬ自分自身のはたらきだった。「吾は汝の幸魂奇魂なり」――外から助けが来たのではなく、自分の内にあったものが姿を現したのである。前節の絶望と対をなす、美しい一段である。
神治章 四是れ天神治道の始なり
原文
謹按、是天神治道之始也、與天壤無窮五字、寶祚以覆物而載之、夫天地至誠無息、悠遠博厚而覆載萬物、君子以自彊、以厚德、往往而無窮、
訓読
謹みて按ずるに、是れ天神治道の始なり。與天壤無しの窮まりの五字は、寶祚を以て物を覆ひてこれを載す。夫れ天地は至誠息むなく、悠遠博厚にして萬物を覆載す。君子これを以て自ら彊め、以て德を厚くし、往往として窮まりなし。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが天神における統治の道のはじめである。「天壤と窮まりなかるべし」というこの五字は、皇位によって万物を覆いこれを載せるということである。そもそも天地は至誠が止むことなく、はるかに遠くひろく厚くして万物を覆い載せる。君子はこれにならって自らつとめて励み、徳を厚くし、行くところ窮まりがない。
解説
「天壤無窮」を、素行はここで覆載(ふさい)――天が覆い地が載せるはたらき――として読む。皇位が窮まりないというのは、永く続くという時間の話ではなく、万物を覆い載せつづけるという責務の話なのである。天先章から続く「至誠息まず」が、統治の文脈に置き直されている。
神治章 五盈を虧きて謙に益す
原文
天道虧盈而益謙、地道變盈而流謙、鬼神害盈而福謙、人道惡盈而好謙、故盈必有所失、升而不已必困、亦是謙德之所以保其終也、大己貴命少彦名命共言之所謂謙乎、然乃聖主法乾坤之德、以御四海、則治教之道亦無窮矣、
訓読
天道は盈を虧きて謙に益し、地道は盈を變じて謙に流き、鬼神は盈を害ひて謙に福し、人道は盈を惡みて謙を好む。故に盈つれば必ず失ふところあり、升りて已まざれば必ず困しむ。亦是れ謙德のその終を保つ所以なり。大己貴命・少彦名命の共に言ふところ、所謂謙か。然らば乃ち聖主は乾坤の德に法りて、以て四海を御すれば、則ち治教の道も亦窮まりなし。
現代語訳
天の道は満ちたものを欠けさせて、へりくだるものに益を加え、地の道は満ちたものを変じてへりくだるほうへ流し、鬼神は満ちたものを損なってへりくだるものに幸いし、人の道は満ちたものを憎んでへりくだるものを好む。だから満ちれば必ず失うところがあり、昇りつづけて止まなければ必ず苦しむ。これもまた謙の徳がその終わりを保つ理由である。大己貴命と少彦名命とがともに語られたことばこそ、いわゆる謙ではないだろうか。とすれば聖なる君主が天地の徳にのっとって四海を治めるならば、統治と教化の道もまた窮まりがない。
解説
『易』謙卦の四句を引いて、第二節の「或は成り、或は成らず」を「謙」と読み解く。できあがったと言い切らなかったこと、それ自体が謙の徳だというのである。そして「盈つれば必ず失ふところあり、升りて已まざれば必ず困しむ」――充実の絶頂こそ危うい。統治論の冒頭にこの警告が置かれているのが、この章の性格をよく表している。
神治章 六人皇中國を定め、極を建てて治道を諭するの始
原文
神武帝己未年、春三月辛酉朔、丁卯、下令曰、自我東征、於茲六年矣、賴以皇天之威、凶徒就戮、雖邊土未淸、餘妖尙梗、而中洲之地無復風塵、誠宜恢廓皇都、規摹大壯、而今運屬此屯蒙、民心朴素、巢栖穴住、習俗惟常、夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造、且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元、上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心、然後兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎、
謹按、是人皇定中國建極、而諭治道之始也、
訓読
神武帝の己未の年、春三月辛酉の朔、丁卯、令を下して曰はく、我れ東を征ちしより、ここに六年なり。皇天の威に賴りて以て、凶徒戮に就きぬ。邊土未だ淸まらず、餘妖尙ほ梗がると雖も、中洲の地は復た風塵なし。誠に宜しく皇都を恢廓し、規摹大壯にすべし。而るに今運はこの屯蒙に屬ひ、民心朴素にして、巢に栖み穴に住み、習俗惟れ常なり。夫れ大人制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民に利あらば、何ぞ聖造に妨げあらん。且つ當に山林を披き拂ひ、宮室を經營りて、恭みて寶位に臨み、以て元元を鎭むべし。上は則ち乾靈の國を授けたまふの德に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふの心を弘めん。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲さんこと、亦可ならずや。
謹みて按ずるに、是れ人皇中國を定め極を建てて、治道を諭すの始なり。
現代語訳
神武天皇の己未の年、春三月辛酉の朔、丁卯の日、令を下して言われた。「わたしが東を討ってから、ここに六年になる。皇天の威に頼って、凶徒は誅に服した。辺境はまだ清まらず、残りの妖しき者どもがなお塞いでいるとはいえ、中洲の地にはもう戦塵がない。まことに皇都を大きくひらき、規模を壮大にすべきである。しかし今、時運はこの未明のさなかにあたり、民の心は素朴で、巣に棲み穴に住み、習俗はそのままである。そもそも大人が制度を立てるにあたっては、その筋道は必ず時に従う。かりにも民に利があるならば、聖なる造営に何の妨げがあろうか。しかも山林を切りひらき、宮室を営んで、つつしんで宝位に臨み、それによって民を安んずべきである。上は天の神が国を授けられた徳に応え、下は皇孫が正しさを養われた心を広めよう。そうしたのちに六合を兼ねて都を開き、八紘を覆って一つの家とすることも、またよいことではないか」。
つつしんで考えてみるに、これが人皇が中國を定め極を建てて、統治の道を諭したはじめである。
解説
中國章では「壞區」の二字に注目して引かれた同じ詔を、ここでは制度論として読む。素行が拾うのは「大人制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民に利あらば、何ぞ聖造に妨げあらん」の一句である。制度は時に従って変わってよい、判定の基準は民の利にある――以下の封建・郡縣の議論を貫く原則が、ここで宣言されている。
神治章 七大人と聖人 ── 禮樂刑政は義に隨ひて損益す
原文
大人者、聖人在位之稱也、大人立制者、禮樂刑政之制也、義者、損益沿革之道也、利民者、品節其道也、蓋天下之治、必有時、不知時則不利、天祖皇孫所建之道也、天祖皇孫永悠之際、土宇既定、天下大治、雖非大人之道、運在洪荒、唯待帝系開興之時而已、帝勃起而經綸之初、中州當此時正品節之也、民利之樂、樂而利之者也、
訓読
大人は聖人位に在るの稱なり。大人制を立つとは、禮樂刑政の制なり。義は損益沿革の道なり。民を利すとは、その道を品節するなり。蓋し天下の治は必ず時あり、時を知らざれば則ち利せず。天祖皇孫の建てたまふところの道なり。天祖皇孫永悠の際、土宇既に定まり、天下大いに治まると雖も、大人の道にあらず。運は洪荒に在りて、唯だ帝系開興の時を待ちたまふのみ。帝勃として起こりてこれを經綸するの初、中州この時に當りて正にこれを品節す。民これを利として樂しむは、樂しみて而もこれを利する者なり。
現代語訳
「大人」とは、聖人が位にあることをいう名である。「大人が制を立つ」とは、礼楽と刑政の制度のことである。「義」とは、増減し改めてゆく道である。「民を利す」とは、その道に区切りをつけ程度をはかることである。思うに天下の治まりには必ず時というものがあり、時を知らなければ利にならない。これが天祖・皇孫の建てられた道である。天祖・皇孫の永く久しい時代には、国土はすでに定まり天下は大いに治まっていたけれども、それはまだ「大人の道」ではなかった。時運はまだ荒れたなかにあって、ただ帝統がひらけ興る時を待っておられたのである。天皇が勃然と起こってこれを経営しはじめたそのとき、中州はまさにこれに区切りをつけ程度を定めた。民がこれを利として楽しむというのは、楽しみながらそれが利になっているということである。
解説
前節の詔にある「大人立制」「義必隨時」「苟有利民」の三語が、ここで一つずつ定義される。制度=礼楽刑政/義=損益沿革(改廃)/利民=品節(程度をはかること)。とくに「義は損益沿革の道なり」が重い。正しさとは、変えないことではなく、時に応じて増減し改めることだと言い切っている。
神治章 八天下を公にするの詔
原文
崇神帝四年、冬十月庚申朔、壬午、詔曰、惟我皇祖諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎、蓋所以司牧人神、經綸天下、故能世闡玄功、時流至德、今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚、其群卿百寮、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎、
訓読
崇神帝の四年、冬十月庚申の朔、壬午、詔して曰はく、惟れ我が皇祖諸の天皇等、宸極に光臨したまふは、豈一身の爲ならんや。蓋し人神を司牧し、天下を經綸する所以なり。故に能く世に玄功を闡き、時に至德を流く。今朕大運を奉承し、黎元を愛育す。何ぞ當に皇祖の跡を聿べ遵ひて、永く無窮の祚を保たざらんや。それ群卿百寮、爾の忠貞を竭くして、共に天下を安んずること、亦可ならずや。
現代語訳
崇神天皇四年、冬十月庚申の朔、壬午の日、詔して言われた。「わが皇祖である歴代の天皇たちが、天子の位に臨まれたのは、どうしてご自身一身のためであろうか。思うに人と神とを司り養い、天下を経営するためである。だからこそよく世に奥深い功をひらき、時に至徳を行きわたらせた。いま朕は大いなる時運を承け、民を愛しみ育てている。どうして皇祖の事跡を述べ従って、永く窮まりない皇位を保たずにいられようか。そなたたち群卿と百官よ、その忠誠を尽くして、ともに天下を安んじようではないか」。
解説
「豈一身の爲ならんや」――皇統章の結語「天下は神器なり、豈二人の私を存せんや」と正面から響き合う一句である。位は私のものではない。だから群臣に「共に天下を安んぜん」と呼びかける。次節の按語は、この「公」と「私」の対比を人君論として展開してゆく。
神治章 九人君に三大寶あり
原文
謹按、人君有三大寶、則天災害並起、無窮之祚、帝恆立乎、蓋人君之治道、在公私之間、苟大寶爲公、則帝之德興、大寶爲私、則災害並起、故以一身奉之者、宴安之心狂、以四海爲公者、群臣諤諤之諫、殆在公私之間、而其濁流至四海之困窮、貴者是天子、富者有四海、宴安之心狂、聚色之耳目驟替、當此時、群臣諤諤之諫不因、則其淫殆卓爾、
訓読
謹みて按ずるに、人君に三大寶あり。則ち天災害を並び起こす。無窮の祚、帝恆に立つや。蓋し人君の治道は、公私の間に在り。苟くも大寶を公と爲せば、則ち帝の德興る。大寶を私と爲せば、則ち災害並び起こる。故に一身を以てこれを奉ずる者は、宴安の心狂ふ。四海を以て公と爲す者は、群臣諤諤の諫あり。貴きことは是れ天子なり、富むことは四海を有つ。宴安の心狂ひ、聚色の耳目驟かに替る。この時に當りて、群臣諤諤の諫に因らずんば、則ちその淫殆ど卓爾たらん。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、君主には三つの大いなる宝がある。それを誤れば天は災害を次々に起こす。窮まりない皇位に、天皇は常に立ちつづけられるだろうか。思うに君主の統治の道は、公と私とのあいだにある。かりにも大いなる宝を公のものとするなら、天皇の徳は興る。大いなる宝を私のものとするなら、災害が次々に起こる。だから一身のためにこれを奉ずる者は、安逸の心に狂う。四海を公のものとする者には、群臣の直言の諫めがある。貴いことでは天子であり、富むことでは四海を保つ。安逸の心が狂い、色に集まる耳目がにわかに移り変わる。このときに、群臣の直言の諫めによらなければ、その乱れはきわだったものになるだろう。
解説
位の高さと富の大きさそのものが危険なのだ、という認識である。「貴きことは天子なり、富むことは四海を有つ」――だからこそ安逸に狂う。それを止めるものは何か。制度ではなく群臣の諤諤の諫である。神教章第十三節「言路何ぞ通ぜんや」がここに接続し、諫言が統治機構の一部として位置づけられる。
神治章 十封建の義 ── 八十萬神を天高市に合む
原文
高皇産靈尊乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至、高皇産靈尊勅大物主神曰、汝若以國神爲妻、吾猶謂汝有疏心、故今以吾女三穗津姫、配汝爲妻、宜領八十萬神、永爲皇孫奉護、乃使還降之、
謹按、是命封建之義也、大物主神其子凡有一百八十一神、以經營天下、百姓大蒙其恩顧、故天神降臨、飾八十萬神、以昇天、其功甚大也、皇孫之藩屏、是爲大盛、此國也、
訓読
高皇産靈尊乃ち八十萬神を天高市に合め、帥ゐて以て天に昇り、その誠款の至りを陳ぶ。高皇産靈尊大物主神に勅して曰はく、汝若し國神を以て妻と爲さば、吾れ猶ほ汝に疏心ありと謂はん。故に今吾が女三穗津姫を以て、汝に配せて妻と爲す。宜しく八十萬神を領べて、永く皇孫の爲に奉護すべしと。乃ち還し降らしむ。
謹みて按ずるに、是れ封建の義を命ずるなり。大物主神その子凡て一百八十一神あり、以て天下を經營す。百姓大いにその恩顧を蒙る。故に天神降臨し、八十萬神を飾りて以て天に昇る。その功甚だ大なり。皇孫の藩屏、是れ大いに盛と爲る。この國なり。
現代語訳
高皇産靈尊は八十萬の神々を天高市に集め、率いて天に昇り、まごころの限りを述べられた。高皇産靈尊は大物主神に仰せられた。「そなたがもし国つ神を妻とするならば、わたしはなおそなたに隔てる心があると思うだろう。だから今わが娘の三穗津姫を、そなたに配して妻とする。八十萬の神々を領して、永く皇孫のために守護せよ」。そうして還し降された。
つつしんで考えてみるに、これが封建の義を命じたということである。大物主神にはその子があわせて百八十一神あって、天下を経営した。民は大いにその恩顧をこうむった。だから天神が降臨し、八十萬の神々を装わせて天に昇った。その功はきわめて大きい。皇孫の藩屏は、これによって大いに盛んになった。それがこの国である。
解説
ここから章の第二部、封建と郡縣の議論が始まる。素行は封建の起源を、高皇産靈尊が大物主神に八十萬神を領させた場面に置く。注目したいのは、そこに婚姻が伴っていることである。娘を妻として与えることで隔ての心を除く――封建とは、土地の分与である以前に信頼をどう作るかの制度だという理解がある。
神治章 十一人皇封建の始 ── 彦狹嶋王
原文
景行帝四年、封七十餘子皆爲國郡、各如其國、故今時謂諸國之別者、即其別王之苗裔焉、五十五年、春二月戊子朔、壬辰、以彦狹嶋王拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也、然早世之、不得向任所、故東國不得治焉、五十六年、秋八月、詔御諸別王曰、汝父彦狹嶋王、不得向任所而早薨、故汝專領東國、於是御諸別王承天皇之命、且欲成父業、則行治之、早得善政、
謹按、是人皇封建之始也、封宗子以護王室、乃治道之要也、彦狹嶋王拜東山道都督者、乃東方之伯也、此時有封建方伯之制、以藩屏維中國也、
訓読
景行帝の四年、七十餘子を封じて皆國郡と爲し、各その國に如かしむ。故に今の時諸國の別と謂ふは、即ちその別王の苗裔なり。五十五年、春二月戊子の朔、壬辰、彦狹嶋王を以て東山道十五國の都督に拜く。これ豐城命の孫なり。然れども早く世を去りて、任所に向ふことを得ず。故に東國治むることを得ず。五十六年、秋八月、御諸別王に詔して曰はく、汝が父彦狹嶋王、任所に向ふことを得ずして早く薨りぬ。故に汝專ら東國を領べよと。ここに於いて御諸別王天皇の命を承け、且つ父の業を成さんと欲して、則ち行きてこれを治め、早く善政を得たり。
謹みて按ずるに、是れ人皇封建の始なり。宗子を封じて以て王室を護るは、乃ち治道の要なり。彦狹嶋王を東山道の都督に拜くるは、乃ち東方の伯なり。この時方伯を封建するの制ありて、以て中國を藩屏し維ぐなり。
現代語訳
景行天皇四年、七十余人の皇子を封じてみな国郡とし、それぞれその国へ行かせられた。だから今、諸国の「別(わけ)」というのは、その別王の子孫である。五十五年、春二月戊子の朔、壬辰の日、彦狹嶋王を東山道十五国の都督に任じられた。これは豐城命の孫である。しかし早く世を去って、任地に赴くことができなかった。そのため東国は治まらなかった。五十六年、秋八月、御諸別王に詔して言われた。「そなたの父である彦狹嶋王は、任地に赴けないまま早く亡くなった。だからそなたがもっぱら東国を領せよ」。そこで御諸別王は天皇の命を承け、また父の事業を成しとげようとして、行ってこれを治め、早くに善政を挙げた。
つつしんで考えてみるに、これが人皇における封建のはじめである。一族の子を封じて王室を守らせるのは、統治の道の要である。彦狹嶋王を東山道の都督に任じたのは、東方の伯(地方長官)である。このとき方伯を封建する制度があって、それによって中國を守り支えたのである。
解説
皇子を各地に封じるという、素朴な形の封建である。「別(わけ)」という氏姓の由来をここに求めているのが面白い。そして彦狹嶋王が赴任前に亡くなり、東国が治まらず、子が引き継いでようやく善政を得た――という失敗と継承の経緯を、素行はここでも省かない。
神治章 十二國造・縣主 ── 郡縣の始め
原文
成務帝四年、春二月丙寅朔、詔曰、我先皇大足彦天皇、聰明神武、應天受圖、治天順人、伐賊撥正、德覆蒼生、道協玄化、今朕嗣寶祚、夙夜兢惕、然黎元蠢爾、猶懷野心、何則國郡無君長、縣邑無首渠、自今以後、令諸國立造長、以國郡立稻置、並取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之藩屏也、
五年、秋九月、隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里、因以東西爲日縱、南北爲日橫、山陽曰影面、山陰曰背面、
先人曰、國造乃國司之名也、後改曰守、
訓読
成務帝の四年、春二月丙寅の朔、詔して曰はく、我が先皇大足彦天皇は、聰明神武にして、天に應じ圖を受け、天を治め人に順ひ、賊を伐ち正を撥め、德は蒼生を覆ひ、道は玄化に協へり。今朕寶祚を嗣ぎ、夙夜兢惕す。然れども黎元蠢爾として、猶ほ野心を懷く。何となれば則ち國郡に君長なく、縣邑に首渠なければなり。今より以後、諸國をして造長を立て、國郡を以て稻置を立て、並びに當國の幹了の者を取りて、その國郡の首長に任ぜしめよ。是れ中區の藩屏と爲すなり。
五年、秋九月、山河を隔てて國縣を分かち、阡陌に隨つて以て邑里を定む。因りて以て東西を日縱と爲し、南北を日橫と爲し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。
先人曰く、國造は乃ち國司の名なり。後に改めて守と曰ふ。
現代語訳
成務天皇四年、春二月丙寅の朔、詔して言われた。「わが先の天皇である大足彦天皇(景行天皇)は、聡明で神のように武く、天に応じて図を受け、天を治め人に順い、賊を討ち正しさを収め、徳は民を覆い、道は奥深い教化にかなっていた。いま朕は皇位を嗣ぎ、朝な夕なに恐れつつしんでいる。しかし民はうごめいて、なお野心を抱いている。なぜかといえば、国郡に君長がなく、県邑に首がないからである。今より以後、諸国に造長を立て、国郡に稻置を立て、いずれもその国の実務に長けた者を選んで、その国郡の首長に任じよ。これを中央の藩屏とする」。
五年、秋九月、山や川を境として国と県とを分け、あぜ道に従って邑と里とを定められた。それによって東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南面を影面といい、山の北面を背面といった。
先人はいう、國造とはすなわち国司の名である。後に改めて守(かみ)という、と。
解説
中國章でも引かれた成務朝の記事だが、そちらでは地理の区画として、ここでは官の任命として読まれる。決定的なのは「當國の幹了の者を取りて」――その土地の実務に長けた者を選べ、という一句である。血筋ではなく能力で選ぶ。前節の封建(宗子を封ずる)とは原理が違う。この対比が、以下の封建・郡縣論の土台になる。
神治章 十三任限を五箇年と爲す
原文
聖武帝天平寶字二年、勅諸國司、以四箇年爲任限、實龜十一年、勅太宰府以五箇年爲任限、
謹按、是天下爲郡縣之始也、帝至而始定封境、置遠長、稻置者、是乃郡縣之制也、自此歷代因循、國郡之司、置守介掾目、及主帳・少領・大領・軍毅・安察等、任限以考課、公文、邊要之地、有帥・大貳・少貳・監・典・將監・軍曹・安察等、勘之而黜陟、
訓読
聖武帝の天平寶字二年、諸國の司に勅して、四箇年を以て任限と爲す。寶龜十一年、太宰府に勅して五箇年を以て任限と爲す。
謹みて按ずるに、是れ天下を郡縣と爲すの始なり。帝に至りて始めて封境を定め、遠長を置く。稻置は、是れ乃ち郡縣の制なり。これより歷代因循し、國郡の司に、守・介・掾・目を置き、主帳・少領・大領・軍毅・安察等に及ぶ。任限は考課を以てす。公文、邊要の地には、帥・大貳・少貳・監・典・將監・軍曹・安察等あり。これを勘へて黜陟す。
現代語訳
聖武天皇の天平宝字二年、諸国の司に命じて、四年をもって任期とされた。宝亀十一年、太宰府に命じて五年をもって任期とされた。
つつしんで考えてみるに、これが天下を郡縣とすることのはじめである。この天皇に至ってはじめて領域の境を定め、遠国の長を置いた。稻置とは、すなわち郡縣の制である。これより歴代これに従い、国郡の司には守・介・掾・目を置き、主帳・少領・大領・軍毅・按察らに及んだ。任期は勤務評定によって定めた。公文書のこと、国境の要地には帥・大貳・少貳・監・典・将監・軍曹・按察らがあった。これを審査して昇降させた。
解説
官職名がずらりと並ぶ、いかにも実務的な一節。ここで押さえるべきは任期と考課(勤務評定)である。封建は世襲だが、郡縣は任期があり評定があり昇降がある。制度の違いは、人をどう入れ替えるかの違いだと素行は捉えている。
神治章 十四封建の義 ── 侯王を天下に封ず
原文
謹按、是天下爲郡縣之始也、夫封建者、封侯王於天下、以爲王室之藩屏、行巡狩述職之體、朝聘會同之儀、租稅以公廨收之、郡縣之司立之、以任限交替、諸子功臣分賜於邦國、
竊按、天下欲平者、先治其國、欲治其國者、先齊其家、家齊而邑縣、邑縣聚而郡、郡聚而國、天下者、郡之大聚也、故封建・郡縣者、天下之治法也、聖人治天下也、盡其勢以立其制、隨其義以詳其體、
訓読
謹みて按ずるに、是れ天下を郡縣と爲すの始なり。夫れ封建は、侯王を天下に封じ、以て王室の藩屏と爲し、巡狩述職の體、朝聘會同の儀を行ひ、租稅は公廨を以てこれを收む。郡縣の司はこれを立て、任限を以て交替し、諸子功臣を邦國に分かち賜ふ。
竊に按ずるに、天下を平かにせんと欲する者は、先づその國を治む。その國を治めんと欲する者は、先づその家を齊ふ。家齊ひて邑縣となり、邑縣聚まりて郡となり、郡聚まりて國となる。天下は、郡の大聚なり。故に封建・郡縣は、天下の治法なり。聖人天下を治むるや、その勢を盡くして以てその制を立て、その義に隨ひて以てその體を詳かにす。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが天下を郡縣とすることのはじめである。そもそも封建とは、侯や王を天下に封じて王室の藩屏とし、天子が巡狩し諸侯が職務を報告する体制、朝聘や会同の儀を行い、租税は公の費用として収めるものである。郡縣の司はこれを任命し、任期をもって交替させ、皇子や功臣を諸国に分け与える。
ひそかに考えてみるに、天下を平らかにしようとする者は、まずその国を治める。その国を治めようとする者は、まずその家を斉える。家が斉って邑や県となり、邑県が集まって郡となり、郡が集まって国となる。天下とは、郡の大きな集まりである。だから封建・郡縣は、天下を治める法である。聖人が天下を治めるにあたっては、その勢いを尽くして制度を立て、その筋道に従って体裁をこまやかに定める。
解説
『大學』の八条目を行政単位の入れ子として読み替えるのがこの節の妙である。家 → 邑県 → 郡 → 国 → 天下。修身斉家治国平天下が、そのまま地方制度の階層になる。この読み替えによって、封建も郡縣も「天下の治法」という同じ土俵に載せられ、次節からの得失の比較が可能になる。
神治章 十五封建も亦得あり失あり、郡縣も亦得あり失あり
原文
凡封建者、先治其國、郡縣者、欲平天下、其道異矣、有得有失、封建者、天下之公法也、聖人治天下也、暗主之於天下也、反之、故封建亦失其體、郡縣亦失其體、然其法未嘗不可不可、愚謂、封建者、如公之於天下、而私之、郡縣者、如護之王室、上雖無政令之正、下必不得移其志、是視之天下也、王公坐食其祿、自無擥險之暴、是世之王公也、二者不可以拘、
訓読
凡そ封建は、先づその國を治む。郡縣は、天下を平かにせんと欲す。その道異なり。得あり失あり。封建は、天下の公法なり。聖人天下を治むるなり。暗主の天下に於けるは、これに反す。故に封建も亦その體を失ひ、郡縣も亦その體を失ふ。然れどもその法は未だ嘗て可なるべからず不可なるべからざるなし。愚謂へらく、封建は、天下に公にするが如くにして、而もこれを私す。郡縣は、王室を護るが如くにして、上政令の正なしと雖も、下必ずその志を移すことを得ず。是れこれを天下に視るなり。王公坐してその祿を食み、自ら險に擥るの暴なし。是れ世の王公なり。二者以て拘はるべからず。
現代語訳
そもそも封建は、まずその国を治めることを先とする。郡縣は、天下を平らかにしようとする。その道は異なる。それぞれに得があり失がある。封建は天下の公の法である。聖人が天下を治めるのはこれによる。暗愚な君主が天下にあってはこれに反する。だから封建もその体を失い、郡縣もその体を失う。しかしその法そのものには、よいところがなくもなく、わるいところがなくもない。わたしが思うに、封建は天下を公のものにするようでいて、じつはこれを私する。郡縣は王室を守るようでいて、上に政令の正しさがなくても、下は必ずその志を移すことができない。これが天下におけるありようを見るということである。王公は坐したままその俸禄を食み、みずから険しい地に拠って暴をなすことはない。これが世の王公である。この二つは、どちらかに固執すべきものではない。
解説
本章でもっとも有名な議論である。素行の判断は明快に「どちらでもない」。封建は公のようで私になりやすく、郡縣は王室を守るようで下の志を殺す。だから「二者以て拘はるべからず」――どちらかに固執してはならない。そして決定的なのは「暗主の天下に於けるは、封建も亦その體を失ひ、郡縣も亦その體を失ふ」。制度そのものに優劣はなく、運用する人次第だ、という結論である。
神治章 十六外朝の議 ── 李斯と柳宗元
原文
蓋考外朝之制、自上古至三王、皆以封建、當時郡縣未大行、而王統連綿、公室絕矣、然乃封建・郡縣、當時郡縣漸微、而帝行郡縣之制、可井按也、蓋外朝之制、上古以來封建、秦之暴強、尤爲治道之要、李斯所奏是也、魏曹元晉陵士衡之所定、可否二說、一決不擧、且暴主定之、以封建爲公於天下、而私之、以郡縣爲私天下、二說不一決、然李斯之法爲凶例、遂爲亂賊之基、是宗元所謂失在政、不在制也、
訓読
蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。當時郡縣未だ大いに行はれず。而して王統連綿し、公室絕えたり。然らば乃ち封建・郡縣、當時郡縣漸く微にして、而して帝郡縣の制を行ふ。井せ按ずべきなり。蓋し外朝の制、上古以來封建なり。秦の暴強、尤も治道の要と爲す。李斯の奏するところ是れなり。魏の曹元、晉の陸士衡の定むるところ、可否二說、一決して擧げず。且つ暴主これを定め、封建を以て天下に公にすと爲して而もこれを私し、郡縣を以て天下を私すと爲す。二說一決せず。然れども李斯の法は凶例と爲り、遂に亂賊の基と爲る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らずなり。
現代語訳
思うに外朝の制度を考えてみると、上古から三王(禹・湯・文武)に至るまで、みな封建によっていた。当時は郡縣がまだ大いには行われていなかった。そして王統は連綿と続き、公室は絶えた。とすれば封建・郡縣について、当時は郡縣がしだいに衰えて、皇帝が郡縣の制を行った。あわせて考えるべきである。思うに外朝の制度は、上古以来封建であった。秦の暴虐で強大なやり方が、もっとも統治の要とされた。李斯が奏上したのがこれである。魏の曹元、晋の陸士衡が定めたところは、可否の二説あって、一つに決して挙げられない。しかも暴虐な君主がこれを定め、封建を天下に公にするものとしながらこれを私し、郡縣を天下を私するものとした。二説は一つに決しない。しかし李斯の法は凶例となり、ついに乱賊のもととなった。これが柳宗元のいう「失は政に在りて制に在らず」ということである。
解説
中国での封建・郡縣論争を引く。結論として素行が採るのは柳宗元の「失は政に在りて制に在らず」――秦が滅んだのは郡縣という制度のせいではなく、その政治のせいだ、という判断である。前節の「暗主の天下に於けるは…」と同じ立場が、外朝の史論によって裏づけられる。制度改革論を人の問題に引き戻すのが、この章の一貫した姿勢である。
神治章 十七保食神 ── 五穀と養蠶の起り
原文
天照大神在天上曰、聞葦原中國有保食神、宜爾月夜見尊往候之、月夜見尊受勅而降、已到于保食神許、保食神乃迴首嚮國、則自口出飯、又嚮海、則鰭廣鰭狹亦自口出、又嚮山、則毛麁毛柔亦自口出、夫品物悉備、貯之百机而饗之、是時月夜見尊忿然作色曰、穢哉鄙矣、寧可以口吐之物、敢養我乎、廼拔劒擊殺、然後復命、具言其事、時天照大神慍甚之曰、汝是惡神、不須相見、乃與月夜見尊、一日一夜隔離而住、是後天照大神復遣天熊人往看之、是時保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆、天熊人悉取持去而奉進之、時天照大神喜之曰、是物者、顯見蒼生可食而活之也、乃以粟稗麥豆爲陸田種子、以稻爲水田種子、又因以定天邑君、即以其稻種、始殖于天狹田及長田、其秋垂穎八握莫莫然、甚快也、又口裏含蠒、便得抽絲、自此始有養蠶之道焉、
訓読
天照大神天上に在して曰はく、葦原中國に保食神ありと聞く。宜しく爾月夜見尊往きてこれを候へと。月夜見尊勅を受けて降ります。已に保食神の許に到りたまふ。保食神乃ち首を迴らして國に嚮ひしかば、口より飯出づ。又海に嚮ひしかば、鰭廣鰭狹も亦口より出づ。又山に嚮ひしかば、毛麁毛柔も亦口より出づ。夫れ品物悉く備はりて、百机に貯へてこれを饗ふ。この時月夜見尊忿然として色を作して曰はく、穢きかな鄙しきかな。寧ぞ口より吐きし物を以て、敢て我れを養ふべけんやと。廼ち劒を拔きて擊ち殺しつ。然して後に復命し、具さにその事を言す。時に天照大神慍りたまふこと甚だしくして曰はく、汝は是れ惡しき神なり。相見るべからずと。乃ち月夜見尊と、一日一夜隔て離れて住みたまふ。この後天照大神復た天熊人を遣はして往きてこれを看せしむ。この時保食神實に已に死れり。唯だその神の頂に化りて牛馬と爲るあり。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稻生れり。陰に麥及び大小豆生れり。天熊人悉く取り持ち去きてこれを奉進る。時に天照大神喜びて曰はく、この物は顯見蒼生の食ひて活くべきものなりとのたまひて、乃ち粟・稗・麥・豆を以て陸田種子と爲し、稻を以て水田種子と爲す。又因りて以て天邑君を定む。即ちその稻種を以て、始めて天狹田及び長田に殖う。その秋垂穎八握莫莫然として、甚だ快し。又口の裏に蠒を含みて、便ち絲を抽くことを得たり。これより始めて養蠶の道あり。
現代語訳
天照大神が天上にあって仰せられた。「葦原中國に保食神があると聞く。そなた月夜見尊よ、行ってこれをうかがえ」。月夜見尊は勅を受けて降られた。保食神のもとに到られると、保食神は首をめぐらして国に向かうと、口から飯が出た。また海に向かうと、大きな魚小さな魚もまた口から出た。また山に向かうと、毛の粗い獣柔らかい獣もまた口から出た。あらゆる品がことごとく備わり、たくさんの机に盛ってもてなした。このとき月夜見尊は怒って顔色を変えて言われた。「穢らわしい、卑しい。どうして口から吐いたもので、あえてわたしを養おうとするのか」。そこで剣を抜いて撃ち殺してしまわれた。そののち復命して、詳しくそのことを申し上げた。そのとき天照大神はたいそう怒って言われた。「そなたは悪い神である。顔を合わせるべきではない」。そうして月夜見尊とは、一日一夜へだたって住まわれた。その後、天照大神はあらためて天熊人を遣わして見に行かせられた。このとき保食神はまことにすでに死んでいた。ただその神の頭が化して牛馬となっていた。額の上に粟が生じ、眉の上に蚕が生じ、眼のなかに稗が生じ、腹のなかに稲が生じ、陰に麦と大豆・小豆が生じていた。天熊人はことごとく取り持ち去って献上した。そのとき天照大神は喜んで言われた。「これらは現し世の人々が食べて生きてゆくべきものである」。そこで粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とされた。またこれによって天の邑君を定められた。そしてその稲種をはじめて天狹田と長田に植えられた。その秋、垂れた穂は八握もあってふさふさと茂り、まことに気持ちよかった。また口のなかに繭を含んで、糸を引くことができた。ここからはじめて養蚕の道が起こった。
解説
章の第三部、民を養うに入る。五穀と牛馬と蚕の起源を語る有名な神話だが、素行がここを引く理由は次節の按語で明らかになる。注目したいのは日と月が別れて住むようになったという一句である。前章までの日月一体の像がここで破れる。食をめぐる潔癖さが、天地の秩序そのものを分けてしまったのである。
神治章 十八天狹田・長田を御田と爲す
原文
天照大神以天狹田・長田爲御田、又方織神衣、居齋服殿、
謹按、是天神重民之事也、夫天神之尊、又方織神衣、非但親之而已、先勞而致其誠、蓋人君親耕、后親蠶、以帥天下之農桑也、盤中之辛苦、皆是知之、以供上帝之粢盛、爲祭祀之禮服者、建皇極之無逸、示王業之大本也、
訓読
天照大神、天狹田・長田を以て御田と爲したまふ。又方に神衣を織りつつ、齋服殿に居ます。
謹みて按ずるに、是れ天神が民の事を重んずるなり。夫れ天神の尊きを以て、又方に神衣を織りたまふ。但だ親らするのみにあらず、先づ勞してその誠を致すなり。蓋し人君親ら耕し、后親ら蠶して、以て天下の農桑を帥ゐるなり。盤中の辛苦、皆是れこれを知る。以て上帝の粢盛に供し、祭祀の禮服と爲す者は、皇極の無逸を建て、王業の大本を示すなり。
現代語訳
天照大神は天狹田・長田を御田とされた。また神の衣を織りながら、齋服殿におられた。
つつしんで考えてみるに、これが天神が民の事を重んじたということである。そもそも天神という尊いお立場でありながら、みずから神の衣を織られた。ただみずからなさったというだけでなく、まず労して誠を尽くされたのである。思うに君主がみずから耕し、后がみずから蚕を飼って、天下の農と桑とを率いるのである。器の中の食べ物にこもる辛苦を、みなこれによって知る。それを上帝への供え物とし、祭祀の礼服とするのは、皇位に安逸をむさぼらぬ姿勢を打ち立て、王業の大本を示すためである。
解説
親耕・親蠶の由来。素行が力を込めるのは「但だ親らするのみにあらず、先づ勞してその誠を致すなり」――形だけの儀式ではなく、実際に労するのだ、という点である。そして「盤中の辛苦、皆是れこれを知る」。器に盛られた一粒の米に、どれほどの苦労がこもっているかを君主が身をもって知る。これが『書經』無逸篇の精神だという。
神治章 十九國は民を以て體と爲す
原文
神武帝詔曰、恭臨寶位、以鎭元元、上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心、
神武帝六年、百姓洗雝、新嘗會及大嘗會、皆農事以行朝事、往古以其事重、盡其誠、
謹按、國以民爲體、民勞則國衰、民安則國興、民者、是國之本、邦寧之基也、二帝之恭儉、其德大哉、
訓読
神武帝詔して曰はく、恭みて寶位に臨み、以て元元を鎭む。上は則ち乾靈の國を授けたまふの德に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふの心を弘めん。
神武帝の六年、百姓洗雝せり。新嘗會及び大嘗會は、皆農事を以て朝事を行ふなり。往古はその事を重んじ、その誠を盡くす。
謹みて按ずるに、國は民を以て體と爲す。民勞るるときは則ち國衰へ、民安きときは則ち國興る。民は、是れ國の本、邦寧の基なり。二帝の恭儉、その德大なる哉。
現代語訳
神武天皇は詔して言われた。「つつしんで宝位に臨み、それによって民を安んずる。上は天の神が国を授けられた徳に応え、下は皇孫が正しさを養われた心を広めよう」。
神武天皇六年、民はやわらぎ和んだ。新嘗の祭りと大嘗の祭りとは、いずれも農事をもって朝廷の行事とするものである。往古はその事を重んじ、まごころを尽くした。
つつしんで考えてみるに、国は民をもって体とする。民が疲れれば国は衰え、民が安らかであれば国は興る。民は国の本であり、国が安んずる土台である。二人の天皇の恭しく倹しいこと、その徳の大きさよ。
解説
「國は民を以て體と爲す」――本章の題辞にあたる一句である。素行は新嘗祭・大嘗祭を「農事を以て朝事を行ふ」ものと捉える。国家の最重要儀礼が農の儀礼であること自体が、民が国の体であることの証だ、という読みである。
神治章 二十民の竈 ── 課役を三年免ず
原文
仁德帝四年、春二月己未朔、甲子、詔群臣曰、朕登高臺以遠望、烟氣不起於域中、以爲百姓既貧、而家無炊者、朕聞、古聖王之世、人人誦德音、家家有康哉之歌、今朕臨億兆、於茲三年、頌德不聆、炊烟轉疎、即知五穀不登、百姓窮乏也、封畿之內、尙有不給者、況乎畿外諸國耶、三月己丑朔、詔曰、自今以後、至于三年、悉除課役、息百姓之苦、是日始之、黼衣鞋履、盡而不更爲也、溫飯煖羹、酸而不易也、削心約志、以從事無爲、
訓読
仁德帝の四年、春二月己未の朔、甲子、群臣に詔して曰はく、朕高臺に登りて以て遠く望むに、烟氣域中に起こらず。以て百姓既に貧しくして、家に炊ぐ者なしと爲す。朕聞く、古の聖王の世には、人人德音を誦へ、家家に康哉の歌ありと。今朕億兆に臨みて、ここに三年。頌德聆えず、炊烟轉た疎らなり。即ち五穀登らず、百姓窮乏せることを知りぬ。封畿の內すら尙ほ給らざる者あり、況んや畿外の諸國をや。三月己丑の朔、詔して曰はく、今より以後、三年に至るまで、悉く課役を除きて、百姓の苦しみを息めよと。この日より始む。黼衣鞋履、盡きて更に爲らざるなり。溫飯煖羹、酸えて易へざるなり。心を削り志を約めて、以て無爲に從事す。
現代語訳
仁徳天皇四年、春二月己未の朔、甲子の日、群臣に詔して言われた。「朕が高殿に登って遠く望んだところ、炊煙が国のうちに立っていない。思うに民はすでに貧しくて、家に炊ぐ者がないのであろう。朕は聞いている、いにしえの聖王の世には、人々が徳をたたえる声を唱え、家々に『やすらかなるかな』の歌があったと。いま朕が億兆の民に臨んで、ここに三年になる。徳をたたえる声は聞こえず、炊煙はいよいよまばらである。すなわち五穀が実らず、民が窮乏していることが分かった。都の周辺ですらなお足りない者がある。まして畿外の諸国はなおさらであろう」。三月己丑の朔、詔して言われた。「今より以後、三年に至るまで、ことごとく課役を免じて、民の苦しみを休ませよ」。この日から始められた。刺繍の衣も履物も、すり切れても新しく作られなかった。温かい飯も煖かい羹も、饐えても取り替えられなかった。心を削り志を切りつめて、何もなさらずにおられた。
解説
「民の竈」――本章の中心をなす逸話である。素行はこれを美談として消費しない。次節で宮垣が壊れても修めなかった記事を続け、そのうえで按語を置く。ここで押さえたいのは、天皇が炊煙という具体的な観察から民の窮乏を読み取ったことである。統治は数字ではなく、目に見える光景から始まる。
神治章 二十一宮垣壞れて修めず
原文
七年、夏四月辛未朔、天皇居臺上、而遠望之、烟氣多起、是日語皇后曰、朕既富矣、豈有愁乎、皇后對曰、何謂富乎、天皇曰、烟氣滿國、百姓自富歟、皇后曰、宮垣壞而不得修、殿屋破而衣被露、何謂富乎、天皇曰、其天之立君、是爲百姓、然則君以百姓爲本、是以古聖王者、一人飢寒、顧之責身、今百姓貧則朕貧也、百姓富則朕富也、未之有百姓富而君貧也、
秋八月己巳朔、丁丑、爲大兄去來穗別皇子、定妃、亦爲皇后定葛城部、九月、詔諸國曰、課役並免、旣經三年、由是國稍空虛、百姓貧乏、今爲三年、當調役以修理宮室、
訓読
七年、夏四月辛未の朔、天皇臺の上に居まして、遠くこれを望みたまふ。烟氣多く起これり。この日皇后に語りて曰はく、朕既に富めり。豈愁へあらんやと。皇后對へて曰さく、何をか富めりと謂ふやと。天皇曰はく、烟氣國に滿てり。百姓自ら富めるかと。皇后曰さく、宮垣壞れて修むることを得ず、殿屋破れて衣被露はなり。何をか富めりと謂はんやと。天皇曰はく、それ天の君を立つるは、是れ百姓の爲なり。然らば則ち君は百姓を以て本と爲す。ここを以て古の聖王は、一人も飢寒すれば、これを顧みて身を責む。今百姓貧しきときは則ち朕貧しきなり。百姓富めるときは則ち朕富めるなり。未だこれ百姓富みて君貧しきことはあらざるなりと。
秋八月己巳の朔、丁丑、大兄去來穗別皇子の爲に、妃を定む。亦皇后の爲に葛城部を定む。九月、諸國に詔して曰はく、課役並びに免すこと、旣に三年を經たり。これに由りて國稍空虛となり、百姓貧乏せり。今三年と爲し、當に調役を以て宮室を修理すべしと。
現代語訳
七年、夏四月辛未の朔、天皇は高殿の上におられて、遠くを望まれた。炊煙が多く立っていた。この日、皇后に語って言われた。「朕はすでに富んだ。どうして憂いがあろうか」。皇后が答えて申された。「何をもって富んだとおっしゃるのですか」。天皇は言われた。「炊煙が国に満ちている。民がおのずと富んだのであろう」。皇后は申された。「宮の垣は壊れて修めることもできず、殿舎は破れて衣も夜具もあらわになっております。何をもって富んだといえましょうか」。天皇は言われた。「そもそも天が君主を立てるのは、民のためである。とすれば君主は民を本とする。だからいにしえの聖王は、一人でも飢え凍える者があれば、それを顧みてわが身を責めた。いま民が貧しければ、それは朕が貧しいのである。民が富めば、それは朕が富んだのである。民が富んで君主が貧しいということは、これまであったためしがない」。
秋八月己巳の朔、丁丑の日、大兄去來穗別皇子のために妃を定められた。また皇后のために葛城部を定められた。九月、諸国に詔して言われた。「課役をともに免じて、すでに三年を経た。これによって国はやや空しくなり、民も貧しくなった。いま三年として、調役によって宮室を修理せよ」。
解説
皇后との問答が印象的である。「宮垣壞れて修めず、殿屋破れて衣被露はなり。何をか富めりと謂はんや」――皇后は現実を突きつける。それに対する天皇の答えが「百姓貧しきときは則ち朕貧しきなり」。そして最後の一文を素行は落とさない。三年ののち、国が空しくなったので調役を再開した――免税は永久には続かない。理想と現実の両方が、そのまま並べられている。
神治章 二十二一人を以て億兆の父母たり
原文
謹按、是民之產也、寬民之力、極盡天下之人君也、夫民之產、繫生靈、以一人爲億兆之父母、君道厥艱哉、唯仁德帝勝其任乎、儉於身而以賑民家、以富民家、貧己而以富天下之人、君道之至也、蓋人君者、民之父母也、以己之貧富爲民之貧富、曰共天下之富、是名民之貧富、然君之立、實爲民也、故當富者、豈過乎此哉、
訓読
謹みて按ずるに、是れ民の產なり。民の力を寬くすること、極め盡くせる天下の人君なり。夫れ民の產は、生靈に繫る。一人を以て億兆の父母たり。君道それ艱きかな。唯だ仁德帝のみその任に勝へたまふか。身を儉やかにして以て民の家を賑はし、以て民の家を富ましむ。己を貧しくして以て天下の人を富ませしむ。君道の至りなり。蓋し人君は、民の父母なり。己の貧富を以て民の貧富と爲す。天下の富を共にすと曰ふ。是れ民の貧富に名づく。然らば君の立つは、實に民の爲なり。故に當に富むべき者、豈これに過ぎんや。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが民の産(暮らしの元手)ということである。民の力をゆるめることを、きわめ尽くされた天下の君主である。そもそも民の産は、生きとし生けるものの命にかかっている。一人の身で億兆の民の父母となる。君主の道はなんと難しいことか。ただ仁徳天皇だけが、その任に堪えられたのであろうか。わが身を倹しくして民の家をにぎわせ、民の家を富ませた。自分を貧しくして天下の人を富ませた。君主の道のきわみである。思うに君主は民の父母である。自分の貧富をもって民の貧富とする。天下の富をともにするという。これを民の貧富と名づける。とすれば君主が立つのは、まことに民のためである。だから当然に富むべきものは、これに過ぎるものがあろうか。
解説
「一人を以て億兆の父母たり。君道それ艱きかな」――この嘆声が本章の要である。素行は仁徳天皇を絶賛するが、同時に「唯だ仁德帝のみその任に勝へたまふか」と書く。これができた君主は一人しかいなかったという含みである。理想を掲げると同時に、その困難さを直視している。
神治章 二十三課役 ── 民の産を制して後に教ふ
原文
崇神帝十二年、春三月丁丑朔、丁亥、詔曰、朕初承宗廟、獲保黎元、既不能弘化流德、而陰陽錯繆、寒暑失序、疫病多起、百姓蒙災、然今解罪改過、敦禮神祇、又敎導以黎元、擧兵以討不服、是以官無廢事、下無逸民、敎化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外旣歸化、宜當此時、更科調役以稅人民、始校人民、更科調役、此謂男之弭調、女之手末調也、
謹按、是制民之產也、民既立而既富、未嘗不敎、故先制其產以養之、旣富而後知恥、
訓読
崇神帝の十二年、春三月丁丑の朔、丁亥、詔して曰はく、朕初めて宗廟を承け、黎元を保つことを獲たり。既に化を弘め德を流くこと能はずして、陰陽錯繆し、寒暑序を失ひ、疫病多く起こり、百姓災を蒙れり。然れども今罪を解き過ちを改め、禮を神祇に敦くし、又黎元を以て敎へ導き、兵を擧げて以て不服を討つ。ここを以て官に廢事なく、下に逸民なく、敎化流行し、衆庶業を樂しむ。異俗重譯して來り、海外旣に歸化せり。宜しくこの時に當りて、更に調役を科して以て人民に稅すべしと。始めて人民を校へて、更に調役を科す。これを男の弭調、女の手末調と謂ふなり。
謹みて按ずるに、是れ民の產を制するなり。民既に立ちて既に富めば、未だ嘗て敎へずんばあらず。故に先づその產を制して以てこれを養ひ、旣に富みて後に恥を知る。
現代語訳
崇神天皇十二年、春三月丁丑の朔、丁亥の日、詔して言われた。「朕ははじめて宗廟を承け、民を保つことができた。しかし徳化を広め徳をゆきわたらせることができず、陰陽が乱れ、寒暑が順序を失い、疫病が多く起こり、民が災いをこうむった。しかし今は罪を解き過ちを改め、神々への礼を厚くし、また民を教え導き、兵を挙げて服さない者を討った。こうして官に廃れた務めはなく、下に世を捨てて隠れる民もなく、教化はゆきわたり、人々は仕事を楽しんでいる。異なる習俗の者が幾重にも通訳を重ねて来て、海外はすでに帰服した。この時にあたって、あらためて調役を科して人民に税を課すべきである」。はじめて人民を調べて、あらためて調役を科された。これを男の弓弭の調、女の手末の調という。
つつしんで考えてみるに、これが民の産を制するということである。民がすでに立ちすでに富んだなら、教えないわけにはいかない。だからまずその産を制してこれを養い、すでに富んでのちに恥を知るのである。
解説
課税の順序が問題である。教化がゆきわたり人々が仕事を楽しむようになってから、はじめて調役を科す。そして按語は『管子』『論語』の順序――まず富ませ、しかるのちに教える――を引く。前節の仁徳天皇の免税と合わせて読むと、免じるときと課すときの判断がどこにあるかが見えてくる。
神治章 二十四池溝を開く ── 民の害を除く
原文
崇神帝六十二年、秋七月乙卯朔、丙辰、詔曰、農天下之大本也、民所恃以生也、今河內狹山埴田水少、是以其國百姓、怠於農事、其多開池溝、以寬民業、冬十月、造依網池、十一月、作苅坂池・反折池、
垂仁帝以池溝數作於諸國、開墾之利、百姓因以富、
景行帝作大室於天下、
謹按、是農之利也、利百姓者莫大于水利、今浚狹山及三池、盡力於溝洫、水土之美、嘉禾之瑞、固有之地也、
訓読
崇神帝の六十二年、秋七月乙卯の朔、丙辰、詔して曰はく、農は天下の大いなる本なり。民の恃みて以て生くるところなり。今河內の狹山の埴田は水少し。ここを以てその國の百姓、農事を怠る。それ多く池溝を開きて、以て民の業を寬くせよと。冬十月、依網池を造る。十一月、苅坂池・反折池を作る。
垂仁帝は池溝を以て數諸國に作りたまふ。開墾の利、百姓因りて以て富む。
景行帝は大室を天下に作る。
謹みて按ずるに、是れ農の利なり。百姓を利すること水利より大なるはなし。今狹山及び三池を浚へ、力を溝洫に盡くす。水土の美、嘉禾の瑞、固より有るの地なり。
現代語訳
崇神天皇六十二年、秋七月乙卯の朔、丙辰の日、詔して言われた。「農は天下の大いなる本である。民が頼りにして生きるところである。いま河内の狹山の埴田は水が少ない。そのためその国の民は農事を怠っている。多く池と溝とをひらいて、民の生業をゆるやかにせよ」。冬十月、依網池を造られた。十一月、苅坂池・反折池を作られた。
垂仁天皇は池と溝とをたびたび諸国に作られた。開墾の利によって、民はそれで富んだ。
景行天皇は大室を天下に作られた。
つつしんで考えてみるに、これが農の利である。民を利することで水利より大きなものはない。いま狹山および三つの池をさらえ、力を用水路に尽くす。水土のすぐれていること、よい稲の実る瑞祥は、もとよりこの地にあるものである。
解説
「農は天下の大本なり」――ここから水利事業の記録が並ぶ。素行は「百姓を利すること水利より大なるはなし」と言い切る。神器章で「中州代代の經營は、專ら簡樸にして力を溝洫に盡くし」と書いたのを思い出したい。宮殿を飾ることより用水路を掘ること――素行の価値の置きどころが、ここでも一貫している。
神治章 二十五茨田堤と堀江 ── 水の害を防ぐ
原文
仁德帝十一年、夏四月戊寅朔、甲午、詔群臣曰、今朕視是國者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水橫逝、以流末不駛、聊逢霖雨、海潮逆上、以悲里之人船乘、道路亦亡矣、故群臣共視之、決橫源通海、塞逆流、以全田宅、冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江、又防北河之澇、以築茨田堤、
謹按、是除民之害也、天地之間、爲民之害者、天旱潦之災、地有河海之潦、人君爲民有志者、豫謀之、先築堤以塞之、既除其害、則民之利百倍、
訓読
仁德帝の十一年、夏四月戊寅の朔、甲午、群臣に詔して曰はく、今朕この國を視るに、郊澤曠遠にして田圃少く乏し。且つ河水橫ざまに逝きて、以て流れの末駛からず。聊か霖雨に逢へば、海潮逆上りて、以て里の人船に乘るを悲しみ、道路亦亡ぶ。故に群臣共にこれを視て、橫ざまの源を決きて海に通じ、逆流を塞ぎて、以て田宅を全くせよと。冬十月、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて以て西海に入れしむ。因りて以てその水を號けて堀江と曰ふ。又北の河の澇を防がんとして、以て茨田堤を築く。
謹みて按ずるに、是れ民の害を除くなり。天地の間、民の害と爲る者は、天に旱潦の災あり、地に河海の潦あり。人君民の爲に志ある者は、豫めこれを謀り、先づ堤を築きて以てこれを塞ぐ。既にその害を除けば、則ち民の利百倍なり。
現代語訳
仁徳天皇十一年、夏四月戊寅の朔、甲午の日、群臣に詔して言われた。「いま朕がこの国を見るに、郊外の沢は広く遠くて、田畑は少なく乏しい。しかも河の水が横ざまに流れて、流れの末がはかどらない。少しでも長雨に遭えば、海の潮が逆流して、里の人が船に乗らねばならないのを悲しみ、道路も失われてしまう。だから群臣ともにこれを見て、横ざまの流れをひらいて海に通じ、逆流を塞いで、田と家とを全うせよ」。冬十月、宮の北の原野を掘って、南の水を引いて西の海に入れさせられた。そこでその水を名づけて堀江という。また北の河の氾濫を防ごうとして、茨田堤を築かれた。
つつしんで考えてみるに、これが民の害を除くということである。天地のあいだで民の害となるものは、天には旱と長雨の災いがあり、地には河海の氾濫がある。君主で民のために志のある者は、あらかじめこれをはかり、まず堤を築いてこれを塞ぐ。すでにその害を除けば、民の利は百倍になる。
解説
前節の「利を興す」に対して、この節は「害を除く」。素行は統治の実務を、この二つに整理している。そして「豫めこれを謀り」――事が起きてからではなく、あらかじめ備えること。「既にその害を除けば、則ち民の利百倍なり」という数え方に、費用対効果を考える兵学者の眼が見える。
神治章 二十六民の長を建つるの始
原文
成務帝五年、秋九月、令諸國以國郡立造長、縣邑置稻置、
謹按、是建人民之長之始也、凡物相聚時、未嘗不有長、鳥獸之群尙必有其先也、況其人乎、業必有敎、人必有欲、其欲不知其敎、則百姓不得其產、民不得恆產、其欲不能制、則民苦而至死亡、故神靈者、上以佑之、下以助之、以樹民之長、天下無事也、
訓読
成務帝の五年、秋九月、諸國をして國郡を以て造長を立て、縣邑に稻置を置かしむ。
謹みて按ずるに、是れ人民の長を建つるの始なり。凡そ物相聚まる時は、未だ嘗て長あらずんばあらず。鳥獸の群すら尙ほ必ずその先あるなり。況んやその人をや。業には必ず敎あり、人には必ず欲あり。その欲その敎を知らざるときは、則ち百姓その產を得ず。民恆產を得ず、その欲を制すること能はざるときは、則ち民苦しみて死亡に至る。故に神靈は、上は以てこれを佑け、下は以てこれを助け、以て民の長を樹て、天下事なきなり。
現代語訳
成務天皇五年、秋九月、諸国に命じて国郡には造長を立て、県邑には稻置を置かせられた。
つつしんで考えてみるに、これが人民の長を建てることのはじめである。そもそも物が集まるときには、長がなかったためしはない。鳥や獣の群れですら必ず先頭に立つものがある。まして人においてはなおさらである。生業には必ず教えがあり、人には必ず欲がある。その欲がその教えを知らなければ、民はその産を得られない。民が安定した生業を得られず、その欲を制することができなければ、民は苦しんで死に至る。だから神霊は、上からはこれを助け、下からはこれを扶けて、民の長を樹て、天下は事なきを得るのである。
解説
「鳥獸の群すら尙ほ必ずその先あるなり」――長を立てるのは人為ではなく自然の理だ、という論の立て方が面白い。そのうえで『孟子』の恆産恆心を引き、長がいなければ産が定まらず、産が定まらなければ欲が制せられないという因果を示す。地方官の設置という制度の話が、人間の欲の問題にまで掘り下げられている。
神治章 二十七民を重んずるは、人を得るに在り
原文
然乃百官之政、皆爲民也、其理所在、其繫所悉在民也、人君之爲、豈非民之爲乎、故不可不知重民、重民者、必擇民之長、不重之、則民之情不通、民之情在人也、人不得則官不明、官不明則民之政不擧、故重民者、必以擇其人爲先務、既不擇則官不明、官不明則不得民之情、是以民苦、而國衰、國衰而民輕、輕民者是輕天下也、輕天下國家者、是輕乾靈授國之德、輕天孫垂統之基也、
訓読
然らば乃ち百官の政は、皆民の爲なり。その理の在るところ、その繫るところ悉く民に在るなり。人君の爲すこと、豈民の爲にあらずや。故に民を重んずることを知らずんばあるべからず。民を重んずる者は、必ず民の長を擇ぶ。これを重んぜざれば、則ち民の情通ぜず。民の情は人に在るなり。人を得ざれば則ち官明らかならず。官明らかならざれば則ち民の政擧がらず。故に民を重んずる者は、必ずその人を擇ぶを以て先務と爲す。既に擇ばざれば則ち官明らかならず。官明らかならざれば則ち民の情を得ず。ここを以て民苦しみて、國衰ふ。國衰へて民輕んぜらる。民を輕んずるは是れ天下を輕んずるなり。天下國家を輕んずるは、是れ乾靈國を授けたまふの德を輕んじ、天孫統を垂るるの基を輕んずるなり。
現代語訳
とすれば百官の政は、みな民のためである。その道理のあるところ、そのかかるところは、ことごとく民にある。君主のなさることが、どうして民のためでないことがあろうか。だから民を重んずることを知らなければならない。民を重んずる者は、必ず民の長を選ぶ。これを重んじなければ、民の実情が通じない。民の実情は人にかかっている。人を得られなければ官は明らかでない。官が明らかでなければ民のための政は挙がらない。だから民を重んずる者は、必ずその人を選ぶことを第一の務めとする。すでに選ばなければ官は明らかでない。官が明らかでなければ民の実情が得られない。そのため民は苦しみ、国は衰える。国が衰えて民は軽んじられる。民を軽んずるのは天下を軽んずることである。天下と国家を軽んずるのは、天の神が国を授けられた徳を軽んじ、天孫が統を垂れられた土台を軽んずることである。
解説
連鎖の論法である。人を選ばない → 官が明らかでない → 民の実情が届かない → 民が苦しむ → 国が衰える → 民が軽んじられる → 天下を軽んじる → 神勅を軽んじる。地方官の人選という実務が、神勅への背きにまで直結する。次章「神知(知人)章」で「人を知る」ことが主題になる、その予告にもなっている。
神治章 二十八天下の治道は國家に在り
原文
以上論治道之要、愚謂、天下之治道、在國家、國家之本、在民、民之本、在君、君明則民安、民安則國治、家齊而天下平矣、國家治齊而天下平矣、治國家之道、在封建與郡縣、封建者、親親、賢賢、因其邦而命其卿、建方伯、立三監、天子巡狩而規禮觀俗、諸侯朝聘而奉正朔、退而顙違、咫尺之敬、故宗子惟城、侯王惟藩、
訓読
以上は治道の要を論ず。愚謂へらく、天下の治道は國家に在り。國家の本は民に在り。民の本は君に在り。君明らかなるときは則ち民安く、民安きときは則ち國治まり、家齊ひて天下平かなり。國家治まり齊ひて天下平かなり。國家を治むるの道は、封建と郡縣とに在り。封建は、親を親しみ、賢を賢び、その邦に因りてその卿を命じ、方伯を建て、三監を立つ。天子巡狩して禮を規し俗を觀、諸侯朝聘して正朔を奉け、退きて顙を違へ、咫尺の敬あり。故に宗子は惟れ城、侯王は惟れ藩なり。
現代語訳
以上は統治の道の要を論じたものである。わたしが思うに、天下の統治の道は国家にある。国家の本は民にある。民の本は君にある。君主が明らかであれば民は安らかであり、民が安らかであれば国は治まり、家が斉って天下は平らかである。国家が治まり斉って天下は平らかである。国家を治める道は、封建と郡縣とにある。封建は、親しむべき者を親しみ、賢い者を尊び、その国に応じてその卿を任じ、方伯を建て、三監を立てる。天子は巡狩して礼を正し風俗を観、諸侯は朝聘して暦を受け、退いては額を地につけ、間近に敬いを示す。だから一族の子は国の城であり、侯や王は垣根である。
解説
章の結語にあたる一節。「天下の治道は國家に在り、國家の本は民に在り、民の本は君に在り」――この三段が本章の到達点である。注目すべきは最後の「民の本は君に在り」で、循環しているようで循環していない。民が国の体であり、その民を安んずるかどうかは君主にかかっているという責任の所在を示している。
神治章 二十九養はずんば恆の心なし
原文
凡人君之尊、下民之賤、九重之邃、市井之卑、若鄙而求之、其阻遠猶天壤、心誠求之、猶近之、物必有養、蒿薬有皆然、此求之道、非以民乎、養之道也、衣食給則有恆心、無恆心則刑罰煩、是人君所忍之道也、經界定而産業考、農家具而後賦斂正、既有虛而後富之、教以爲先、衣食足而後知禮節、
訓読
凡そ人君の尊き、下民の賤しき、九重の邃き、市井の卑き、若し鄙しみてこれを求むれば、その阻遠なること猶ほ天壤のごとし。心誠にこれを求むれば、猶ほこれに近し。物には必ず養ひあり、蒿薬すら皆然り。この求むるの道、民を以てするにあらずや。養ふの道なり。衣食給れば則ち恆の心あり。恆の心なければ則ち刑罰煩はし。是れ人君の忍ぶべからざるの道なり。經界定まりて産業考へらる。農家具はりて而して後に賦斂正し。既に虛しきあり而して後にこれを富ましむ。敎を以て先と爲す。衣食足りて而して後に禮節を知る。
現代語訳
そもそも君主の尊さ、下々の民の賤しさ、幾重にも隔てた宮殿の奥深さ、市井のありふれた低さ――もし賤しんでこれを求めるなら、その隔たりは天と地ほども遠い。心からまことをもってこれを求めるなら、かえって近いものである。物には必ず養いがある。蓬や薬草ですらみなそうである。この求める道とは、民によるのではないか。それが養う道である。衣と食が足りれば常なる心がある。常なる心がなければ刑罰が煩わしくなる。これこそ君主が耐えられぬはずの道である。田地の境が定まって産業が考えられる。農家が備わって、そののちに税の取り立てが正しくなる。すでに欠けたところがあって、そののちにこれを富ませる。教えを先とする。衣食が足りて、そののちに礼節を知る。
解説
「若し鄙しみてこれを求むれば、その阻遠なること猶ほ天壤のごとし。心誠にこれを求むれば、猶ほこれに近し」――君主と民との距離は、地位ではなく心の持ちようで決まる。この一句が神治章でもっとも人間的な部分だろう。そして『孟子』の経界、『管子』の衣食足りて礼節を知る、が順に引かれ、統治の順序があらためて確認される。
神治章 三十人君の忍ぶべからざるの道
原文
然乃人君一人之慈、豈及天下之衆哉、故建其長以親察之、防背敎之萌、及其爭訟論事、皆先付焉、而規和之、下正其機、守令惟其職、以達民情、是乃長也、然不盡其議、不盡其道、則唯虛名而無實、
謹按、人君荒政之說、年穀之祈、是其議也、盡之教誨、以及其民、是養教相持而不可缺、故國以民爲體、民以食爲天、君明而民安、民安而國治、國治而天下平、
訓読
然らば乃ち人君一人の慈、豈天下の衆に及ばんや。故にその長を建てて以て親しくこれを察せしめ、敎に背くの萌を防ぐ。その爭訟論事に及びては、皆先づここに付して、而してこれを規し和らぐ。下その機を正し、守令惟れその職あり、以て民情を達す。是れ乃ち長なり。然れどもその議を盡くさず、その道を盡くさざれば、則ち唯だ虛名にして實なし。
謹みて按ずるに、人君荒政の說、年穀の祈、是れその議なり。これを敎誨に盡くして、以てその民に及ぼす。是れ養ひと敎と相持して缺くべからざるなり。故に國は民を以て體と爲し、民は食を以て天と爲す。君明らかにして民安く、民安くして國治まり、國治まりて天下平かなり。
現代語訳
とすれば君主ひとりの慈しみが、どうして天下の多くの民に行きわたろうか。だからその長を建ててみずから親しく実情を察させ、教えに背く兆しを防ぐ。争いや訴え、議すべき事に及んでは、みなまずここに付して、これを正し和らげる。下でその機微を正し、国司や県令はそれぞれの職を尽くして、民の実情を上に届ける。これが長というものである。しかしその議を尽くさず、その道を尽くさなければ、ただ空虚な名ばかりで実がない。
つつしんで考えてみるに、君主における凶作対策の議論、その年の穀物の実りを祈ること、これがその議である。それを教え諭すことに尽くして、民に及ぼす。これこそ養うことと教えることとが、たがいに支え合って欠けてはならないということである。だから国は民をもって体とし、民は食をもって天とする。君主が明らかであって民は安らかであり、民が安らかであって国は治まり、国が治まって天下は平らかである。
解説
章の締めくくり。「人君一人の慈、豈天下の衆に及ばんや」――君主一人の善意では足りない。だから長を建てる。制度は善意を届けるための仕組みなのである。そして最後は「國は民を以て體と爲し、民は食を以て天と爲す」。神代の神勅から説き起こした長い章が、食という最も具体的なものに帰着して閉じられる。