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中朝事實 一(自序・天先章)

山鹿素行 著 寛文九年(一六六九)赤穂謫居中の述作 ── 原文・訓読・現代語訳・解説の四層

この読本について

中朝事實』は、山鹿素行(一六二二〜一六八五)が寛文九年(一六六九)、赤穂に配流されていた四十八歳の年に著した書です。「中朝」とは日本を指します。素行は、自分がそれまで外朝(中国)の経典ばかりを尊び、その人物を慕って、生まれ育った日本のよさを知らずにいたことを深く悔い、日本こそ天地の中を得た「中國(中華)」であることを、『日本書紀』をはじめとする本朝の古典によって説き明かそうとしました。全十三章、すなわち天先・中國・皇統・神器・神教・神治・神知(知人)・聖政・禮儀・賞罰・武德・祭祀・化功に附録「或疑」を加えた構成です。

この読本は第一分冊で、自序と第一章「天先章」を収めます。各節を原文(漢文)・訓読文(総ルビ)・現代語訳・解説の四層で並べました。原文と訓読文は廣瀬豊編『山鹿素行全集 思想篇 第十三巻』(自筆本を底本とする)に拠り、現代語訳と解説はこの読本のために新たに書き起こしたものです。本文中に引かれる『日本書紀』などの出典箇所は色分けし、マウスを重ねる(スマートフォンではタップする)と説明が吹き出しで表示されます。「縦書き表示」に切り替えると、各節がカードに縦組みで表示されます。

読み方について。素行の文は「引用(多くは『日本書紀』本文または一書)」+「謹みて按ずるに以下の自説」という形をとります。まず引用で古典の言葉を掲げ、それを承けて素行自身の解釈を述べる、という二段構えです。訓読文の読み癖は素行独自のもので、今日一般に行われる読み方と一致しない箇所があります。

翻刻について。原文・訓読文は、影印(スキャン画像)からの文字起こしに目視校正を加えたものです。旧字体・異体字を含む古い活字のため、なお誤りが残っている可能性があります。お気づきの箇所はお知らせいただければ随時修正します。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

中朝(ちゅうちょう)
日本のこと。「中つ國の朝廷」の意で、素行はこれを「中國」「中華」と同義に用いる。従来もっぱら中国大陸を指して用いられた語を、あえて日本に当てたところに本書の主張がある。
外朝(がいちょう)
中国のこと。本書では日本を「本朝」「中朝」「中國」と呼ぶのに対し、大陸を「外朝」と呼び分ける。
恆中(こうちゅう)
「恆(つね)」と「中」。国常立尊の「常(恆)」、天御中主尊の「中」の二字を指し、素行はこの二尊号のうちに、日本の治教が久しく変わらず(恆)、かたよらず正しい(中)ことの証を読み取る。天先章の眼目。
草昧屯蒙(そうまいとんもう)
天地開闢の直後、まだ物事の分かれ定まらない未明の状態。『易』屯卦・蒙卦に由来する語。
八紘(はっこう)
八方のはて。天下・世界のこと。
大八洲(おおやしま)
伊弉諾・伊弉冊二神の生んだ八つの島。日本国土の古称。
左袵(さじん)
衣の襟を左前に合わせる異民族(夷狄)の風俗。『論語』憲問篇の「微管仲、吾其被髮左衽矣」に由来し、文明を失うことの喩え。
謹按(つつしんであんずるに)
素行が引用に続けて自説を述べるときの決まり文句。本書の各節はおおむね「引用+謹按」の二段構えで進む。
神聖七代(しんせいしちだい)
国常立尊から伊弉諾・伊弉冊尊に至る神代七代。

登場する神・人物

國常立尊(くにのとこたちのみこと)
天地開闢のとき最初に成った神。『日本書紀』本文の筆頭に現れる。素行はその号のうちの「常(恆)」の一字に、日本の国体が久しく変わらぬことの証を見る。
天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)
『日本書紀』の一書に、高天原に成った神として挙げられる神。素行はその号のうちの「中」の一字に、日本が天地の中を得ていることの証を見る。
伊弉諾尊・伊弉冊尊(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)
神代七代の最後の男女二神。国中の柱をめぐって男女の礼を定め、大八洲と山川草木鳥獣を生み、蒼生の衣食住の基を開いた。素行は二神を「陰陽唱和の発語」と解し、五倫の始まりをここに置く。

自序 一蒼海に狃るる者
原文
恆觀滄海之無窮者、不知其大、常居原野之無畦者、不識其廣、是久而狃也、豈唯海野乎、愚生於中華文明之土、未知其美、專嗜外朝之經典、嘐嘐慕其人物、何其放心乎、何其喪志乎、抑好奇乎、將尚異乎、

訓読
つね蒼海さうかいきはりなきをものは、そのだいたるをらず。つね原野げんやあぜなきにものは、そのひろきをらず。ひさしくしてるればなり。あに海野かいやのみならんや。中華ちうくわ文明ぶんめいうまれて、いまだそのたるをらず。もつぱ外朝ぐわいてう經典けいてんたしなみ、嘐嘐かうかうとしてその人物じんぶつしたふ。なんぞそのこころほしいままにせるや、なんぞそのこころざしうしなへるや。そもそこのむか、たふとぶか。

現代語訳
大海のはてしないさまをいつも眺めている者は、かえってその大きさが分からない。あぜ道ひとつない広野にいつも住んでいる者は、かえってその広さに気づかない。長く見慣れてしまえば、そういうものである。しかもそれは海や野に限った話ではない。この愚か者(素行自身)は、中華すなわち文明の土地である日本に生まれながら、そのすばらしさを知らずにきた。ひたすら外朝(中国)の経典ばかりを愛読し、口を大きくしてかの国の人物を慕ってきた。なんとおのれの心を野放しにしてきたことか。なんとおのれの志を見失ってきたことか。そもそも私は珍しいものを好んだのか、それとも異国のものを尊んだだけなのか。

解説
本書の出発点は、学問上の発見ではなく悔いである。素行はまず「見慣れると分からなくなる」という日常の理を二つの喩えで示し、それをそのまま自分の学問に当てはめる。海と野の喩えは、日本の美しさを見落としてきたのは日本が劣るからではなく、あまりに近すぎて見えなかったからだ、という論の運びを準備している。「嘐嘐」という『孟子』の語をあえて自分に向けて用いたところに、漢籍で身を立ててきた者が漢籍崇拝から離れようとする、この序文特有の緊張がある。

自序 二中國の水土は萬邦に卓爾たり
原文
夫中國之水土、卓爾於萬邦、而人物精秀于八紘、故神明之洋洋、聖治之綿綿、煥乎文物、赫赫武德、以可比天壤也、

訓読
中國ちうごく水土すゐど萬邦ばんぱう卓爾たくじとして、人物じんぶつ八紘はつくわう精秀せいしうたり。ゆゑ神明しんめい洋洋やうやうたる、聖治せいち綿綿めんめんたる、煥乎くわんこたる文物ぶんぶつ赫赫かくかくたる武德ぶとくもつ天壤てんじやうすべきなり。

現代語訳
そもそもこの中國(日本)の水土は、あらゆる国々のなかで抜きんでており、人物は天下のどこよりも精秀である。だからこそ、神明のはたらきは満々とゆたかに、聖なる統治は絶えることなく綿々と続き、文物はあきらかに輝き、武徳は赫々と燃えている。それは天地そのものに比べうるほどのものである。

解説
前段の悔いを承けて、素行は一転して日本の卓越を宣言する。ここで押さえておきたいのは、素行の論拠が三つに整理されていることである。第一に水土(風土・地理)、第二に人物、第三に治教の連続(神明・聖治・文物・武德)。この三点はそのまま中國章の骨格になる。なお「中國」を日本の意で用いるのは本書の最大の特徴で、当時としてはきわめて大胆な語の奪還であった。

自序 三述作の由来と識語
原文
今歲謹欲紀皇統武家之實事、奈睡課之煩、纖闕之乏、未知武家之實紀、其成在冬十一月小寒後八日、先編皇統之小冊、令兒童誦焉、不忘其本矣、
寛文第九己酉除日之前二、涉筆於播陽之謫所、

訓読
今歲こんさいつつしんで皇統くわうとう武家ぶけ實事じつじしるさんとほつすれども、睡課すゐくわわづらはしく、纖闕せんけつとぼしき、事紀じきいかんせん。ふゆ十一月じふいちぐわつ小寒せうかんのち八日やうか皇統くわうとう小册せうさつみ、兒童じどうをしてこれをみてそのもとわすれざらしむ。
寛文くわんぶん第九だいく己酉きいう除日ぢよじつ前二ぜんじ播陽ばんやう謫所たくしよいてふでわたる。

現代語訳
今年、つつしんで皇統と武家の事実を書き記そうとしたのだが、日々の務めは煩わしく、細かな資料は乏しくて、事紀の編述はどうにもならない。そこで冬十一月、小寒から八日ののちに、まず皇統についての小冊を編み、子どもたちにこれを読ませて、おのれの根本を忘れさせないようにした。
寛文九年己酉、大晦日の二日前、播州赤穂の配所において筆を執る。

解説
本書がどういう場で、誰に向けて書かれたかが明かされる。幕府の咎めを受けた配所での著述であり、しかも読者としてまず想定されているのは学者ではなく兒童――子どもたちである。「その本を忘れざらしむ」、すなわち自分の根がどこにあるかを忘れさせない、という教育の目的が、本書の平明な構成(章立てを立て、引用に按語を付す)を決めている。後に武家事紀として結実する構想の、いわば先発分冊がこの一書であった。

天先章 一天先づ成りて地後に定まる
原文
天先成、而地後定、然後、神明生其中焉、號國常立尊、
一書曰、高天原、所生神名、曰天御中主尊、

訓読
てんりてしかしてのちさだまる。しかしてのち神明しんめいそのうちうまれます。國常立尊くにのとこたちのみことがう
一書あるふみいはく、高天原たかまのはらうまれますかみ天御中主尊あめのみなかぬしのみことまう

現代語訳
天がまず成って、地はそののちに定まった。そうしてのちに、神明がその中に生まれられた。その神を國常立尊と申し上げる。
また一書にはこうある。高天原に生まれられた神の名を、天御中主尊と申し上げる。

解説
本書は『日本書紀』の一句から始まる。ここで素行が本文と一書とを並べて掲げたのは、単に丁寧なのではない。國常立尊の「常」と、天御中主尊の「中」――この二字を取り出すことが、天先章全体の狙いだからである。以下の按語は、この二つの尊号を「恆」と「中」という徳の名として読み解いていく。

天先章 二天は氣・地は形・人は二氣の精神
原文
謹按、天者氣也、故輕揚、地者形也、故重凝、人者、二氣之精神也、故位其中、凡天地人之生、元無先後、形氣神不可獨立也、天地人之成、未嘗無先後、蓋草昧屯蒙之間、聖神立于其中、悠久而不變、是所以尊其神、號國常立・天中也、

訓読
つつしみてあんずるに、てんなり、ゆゑかろあがる。かたちなり、ゆゑおもる。ひと二氣にき精神せいしんなり、ゆゑにそのなかくらゐす。およ天地人てんちじんうまるるや、もと先後せんごなし。かたちかみひとつべからざればなり。天地人てんちじんるや、いまかつ先後せんごなくんばあらず。けだ草昧屯蒙さうまいとんもうあひだ聖神せいしんそのなかち、悠久いういうにしてへんぜず。れそのかみたふとびて國常立くにのとこたち天中てんちうがうする所以ゆゑんなり。

現代語訳
つつしんで考えてみるに、天は氣であるから、軽くして上に揚がる。地は形であるから、重くして凝り固まる。人は陰陽二つの氣の精神であるから、天と地の中に位置する。そもそも天・地・人が生まれるということには、もともと先も後もない。形と氣と神とは、どれか一つだけで独り立ちできるものではないからである。しかし天・地・人が成り整うということには、先後がなかったためしがない。思うに、天地開闢まもない未明のさなかに、聖なる神がその中に立たれて、はるかに久しく変わることがなかった。だからこそその神を尊んで、國常立・天中と申し上げるのである。

解説
ここは「生」と「成」を区別するのが要点である。生まれることには先後がない(形・氣・神は同時にしか存在しえない)が、成り整うことには先後がある。だから『書紀』が「天先づ成りて地後に定まる」と言うのは矛盾ではない、というのが素行の解き方である。そのうえで、開闢の混沌のただ中に立って動かなかった神の名に「常(恆)」と「中」があることを指摘する。日本の国体の変わらなさ(恆)と、かたよらなさ(中)とを、国の初めの神の名そのものが証している――これが本書全体の土台となる論証である。

天先章 三恆と中との義
原文
夫天道無息、而高明也、地道恆久、而厚博也、人道恆久、而無疆也、天得其中、而日月明、地得其中、而萬物載、人得其中、而天地位、恆中之義、萬代之神聖、所以正其祚也、二神之迹、今雖不可知焉、竊幸得聞恆中之二尊號、是本朝治教休明之實也、天下之治、恆久而萬物之情可以觀之、至誠無息、以制其中、體乃明也、政恆則不變、禮行則不犯、自國常立尊、迄伊弉諾伊弉冊尊、是謂神聖七代者也、

訓読
天道てんだうむなくして高明かうめいなり。地道ちだう恆久こうきうにして厚博こうはくなり。人道じんだう恆久こうきうにしてかぎりなきなり。てんそのちう日月じつげつあきらかに、そのちう萬物ばんぶつせ、ひとそのちう天地てんちくらゐす。こうちうとのは、萬代ばんだい神聖しんせいそのただしたまふ所以ゆゑんなり。二神にしんあといまるべからずといへども、ひそかさいはひにして恆中こうちう二尊號にそんがうくをたり。本朝ほんてう治教ちけう休明きうめいじつなり。天下てんか恆久こうきうにして、萬物ばんぶつじやうるべし。至誠しせいまずしてもつてそのちうせいす。たいすなはあきらかなり。まつりごとつねなればすなはへんぜず。れいおこなはるればすなはをかさず。國常立尊くにのとこたちのみことより伊弉諾いざなぎ伊弉冊尊いざなみのみこといたるまで、これを神聖七代しんせいしちだいものなり。

現代語訳
そもそも天の道は止むことがなくて高く明らかであり、地の道は恆に久しくて厚く広く、人の道は恆に久しくてきわまりがない。天はその中を得て日月が明らかであり、地はその中を得て万物を載せ、人はその中を得て天地の位が定まる。「恆」と「中」というこの意味こそ、万代の神聖がその皇位を正しくたもたれる根拠なのである。二神の事跡は今となっては詳しく知ることができないけれども、ひそかに幸いにも、私は「恆」と「中」という二つの尊号を聞くことができた。これこそ本朝の治教が明らかに輝いていることの証である。天下の治まりが恆久であることは、万物のありさまを見ればおのずと分かる。至誠は止むことがなく、それによってその中を保つ。すると本体はおのずから明らかである。政が恆常であれば変わることがなく、礼が行われていれば犯されることがない。國常立尊から伊弉諾・伊弉冊尊に至るまでを、神聖七代というのである。

解説
本書の主題文にあたる一節。素行は「恆」と「中」を、単なる神名の字ではなく、天・地・人それぞれに通じる普遍的な徳として展開する。天は息まず、地は恆久、人は無疆。そのそれぞれが「中」を得たときに、日月は明るく、万物は載り、天地は位を定める。ここで『中庸』の「至誠息まず」が引かれるのは重要で、素行は漢籍の概念そのものは捨てていない。捨てたのは「その概念を体現しているのは大陸だ」という前提である。恆と中の徳を最もよく体現しているのは日本であり、その証拠が万世一系の皇統だ――という論理が、ここで完成する。

天先章 四二神、國中の柱を巡りたまふ
原文
凡神神相生、乾坤之道、相化而已、所以成此男女者也、
伊弉諾尊伊弉冊尊、巡國中之柱、定男女之禮、生大八洲及海川山草木鳥獸魚虫、致蒼生之可食、教養蠶之道、生諸神、定其分、功既至、德亦大、靈運當還、寂然長隱者矣、

訓読
およかみあひうまれまして、乾坤けんこんみちあひくわす。所以ゆゑんにこの男女なんによものなり。
伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと國中くになかはしらめぐりて男女なんによれいさだ大八洲おほやしまおようみかはやま草木さうもく鳥獸てうじう魚虫ぎよちうみまして、蒼生さうせいふべきにいたし、養蠶やうさんみちをしへたまひ、諸神しよしんみまして、そのぶんさだめたまふ。こうすでいたりぬ。とくまただいなり。靈運れいうんまさかへるべくして、寂然せきぜんとしてながかくれましき。

現代語訳
そもそも神々があいついで生まれられて、天地の道はたがいに化し合うばかりであった。その化し合いによって、この男女という二つのかたちが成ったのである。
伊弉諾尊・伊弉冊尊は、国中の柱をめぐって男女の礼を定め、大八洲および海・川・山・草木・鳥獣・魚虫を生み、人々が食べられるようにと取りはからい、養蚕の道を教え、多くの神々を生んでそれぞれの職分を定められた。功はすでに至り尽くし、徳もまた大きい。そうしてついに霊運が還るべきときが来て、静かに長く姿を隠された。

解説
二神の事績が、いわば建国の実業一覧として並べられる。注目したいのは並びの順である。男女の礼(人倫)→国土(大八洲)→自然(山川草木鳥獣)→食(蒼生の可食)→衣(養蚕)→官職(諸神の分)。礼が先で、産業が後という順序に、素行の関心がどこにあるかがよく表れている。

天先章 五二神の功業、萬世左袵を免る
原文
謹按、伊弉諾伊弉冊者、陰陽唱和之發語也、二神者陰陽之全集、故以奉此尊號也、蓋草昧悠久之間、天神生生之後、二神初立中國、而正男女之大倫、男女者陰陽之本、而五倫之始也、有男女、而後夫婦父子君臣之道立、二神終制大八洲、斂山川、導河海、草木種藝、鳥獸得處、人始得卒土、播五穀、植桑麻、而蒼生之衣食居足、既足則不無教戒、故命諸神聖、以有其境、二神之功業萬世、以免左袵、不顯哉、不承哉、

訓読
つつしみてあんずるに、伊弉諾いざなぎ伊弉冊いざなみ陰陽いんやう唱和しやうわ發語はつごなり。二神にしん陰陽いんやうまつたあつまるなり。ゆゑもつてこの尊號そんがうたてまつれるなり。けだ草昧さうまい悠久いういうあひだ天神てんじん生生せいせいのちに、二神にしんはじめて中國ちうごくてて男女なんによ大倫たいりんただしたまふ。男女なんによ陰陽いんやうもとにして五倫ごりんはじめなり。男女なんによありてのち夫婦ふうふ父子ふし君臣くんしんみちつ。二神にしんつひ大八洲おほやしませいし、山川さんせんをさめ、河海かかいみちびき、草木さうもく種藝しゆげい鳥獸てうじうところひとはじめて卒土そつどて、五穀ごこく桑麻さうまゑ、しかして蒼生さうせい衣食居いしよくきよる。すでれば教戒けうかいなくんばあらず、ゆゑもろもろ神聖しんせいめいもつてそのさかひたもたしめたまふ。二神にしん功業こうげふ萬世ばんせいもつ左袵さじんまぬかるる所以ゆゑんなり。おほいにあきらかなるかなおほいにくるかな

現代語訳
つつしんで考えてみるに、伊弉諾・伊弉冊とは、陰と陽とが唱えあい和しあうことを表した名である。二神は陰陽がまったく集まったものであり、それゆえこの尊号をたてまつったのである。思うに、天地未明の悠久の時のあいだ、天神が次々に生まれられたのちに、二神がはじめて中國(日本)を立てて男女の大いなる倫を正された。男女は陰陽の根本であり、五倫の始めである。男女があってのち、夫婦・父子・君臣の道が立つ。二神はついに大八洲を治め、山川をおさめ、河海を導き、草木は植えそだてられ、鳥獣はおのおの居所を得、人ははじめて土地を得て、五穀をまき桑と麻を植え、こうして人々の衣食住が足りた。すでに足りたなら教えと戒めがなければならない。それゆえ多くの神聖に命じて、それぞれの境(くに)を保たせられた。二神の功業こそ、万世にわたって日本人が左袵(夷狄の風俗)を免れてきた理由である。なんと大いに明らかであることか、なんと大いに承け継がれてきたことか。

解説
「左袵を免る」の一句が、この章の結論である。『論語』で孔子が管仲を評した言葉――管仲がいなければ我々は夷狄の風俗になっていた――を、素行はそっくり伊弉諾・伊弉冊二神の功業に移し替えた。すなわち、大陸に管仲がいたように、日本には二神がいた。いや、二神の功業は管仲の一代の功どころではなく、万世にわたって日本を文明の側に置き続けている。漢籍の枠組みを使って漢籍中心主義を裏返すという本書の手法が、ここに最も鮮やかに現れている。

天先章 六天地生成の義を論ず
原文
以上論天地生成之義、謹按、天地者、陰陽之大極也、陰陽甚殊其用、而交其根、遠而近、近而遠、其形者有五、所謂木火土金水也、木火者陽也、而金水者陰也、土者兼其二、而位其中、陰必含陽、故水形柔也、陽必蘖陰、故火用烈也、陰必升、而陽必降、故升降亦不息也、專降則盈科、陽之升也、陰必從之、故火用然、金木者形也、水火者氣也、夫積氣之間、其精秀者爲日月星辰、而其動靜爲河漢風電、而有雲雨霜露雷之用也、夫地者、形滓之凝、以爲土也、其積也、不息而有山岳丘陵川河谷澤、是天地互交、以爲千態萬變也、陰陽無鑠、而有經緯、有一年一月、有一日十二時、有二十四氣、有七十二候、有日之長短、有時之寒暑、夫萬物之一在、而稟其精、致之則無不通、其德之明、盡之則無不感、其智之靈、模乾坤幽微之誠、以造歷象考時日、建萬世之教、然乃天地者、人倫之大原、而神聖者、天地之性心也、人君仰觀俯察、以正上下、定尊卑、致其智、而明其德、然后可參天地、

訓読
以上いじやう天地てんち生成せいせいろんず。つつしみてあんずるに、天地てんち陰陽いんやう大極たいきよくなり。陰陽いんやうはなはだそのようことにして、たがひにそのまじふ。とほくしてちかく、ちかくしてとほし。そのかたちするところいつつあり、所謂いはゆる木火土金水もくくわどごんすゐなり。木火もくくわやうにして金水ごんすゐいんなり。はそのふたつをねてしかもそのなかくらゐす。いんかならやうふくむ、ゆゑみづかたちやはらかなり。やうかならいんきざす、ゆゑようはげし。いんかならのぼり、やうかならくだる、ゆゑ升降しようかうまたまざるなり。積氣せききあひだ、その精秀せいしうなるは日月星辰じつげつせいしんとなり、その動靜どうせい河漢かかん風電ふうでんとなりて、雲雨うんう霜露さうろらいようあり。形滓けいしりてもつつちとなるなり。そのむや、まずして山岳さんがく丘陵きうりよう川河せんが谷澤こくたくあり。これ天地てんちたがひまじりてもつ千態萬變せんたいばんぺんすなり。陰陽いんやうしやくなくしてしか經緯けいゐあり。一年いちねん一月いちぐわつあり、一日いちじつ十二時じふにじあり、二十四氣にじふしきあり、七十二候しちじふにこうあり、長短ちやうたんあり、とき寒暑かんしよあり。萬物ばんぶついつりて、そのせいく。これをきはむればすなはつうぜざるなし、そのとくあきらかなるや。これをくせばすなはかんぜざるなし、そのれいなるや。乾坤けんこん幽微いうびまことし、もつ歷象れきしやうつく時日じじつかんがへ、萬世ばんせいをしへつ。しかればすなは天地てんち人倫じんりん大原たいげんにして、神聖しんせい天地てんち性心せいしんなり。人君じんくんあふぎてしてさつもつ上下しやうげただ尊卑そんぴさだめ、そのきはめそのとくあきらかにし、しかのち天地てんちさんたるべし。

現代語訳
以上は天地生成の意味について論じたものである。つつしんで考えてみるに、天地とは陰陽の極まりである。陰と陽とははたらきをまったく異にしながら、たがいにその根を交えている。遠いようで近く、近いようで遠い。そのかたちをとったものが五つあり、いわゆる木・火・土・金・水である。木と火は陽、金と水は陰であり、土はその二つを兼ねて中に位置する。陰は必ず陽を含むから、水のかたちは柔らかい。陽は必ず陰をきざすから、火のはたらきは烈しい。陰は必ずのぼり陽は必ずくだるから、昇降もまた止むことがない。積み重なった氣のなかで、その精秀なものは日月星辰となり、その動きと静けさは天の川や風や稲妻となって、雲・雨・霜・露・雷のはたらきが現れる。地とは、形あるもののかすが凝って土となったものである。それが積み重なって止まないところに、山岳・丘陵・川河・谷沢がある。これは天と地とがたがいに交わって千態万変をなすのである。陰陽は尽きることがなく、しかもそこには経緯(たていと・よこいと=秩序)がある。一年には月があり、一日には十二の時があり、二十四の氣があり、七十二の候があり、日の長短があり、季節の寒暑がある。そもそも万物はこの一つのなかにあって、その精をうけている。これをきわめれば通じないものはない――その徳の明らかさよ。これを尽くせば感じないものはない――その智のはたらきよ。天地のかすかな誠をかたどって暦象を造り時日を考え、万世の教えを立てる。とすれば天地こそ人倫の大本であり、神聖こそ天地の性であり心なのである。人君たる者は、仰いで天を観、俯して地を察し、それによって上下を正し尊卑を定め、その智をきわめその徳を明らかにし、そうしてのちに天地と並び立つ三者の一つとなるべきである。

解説
章の締めくくりとして、素行は陰陽五行による自然学をひととおり述べる。現代の眼にはやや冗長にも見えるが、これは「日本が中國である」という主張を、恣意的な国粋論ではなく、天地の理から導かれた結論として示すための土台である。結語の「天地は人倫の大原、神聖は天地の性心」「人君は仰ぎ観、俯し察して……然る後に天地に參たるべし」は、『易』繋辞伝と『中庸』の天地参賛の思想をそのまま用いたもの。ここでも素行は漢籍の論理を使い切ったうえで、その論理が指し示す先を日本に置いている。